• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 参照データ一覧

浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 290件
辞書ファセット
/ 6ページ
浜松市史 一 (浜名湖)

浜名湖 浜名湖は土地が局部的に沈降し、谷の中へ海水が進入してできたものである。,その浜名湖の北から西へかけて、愛知県との境では、赤石山脈のつづきの古生層からできた松山が、なだらかな老年期地形 / 浜名湖
浜松市史 ニ (浜名湖畔)

浜名湖畔 浜名湖畔では古くから湖面漁業が行なわれていた(「三浦文書」『湖西の文化』第十四号)。,しかし浜名湖は今切関所をおくほどの交通の要地であったから、関所より許可手形を受ける必要があった(「鳥浦,【内浦禁漁区】大沢領堀江村の内浦(浜名湖支湾)は禁猟区であったが、宝暦十二年(一七六二)十二月堀江漁民 / 浜名湖畔
浜松市史 三 (浜名湖高潮)

浜名湖高潮 大正元年九月二十二日 浜名湖高潮・浸潮区域、和地・佐浜・伊左地・大人見・古人見・白洲・平松,大正七年九月二十四日 和地村では浸潮区域二十三町歩、浜名湖の高潮(海嘯)は老人さえも五十年来という七尺 / 浜名湖高潮
浜松市史 三 (浜名湖岸)

浜名湖岸 浜名湖岸 藻草(もぐさ)・鰻(うなぎ)・鯔(ぼら)・鯉(こい)・蝦(えび)などを産し、そのうち / 浜名湖岸
浜松市史 五 (浜名湖周遊道路)

浜名湖周遊道路 【浜名湖大橋】  浜名湖周遊道路の第二期工事として、昭和四十二年六月に弁天島─村櫛間,に浜名湖大橋(総延長七・六キロメートル、橋梁部分は一・六キロメートル)建設計画が明らかにされ、湖底の地質調査,舘山寺・弁天島間は約五十分から約十五分に短縮され、浜名湖の観光面に大きな役割を果たすことになった。,図3-40 浜名湖周遊道見取図  また、昭和四十八年九月一日には、国道一号線から観月園を経て浜名湖大橋,この道路は、浜名湖大橋に接続する道路として昭和四十九年二月に着工された。 / 浜名湖周遊道路
浜松市史 五 (浜名湖周遊道路)

浜名湖周遊道路 【多米トンネル】  東名高速道路の建設が決まり浜名湖観光が脚光を浴びるようになると,このため県は、昭和三十七年度に調査費を計上、地元市町村や観光業者などと共に浜名湖周遊観光道路建設協議会,ほぼ並行して、瀬戸─大草山付近を結ぶ有料道路、通称浜名湖レークサイドウェイが計画されたが技術的および資金的問題,【浜名湖観光汽船 遠鉄観光汽船 浜名湖遊覧船】  なお、湖上の汽船として、浜名湖観光汽船(株)(鷲津,昭和四十五年二月に、伊豆箱根鉄道系列の浜名湖遊覧船(株)が設立されたが、同五十二年には浜名湖観光汽船は / 浜名湖周遊道路
浜松市史 五 (天竜浜名湖鉄道)

天竜浜名湖鉄道 昭和六十一年八月、国鉄に代わる事業主体として第三セクターの天竜浜名湖鉄道株式会社(資本金六億三千万円,運輸審議会は、同年十一月、二俣線の運営を引き継ぐ天竜浜名湖鉄道会社と、線路、駅舎などの無償譲渡についての,こうして、昭和六十二年三月十五日に天竜浜名湖鉄道株式会社が開業した。  ,【レールバス】  天竜浜名湖鉄道では、それまでの気動車に代わって小型ディーゼルカー「レールバス」が運行,なお、開業とともに気賀高校前駅とアスモ前駅が新設され、昭和六十三年三月には奥浜名湖、浜松大学前、円田、 / 天竜浜名湖鉄道
浜松市史 三 (浜名湖巡幸)

浜名湖巡幸 翌六月一日は浜名湖の風光をめでられつつ養鰻場を見学、官幣(かんぺい)中社井伊谷宮(祭神  / 浜名湖巡幸
浜松市史 五 (浜名湖の水質浄化)

浜名湖の水質浄化 【水質浄化装置】  浜名湖(行政上では都田川)は佐鳴湖と違い今切口を通じて大量の,昭和四十年六月二十一日には浜名湖周辺の十市町村と商工会議所、商工会、農協や漁協が加わって浜名湖の水をきれいにする,このため静岡県水産試験場浜名湖分場は養殖カキ殻の再利用を模索していた浜名湖カキ殻処理対策協議会と共に、,、浜名湖の水質浄化と景観保全の願いを込めてのものであった。,検証に入り、浜名湖の浄化に取り組むことになった。 / 浜名湖の水質浄化
浜松市史 五 (浜名湖漁業)

