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浜松市史 三
(気賀林の建白)
気賀林
の建白 駿府藩が藩の殖産興業政策として渋沢栄一(篤太郎)を起用して商法会所を静岡紺屋町に開業したのは,このとき
気賀林
はその旅宿川口左又郎宅に呼出され「商法御尋」につき意見を尋ねられ、つぎのような建白書を提出,
気賀林
(文化七年気賀村竹田家に生れ、気賀家に養子し同家を復興。,岩井林右衛門、通称半十郎、諱は宜徳、淡庵と号し明治四年
気賀林
と改名、明治十六年四月没、七十四歳)は引佐郡気賀村,
気賀林
/
気賀林
の建白
浜松市史 三
(気賀林の実権把握)
気賀林
の実権把握 【茶樹植付】こうして県令林厚徳の支持によって三方原の茶園経営の実権は
気賀林
らに移り /
気賀林
の実権把握
浜松市史 三
(気賀林全盛時代 百里園風光)
気賀林
全盛時代 百里園風光 けだしこのころが
気賀林
のもっとも得意の時期であったといえよう。,【十四年】また
気賀林
は十四年三月に拝謁と県令の視察を記録して『百里園風光』を刊行している。 /
気賀林
全盛時代 百里園風光
浜松市史 三
(気賀林の三方原開発案)
気賀林
の三方原開発案 つづいて四月になると長上・敷知(ふち)・浜松付の地方役所の長山晋之助及び滝口小一郎宛 /
気賀林
の三方原開発案
浜松市史 三
(借家建築)
借家建築 この間に、
気賀林
持の借家の建築も進められた。,また
気賀林
の割渡しを受けた地内へ刑部(おさかべ)村大谷新田の利吉のように自己負担で建築し、水油・煉油・,
気賀林
自身も居宅新築の計画を立てている。 ,こえて二十五日には浜松調所より
気賀林
に合計千七百十八両三分(二五棟代一六五六両一分、井戸二〇かけ代六二両二分
浜松市史 三
(開拓の進捗)
なおこのとき井上八郎・田村弘蔵の両名は気賀往還通四丁目から十三丁目までの借地権を、
気賀林
は同通の十四丁目,これを
気賀林
は「大歓喜老衰之困苦忘却」と言っている(なお、この月、
気賀林
は「御布告ニ付」、岩井林右衛門
浜松市史 三
(士族の離散 如鉄社と茶園分割 士族農民分離)
【
気賀林
死去】この年十五年三月
気賀林
はその長子半十郎(明治十二年引佐麁玉郡長、同十四年敷知長上浜名郡長,、第二十八国立銀行取締役)を失ったが、十六年四月二十三日に
気賀林
も死去した。,【
気賀林
碑】なお
気賀林
の碑は明治二十四年五月に建てられ「三富翁之碑」といい、三方原に現存している。
浜松市史 三
(入植の困難)
このとき
気賀林
は、この長家を気賀往還筋に「五十棟追分西」「五十棟壱里塚西」へ建築されたい、と浜松調所へ,しかし御長屋取立は実際には困難のことだったらしく、翌四年二月には気賀往還通の二丁目・三丁目および
気賀林
,故に一都会をなせり」といっているが、実際は
気賀林
が最初意図したような気賀道(姫街道)に沿う町作りは進行,三方原開拓部分図(
気賀林
宅及び学校敷地付近)
浜松市史 三
(士族の状況 開墾許可)
【六年 園長
気賀林
】さて三方原の開墾は浜松県が静岡藩より引きついだ最大の課題でもあったので、県令林厚徳,はこの開墾願を可納し、同年十一月二十七日付をもって全員十名を開墾御用係に、さらにその中より十二月三日
気賀林
,園副長辞令 明善は、当時
気賀林
と間宮鉄次郎との間に意志の疎通に欠くものがあったので、この任命につき
浜松市史 三
(移住開始)
御長屋新築に尽力したのは
気賀林
のみではなかったのである。,こうして移住は続々始まり、また十七丁目に鷹四郎(
気賀林
の子)屋敷、十八丁目に
気賀林
の借家一棟(桁行一〇,移住の「三民」十八名(
気賀林
借家人弥三郎など一五名、井上・田村地内借家人三名)も「御目通」を許された。
