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浜松市史 三
(河合楽器)
河合
楽器
【河合小市】また技師長として山葉寅楠を援け、日本
楽器
株式会社の発展に尽してきた河合小市(浜松上新町明治十九年一月生,河合のあとを追い日楽を退社した七人の人々の協力もあって、四年六月には河合
楽器
製作所と改名、日本
楽器
とならぶ,
楽器
会社に成長していった。,その他に七年以降には日本
楽器
や河合
楽器
に関係した人々にであったより、千代田・遠州・富士・浜松・三葉等の,等の軍需品生産に転換したが、この間も日本
楽器
・河合
楽器
両社では
楽器
製造技術保存のための努力が続けられた / 河合
楽器
浜松市史 五
(楽器産業)
楽器
産業 高度成長の下で国民の所得は年々増え、それに伴って
楽器
需要も拡大していった。,日本
楽器
は全国の
楽器
店や書籍店などと契約を結び、日本
楽器
の
楽器
を専門に販売するという特約店方式を採り入,【電子
楽器
電子オルガン】 (2)電子
楽器
の生産 戦後の
楽器
需要はハーモニカから始まり、次第にオルガン,電子
楽器
の開発にいち早く乗り出したのが日本
楽器
であった。,
楽器
メーカーが多角化していった背景には、
楽器
そのものの特性がある。 /
楽器
産業
浜松市史 三
(楽器工業)
楽器
工業 【日本
楽器
】②
楽器
工業 山葉寅楠の創立になる日本
楽器
株式会社は、大正十五年の争議(後述、本章第三節第二項,)ののち、日本
楽器
株式会社では住友電線株式会社から迎えられた川上嘉市(明治十八年三月長上郡内野村生、東大卒,によって再建の努力が行なわれ、それまでの木製にかわる金属プロペラの開発、パイプオルガンの製造、日本管
楽器
株式会社,の吸収等により、名実ともに総合的
楽器
メーカーとしての地位を築き上げた(『日楽社史』)。 /
楽器
工業
浜松市史 四
(日本楽器)
日本
楽器
一方、
楽器
メーカーであった日本
楽器
製造が、本格的にオートバイ生産に乗り出したのは昭和二十九年十二月,オートバイ生産の結論を出し、
楽器
とは全く異なる分野への進出に踏み切った。,第二に、
楽器
産業の将来性についての問題点である。,一見すると生産技術の連続性が切断されているように見えるが、日本
楽器
は、戦前、
楽器
生産で培ってきた木材加工技術,日本
楽器
は、昭和三十年二月十一日ヤマハYA1型125ccを完成させた。 / 日本
楽器
浜松市史 四
(富士楽器製造)
富士
楽器
製造 【野田秀治 ベルトーン】 富士
楽器
製造株式会社は昭和七年(一九三二)、野田秀治の個人経営,で浜名郡和田村に富士
楽器
製作所を設立したのがその始まりである。,野田は日本
楽器
や河合
楽器
で技術を習得し河合
楽器
から独立した。,昭和十一年に株式会社に改組し富士
楽器
製造(株)とし、ピアノとハーモニカの製造を開始した。,昭和三十年には工場を安間町に移転し、新工場を建設、富士
楽器
製造(株)としてスタートした。 / 富士
楽器
製造
浜松市史 五
(電気・電子楽器)
電気・電子
楽器
【日本
楽器
製造 LSI ヤマハ株式会社】 他方、構造不況下にあっても日本
楽器
製造,日本
楽器
は電子ピアノ、電子オルガンなどの電子
楽器
部門に加え、ステレオなどのオーディオ部門、住宅部材・音響設備,【鈴木
楽器
製作所】 中堅
楽器
メーカーの鈴木
楽器
製作所(昭和二十九年創立)は、同社の主力商品である大正琴,以後、電子
楽器
分野では常に先端を走り、国内初の電子鍵盤
楽器
・シンセサイザーを開発、さらにマイコン内蔵の,大手
楽器
メーカーが、その主力商品を伝統
楽器
から電子
楽器
へシフトさせると、
楽器
市場も電子
楽器
が中心になっていった / 電気・電子
楽器
浜松市史 四
([楽器生産の開始と中小楽器工場の設立])
[
楽器
生産の開始と中小
楽器
工場の設立] 【
楽器
産業 日本
楽器
河合
楽器
新しい
楽器
工場】 戦時中,、浜松の
楽器
産業は軍需品生産へ傾斜し、日本
楽器
はプロペラ生産が主力になり、河合
楽器
も航空機用の補助タンク,この時期の浜松における
楽器
産業の特徴は、既存の
楽器
工場が次々に生産を再開していく一方で、新しい
楽器
工場,日本
楽器