浜名湖漁業 浜松市の全産業に占める水産業の地位はさほど大きなものではないが、昭和五十二年度の生産額は,浜松市の水産業は浜名湖における漁業が中心で、海面漁業、浅海養殖漁業、内水面養殖漁業の三つから成り立っている,厳しい環境に置かれている浜名湖の漁業に対して様々な振興策が採られた。,一方、海面漁業の振興策として浜名湖地区漁場造成事業が、昭和四十九年度から同五十一年度にかけて実施された / 浜名湖漁業
浜松市史 三 (浜名湖と船運開く)

浜名湖と船運開く 【新所 定期航路 五年五月】新所出身伊藤安七郎(明治三十三年建てられた彰功碑が湖西市,にある)の経営する新所渡船会社と提携が成って、船が浜名湖を横断しその西岸の新所(日の岡)にまで通じたのは,翌五年の五月であって、これによって名実ともに浜名湖船運の便が開かれた。 / 浜名湖と船運開く
浜松市史 一 (浜名湖へ傾斜する地形)

浜名湖へ傾斜する地形 このように三方原は東が上がり、西が下がるような撓曲運動を起こして隆起した扇状地,ところが浜名湖をへだてて西方の天伯原は、その逆に、南に高く北に低く、したがって海に向かって急斜し、北へゆるやかに,とにかく三方原も天伯原もともに下降の方向を浜名湖心に向けている。,ここに浜名湖生成を解く鍵があるように思われる。 / 浜名湖へ傾斜する地形
浜松市史 四 (兵器の浜名湖投棄)

兵器の浜名湖投棄 部隊の仕事も最後という日、隊の兵器・鉄板等を兵士らがトラックで舘山寺まで運び、舟を,借りて浜名湖に投棄した(『浜松陸軍飛行学校の思い出』)。 / 兵器の浜名湖投棄
浜松市史 五 (浜名湖北部用水事業)

浜名湖北部用水事業 【ミカン園 都田川ダム】  昭和五十年、浜名湖北部地域に農業用水を安定的に供給,する目的で浜名湖北部用水事業がスタートした。,図3-31 浜名湖北部用水事業概要図 / 浜名湖北部用水事業
浜松市史 三 (浜名湖の水浜松に入る)

浜名湖の水浜松に入る 【四年七月】工事は予想以上の早さで進み、明神野川(在来悪水堀)をへて七月には入野川,入野川は佐鳴湖から流れ出て浜名湖へ通ずる川である。,かくて浜名湖の水ははじめて浜松へ通じたわけで、今まで浜名湖からの荷物は入野川土橋で陸上げをして浜松へ運 / 浜名湖の水浜松に入る
浜松市史 三 (浜名湖佐鳴湖の船運)

浜名湖佐鳴湖の船運 堀留運河の開通によって、新所ばかりでなく浜名湖や佐鳴湖などからも上新町の堀留船溜,たとえば庄内方面から陸路よりも浜名湖を船で運河に入り浜松へ出るのが便だったし、明神野村では川札によって / 浜名湖佐鳴湖の船運
浜松市史 一 (東は天竜川西は浜名湖)

東は天竜川西は浜名湖 このように浜松は周辺の村々を合併してその面積を拡張させているが、このひろがる面積,を自然環境の立場からみれば、東は天竜川、西は浜名湖という河湖に制約され、直接間接にこの河湖がいつでも強 / 東は天竜川西は浜名湖
浜松市史 四 ([浜名湖の干拓])

[浜名湖の干拓] 【村櫛村 南庄内村 村櫛干拓 伊佐見地区 伊佐見工区】  静岡県は緊急開拓事業として,、食糧の自給体制確立を目的に浜名湖一千町歩を干拓し、耕地化する計画を立てた。,浜名湖沿岸干拓事業のうち、村櫛村の干拓地は昭和二十二年六月に着工され、二十三年十二月に完成した。 / [浜名湖の干拓]
浜松市史 ニ (遠州灘浜名湖の高潮)

遠州灘浜名湖の高潮 【延宝期】延宝八年(一六八〇)八月六日には遠州灘海岸に大潮があり(福島町『山田家文書,』)、浜名湖岸にもしばしば高潮による被害があった。 / 遠州灘浜名湖の高潮
浜松市史 四 ([観光協会の設立と浜名湖の観光])

