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浜松市史 三
(浜松気賀線)
浜松
気賀
線 ⑤浜松・
気賀
間
気賀
自動車株式会社(昭和二年創立、本社引佐郡
気賀
町、現細江町)があり、
気賀
/ 浜松
気賀
線
浜松市史 三
(気賀林の建白)
気賀
林の建白 駿府藩が藩の殖産興業政策として渋沢栄一(篤太郎)を起用して商法会所を静岡紺屋町に開業したのは,このとき
気賀
林はその旅宿川口左又郎宅に呼出され「商法御尋」につき意見を尋ねられ、つぎのような建白書を提出,
気賀
林(文化七年
気賀
村竹田家に生れ、
気賀
家に養子し同家を復興。,岩井林右衛門、通称半十郎、諱は宜徳、淡庵と号し明治四年
気賀
林と改名、明治十六年四月没、七十四歳)は引佐郡
気賀
村,
気賀
林 /
気賀
林の建白
浜松市史 ニ
(藺草と気賀)
藺草と
気賀
藻草は化学肥料の普及によって商品としての価値を失ってしまったが、江戸後期に興った産業でいまも / 藺草と
気賀
浜松市史 三
(気賀林の実権把握)
気賀
林の実権把握 【茶樹植付】こうして県令林厚徳の支持によって三方原の茶園経営の実権は
気賀
林らに移り /
気賀
林の実権把握
浜松市史 四
([気賀百合子と新聞小説])
[
気賀
百合子と新聞小説] 【
気賀
百合子 小説「浜名湖」】 戦後の浜松地方の文学活動として、当時創刊,
気賀
百合子の連載小説「浜名湖」が、『浜松民報』(第四項参照)紙上に初めて登場したのは昭和二十六年五月十五日,
気賀
は浜松市立高等女学校を卒業後、海音寺潮五郎主宰の『文学建設』同人となり、同誌上に作品を発表。,『浜松民報』は、郷土人の作品で郷土紙を飾るという方針の下に、
気賀
の小説を連載することにしたものである。,
気賀
は、この作品執筆当時三十七歳。浜松短期大学図書館の司書であった。 / [
気賀
百合子と新聞小説]
浜松市史 三
(気賀林全盛時代 百里園風光)
気賀
林全盛時代 百里園風光 けだしこのころが
気賀
林のもっとも得意の時期であったといえよう。,【十四年】また
気賀
林は十四年三月に拝謁と県令の視察を記録して『百里園風光』を刊行している。 /
気賀
林全盛時代 百里園風光
浜松市史 三
(気賀林の三方原開発案)
気賀
林の三方原開発案 つづいて四月になると長上・敷知(ふち)・浜松付の地方役所の長山晋之助及び滝口小一郎宛,五分は作りどりでのちに開発人に元入金を補い、なお年貢を仰付けられたい、というのが要旨で、つまり浜松と
気賀
/
気賀
林の三方原開発案
浜松市史 ニ
(宿場)
宿場 【市野宿
気賀
宿】東から市野・
気賀
・三ケ日(以上遠江国)・嵩山(すせ)(三河国)とあわせて四宿,が設けられ、
気賀
宿には今切関所に呼応して
気賀
近藤家の管理する
気賀
関所があった。,
気賀
宿では慶長十五年(一六一〇)二月、伝馬駄賃の法度が定まり、市野宿に伝馬の置かれたのは寛永十六年閠十一月以前,なお
気賀
関所の設置年代はわからない(「気質関について」『細江のあゆみ』5号)。
浜松市史 三
(入植の困難)
このとき
気賀
林は、この長家を
気賀
往還筋に「五十棟追分西」「五十棟壱里塚西」へ建築されたい、と浜松調所へ,理由は、借家人たちは渡世を覚悟で移住してきたものの生計が立たず転居するものも現われる次第であるから、
