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浜松市史 三
(河合楽器)
河合楽器
【河合小市】また技師長として山葉寅楠を援け、日本楽器株式会社の発展に尽してきた河合小市(浜松上新町明治十九年一月生,、昭和三十年十月没、七十歳)が独立して
河合楽器
研究所(当市寺島町)を設立したのは昭和二年八月であった。,河合のあとを追い日楽を退社した七人の人々の協力もあって、四年六月には
河合楽器
製作所と改名、日本楽器とならぶ,その他に七年以降には日本楽器や
河合楽器
に関係した人々にであったより、千代田・遠州・富士・浜松・三葉等の,とともに飛行機部品・グライダー・プロペラ・燃料補給タンク等の軍需品生産に転換したが、この間も日本楽器・
河合楽器
両社 /
河合楽器
浜松市史 四
([社会人野球とプロ野球])
[社会人野球とプロ野球] 【社会人野球 都市対抗野球】 折からの野球ブームに乗り、
河合楽器
に軟式野球部,昭和三十年になると、浜松には国体代表となったヤマヤ醸造、天皇杯争奪全国軟式野球で第三位となった
河合楽器
,この中で
河合楽器
は浜松市代表として県の大会に出場した。,
河合楽器
は社会人野球の最高峰である都市対抗野球大会への出場を目指し、昭和三十一年九月に硬式野球部をつくった,日本楽器は
河合楽器
の硬式野球部発足を受けて、昭和三十三年に全日本楽器硬式野球部(全日楽)を誕生させ、
河合楽器
浜松市史 五
([労働運動の模索])
[労働運動の模索] 【JMIU河合連合支部】 戦後間もなく発足した
河合楽器
製作所の労働組合は昭和三十年,このような中、同四十三年には労使協調路線の全金同盟
河合楽器
労働組合が誕生した。,全金同盟
河合楽器
労働組合は連合系のゼンキン連合カワイ労働組合となった。 ,平成の長期不況下にあって、
河合楽器
製作所は平成七年に一部の工場を縮小、閉鎖することを決め、七百人近い従業員,みんなの会」の結成総会を
河合楽器
製作所の本社内にある厚生年金基金会館で開催した。
浜松市史 五
([企業のスポーツ活動])
[企業のスポーツ活動] 【
河合楽器
体操部 日本楽器 黒獅子旗 日本楽器卓球部 鈴木自動車工業陸上競技部,
河合楽器
製作所で体操部が発足したのは昭和三十六年、同三十年代の後半には国体で優勝するまでになった。,
河合楽器
体操部の名前が知れ渡ったのは塚原光男の活躍である。,日体大在学中に出たメキシコオリンピックでは男子団体総合優勝、
河合楽器
に入社後はミュンヘン、モントリオール,ローマオリンピックの体操で団体総合優勝した鶴見修治が
河合楽器
の監督に就任、以後、
河合楽器
の体操部は素晴
浜松市史 四
(富士楽器製造)
野田は日本楽器や
河合楽器
で技術を習得し
河合楽器
から独立した。
浜松市史 四
([楽器生産の開始と中小楽器工場の設立])
[楽器生産の開始と中小楽器工場の設立] 【楽器産業 日本楽器
河合楽器
新しい楽器工場】 戦時中,、浜松の楽器産業は軍需品生産へ傾斜し、日本楽器はプロペラ生産が主力になり、
河合楽器
も航空機用の補助タンク,
河合楽器
は、昭和二十年十月、ハーモニカの生産を開始し、翌年には米軍向けの家具やラジオキャビネット、アコーディオン,製造開始 日本楽器製造株式会社 浜松市中沢町 ピアノ、ハーモニカ、オルガン、 アコーディオン、ギター
河合楽器
製作所
浜松市史 四
(アトラスピアノ製造)
日本楽器や
河合楽器
は、もともと部品の内製率が高かったのに対し、中小メーカーの場合は、初めから組み立てだけを,なぜなら、この時期は日本楽器・
河合楽器
の二大メーカーが量産体制を確立する時期で、生産コストを下げるためには
浜松市史 三
(学校工場 勤労令 授業停止)
浜松北高等学校八十年史』)、西遠女学校では一年生は校庭で畑を作り、二年生から四年生までは東京無線・遠州織機・
河合楽器
,紡績 49 富士紡績工場 駿東郡小山町 建築 50 土木・農作業手伝い 図案 50
河合楽器
,浅野重工 〃中島町 浜松農蚕 援農作業 北海道援農中死亡1 浜松商業 浜松商業 5 140
河合楽器
製作所,生徒29,職員1死亡 淑徳高女 4 75 東洋木工KK 〃 海軍暗号製作(海軍駐屯) 3 50
河合楽器
浜松市史 四
(東洋ピアノ製造)
石川は日本楽器と
河合楽器
で十年間ピアノの製造技術を修得した。
浜松市史 五
(楽器産業)
他方、二番手の