が持株整理委員会に提出した「説明書」(昭和二十三年)に添付した資料によると、
楽器
製造会社は全国,資本 力の弱い中小の
楽器
メーカーが乱立した背景には
楽器
商の存在があった。 / [
楽器
生産の開始と中小
楽器
工場の設立]
浜松市史 三
(日本楽器会社)
日本
楽器
会社 【オルガン製作 中村藤吉】日本
楽器
製造株式会社 山葉寅楠(やまはとらくす)によって創立,され、初め山葉風琴(ふうきん)製造所(のちに山葉
楽器
製造所)と称し、浜松宿七軒町(菅原町)の旧修道学校跡,しかし時運熟せず二十四年合資会社を解散し、山葉の個人経営に移し山葉
楽器
製造所と改称した。,初めて輸出、また音楽教育の普及によって需要も増加し、三十年九月には資本金十万円の株式会社となし、日本
楽器
製造株式会社 / 日本
楽器
会社
浜松市史 四
([急増する楽器生産])
[急増する
楽器
生産] 【
楽器
】 戦後の復興のめどを付けた
楽器
産業は設備の増強と品質の向上に努めた, 【河合
楽器
】 河合
楽器
は昭和二十六年に株式会社に改組し、その後増資を続け、昭和三十年,さらに、昭和三十一年には羽衣
楽器
を、三十三年には浜松
楽器
を系列下に置き、量産体制を確立して一大飛躍を成,この時期(昭和二十年代後半~三十年代前半)の
楽器
生産の拡大は、日本
楽器
と河合
楽器
の二大メーカーの増産だけでなく,
楽器
メーカーは昭和三十五年には四十四社に増え(表3-14))、中小の
楽器
メーカーの生産を支える
楽器
部品 / [急増する
楽器
生産]
浜松市史 四
([集排法と日本楽器の対応])
[集排法と日本
楽器
の対応] 【過度経済力集中排除法 企業再建整備法】 前述したGHQの経済的非軍事化政策,昭和二十三年二月、日本
楽器
は過度経済力集中排除法の適用を受け、岩手工場の閉鎖に追い込まれた。,これに対して日本
楽器
側は、持株会社整理委員会に対して「過度の経済力の集中に該当するかどうかを決定する具体的基準, これに対し持株会社整理委員会は、日本
楽器
が、現に所有している他社株式を処分するために,日本
楽器
の『社史』では「翌二十四(一九四九)年二月二十八日、企業再建整備法による新旧勘定合併決算を行い / [集排法と日本
楽器
の対応]
浜松市史 五
([浜松市楽器博物館の開館と活動])
[浜松市
楽器
博物館の開館と活動] 【浜松市
楽器
博物館】 催し以外の、音楽の街づくりの一環として浜松市
楽器
博物館,基本計画を策定したのは平成四年二月のことで、また浜松市が、後にヨーロッパの
楽器
の展示の中核となるアメリカ,人
楽器
収集家故ロバート・ローゼンバウムのコレクションを購入したのは同年の三月である。,同館発行の『浜松市
楽器
博物館概要 2011』(以下『概要』)によって同館の概要を見る。 ,収集物は、
楽器
実物資料三千百五十点(ヨーロッパ千六百点、アジア六百三十点、オセアニア百六十点、アフリカ / [浜松市
楽器
博物館の開館と活動]
浜松市史 四
([楽器会社による音楽教室])
[
楽器
会社による音楽教室] 【音楽教育の変化】 戦後再開された日本の
楽器
産業は、その後も順調な成長,この状況を克服するには自ら需要を創出するしかない、という発想の下にスタートしたのが日本
楽器
によるヤマハ,日楽の川上源一社長は、欧米を回って気付いたこととして、若者が日常生活の中で気楽に
楽器
に親しみ、家族みんなですばらしい,そして、音楽はいいものだ、楽しいものだ、楽しく
楽器
を弾きたいものだという考えを広めるために、音楽教室を,ヤマハの成功に刺激される形で、河合
楽器
も昭和三十一年からカワイ音楽教室を開設し、直営の事業として運営を / [
楽器
会社による音楽教室]
浜松市史 四
([日本楽器における労使関係の再編])
[日本
楽器
における労使関係の再編] 【日本
楽器
日本
楽器
聯合労働組合 日楽経営協議会 日本
楽器
労働組合, 新労働協約 経営権の独立】 日本
楽器
の生産再開は昭和二十年八月二十日、本社事務所を佐久良(さくら,日本
楽器
は戦時中プロペラや補助タンク等の軍需製品を生産し、動員学徒や女子挺身隊を加えて約一万人の従業員,これに伴い、製材・木材・
楽器
部門の工員を主とした千二百三十四名を新規に採用するかたちで再雇用した。,日本
楽器
における経営権の回復は、昭和二十五年に締結された新労働協約においてであった。 / [日本