気賀
往還,しかし御長屋取立は実際には困難のことだったらしく、翌四年二月には
気賀
往還通の二丁目・三丁目および
気賀
林,故に一都会をなせり」といっているが、実際は
気賀
林が最初意図したような
気賀
道(姫街道)に沿う町作りは進行,三方原開拓部分図(
気賀
林宅及び学校敷地付近)
浜松市史 三
(浜松誘致 士族と国立銀行)
浜松誘致 士族と国立銀行 国立銀行の浜松誘致は、
気賀
林・
気賀
半十郎・横田保・青山宙平(磐田郡中泉村、,【井上延陵】頭取は士族の井上延陵、最高出資者の平民
気賀
林は副頭取であった。,株数 氏名 住所 120
気賀
半十郎
気賀
90 ●井上延陵 浜松 70
気賀
林
気賀
64 平野又十郎,45 青山宙平 中泉 40 ●小林年保 浜松 30 竹山梅七郎 下堀 30 前島嶼一 見附 30
気賀
荘太郎,
気賀
30 横田保平 内野 30 横田茂平 内野 30 青山 徹 中泉 30 竹山謙三 下堀 30
浜松市史 ニ
(天保期の一里塚)
【篠原】篠原村地内 北側は榎、南側は松 【舞坂】舞坂宿入口 南北とも松 浜松宿から本坂通り
気賀
, 木立は松 祝田村・大山村地内 左の塚は榎で大山村地内、右の塚には立木がなく、祝田村地内
気賀
村,・中下刑部村地内 左の塚は
気賀
村地内、右の塚は中下刑部村地内にあって、ともに立木は松(『東海道浜松宿大概帳,追分円塚現存 東大山 〃 67里 三方原大窪現存 和地村東大山現存 老ヶ谷 〃 68里 中川村新谷
気賀
町老,ヶ谷 葭本西 〃 69里 下
気賀
9355
気賀
山田 大谷 〃 70里 東浜名村東山768 都筑北東20
浜松市史 三
(開墾願提出)
開墾願提出 【士族 平民】さて士民合同の共同開拓は
気賀
林を中心として協議を重ね、
気賀
林・間宮鉄次郎・,原良平の三名より他に士族堀口勘蔵(第一大区一小区敷知郡浜松)、平民農
気賀
半十郎(第一大区十六小区引佐郡
気賀
町
浜松市史 三
(士族の離散 如鉄社と茶園分割 士族農民分離)
【
気賀
林死去】この年十五年三月
気賀
林はその長子半十郎(明治十二年引佐麁玉郡長、同十四年敷知長上浜名郡長,、第二十八国立銀行取締役)を失ったが、十六年四月二十三日に
気賀
林も死去した。,県は
気賀
半十郎(林の養子、半十郎を襲名、明治十六年第二十八国立銀行頭取)・二男
気賀
鷹四郎にその後を委嘱,【
気賀
林碑】なお
気賀
林の碑は明治二十四年五月に建てられ「三富翁之碑」といい、三方原に現存している。
細江町史 通史編中
(細江町史 通史編 中 目次)
暮らし 76 古代の人々の負担 76 古代の人々のまつり 78 律令制の崩壊 81 第3節
気賀
荘,84
気賀
荘 84 第4節 万葉集に詠まれた細江 85 澪標 85 吾跡川楊 86 ,)の成立 第1節 堀川城とその人物群 265 1
気賀
一揆の寺と地侍 265 2
気賀
村の名倉常閑,297 第2節
気賀
の関所 300 第3節
気賀
関所の構造 301
気賀
関所の構造 301,369
気賀
町取捌定書 369 碇役之定 370
気賀
町方覚書 373 油田への覚書 380
浜松市史 三
(開拓の進捗)
なおこのとき井上八郎・田村弘蔵の両名は
気賀
往還通四丁目から十三丁目までの借地権を、