浜松市史 三
(横田保の三方原開拓進言)
横田保の三方原開拓進言
気賀林
のあとをうけた横田保は鋭意茶園の経営に専念することになるが、保と茶園との,明治六年七月浜松県令林厚徳町村学校巡視の際、三方原にいたり横田保氏に此処に茶園を経営すれば有望ならんと語ら」れたので「保氏は
気賀林
浜松市史 三
(開拓着手)
二十三日には三方原御用掛として静岡藩の生育方取締飯高七之丞、同介赤林立之助、調役地方掛長山晋之助の三名が
気賀林
,早速開拓に着手することとなり、開拓掛は
気賀林
の宅に出張し、気賀村大工(粂蔵・万吉・国松)黒鍬(小平・亀次,二十七日には三方原開拓掛岩井林右衛門(
気賀林
)の名をもって、刑部(おさかべ)・祝田(ほうだ)・瀬戸(せと
浜松市史 三
(堀留運河の計画)
堀留運河の計画 【
気賀林
献策】明治初年の士族授産につながる堀留運河の開掘も、このような運河開鑿(かいさく,)ブームにのったもので、
気賀林
(りん)によればこのときの開掘計画の実現は、己れが明治二年二月浜松宿川口左又郎方,しかし、二年正月に着任したばかりの井上に土地の事情が分る筈もなく、
気賀林
がその相談相手になった。,【浜松商人】会するもの浜松勤番組頭井上八郎・同副田村弘蔵をはじめ
気賀林
などで(浜松奉行所は明治二年九月廃止
浜松市史 三
(百里園茶製所 三方原救貧院)
百里園茶製所 三方原救貧院 これよりさき、
気賀林
は明治八年一月三方原に新居をかまえ、ここで百里園の事務,明治十一年十一月一日明治天皇東幸の途次、浜松行在所(あんざいしょ)(第二十八国立銀行)で三方原開拓の功をもって
気賀林
,【祝賀会】五月八日大迫貞清は石黒務書記官とともに
気賀林
の招きで百里園を訪れたが、茶摘女・耕男千百人余で
浜松市史 三
(開墾願提出)
開墾願提出 【士族 平民】さて士民合同の共同開拓は
気賀林
を中心として協議を重ね、
気賀林
・間宮鉄次郎・
浜松市史 三
(百里園経営困難)
百里園経営困難 こうして百里園の経営は、ほとんど園長の
気賀林
の手に移っていった反面、その支出も甚しく,当時、このころまでに
気賀林
個人が投じた金額は三万余円に達したのに、明治九年より十一年までの収入は四千七百余円
浜松市史 三
(改名と苗字の許可)
気賀林
右衛門が
気賀林
に金原久右衛門(明善)が久平に高林維兵衛が維平と改めたのもその例である。
浜松市史 三
(第三十五国立銀行)
【
気賀林
】その夜は第二十八国立銀行に宿泊され、翌十一月一日陸軍少尉大平正修と浜松支庁判事千谷敏徳を謁見,、特に中村孫太郎(戊辰・西南戦争戦功者)と
気賀林
を召して奉拝を許した。
浜松市史 三
(開拓反対 開拓の本格化)
開拓反対 開拓の本格化 そこで
気賀林
は二十二日井上八郎に二十五棟はすでに普請進行中でその経費も立替払,結局は再開拓と決定、十月二日中尾金平、阿部藤一郎の再見分となり、
気賀林
は普請方と士族移住の諸世話下掛りを,これは井上八郎・田村弘蔵・岩井宜徳(
気賀林
)の名にちなんだものである。
浜松市史 三
(開墾方法 開墾の内紛)
【明善辞職】しかしその説は
気賀林
らに容れられず、七年四月
気賀林
が十八丁目の自園六反五畝に茶の播種を実施,【士族不満】このとき、その辞職を許した県令の処置および
気賀林
に対し、明善を支持する間宮鉄次郎ら士族たちの,そんなこともあって、経営の実体は士族から「三民」側ことに
気賀林
一族に移っていったというのが実情であった
浜松市史 三
(共同計画)
【士族側 平民側】「士族」側は間宮鉄次郎・原良平、「三民」側は
気賀林
・横田保などがその代表者である。
浜松市史 三
(第一期開拓)
これについては士族方の記録はいっさい伝わらず、民間側の
気賀林