楽器
における労使関係の再編]
浜松市史 四
(アトラスピアノ製造)
浜松
楽器
工業 東海
楽器
製造 キング
楽器
製作所 昭和
楽器
製造 羽衣
楽器
製造, 天竜
楽器
製造 千代田
楽器
製作所 ロビン
楽器
製作所 ブライト
楽器
製作所 山葉
楽器
製造 ,外波山
楽器
製造 平和
楽器
製造 戦後、浜松地域で設立された中小
楽器
メーカーは延べ数,この時期に多くの中小
楽器
メーカーが設立された背景には、①国民の所得上昇に伴う
楽器
需要の増大、②部品メーカー,日本
楽器
や河合
楽器
は、もともと部品の内製率が高かったのに対し、中小メーカーの場合は、初めから組み立てだけを
浜松市史 五
(ピアノ オルガン)
ピアノ オルガン 【中小
楽器
メーカー】 ピアノを主力とする浜松地域の
楽器
産業は、世界一の
楽器
産地,日本
楽器
製造を頂点にして河合
楽器
製作所がそれに続き、この二社が大手メーカーとして君臨してきた。,昭和五十七年、小規模
楽器
メーカーであるトニカ
楽器
が倒産した。,また、同六十年鍵盤ハーモニカのピアニカで知られる中堅
楽器
メーカー・東海
楽器
製造も事実上倒産した。,さらに、日本
楽器
製造、河合
楽器
製作所に次ぐピアノメーカーであったアトラスピアノ製造も、昭和六十一年事実上倒産
浜松市史 四
([社会人野球とプロ野球])
、さらに日本
楽器
、国鉄浜松機関区などの強豪チームがひしめいていた。,この中で河合
楽器
は浜松市代表として県の大会に出場した。,日本
楽器
は河合
楽器
の硬式野球部発足を受けて、昭和三十三年に全日本
楽器
硬式野球部(全日楽)を誕生させ、河合
楽器
,なお、当時県内の社会人チームは大昭和製紙が断トツで、本州製紙、日本軽金属、河合
楽器
、金指造船、日本
楽器
,浜松市内にほぼ同時に誕生した河合
楽器
と日本
楽器
の両チームは昭和三十四年から毎年春秋二回の定期戦を開始、
浜松市史 五
([企業のスポーツ活動])
[企業のスポーツ活動] 【河合
楽器
体操部 日本
楽器
黒獅子旗 日本
楽器
卓球部 鈴木自動車工業陸上競技部,河合
楽器
製作所で体操部が発足したのは昭和三十六年、同三十年代の後半には国体で優勝するまでになった。,河合
楽器
体操部の名前が知れ渡ったのは塚原光男の活躍である。,ローマオリンピックの体操で団体総合優勝した鶴見修治が河合
楽器
の監督に就任、以後、河合
楽器
の体操部は素晴,野球では社会人リーグの最高峰と言える都市対抗野球大会に河合
楽器
と日本
楽器
が何度となく出場、日本
楽器
は昭和六十二年
浜松市史 四
(東洋ピアノ製造)
【石川隆己 アポロ】 東洋ピアノ製造株式会社の起源は、昭和九年掛塚町(現磐田市)に設立された三葉
楽器
,石川は日本
楽器
と河合
楽器
で十年間ピアノの製造技術を修得した。,戦後間もない昭和二十二年東洋
楽器
製作所を設立、ピアノ製造を開始、二十三年には浜松市北寺島町に東洋ピアノ
浜松市史 四
(大橋ピアノ研究所)
研究所 【大橋幡岩 オオハシ】 株式会社大橋ピアノ研究所の創業者は大橋幡岩(はたいわ)で、日本
楽器
出身,大橋は日楽争議によって山葉直吉が退職をすると同時に退職するが、請われて再び日本
楽器
の技師となり二十種の,戦後、浜松
楽器
工業(株)の創立に参加し、ディアパソンブランドのピアノ設計・試作・製造に携わった。,アクション部品は河合
楽器
から独立した今出川ピアノアクション製造(株)から購入し、月産十二台程度を生産していた
浜松市史 三
(浜松最初のメーデー)
殊に大労働争議といわれる日本
楽器
の紛争や、浜松名物の凧揚とかち合って浜松署では前日来、警官百五十名の増援,参加人員は争議中の日本
楽器
男女工その他合計約三千余名で(中略)、会場は龍禅寺境内、午前九時頃各組合旗を,先頭に、百名宛を一隊とし各班長組長を設け、二十余隊に分れて整列し、
楽器
会社女工一隊の健気な姿は殊に人目,【指揮三田村四郎】評議会の三田村四郎が総指揮官となりメーデーの意義を述べ、副指揮官の
楽器
争議団後藤兼太郎,を与えて、九時半頃出発し、「日本労働組合評議会浜松合同労働組合第一班」と染め抜いた赤旗を先頭に「日本
楽器
争議団
浜松市史 五
([労働運動の模索])
[労働運動の模索] 【JMIU河合連合支部】 戦後間もなく発足した河合