気賀
林は同通の十四丁目,これを
気賀
林は「大歓喜老衰之困苦忘却」と言っている(なお、この月、
気賀
林は「御布告ニ付」、岩井林右衛門
浜松市史 五
(奥山線)
奥山線 【
気賀
口─奥山間廃止】 奥山線は、合併後も赤字路線から脱出できないまま累積債務が増大し続,このため昭和三十六年、遠州鉄道はとりあえず
気賀
口以北を代行バス運転に代える方針を打ち出し、地元関係者と,交渉は難航したものの約二年の歳月を要してようやく妥結にこぎつけ、昭和三十八年五月に
気賀
口─奥山間を廃止,労働組合、四月には細江町と引佐町、六月には浜松市の同意を得て、同年十月三十一日限りで、奥山線(遠鉄浜松─
気賀
口間
浜松市史 三
(開拓反対 開拓の本格化)
開拓反対 開拓の本格化 そこで
気賀
林は二十二日井上八郎に二十五棟はすでに普請進行中でその経費も立替払,結局は再開拓と決定、十月二日中尾金平、阿部藤一郎の再見分となり、
気賀
林は普請方と士族移住の諸世話下掛りを,再命され、四日には改めて二十五棟を千六百五十六両壱分で大工(前記
気賀
村三名他藤三郎と安富村徳十郎)に請負,三方原開拓概念図
気賀
借地(14・16~19) 井上・田村借地(4~13) カッコ内の数字は丁目を示す,これは井上八郎・田村弘蔵・岩井宜徳(
気賀
林)の名にちなんだものである。
浜松市史 三
(浜松商友会 浜松商業会議所)
浜松実業家の大会において満場一致をもって設立の手続を議決、浜松の経済圏に属する笠井・掛塚・二俣(ふたまた)・
気賀
,(表)浜松商業会議所設立発起人 明治26年3月 町村名 職業 氏名 浜松町利 銀行役員
気賀
敬太郎,酒造業 田畑庄吉 〃〃 醤油製造業 鈴木幸作 〃田 洋物小間物商 中村藤吉 〃後道 米穀商 内山嘉吉
気賀
町,銀行役員
気賀
半十郎 〃 畳表商
気賀
鷹四郎 金指町 畳表商 中村利平治 〃 醤油製造業 鈴木八平
浜松市史 三
(開拓着手)
二十三日には三方原御用掛として静岡藩の生育方取締飯高七之丞、同介赤林立之助、調役地方掛長山晋之助の三名が
気賀
林,早速開拓に着手することとなり、開拓掛は
気賀
林の宅に出張し、
気賀
村大工(粂蔵・万吉・国松)黒鍬(小平・亀次,二十七日には三方原開拓掛岩井林右衛門(
気賀
林)の名をもって、刑部(おさかべ)・祝田(ほうだ)・瀬戸(せと
浜松市史 三
(借家建築)
借家建築 この間に、
気賀
林持の借家の建築も進められた。,また
気賀
林の割渡しを受けた地内へ刑部(おさかべ)村大谷新田の利吉のように自己負担で建築し、水油・煉油・,
気賀
林自身も居宅新築の計画を立てている。 ,こえて二十五日には浜松調所より
気賀
林に合計千七百十八両三分(二五棟代一六五六両一分、井戸二〇かけ代六二両二分
浜松市史 ニ
(大沢氏降伏)
【
気賀
一揆】「
気賀
一揆」の蜂起である。,浜名郡湖西町)に陣し宇津山城(同上)を奪いかえさせ、井伊谷三人衆に堀江城を攻めさせ、みずから三月二十七日
気賀
堀川,
気賀
中学校の西方約五、六〇〇メートルの田の中に「首塚」がある。
浜松市史 一
(都田川の下流)
【都田 金指
気賀
】これとは別に都田・金指・
気賀
などこの川流域の主要集落を載せている一段低い段丘面は、,前述の西
気賀
累層から成り、三方原面より一時代後に形成されたものである。
