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浜松市史 一
(橋本宿)
橋本
宿 飛鳥井雅有(あすかいまさあり)は、文永二年(一二六五)から六年ころの七月に鎌倉から京都に帰る,途中、遠江
橋本
の宿につく。, しほ風の涼しき磯の松かげにまさごかたしき月をみるかな」(以上「無名の記」『古典文庫』所収、
橋本
/
橋本
宿
浜松市史 一
(橋本の長者妙相)
橋本
の長者妙相 【応賀寺】遠江国淵郡黍庄笠子郷
橋本
の宿の長者妙相が、河内国の上宮(聖徳)太子廟に参詣 /
橋本
の長者妙相
浜松市史 一
(実暁記)
そのうちで本市に関係のあるのは、「
橋本
五里、遠江国 池田五十丁 国府二里」である。 ,年代 作者 遠江の地名 いほぬし 村上天皇時代 (946~967) 増基法師 たかし山 はまなの橋
橋本
,さやの中山 天ちう(ろう)川 浜名の橋 ゐのはな坂 高師山 吾妻鏡 建久元年 (1190) 菊川
橋本
,承久3年 (1221) 菊川駅 国府 天竜河 海道記 貞応2年 (1223) 不詳 高志山 堺川
橋本
,社 さよの中山 菊川の宿 妙井渡 播豆蔵の宿 大堰川 信生法師集 元仁2年 (1225) 信生法師
橋本
浜松市史 一
(義定の軍に勝間田・横地氏従う)
義定の軍に勝間田・横地氏従う 【
橋本
の陣地】遠江守護安田義定からの報告をうけた頼朝は、二十八日和田義盛,十七日和田義盛・安田義定らは、遠江国の住人横地太郎長重・勝間田平三成長らをひきいて、頼朝の指令に従い、浜松荘の
橋本
,遠江国
橋本
あたりが、要害地だとするのは、浜名湖の咽喉をやくし、東海道の西部の関門にあたるからである。
浜松市史 一
(宿の長者)
【
橋本
菊川】遠江の
橋本
・菊川にはその例がある。
浜松市史 一
(源頼朝の連歌)
源頼朝の連歌 源頼朝は建久元年(一一九〇)十月十八日上洛の途中で
橋本
駅に宿泊すると、遊女が群参した。,
橋本
宿の現景(浜名郡新居町)
浜松市史 一
(親王の転戦)
親王の転戦 【
橋本
】延元三年正月、後醍醐天皇の期待をにない、東海道を上京してくる義良親王(後村上天皇,)・北畠顕家に宗良親王も
橋本
(浜名郡新居町
橋本
)付近から参加し、各地に転戦する。
浜松市史 ニ
(志都呂の松平氏)
志都呂 服部杢之助 志都呂 慶安1承応1 服部中 志都呂 佐橋甚兵衛
橋本
,承応1明暦3 佐橋甚兵衛
橋本
三宅半七郎 志都呂 明暦3寛文9 三宅半七郎 志都呂, 土屋忠次郎
橋本
寛文9寛文4 本多彦八郎 志都呂 寛文4延宝6 中根平十郎 志都呂 延宝
浜松市史 一
(井伊谷滞陣中の和歌)
【浜名の橋
橋本
白菅】「延元四(三)年春頃遠江国井伊城に住侍しに、はまなの橋の霞わたりて、
橋本
の松原湊
浜松市史 一
(陸運)
【天竜・
橋本
の関所】六月二十一目、遠江守護代甲斐常治は天竜・
橋本
両渡の関所に対し、遵行状(じゅんぎょうじょう
浜松市史 一
(宿の遊女)
宿の遊女 【
橋本
池田】頼朝の兄義平の母は、
橋本
宿の遊女(『尊卑分脈』)であり、範頼の母も池田宿の遊女
浜松市史 一
(吾妻鏡 以後の文献 十六夜日記)
、建長四年(一二五二)の将軍宗尊親王の関東下向の路次につき、三月二十四日の条に「昼渡津(わたつ)、夜
橋本
,渡津は三河の駅であり、ここから
橋本
宿(新居)に一泊し、翌日は引間を経て池田宿にいたったわけで、引間(ひくま
浜松市史 一
(尊氏鎌倉をとりもどす)
【
橋本
の戦】八月九日に尊氏は時行の軍を遠江
橋本
で破り(『足利尊氏関東下向合戦次第』『梅松論』)、また直義
浜松市史 一
(遠江の御家人)
【
橋本
のさわぎ 内田四郎】このとき泰時軍の中に、上皇がたの小野盛綱のもとに参加しようとする筑井高重たちがまぎれこみ,、三十日遠江
橋本
宿でそれが露顕し、内田四郎は戦ってこれを誅した(『吾妻鏡』『承久記』)。
浜松市史 一
(遠江と三河をむすぶ道路)
源頼朝は、池田宿・引馬・浜名橋・
橋本
・白須賀・高師山・境川、三河の雲ノ谷・重山峠・手洗・岩崎・多米・乗小路,しかし室町中期までの湖西地方の東海道は、三河からいまの湖西町新所原・吉美・古見をへて
橋本
の裏山にあたる,猪鼻坂から
橋本
にかせられた浜名橋にかかった。
浜松市史 一
(遠江の国務と検断)
遠江の国務と検断 建久六年七月、頼朝は鎌倉に帰る途中の
橋本
駅で遠江国の在庁官人と守護の部下らを招集し
浜松市史 一
(東海道本道)
三河二川(豊橋市二川)・遠江汐見坂・新居町浜名(
橋本
