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浜松市史 一
(榛原の論)
榛原
の論 さて、この歌には、なおいろいろの議論があって、榛とは何か、ハンノキか萩かという論に始まり、 /
榛原
の論
浜松市史 ニ
(顕斎)
顕斎 顕斎(けんさい)(一八〇二-一八五六)は
榛原
郡川崎(
榛原
町)細江の人、名を忱、字を欽夫、幼名元次郎
浜松市史 一
(豪族の居館址)
【勝間田氏】勝間田氏
榛原
郡
榛原
町道場の清浄寺付近に城址がある。,『倭名抄』では
榛原
郡勝田郷にあたり、「加都万多(かつまた)」と註してある。,【相良氏】相良氏
榛原
郡相良町徳村が伝承地。
浜松市史 ニ
(牧野城攻略)
八月家康は、
榛原
郡諏訪原城を陥落させ、牧野城と改めた。この城は高天神城への通路にあたる。,家康は進んで小山城(
榛原
郡吉田町小山)を包囲した。
浜松市史 三
(子規三方原句碑)
五十八歳であった(郷里
榛原
郡川崎町に葬る)。
浜松市史 一
(初倉荘の惣中)
初倉荘の惣中 なお
榛原
郡の大井川下流、駿河に接した京都府禅寺領の初倉荘では、十五世紀の後半になると、
浜松市史 一
(海上輸送)
(和歌山県)の金剛寿院の年貢米を遠江頭陀寺荘から、持明院のを遠江国初倉荘から船で運上したのは、現在の
榛原
郡相良湊
浜松市史 五
([水泳大会と駅伝大会])
まったのは昭和四十五年、交通事情によりコースはたびたび変更され、平成三年当時、男子は磐田郡竜洋町から
榛原
郡
榛原
町,まで七区間五十・四キロメートル、女子は小笠郡浜岡町から
榛原
郡
榛原
町まで五区間十八・一キロメートルで行われた
浜松市史 一
(今川氏の伊勢信仰)
義元が出陣のときには臨時の寄進をしているが、永禄九年(一五六六)には、遠江延久村(
榛原
郡)で二百俵に改
浜松市史 一
(臨済宗)
【平田寺】竜峯宏雲が元弘ごろ(一三三一-一三三三)に遠江相良郷に入り、平田寺(へいでんじ)(
榛原
郡相良町
浜松市史 ニ
(遠江の徳川武田の勢力範囲)
天竜川から西はだいたい家康に従っていたが、東部の周智郡・小笠郡・
榛原
郡は武田方であって、二俣城・犬居城
浜松市史 三
(内田六郎)
内田六郎 【ガラス絵 和蘭陀絵】内田六郎(明治二十五年
榛原
郡吉田村生、山本曽一郎の三男、大正六年当市田町内田令太郎
浜松市史 三
(二俣佐久間線)
③遠三鉄道株式会社 明治三十年、
榛原
(はいばら)郡相良(さがら)町を起点として浜松から湖北を廻って三河
浜松市史 三
(雪腸と浜松俳壇)
雪腸(孫平、明治八年遠江国
榛原
郡細江村、現在
榛原
町生、昭和七年十一月没、五十八歳)は、静岡県立師範学校在学当時
浜松市史 ニ
(引馬城氏真に降伏)
永禄九年五月四日付で氏真は遠江平田寺(へいでんじ)(
榛原
郡相良町)に禁制を与えているから軍事行動があったのだろう
浜松市史 三
(遠江国区画改称 浜松地方)
第十二大区と改称】同年九月二十二日には遠江国区画改称(甲第六十四号布達)によって、第三大区を第十大区(
榛原
浜松市史 五
([遠州大橋の完成])
しかし、浜岡原発が着工した(昭和四十六年)ことで小笠郡大須賀町から
榛原
郡相良町まで国道一五〇号線バイパス,同福田町の海岸寄りを経て大須賀町までのバイパス(延長二十二キロメートル)を建設し、さらに大須賀町から
榛原
郡御前崎町
浜松市史 ニ
(平手汎秀の戦死)
げんもくぐち)(「遠州引間眼目寺と伊伽耶寺」は、天正四年十月の武田勝頼の判物『能満寺文書』によると、
榛原
郡能満寺
浜松市史 ニ
(知行経過)
ついで翌天保二年十月には浜松城付領のうち城東(きとう)・
榛原
(はいばら)両郡の村々六千六百九十石余が豊田
浜松市史 一
([引馬野の歌])
「二年壬寅、太上天皇の参河国にいでましし時の歌 引馬野(ひくまの)ににほふ
榛原
(はりはら)入り乱り
浜松市史 ニ
(蓼太の来遊)
当時浜松に蓼堂・玄彦(のち徐生と改む)、森町(周智郡)に蓼主・菊平、掛川(掛川市)に四明、金谷(
榛原
郡金谷町
浜松市史 一
(文学)
【遠州歌人 勝間田長清 夫木和歌抄】勝間田長清は、遠州
榛原
郡勝間田(
榛原
町)の豪族で、遠州歌人として名
浜松市史 ニ
(浜松藩出動)
浜松藩出動 【住吉沖】文政九年(一八二六)元旦、一艘の異国船が遠江国一橋領住吉沖(
榛原
郡吉田町)に漂着
浜松市史 一
(市庭)
京都南禅寺領の遠江初倉荘の江得郷(旧
榛原