楽器
製作所の労働組合は昭和三十年,このような中、同四十三年には労使協調路線の全金同盟河合
楽器
労働組合が誕生した。,全金同盟河合
楽器
労働組合は連合系のゼンキン連合カワイ労働組合となった。 ,みんなの会」の結成総会を河合
楽器
製作所の本社内にある厚生年金基金会館で開催した。,同会の作成したチラシには「私たちは河合
楽器
が浜松を代表する大きな
楽器
メーカーとして、工場を存続させて地域
浜松市史 三
(官憲の弾圧)
官憲の弾圧 五月十六日 日本
楽器
争議は昨今又復悪化の形勢を示し、何時流血の惨を惹起せんとも測り難いので,、浜松署では厳重警戒に努めていた処、午前十時頃に
楽器
争議団応援の鈴木織機株式会社職工金田義雄外二十余名,は、日本
楽器
会社付近で示威運動を行ない、警官の制止に従わなかったので、遂に金田外一名は検束された。,【評議会赤衛団】また、午後二時頃争議応援のため来浜した神戸評議会赤衛団太田喜八(仮名)外十余名が、
楽器
会社正門付近,【労農同志会 天野辰夫】会社は日本
楽器
争議団に対抗すべく新たに日本主義労農同志会(天野辰夫によって結成
浜松市史 四
([オートメーション化による大量生産方式の導入])
[オートメーション化による大量生産方式の導入] 戦後の産業都市浜松は加工組立工業(
楽器
、輸送機械など, 【日本
楽器
大量生産化 オートメーション 大量生産方式】 日本
楽器
の川上源一は欧米視察,において、ヨーロッパではレンナー社の
楽器
工場を見学した。,戦後の復興期には
楽器
産業においても、輸送機械産業においても中小メーカーが乱立したものの、大量生産方式の, 【団体交渉制度 シーズニングの短縮 直線的ラインのコンベアー】 日本
楽器
は、ピアノ
浜松市史 四
([学校の器楽合奏、ハーモニカバンド])
楽器
会社である日本
楽器
の社内には、すでに大正時代にハーモニカバンドがあったというが、戦後は、昭和二十三年十一月,このころから浜松地方をはじめ全国の
楽器
メーカーがハーモニカの製造に乗り出している。,こうしてハーモニカは、教育
楽器
として一時的にブームとなり、各小中学校にハーモニカバンドが生まれる。,なお、この快挙の陰には、メーカーの日本
楽器
製造株式会社や東海
楽器
、また浜松青年会議所の援助等があったようである
浜松市史 四
([賠償指定工場の指定とその解除])
[賠償指定工場の指定とその解除] 【賠償指定工場 鈴木式織機 日本
楽器
賠償指定工場の解除】 GHQ,遠州地方では、浅野重工業・中島飛行機・遠州織機・鈴木式織機・日本
楽器
・大東機工の六社が指定を受けた。,しかし、昭和二十一年十月八日には、日本
楽器
は賠償指定工場から解除されることになった。,本社工場(浜松市中沢町)では進駐軍用の高級家具や
楽器
を製造し、また天竜工場(浜名郡飯田村)では、復興作業,これにより日本
楽器
は、本格的な会社の再建に乗り出していくことになった。
浜松市史 五
(海外生産)
輸送機械、電気機器、
楽器
などの大手メーカーは市場確保のために世界的規模で展開、他方、中小企業も輸出、現地生産,地域の大手企業であるであるヤマハ発動機、日本
楽器
製造、河合
楽器
製作所、鈴木自動車工業が海外に設置した生産,【ヤマハ発動機】 ヤマハ発動機は、従来から海外生産の意欲が強く、日本
楽器
製造の海外展開に相乗りした,昭和三十年に日本
楽器
から独立、その三年後には日本
楽器
が設立したヤマハ・デ・メヒコに相乗りし、ピアノ生産,【日本
楽器
製造】 日本
楽器
製造の海外系列会社は昭和五十六年一月時点で十七カ国に二十社設立されており
浜松市史 五
([各産業の変化と新動向])
[各産業の変化と新動向] バブル崩壊以降の地域産業の変化の特徴には、①輸送機械工業への特化、②電子
楽器
,の低迷と
楽器
業界のソフト化、③地域産業の先端産業化などの傾向が見られた。 ,【
楽器
産業】 第二に
楽器
産業における変化を見ると、昭和五十年代後半から大きく伸びてきた電気・電子
楽器
,拡大が望めるといった利点から、ヤマハ、河合
楽器
製作所、ローランドは競い合って市場を拡大してきた。,
楽器
業界も伝統的な
楽器
製造から先端技術を活用した
楽器
の開発や音楽ソフトの開発へ移行し始めた。
浜松市史 四
(海外視察)
日本
楽器