浜松市史 三
(第三十五国立銀行)
【
気賀
林】その夜は第二十八国立銀行に宿泊され、翌十一月一日陸軍少尉大平正修と浜松支庁判事千谷敏徳を謁見,、特に中村孫太郎(戊辰・西南戦争戦功者)と
気賀
林を召して奉拝を許した。,なお、この第三十五国立銀行も三十年には三十五銀行(頭取
気賀
半十郎)となって普通銀行になった。
浜松市史 ニ
(西遠・中遠の書家)
「 思玄(法多) 淡庵(
気賀
) 隆斎(ヨコヲ) 緑介 子旭 長弘 梨堂(山梨) 竹山(掛川) 介石 任斎, 【思玄 淡庵】このうち、思玄は法多山尊永寺(袋井市)住職で、画人・詩人としても知られ、淡庵は
気賀
,(引佐郡細江町)の豪族岩井半十郎(のち
気賀
と改める)である。
浜松市史 三
(士族の状況 開墾許可)
【六年 園長
気賀
林】さて三方原の開墾は浜松県が静岡藩より引きついだ最大の課題でもあったので、県令林厚徳,はこの開墾願を可納し、同年十一月二十七日付をもって全員十名を開墾御用係に、さらにその中より十二月三日
気賀
林,園副長辞令 明善は、当時
気賀
林と間宮鉄次郎との間に意志の疎通に欠くものがあったので、この任命につき
浜松市史 三
(西遠商会 西遠銀行)
発起人は平野又十郎・小栗義一郎・林文吉・金原儀平・伊東弥恵茂・邨松丘蔵・平野嘉意三郎・大谷弥平・
気賀
鷹四郎,・
気賀
敬太郎・
気賀
荘太郎の十一名で、資本金は各人が千円ずつ出資した合計高の一万一千円であった。
浜松市史 三
(移住開始)
御長屋新築に尽力したのは
気賀
林のみではなかったのである。,こうして移住は続々始まり、また十七丁目に鷹四郎(
気賀
林の子)屋敷、十八丁目に
気賀
林の借家一棟(桁行一〇,移住の「三民」十八名(
気賀
林借家人弥三郎など一五名、井上・田村地内借家人三名)も「御目通」を許された。
浜松市史 三
(翼賛文化協会 文学報国会)
企画部・文学部・演劇部の三部より成り、各部に職場・小国民・婦人の専任をおき、同人には
気賀
由利子(引佐郡
気賀
町,光明静夫・石井寛(当市鴨江町)が編集、創作を
気賀
由利子・竹山亥三美、詩を浦和淳・後藤一夫、短歌を松原旭,遠州文学社(当市高林町後藤一夫方)で、後記によると「臨戦体制下で今後は随時刊行したい」とあり、小説「小篋」を
気賀
由利子
浜松市史 三
(横田保の三方原開拓進言)
横田保の三方原開拓進言
気賀
林のあとをうけた横田保は鋭意茶園の経営に専念することになるが、保と茶園との,明治六年七月浜松県令林厚徳町村学校巡視の際、三方原にいたり横田保氏に此処に茶園を経営すれば有望ならんと語ら」れたので「保氏は
気賀
林
浜松市史 三
(郵便役所 郵便局)
明治七年には浜松を中心にして笠井や
気賀
間、さらに
気賀
から三ケ日・伊平・金指へと郵便物が集配されている(
浜松市史 三
(新県道)
新県道 こうして大正十五年十一月には新県道として浜松・舘山寺線、中ノ町・市野線、市野・
気賀
線、笠井・,宮口線、
気賀
・雄踏線、掛塚・舞阪線、都田停車場・根洗松線、池田線の九線が新しく県道に指定された。
浜松市史 三
(堀留運河の計画)
堀留運河の計画 【
気賀
林献策】明治初年の士族授産につながる堀留運河の開掘も、このような運河開鑿(かいさく,)ブームにのったもので、
気賀