の『三方原開拓記録』(上中下三巻。
浜松市史 三
(新茶製産の成功)
このときに浜松県令林厚徳は酒肴を送りこの労を慰い、八月には
気賀林
・間宮鉄次郎に賞金を与え、翌十年三月静岡県
浜松市史 三
(浜松誘致 士族と国立銀行)
浜松誘致 士族と国立銀行 国立銀行の浜松誘致は、
気賀林
・気賀半十郎・横田保・青山宙平(磐田郡中泉村、,【井上延陵】頭取は士族の井上延陵、最高出資者の平民
気賀林
は副頭取であった。
浜松市史 三
(開拓の延期)
驚いた
気賀林
は人夫差出方の中止を指令するとともに、七月二十日付をもってこのたびの三方原開拓の理由は「素
浜松市史 三
(士族困窮 士族四散)
士族困窮 士族四散 以上は主として
気賀林
の開拓記録によって述べてきたのであって、林の関係した事項についてはその
浜松市史 三
(小区長 間宮鉄次郎)
まだ武士の勢力が残存していた時代で
気賀林
でさえも鉄次郎を「懼るゝこと甚し」(『金原明善手記』)かった、
浜松市史 三
(三方原沽券地改正絵図 三方原の村名)
三方原沽券地改正絵図 三方原の村名 こうして
気賀林
を主とする三方原茶園経営は終り、第三期の横田保の時代,一万五百四坪で最小は百坪、六百坪以上が百十一名、二千坪以上は十九名で、気賀半十郎ほか江川永脩九千六百七十五坪、
気賀林
六千六百四十三坪
浜松市史 三
(農業の発達)
農業の発達
気賀林
・横田保はすでに亡く、士族のほとんどが四散したこの期は、この不毛の地に根をおろし額
浜松市史 三
(三方原開拓と時代区分)
明治二年十二月)の授産のために民間とともに、いわゆる官民共同の相で開拓を推進した時代で、第二期は浜松県のもとで
気賀林
浜松市史 三
(明善と間宮鉄次郎)
【馬鈴薯植付】これより先の明治四年四月に
気賀林
は三方原十八丁目百五十坪に馬鈴薯を植付けているが、その結果
浜松市史 三
(開発許可 士族授産)
御取立」すなわち士族五百戸を三方原に移住させるとともに、「農工商三民」の取立、つまり平民の移住については
気賀林
浜松市史 三
(井上八郎)
多くの移住士族が離散するうちに政商
気賀林
などと結んで堀留運河を経営、第二十八国立銀行の頭取に就任(後述
浜松市史 三
(費用出資)
四百五十両宛が
気賀林
・横田保・平野又十郎・村越伊平の四名、その他に渥美久四郎・棒屋藤吉・笠井屋・小野江善六
浜松市史 三
(共和園規則)
共和園の出資者と開拓予定地は、
気賀林
一町歩、同半十郎一町歩、同鷹四郎一町歩、二反歩間宮鉄次郎、二反歩原良平
浜松市史 三
(緑茶伝習所 経営困難)
[図] 保(天保三年八月生、保兵衛、
気賀林
の親戚)は、明治四年(一八七一)、出身地の内野(うちの
浜松市史 三
(茶業組合 共同組合)
功労者に
気賀林
・横田保をはじめ前記樋口林治郎・織田利三郎(浜松田町)・中村吉太郎(和地村和地)などがあった
浜松市史 三
(学区制)
番 村名略す 略 敷知郡 16小区 古橋庄九郎 130番 858 谷上村 伊左地村
気賀林
,呉松村 138番 545 平松村 17小区 新村八郎 139番 984 白須村
気賀林
浜松市史 三
(写真・図版目次)
浜松市神田町 自治会蔵) 六七 三方原開拓記録 (浜松市立中央図書館蔵) 六九
気賀林
, 七〇 三方原開拓概念図 七四 三方原開拓部分図(
気賀林
宅及
浜松市史 三
(目次)
六九 第一期の計画 開拓の実施 第二期
気賀林
台地と水と輝き:わが町文化誌
(浜松市立高台公民館『台地と水と輝き:わが町文化誌』 目次)
(三)奈良・平安時代 11 (四)鎌倉・室町・戦国時代 11 (五)江戸時代【岡村義理
気賀林
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