の川上源一社長は昭和二十八年七月から九月まで欧米各国を視察、鈴木自動車工業の鈴木俊三社長は昭和三十年,河合
楽器
の河合滋社長は昭和三十三年から三十四年にかけて市場調査のために東南アジア各国と南北アメリカを、, 【大量生産体制】 日本
楽器
の川上源一は、アメリカでは流れ作業による大量生産を行っていた,とにかく、何から何まで全部新しくやりなおして世界的な視野ですべての準備をしない限り、日本
楽器
の将来はない,これを契機に日本
楽器
は
楽器
の大量生産体制を確立し、さらに事業の多角化を積極的に展開していった。
浜松市史 三
(浜松の三大産業)
日本
楽器
製造株式会社・帝国製帽株式会社・日本形染株式会社はその代表的な工場であった。,浜松の三大産業とよばれ、これらの会社の製作する
楽器
・帽子・形染織は、遠州織物とともに浜松を代表する工産物
浜松市史 三
(爆弾事件)
爆弾事件 七月十六日 浜松市高町の日本
楽器
会社監査役小竹禄之助の邸宅で、十六日午前三時頃に突如表玄関口,浜松署では、犯人は周囲の事情より推して日本
楽器
争議団員の仕業と睨み、目下その方面に亘って大活動を続けている,ダイナマイト四個、導火線・雷管等をゆずりうけたものである、と述べ、続いて被告西本一二は会社側でも殊に腰の強い
楽器
重役小竹禄之助,されないので遂に七月十六日、決死隊を募り一隊は鴨江観音に集合して渡辺市長宅を襲撃し、他にも同様中村藤吉・
楽器
萩原木材部長,・林
楽器
支配人邸を、亦一つの決死隊二十余名は、栄町の金山神社の薄暗がりに集合して警官が市長宅の暴動事件
浜松市史 三
(争議の悪化)
争議の悪化 五月三日 日本
楽器
の争議悪化。,「日本
楽器
労働争議に県工場課の調停か、東海道中開闢以来の争議として警察部は事件の詳細を調査し解決案既に
浜松市史 五
([警職法・安保闘争と労働条件改善への取り組み])
【遠州地方春闘共闘会議 遠労 浜松地区メーデー】 昭和三十年代から四十年代、遠労傘下の機械や
楽器
,このメーデーには昭和三十一年に全労傘下の全繊同盟が、三十三年には電機労連傘下の日本
楽器
労組が参加し、企業,また、この高度経済成長期は、浜松地区では多くの
楽器
メーカーやオートバイメーカーが日本
楽器
製造、河合
楽器
製作所,昭和三十年には、東洋ピアノ、タイガー
楽器
、三和
楽器
、三十二年には浜松
楽器
、三十四年には日響
楽器
、三十六年,(日本
楽器
労働組合『組合のあゆみ 15周年記念』)。
浜松市史 三
(学校工場 勤労令 授業停止)
浜松北高等学校八十年史』)、西遠女学校では一年生は校庭で畑を作り、二年生から四年生までは東京無線・遠州織機・河合
楽器
,浜名郡舞阪町 浜松市立 市立浜松高女 5 30 豊川海軍工廠 豊川市 死亡1 4 180 日本
楽器
浜松工場,紡績 49 富士紡績工場 駿東郡小山町 建築 50 土木・農作業手伝い 図案 50 河合
楽器
,死亡1 3 230 日本
楽器
製造KK 天竜市二俣町 浜松女商 私立浜松女商 4 58 日蓄木工KK,29,職員1死亡 淑徳高女 4 75 東洋木工KK 〃 海軍暗号製作(海軍駐屯) 3 50 河合
楽器
浜松市史 三
(嘆願書提出)
嘆願書提出 大正十五年(昭和元年)四月二十一日、日本
楽器
従業員(総数一三八〇名、うち女子三〇〇名、争議,充分御調査被下、来る二十五日午前九時迄に職工代表並に組合代表と会見の上、御回答相成度候 日本
楽器
株式会社々長, 天野千代丸殿 日本
楽器
株式会社職工代表者 日本
楽器
製造株式会社販売部(大正8年撮影
浜松市史 五
([地域工業の成長と構造変化])
地域工業の成長と構造変化] 【三大産業】 高度成長下の浜松地域の工業は、いわゆる三大産業(繊維、
楽器
,製造品出荷額の推移を昭和三十年から同四十七年の十七年間で見ると、綿織物が約四倍に増加したのに対して、
楽器
,特に、繊維を除いた
楽器
とオートバイが急成長を実現している。,(株)
楽器
(資)二ツ和製作所 軽自動車部品 (株)東協製作所 自動車備品,(株)
楽器
部品、塗装 (有)内藤砲金工業 自動車部品、
楽器
(有)佐々木鋳造所
浜松市史 五
(社報)
既に百号を突破した日本
楽器
の豪華版、同じ
楽器
界で河合
楽器
、鈴木自動車工業、本田技研工業、そして遠州鉄道,以下、遠州鉄道、本田技研工業、小田工芸社、河合
楽器
の四社の社報の詳細を伝えている。,前記引用文中の日本