郡初倉村、いま島田市)には嘉吉(かきつ)三年(一四四三)に、浜松荘
浜松市史 ニ
(印西派)
遠江民間の弓術は、浜松以東金谷(
榛原
郡金谷町)あたりまでが大部分印西派であった。
浜松市史 五
([市の木・市の花・市の鳥の制定])
「大宮人の旅衣入りみだれけむ萩原」は、万葉集中の一首「引馬野ににほふ
榛原
入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに,ただし、奥麻呂の歌の「
榛原
」については、現在萩説よりも榛説が有力のように見受けられる。
浜松市史 一
(臨済宗 方広寺派 曹洞宗)
浜北市根堅)・栄林寺(天竜市二俣町)などをはじめ、また大寿宗彭(たいじゅそうほう)は、相良荘に大興寺(
榛原
郡相良町
浜松市史 三
(遠江の学校新築)
遠江風土歌 遠江風土歌(一部) 郡ハ十二敷知浜名 豊田引佐に周知郡 荒玉磐田長の上 城東
榛原
佐野山名
浜松市史 一
(漁業)
榛原
郡御前崎町白羽の白羽神社は、海岸の近くに位置し、神主家袮宜家(ねぎけ)が在地領主として、年貢・公事
浜松市史 三
(誘致運動 徴兵区域 設置完成 練兵場と凧揚)
徴兵区域は
榛原
・志太・周智・小笠・磐田・引佐・浜名の七郡で、翌四十一年三月豊橋で編成された部隊は町民歓迎
浜松市史 三
(浜松へ波及)
浜松市 宿屋等2戸襲撃 警察署に釈放(不成功) 宿屋等2戸 屋内侵入器物損壊 出兵 1000名
榛原
郡金谷町,屋内侵入器物損壊 出兵 5~600名 17日 周智郡犬居村 村内各米商に値下 米商若干 屋内侵入器物損壊
榛原
郡下川根村
浜松市史 三
(四代五代市長 都市問題 市機構改革)
大正九年三月二十四日満期退職となると、迎えられて渡辺素夫(熊本県出身、元治元年生、元警察官、明治四十四年
榛原
郡長
浜松市史 三
(移住開始)
また
榛原
郡千頭(はいばらぐんせんず)村七左衛門他二十二名が「三方原之内都田村御林境より同村道南側」に移住
浜松市史 ニ
(巴静の来遊)
)は、享保年間に江戸の佐久間柳居(さくまりゅうきょ)を訪れる往復の途次、浜松・新貝(磐田市)・金谷(
榛原
郡金谷町
浜松市史 ニ
(塩専売権の紛争)
無札塩売候儀無之由申候」といい和田村が牓示内で塩を売ることは専売権をおかすものだと主張し、和田村は地頭方(
榛原
郡
浜松市史 四
(『郷土遠江の調査研究』)
内訳は浜松市十八、浜名郡八、引佐郡十、磐田郡十、小笠郡二十、
榛原
郡一で、ほぼ遠江の全域から幅広い参加のあったことが
解説「国絵図」
(解説「国絵図」)
翌11年3月23日に、遠江国
榛原
郡及び城東郡で1万2百石余を拝領したので、遠江国一国の図に拝領した領地,【領地を拝領した大名】
榛原
郡および城東郡では小判形の枠内を黄色に塗りつぶした村があることに気づく。,列記すると、〈
榛原
郡〉南原、四ノ宮、道上四ノ宮、道場、下庄内、上庄内、朝生、中西、中、堀内、〈城東郡〉,永高表示が見られるのは、
榛原
郡北部12ヵ村、周知郡北部41ヵ村、豊田郡北部46ヵ村の計99ヵ村である。,【まとめ】 本絵図は、丹波篠山藩青山家が新たに領地となった
榛原
郡・城東郡の村々の把握のために文政11
浜松市史 一
(百姓前)
家康は永禄十一年に遠江に侵入すると、
榛原
郡のうちなどで、「百姓五人前」などを中山又七郎に保証している。
浜松市史 ニ
(鴨江寺算額)
、寛保三年(一七四三)三州吉田(豊橋市)に生まれ、同藩士渡辺半蔵および鷲津の真木明雅に算法を、金谷(
榛原
郡金谷町
浜松市史 五
([賀茂真淵の顕彰と寺田泰政])
引馬野爾 仁保布
榛原
入亂 衣尓保波勢 多鼻能知師尓 (ヒクマノニ ニホフハギハラ イリミダリ
しいの森はぎの原:わが町文化誌
(浜松市立北部公民館『しいの森はぎの原:わが町文化誌』 目次)
画像 序章 ―わが町文化誌― 6 第一章 はぎの原―ひくまのはるか― 9 引馬野ににほふ
榛原
浜松市史 四
([町村合併])
この際、県の西部は静岡県から分離して浜名郡、引佐郡、磐田郡、周智都、小笠郡、
榛原
郡の大井川以西と愛知県東三河
浜松市史 ニ
(交錯する諸領)
【浜松地方の特色 旗本領 寺社領】天領は豊田・山名・周智三郡の山間部と
榛原
郡とに集中しているし、また敷智,2480 21951 2069 5000 3254 660 〃 11
榛原
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