林(りん)によればこのときの開掘計画の実現は、己れが明治二年二月浜松宿川口左又郎方,しかし、二年正月に着任したばかりの井上に土地の事情が分る筈もなく、
気賀
林がその相談相手になった。,【浜松商人】会するもの浜松勤番組頭井上八郎・同副田村弘蔵をはじめ
気賀
林などで(浜松奉行所は明治二年九月廃止
浜松市史 ニ
(今切警備)
【
気賀
出兵】これより前、二月二十九日には
気賀
関所に増援出兵していたから、重なる出兵は井上藩にとって容易
浜松市史 三
(百里園茶製所 三方原救貧院)
百里園茶製所 三方原救貧院 これよりさき、
気賀
林は明治八年一月三方原に新居をかまえ、ここで百里園の事務,明治十一年十一月一日明治天皇東幸の途次、浜松行在所(あんざいしょ)(第二十八国立銀行)で三方原開拓の功をもって
気賀
林,【祝賀会】五月八日大迫貞清は石黒務書記官とともに
気賀
林の招きで百里園を訪れたが、茶摘女・耕男千百人余で
浜松市史 ニ
(市野宿の衰退)
道中奉行宛に差出した文書(市野村旧本陣『斎藤文書』)によると、市野村は「東海道浜松宿最寄、本坂往還、
気賀
,有玉村高林家諸用記』にも、これと同様の記事が天保十四年(一八四三)にあり、市野宿が潰れたのちは「本坂筋も浜松より
気賀
江御通行,ところで、浜松宿と
気賀
宿との間にも人馬の継立が行なわれていた。
浜松市史 三
(帝国製帽会社)
帝国製帽会社 【二十九年】帝国製帽株式会社 明治二十九年三月、資本金十万円をもって、
気賀
賀子治・平野又十郎,・
気賀
敬太郎らによって浜松八幡地(砂山町)に誘致された。,を目的として設立した会社であったが、業務拡張の必要上移転地を物色中であったのを当時野沢組に勤めていた
気賀
賀子治
浜松市史 三
(三方原沽券地改正絵図 三方原の村名)
三方原沽券地改正絵図 三方原の村名 こうして
気賀
林を主とする三方原茶園経営は終り、第三期の横田保の時代,最大が
気賀
半十郎の一万五百四坪で最小は百坪、六百坪以上が百十一名、二千坪以上は十九名で、
気賀
半十郎ほか,江川永脩九千六百七十五坪、
気賀
林六千六百四十三坪、間宮鉄次郎六千五百六十二坪、原良平四千四百八十四坪、
浜松市史 三
(百里園経営困難)
百里園経営困難 こうして百里園の経営は、ほとんど園長の
気賀
林の手に移っていった反面、その支出も甚しく,当時、このころまでに
気賀
林個人が投じた金額は三万余円に達したのに、明治九年より十一年までの収入は四千七百余円
浜松市史 三
(乗合馬車 浜松馬車会社)
乗合馬車 浜松馬車会社 【二十九年
気賀
鹿島】郵便馬車についてはすでに述べたが(第二章第四節第四項,浜松に設立された速里軒と共通馬車会社という二つの乗合馬車会社の共同経営で発足、往復区間は浜松・
気賀
間一日八往復
浜松市史 三
(浜松案内書)
また郷土の歴史を紹介した人に白柳秀湖(武司、明治十七年引佐郡
気賀
村生、昭和二十五年没、六十七歳)がある,と歴史』(昭和九年刊、千倉書房)には「姫街道と三方原」があり、曳馬の萩・細江のみおつくし・宗良親王・
気賀
関所
浜松市史 ニ
(近藤氏)
藺草は宝永地震のさい高潮の被害をうけた泥田を起返して潮入田に適合した植物として移植したのがはじまりで
気賀
村,
気賀
(きが)村寸座(すんざ)豊田家の安永三年(一七七四)記録に、この地方の地頭近藤縫殿助(旗本)が「江戸
浜松市史 三