楽器
の『日楽社報』の創刊は古く、昭和二十二年十二月で、創刊号(タブロイド版四頁)の一面全部,川上は、日本
楽器
にはかつて全従業員からなる樂友会という会があって、「樂友」という雑誌を出していたと記した
浜松市史 三
(労組の拡大 労組の勝利過信)
鈴木織機(東部支部)をはじめ飯田織機(中部支部)・東洋染色・中村氷糖・帝国製帽・日本
楽器
(北部支部)・,そして、自力によってこの争議に勝利を得たという浜松合同労組の自負が、次に述べる日本
楽器
会社の争議を惹きおこすことになるのである
浜松市史 四
([貿易の再開と生産の増加])
産業都市浜松は、もともと繊維、木工製品、
楽器
など生活関連製品を多く生産していたため、戦後の平和産業への,主要輸出品の輸出推移を表2-14で見ると、繊維製品や
楽器
を中心に輸出を拡大していったことが分かる。,260 168 199 ― ―出典:『浜松商工会議所六十年史』より作成 表2-15 輸出契約実績 △
楽器
,アメリカ、シンガポール、アフリカ、オランダ、香港、その他 2 ピアノ 10台 未完 関係工場 日本
楽器
,、河合
楽器
、天龍工芸、鷲津紡織 △ ミシン 100台 輸出先 シャム 関係工場 富士産業 △ 織機関係
浜松市史 三
(労働運動)
7 7.28 日本
楽器
木工部50名 賃上要求スト 9.15 新居町新居汽船船員 賃上要求 8 9.12,待遇改善要求スト 11.24 浜松駅運送組合仲仕100名 正月三か日公休要求 9 1.20 日本
楽器
,浜松板屋町夏目宅にて同好会労働同盟懇談会 10.25 政治研究会浜松支部創立 12.28 日本
楽器
浜松市史 三
(解決勧告)
態度に憤慨して各職場で抗議集会を開き、大要次のような決議文を可決して、各工場三名の代表者がこれを日本
楽器
会社,「決議、本大会は日本
楽器
従業員諸君の要求を当然なものと認める。
浜松市史 五
([深刻な労働力の不足])
ところが、織物などの繊維工業の製品出荷額は昭和三十五年にはオートバイなどの輸送用機械器具や
楽器
に抜かれた,昭和三十三年に比べて、同三十九年には輸送用機械器具の出荷額は約九・一倍に、
楽器
の出荷額は約六・六倍になった,出荷額の規模では、綿・スフ織物に対し軽自動車は約三・九倍、
楽器
は約三・五倍であった。,オートバイや軽自動車などの輸送用機械器具産業と
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産業は高度経済成長期に躍進していった。 ,輸送用機械器具や
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の企業ではまず、地元に居住する若者を優先的に雇用した。
浜松市史 五
(吹奏楽団)
このほかにかつては河合
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吹奏楽団があった。,①に所収の回想文「20年前を偲んで」の中で筆者の石神孝治は、「ヤマハ吹奏楽団を語る時、日本
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硬式野球部,社内の野球関係者の間から、河合との定期戦に備えて、河合
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を抜くようなバンドを作りたいとの動きが起こり,愛情をこめて
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を作っている彼らの演奏ですから、彼らが出すすべての音にその愛情が表れていて、一緒に演奏,この匠たちが自分たちの作っている
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で演奏する、世界で一つだけの日本が世界に誇る楽団だと思います。
浜松市史 五
([教育文化会館の開館と余裕教室開放])
改装に当たっては練習室や
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保管庫などを設置するなど、利用者の便を図った。 ,平成七年四月九日、公立の
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博物館としては国内初の浜松市