河合楽器
も舞阪工場を整備拡充し、月産三千三百台から五千台のピアノ増産体制を作り上げた。,これに対して
河合楽器
は直営店を全国に開設し販売拡大を行った。,また
河合楽器
も月平均二百台を輸出していた。,それに対して、ピアノの量産化に成功し国際競争力を獲得した日本楽器や
河合楽器
は海外での需要を順調に伸ばすことが,一方、
河合楽器
も体育用品や家具の生産・販売を開始している。
浜松市史 四
(大橋ピアノ研究所)
アクション部品は
河合楽器
から独立した今出川ピアノアクション製造(株)から購入し、月産十二台程度を生産していた
浜松市史 四
([急増する楽器生産])
【
河合楽器
】
河合楽器
は昭和二十六年に株式会社に改組し、その後増資を続け、昭和三十年,この時期(昭和二十年代後半~三十年代前半)の楽器生産の拡大は、日本楽器と
河合楽器
の二大メーカーの増産だけでなく
浜松市史 五
(吹奏楽団)
このほかにかつては
河合楽器
吹奏楽団があった。,社内の野球関係者の間から、河合との定期戦に備えて、
河合楽器
を抜くようなバンドを作りたいとの動きが起こり,【
河合楽器
吹奏楽団 天方吹奏楽団 浜松交響吹奏楽団】 当地方における、民間企業による吹奏楽団としては,、既に記したように、ヤマハよりも先に誕生し活躍していた
河合楽器
吹奏楽団があったが現在は活動が見られない
浜松市史 五
(電気・電子楽器)
・電子楽器 【日本楽器製造 LSI ヤマハ株式会社】 他方、構造不況下にあっても日本楽器製造と
河合楽器
製作所,また、
河合楽器
も、昭和五十七年日本IBMと特約店契約を結び、IBMのオフコン販売拠点「カワイシステムセンター
浜松市史 五
([企業スポーツの盛衰])
[企業スポーツの盛衰] 【ヤマハ野球部
河合楽器
硬式野球部】 ヤマハ野球部は昭和五十六年以降十二年連続,ヤマハと並んで都市対抗野球出場の常連であった
河合楽器
硬式野球部は平成十三年七月に開かれた第七十二回都市対抗野球大会
浜松市史 五
(社報)
既に百号を突破した日本楽器の豪華版、同じ楽器界で
河合楽器
、鈴木自動車工業、本田技研工業、そして遠州鉄道,以下、遠州鉄道、本田技研工業、小田工芸社、
河合楽器
の四社の社報の詳細を伝えている。
浜松市史 三
(最初の夜間空襲)
動員生徒の犠牲】西遠女学校では四月三十日、五月十九日の両日にわたり動員生徒二十九名と引率職員一名が市内の
河合楽器
浜松市史 五
(駅前整備)
特に浜松駅前ビルは地下二階、地上八階の巨大なビルで、三菱信託銀行や
河合楽器
製作所の音楽教室などが入り、
浜松市史 五
(海外生産)
地域の大手企業であるであるヤマハ発動機、日本楽器製造、
河合楽器
製作所、鈴木自動車工業が海外に設置した生産,一方、
河合楽器
製作所は昭和五十六年一月時点で販売会社をヨーロッパと北アメリカに四社持っていたが、生産会社
浜松市史 五
(ピアノ オルガン)
日本楽器製造を頂点にして
河合楽器
製作所がそれに続き、この二社が大手メーカーとして君臨してきた。,さらに、日本楽器製造、
河合楽器
製作所に次ぐピアノメーカーであったアトラスピアノ製造も、昭和六十一年事実上倒産
浜松市史 三
(救護活動 戦災対策本部)
分団 寺脇町 ⑳ 〃第14分団 神立町 21 〃第15分団 野口町 22 〃第16分団 鴨江町 23
河合楽器
浜松市史 五
([オリンピックと国民体育大会])
この大会で
河合楽器
体操部の松永政行と知念孝は体操の男子団体で三位に入り、銅メダルを獲得して浜松に凱旋した,が、少年女子新体操では浜松市立高校の村上奈緒、小野嘉巳、福澤由佳選手を含むチームが、体操成年男子では
河合楽器
浜松市史 五
([プロムナードコンサートの開催])
発足当時の参加団体は、浜松商高、浜松工高、中部航空音楽隊、浜松市消防音楽隊、ヤマハ吹奏楽団、
河合楽器
吹奏楽団
浜松市史 四
([楽器会社による音楽教室])
ヤマハの成功に刺激される形で、
河合楽器
も昭和三十一年からカワイ音楽教室を開設し、直営の事業として運営を
浜松市史 三
(二月の空襲 三月の空襲)
つづく二十五日には
河合楽器
本社をはじめ市の東部から南部(馬込・相生・海老塚・寺島・助信)へかけて爆弾・
浜松市史 四
(海外視察)
河合楽器
の河合滋社長は昭和三十三年から三十四年にかけて市場調査のために東南アジア各国と南北アメリカを、
汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌
(浜松市立南部公民館『汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌』 目次)
の話】 90 【旭日写真工業 大日本セルロイド 富士フィルム 遠産製氷 南小学校】 91 (四)
河合楽器
,地震・空襲・艦砲射撃 【東南海大地震】 102 (九)女子高校生殉難の記録 【浜松女子商業
河合楽器
,】 103 【西遠高等女学校
河合楽器
鈴木織機】 106 (十)空襲の想い出 【海老塚町】
浜松市史 四
([貿易の再開と生産の増加])
シンガポール、アフリカ、オランダ、香港、その他 2 ピアノ 10台 未完 関係工場 日本楽器、
河合楽器
浜松市史 五
([企業の電子計算機の導入])
各産業での普及状況を見ると楽器業界では日本楽器が昭和四十年五月にIBM40型を、
河合楽器
は同四十一年二月
浜松市史 三
(物品販売業)
竹内店 肴 〃 棒四郎 田 〃 中屋万年筆店 連尺 楽器 ●日本楽器製造株式会社 中沢町 連尺町 〃 ●
河合楽器
製造所
浜松市史 五
(浜松地域テクノポリス)
そのほか、主な分譲区画は、進出内定第一号の高岳製作所(本社・東京都)で五・三ヘクタール、
河合楽器
製作所,一般機械器具製造業では庄田鉄工と平安コーポレーション、楽器産業では
河合楽器
製作所、輸送用機械器具製造業
浜松市史 五
([変動相場制への移行と経済界])
同様の事態は楽器業界でも見られ、大手二大メーカー(日本楽器・
河合楽器
)は利益を減少させていった。
浜松市史 三
(四月と五月の空襲)
頭陀寺・龍禅寺・齢松寺等が炎上し、芳川・龍禅寺・佐藤・元城の国民学校、誠心高等女学校をはじめ元城幼稚園や
河合楽器
浜松市史 五
([春闘と労働運動の活発化])
23日:
河合楽器
系列4労組、賃上げ半日スト。,4月 3日:
河合楽器
労組、賃上げ要求スト(7日も)。
舞阪町史 下巻
(舞阪町史 下巻 目次)
運営方法 第三節 資金・区画整理計画とその背景 641 資金計画策定の経緯 区画整理計画決定の経緯
河合楽器
舞阪工場
浜松市史 四
([労働組合の結成])
、三月には遠州織機、日本形染、遠州鉄道、専売局、富士紡鷲津、日清紡浜松、四月には日通浜松、大和染工、
河合楽器
浜松市史 五
([各産業の変化と新動向])
によって新機能や新製品の開発が可能、③東南アジアなど海外市場の拡大が望めるといった利点から、ヤマハ、
河合楽器
製作所
浜松市史 五
([警職法・安保闘争と労働条件改善への取り組み])
また、この高度経済成長期は、浜松地区では多くの楽器メーカーやオートバイメーカーが日本楽器製造、
河合楽器
製作所
浜松市史 五
(主な参考文献)
協同組合浜松卸商センター 『遠州機械金属工業発展史』 浜松商工会議所 『社史』 日本楽器製造株式会社
河合楽器
製作所創立,70周年記念誌『世界一のピアノづくりをめざして』
河合楽器
製作所 『五十年史』・『六十年史』・『七十年史
浜松市史 五
(各種学校)
音楽関係ではカワイ中央音楽学園(
河合楽器
製作所本社内)があった(図2―24)。
浜松市史 四
(主な参考文献)
『楽器産業と地域経済』静岡県立大学短期大学部経済学研究室 『40年史』鈴木自動車工業株式会社
河合楽器
製作所創立,70周年記念誌『世界一のピアノづくりをめざして』
河合楽器
製作所 『遠州機械金属工業発展史』浜松商工会議所
浜松市史 四
([メーデーの復活と争議の激化])
鈴木式織機、二十三年には浜松東宝劇場、二十四年には浜松楽器、日本度量衡、三協機械製作所、そして二十五年には
河合楽器
製作所
浜松市史 五
([地域工業の成長と構造変化])
自動車、工作機部品 安間鉄工所 木工、一般機械部品 (有)塚本製作所 超硬バイト
河合楽器
部品製造
浜松市史 五
([浜松地域テクノポリスと企業誘致])
マーキングペン応用の新素材の研究 浜松ヒートテック 浜松 セラミックスの研究
河合楽器
製作所
浜松市史 五
([現代総説(下)])
楽器産業は、戦後の平和産業への移行に伴い息を吹き返し、日本楽器製造と
河合楽器
製作所を軸に多くの楽器メーカー,その後、ピアノやオルガンといった伝統的な楽器の生産量を減少させていったが、日本楽器製造と
河合楽器
製作所
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