[観光協会の設立と浜名湖の観光] 【遠州観光協会 浜名湖夏祭 弁天神社祭礼 浜名湖県立公園 舘山寺観光協会, 舘山寺開発組合 海の家 八木橋周助 浜名湖観光汽船 舘山寺航路 連絡運輸 浜名湖ホテル 浜松市観光協会,浜名湖周辺の市町村や観光業者などの努力が実って浜名湖は二十五年五月十一日に浜名湖県立公園となり、脚光を,明治時代から運航していた浜名湖の巡航船の会社は戦後間もなく浜名湖観光汽船株式会社となり、昭和二十五年の,湖岸の道路が整備されていなかった昭和三十年代までは浜名湖観光汽船が浜名湖観光に果たす役割は極めて大きかった / [観光協会の設立と浜名湖の観光]
浜松市史 ニ (浜名湖の水路確保)

浜名湖の水路確保 【宇布見 中村家】氏真は、浜名郡宇布見(うぶみ)の土豪中村源左衛門に対し宇津山(うづやま / 浜名湖の水路確保
浜松市史 四 ([湖面漁業(浜名湖・佐鳴湖)])

[湖面漁業(浜名湖・佐鳴湖)] 【漁業協同組合 浜名漁業協同組合 佐鳴湖 入野漁業協同組合】  浜名湖,浜名湖の特徴は引佐細江・猪鼻湖・松見が浦・庄内湖の四つの入江と百二十八キロメートルに及ぶ長大な湖岸線を,従って、浜名湖ではそれぞれの漁場に見合った漁業が、古来より営まれてきた。,同法により各地に漁業協同組合が設立され、浜名湖海区では十六の漁協が誕生した(表2-34参照)。,佐鳴湖は二級河川である新川の中流部に位置し、満潮時には浜名湖の海水が遡上する汽水湖である。 / [湖面漁業(浜名湖・佐鳴湖)]
浜松市史 五 ([浜名湖国際頭脳センターの設立])

[浜名湖国際頭脳センターの設立] 【浜名湖国際頭脳センター】  地域産業の先端産業化を進める上で、,から支援する組織として、地域産業の高度化に寄与する特定事業の集積の促進に関する法律(頭脳立地法)による浜名湖国際頭脳,浜松地域集積促進計画の推進母体となる浜名湖国際頭脳センターは静岡県、浜松市、地域振興整備公団と民間企業二十社,同センターは、平成元年四月に創立総会を開催し、浜名湖頭脳公園と公園内の頭脳センタービルの建設計画を承認,浜名湖頭脳公園構想は調査研究機能と頭脳をリフレッシュするリゾート機能を併せ持つ環境を整備しようとするもので / [浜名湖国際頭脳センターの設立]
浜松市史 五 ([水産試験場浜名湖分場の新築とウォット])

[水産試験場浜名湖分場の新築とウォット] 【静岡県水産試験場浜名湖分場 ウォット】  静岡県における,明治四十三年に新居町の養殖部は廃止されたが、昭和九年には浜名郡舞阪町の弁天島蓬莱園に静岡県水産試験場浜名湖分場,新分場は浜名湖の地域特性を活かした淡水から海水までの総合研究と細菌やウイルス研究を通じて魚病センターの,さらに、「県民に開かれた研究機関」という理念から、同年八月に浜名湖体験学習施設・ウォットを併設した。,この施設には、浜名湖の自然や歴史をハイビジョンと立体音響で紹介する映像ホール、都田川や浜名湖で生まれた / [水産試験場浜名湖分場の新築とウォット]
浜松市史 四 ([湖面(浜名湖)漁業の実態])

[湖面(浜名湖)漁業の実態] 浜名湖は湖沼であるものの、漁業法上は一つの独立した海面と見なされ、共同漁業権一件,昭和二十九年当時の浜名湖岸十六漁業協同組合所属の漁船総数は、動力船三百四十一隻、無動力船二千九百六十五隻,  【袋網 囲目網 刺網 ウナギ筒】  浜名湖は外海から独立した海区であるため特色のある / [湖面(浜名湖)漁業の実態]
浜松市史 五 ([浜松コングレスパーク構想と浜名湖国際頭脳センター])

[浜松コングレスパーク構想と浜名湖国際頭脳センター] 【浜名湖コングレスパーク 浜名湖国際頭脳センター,科学技術研究所をはじめ、外国人研究者の住宅、室内スポーツ施設、ゴルフ場、マリーナなどを敷地内に備えた浜名湖,昭和六十三年になってコングレスパークの基本的な考え方は踏襲しつつも、頭脳立地法の適用による新しい浜名湖,その後、様々な協議が行われ、第三セクターによる株式会社浜名湖国際頭脳センターの発起人会が開かれたのは平成元年三月二十九日,この後、浜名湖頭脳センターの南側には広大なゴルフ場や大規模なホテルが建設されるようになった。 / [浜松コングレスパーク構想と浜名湖国際頭脳センター]
浜松市史 五 ([浜名湖パルパルのリニューアルと観光地の新たな取り組み])