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博物館と研修交流センターが開館した。
浜松市史 三
(昭和不況)
(4,385) (2,834) (6,657) 1.5 機械 332 541 2,501 7.5
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,(37.4) (35.7) (33.0) (32.6) 機械 2.8 6.8 12.4 21.4
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浜松市史 四
([徹底的に破壊された工場と各産業被災率])
[徹底的に破壊された工場と各産業被災率] 【被災率 日本
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川上嘉市】 徹底した空襲と艦砲射撃,昭和二十一年一月五日の『静岡新聞』において、日本
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製造株式会社(以下日本
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という)の川上嘉市は「平和産業,終戦直後私は、当社が将来如何なる方向に進む可きかについて熟考した、そして結論としてはやはり旧来の本業であつた
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浜松市史 三
([主要工産物])
[主要工産物] つぎに産額の面から重要な工産物をあげると、織物(後述、第四章第二節)・
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・帽子(以上前述
浜松市史 三
(商業の発展 市況の概況)
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や帽子の如きは市内で販売されるものは小部分に過ぎず、ひろく華客を全国に需めるのをもって主としている,これは織物の例だが、その他
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・ベニヤ・傘(かさ)・足袋(たび)・木工品・織機の販売高もこのころから増加,、八年ごろから十二年へかけて満州事変を契機とする軍需工業の好況によって、織物以外にも織機及び機械類・
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浜松市史 三
(労働者側敗北)
日本
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労働争議解決の記事
浜松市史 三
(工場規模 生産品の多様化)
【ハーモニカ】日本
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製造株式会社では大正三年から開始したハーモニカの生産が急増、八年には全
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生産額二百四十七万五千四百四十円中,121 西野製糸場 〃6 16 107 123 旭日氷糖株式会社 〃13 60 57 117 日本
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製造
浜松市史 五
([三大産業の変化])
昭和四十八年から平成元年までの三大工業の製造品出荷額の推移を図3―29で見ると、繊維産業は長期停滞傾向、
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産業,
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産業が含まれるその他の製造業は、昭和五十年で二十一%の割合を占めていたが、平成二年には十・五%に減少,占める三大工業の製造品出荷額の構成比 (単位:%) 繊維工業 その他の 製造業 (
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