(姫街道)
しかしそののち、浜松神明で東海道国道と別れ、榎町(えのきまち)(紺屋町の一部)・紺屋・高・名残から三方原を経て
気賀
,を終点とする県道静岡
気賀
線が大正八年に新姫街道と指定された。
浜松市史 一
(宗良親王遠江下向)
引佐郡細江町
気賀
を中心とした井伊をふくむ
気賀
荘(けがのしょう)は、はじめ七条女院領で、後醍醐天皇に伝えられる
浜松市史 ニ
(塩専売権の紛争)
古くは慶長八年(一六〇三)十二月、三州塩の
気賀
(細江町)に入るのを禁じ浜松塩の入荷を保護しているし(「,このとき塩町は、古来から当町は宇布見・山崎・篠原三か村の塩を買い取って塩市をたて「天竜川・今切・
気賀
・,【三州塩】また享保十四年(一七二九)十一月にも
気賀
町(引佐郡細江町)衆が三州塩を売買したとして抗議している,(『
気賀
河合文書』)。
浜松市史 ニ
([伊能忠敬の測量])
浜名湖東部の篠原村・入野村・佐鳴湖を測量、同夜は入野村竹村又右衛門方に泊り、十九日から二十八日まで佐浜・
気賀
,この測量には浜松宿町方同心・
気賀
関所役人、そのほか各村の庄屋・組頭等が協力している(『三ケ日町史資料』
浜松市史 三
(浜松地方と三河を結ぶ鉄道案)
大正九年の三河国(愛知県)国府から浜名湖北岸を経て浜松へ至る東海道電気鉄道計画も、昭和二年に浜松・
気賀
間,は浜松鉄道により、
気賀
(大字広岡)から三ケ日・石巻村を経て豊橋に至る遠三鉄道株式会社計画もその一つであった
浜松市史 三
(開墾方法 開墾の内紛)
するという大規模な案には反対(「浜松県記録」『浜松市史史料編六』)で、「此園開墾ノ事ニ就テ明善、正園長(
気賀
,【明善辞職】しかしその説は
気賀
林らに容れられず、七年四月
気賀
林が十八丁目の自園六反五畝に茶の播種を実施,【士族不満】このとき、その辞職を許した県令の処置および
気賀
林に対し、明善を支持する間宮鉄次郎ら士族たちの,そんなこともあって、経営の実体は士族から「三民」側ことに
気賀
林一族に移っていったというのが実情であった
浜松市史 ニ
(間野桂山)
【岩井半十郎】岩井半十郎(一八一〇-一八八三)、のち
気賀
と改姓)は
気賀
(引佐郡細江町)の名家で、文久二年,このうち遠江では横須賀・浜松・二俣・
気賀
・佐浜・安間・山梨・掛川・三沢等の数が多く、なおその人名から察,杉山清一 岡部村 初段 渋谷鉄蔵 駿府 初段 天野伊佐吉 江尻 初段 岩井半十郎
気賀
,〃〃 7月 自16日 10日間 会錫寺 14 120 7 至25日
気賀
村
浜松市史 三
(共和園規則)
共和園の出資者と開拓予定地は、
気賀
林一町歩、同半十郎一町歩、同鷹四郎一町歩、二反歩間宮鉄次郎、二反歩原良平,四畝歩長命清発、三畝歩設楽清弘、三畝歩小西政敬、三畝歩三田村長章、二畝歩小池鋭五郎と合せて十三名、三町七反歩で、
気賀
一族,【三方原学校】三方原学校が三方原に住む士族たちの寄付金(
気賀
敬太郎・間宮鉄次郎・宗田熊吉・原良平・坂本太郎
浜松市史 一
(神明社 但木神明社の掛仏)
大家末時」 但木神明社掛仏背裏(引佐郡三ヶ日町 只木神明宮蔵) 【
気賀
荘, 大家氏 浜名氏 県氏】只木のあたりは、
気賀
を中心とする引佐郡伊福(いふく)郷に属していた。,これが荘園化して
気賀
荘になる。七条女院領であった。
/ 4ページ