宿)・同上辺(浜名橋)・浜松浦(当市西南部)・引馬宿
浜松市史 ニ
(正光寺竜道貫)
寺子に積志村上前島(当市大島町)の
橋本
茂登治(犬居村秋葉神社宮司)がある(『浜名郡積志村村誌』)。
浜松市史 一
(今切と弁天島)
鎌倉時代における
橋本
駅の繁栄は海道に並ぶものがないといわれていたが、室町時代以後に襲ったたびたびの津波
浜松市史 一
(遠江駿河渡の船 天竜川橋銭)
一四〇二)五月二十六日、前将軍義満は、遠江・駿河両国守護今川上総入道法高(泰範)にたいし両国の渡し、
橋本
並
浜松市史 一
(猪鼻駅)
古代にあっては浜名湖は浜名南端の辺で海に通じていたと思われ、猪鼻駅はその湖口西側にあったわけで、やがて
橋本
宿
浜松市史 ニ
(竹村方壺)
蝶夢はこの紀行に、浜名の橋・
橋本
の里等について『更級日記』『東関紀行』『吾妻鑑』等に記されている昔の話
浜松市史 ニ
([伊能忠敬の測量])
十九日から二十八日まで佐浜・気賀・白洲・村櫛・堀江・伊目・佐久米・大崎・瀬戸・三ケ日・尾奈・入出・新所・
橋本
浜松市史 一
(紀行文)
このときの行程は、
橋本
・舞坂・引馬・府中(『富士紀行』『覧富士記』『富士御覧日記』)である。
浜松市史 ニ
(鴨江寺の絵馬)
筆者は慶長年間に探流守盈、正徳年間に藤原俊晴、享保年間に松田義知、宝暦年間
橋本
貢、文化年間に士弘、安政年間,#160; 彩色 尾張 22 円通閣の文字 宝暦 7年 金刻字
橋本
貢
今切変遷図
(解説)
橋本
駅には「ヨリトモゴテン」の名が見られる。,建久元年(1190)の上洛の折と建久6年(1195)、頼朝は
橋本
駅に立ち寄ったという。
浜松市史 一
(勝間田成長御家人の資格を失う)
勝間田成長は、前記のように横地長重らと
橋本
で守備をした武士で、文治二年(一一八六)二月頼朝の妹婿一条能保
浜松市史 三
(有賀豊秋 中村大館)
橋本
茂登治(上前島、明治四十一年没、六十六歳、秋葉神社宮司)は豊秋の門弟、秋葉神社詞掌であった。
浜松市史 一
([遠江の天変地異])
浜名川の跡(浜名郡新居町
橋本
) 【天文の悪風】天文八年(一五三九)、遠江に「悪風」があり、大福寺
浜松市史 五
([かささぎ大橋の開通])
平成元年度から橋の下部工や取り付け道路の調査が開始され、平成六年一月二十日に笠井大
橋本
体の起工式を迎えた
浜松市史 一
(信生法師と池田宿の侍従)
【浜名の橋 池田橋】 「
橋本
のやとにて年来の宿にて侍る君のもとに物いひいてゝのち、あか月たつとてつかはし
浜松市史 一
(交通路)
、於呂(おろ)の辺で天竜川を渡り、敷地(しきじ)を経て山梨に出る線、 2 鷲津・新居(あらい)・
橋本
浜松市史 三
(浜松県民会 小区長会 民会の意義)
内山伊知太郎 22 近藤亀松 23 大石喜三郎 24 伊藤多平次 25 平野又十郎 26 横田茂平 27
橋本
茂登治
浜松市史 三
(浜松教導職 浜松中教院 五社神社)
小池村、邑瀬神社祠官、権少講義)・中村大舘(宇布見村、報国隊員、浜松神道事務局副長、明治二十六年没)・
橋本
茂登治
浜松市史 四
(小山正)
前者は、本居宣長の『玉勝間』に取り上げられ、高く評価されたことで有名であるが、特に後者は、大正六年、
橋本
進吉博士,音ごとに仮名が二部に分れて居り、互に混ずることなく、その濁音も亦同様である」とする、その研究内容は、
橋本
博士
浜松市史 三
(大区小区制)
竹内弥治平 26小区 平野又十郎 小野鍵蔵 27小区 近藤正敏 小杉藤一郎 28小区 山本重三郎
橋本
権平治
浜松市史 一
(中世編)
四二六‐四二七 熊野の墓と伝える宝篋印塔(磐田郡豊田村 行興寺) 四二九
橋本
宿
浜松市史 五
([小山正の著作活動])
『奥の山路』は、後に
橋本
進吉博士によって上代特殊仮字遣いの研究としてまとめられた、上代の特殊な仮字の用法
輝くいなほはたの音:わが町文化誌
(浜松市立東部公民館『輝くいなほはたの音:わが町文化誌』 目次)
くした人々 【平松実・哲司・一朗 ざざんざ織】 158 【川口武平・武雄 織布】 160 【
橋本
三平
龍山村史
(龍山村史 目次)
丸山講騒動 五四三 四 天竜川西川渡船の改革 五四五 五 山林大火と消防組の結成 五四七 六
橋本
製材所
浜松市史 ニ
(交錯する諸領)
篠原 1400 大 1332 天 35 寺 32 神ヶ谷 935 天 664 旗A 232 寺 38
橋本
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