【浜名湖パルパルのリニューアル】  浜名湖パルパルがある舘山寺温泉の宿泊客数は平成二年には約七十五万人,国民宿舎浜名湖かんざんじ荘の改築オープン。,66.8 9年度 浜名湖パルパル、リニューアルオープン。新キャラクター発表。浜名湖開 湖500,『浜名湖かんざんじおもてなしテキスト』発行。,国民宿舎浜名湖かんざんじ荘に民間公募の 所長が就任。 / [浜名湖パルパルのリニューアルと観光地の新たな取り組み]
浜松市史 三 (浜松師範の郷土教育)

【浜名湖研究】『郷土教育原論』(昭和八年刊)の著者長谷川藤太郎が校長の時代で、「環浜名湖の協同研究」を,研究主題とし、佐々木清治の『環浜名湖の人口流布』、飯尾哲爾『浜名湖付近の土俗について』、小栗源市『浜名湖,の生物相』などが発表されている(昭和七年八月、浜松師範学校「環浜名湖の協同研究」『郷土教育』特集号)。
浜松市史 四 ([うなぎ養殖])

[うなぎ養殖] 【服部倉治郎 中村源左衛門正輔 鰻養殖 浜名湖養魚漁業協同組合 浜名湖食品】  浜名湖,明治三十年(一九八七)、服部倉治が東海道線の車窓より浜名湖沿岸を鰻養殖の適地と認め、明治三十三年雄踏村,昭和の初期には、浜名湖湖岸の養殖池は六百ヘクタールに及び、鰻養殖の全盛時代を迎えた。,しかし、昭和二十三年ごろから急激な復興が始まり、二十四年の水産協同組合法に基づき浜名湖養魚漁業協同組合,が結成され(昭和二十四年十月十日設立登記)、戦後の消費の伸びと市場の拡大によって浜名湖の養鰻業が復興していった
浜松市史 一 (第一海進期 第二海進期 第三海進期 第四海進期)

三方原の生い立ちを考えてみると、最初の海進期に天竜川は東鴨江累層を堆積させ、つぎの海退期には天竜川は浜名湖付近,【古浜名湖】そして浜名湖付近には小河川の流入しかなかったために、かつての天竜川の開析谷に入江が生じていた,これが古浜名湖である。この入江に佐浜泥層が堆積した。,第三海進期には、浜名湖付近の沈降と海水面の上昇により現浜名湖に近似した入江がつくられ、ここに西気賀累層,を受け、また沿岸流の運ぶ砂礫で入口をふさがれて現浜名湖を形成したのである。
浜松市史 一 (浜名橋の新旧)

浜名橋の新旧 浜名湖に架けた浜名橋の位置は、『更科日記』・『東関紀行』などによると、浜名川と浜名湖の,接点つまり浜名湖口である。,によると、旧橋と新橋とがあり、『東関紀行』では「湖に渡せる橋を浜名橋と名づく」とあるので、このころは、また浜名湖口
浜松市史 四 (公園)

  【浜名湖県立公園 弁天島水族館】  浜松近郊の浜名湖は浜松市民の行楽地であり、弁天島,浜名湖周辺の町村は浜松市も巻き込んで浜名湖を県立公園にするよう県に働き掛けた結果、昭和二十五年五月十一日,にようやく浜名湖県立公園が誕生した。,浜名湖の湖面全域と周辺の舞阪町・新居町・北庄内村・南庄内村・村櫛村・和地村・伊佐見村などのほか、浜名湖,龍宮城を模した階上展望台と立体水族館、円形水族館、遊園地などがあり、当時は弁天島が浜名湖で最もにぎやかな
浜松市史 ニ ([伊能忠敬の測量])

【伊能忠敬の佐鳴湖測量】十八日には二手に分かれて浜名湖東部の篠原村・入野村・佐鳴湖を測量、同夜は入野村竹村又右衛門方,まで佐浜・気賀・白洲・村櫛・堀江・伊目・佐久米・大崎・瀬戸・三ケ日・尾奈・入出・新所・橋本・今切など浜名湖周辺,浜名湖・佐鳴湖を測量したのはこれが最初である。,浜松宿町方同心・気賀関所役人、そのほか各村の庄屋・組頭等が協力している(『三ケ日町史資料』第一輯、『伊能忠敬浜名湖測量日記
浜松市史 三 (中田島 米津海岸 弁天島)

三十九年七月から夏季のあいだ仮駅が設けられ、大正五年九月にはこの仮駅も弁天島駅という定設駅となり、【浜名湖巡航,】明治四十年八月には浜名湖巡航株式会社(のちの浜名湖観光汽船株式会社)が鷲津に創立され、観光は浜名湖一帯
浜松市史 一 (深度)

遠江国】それまでは淡水湖で、遠江の国名も、淡水湖の琵琶湖をもつ近江に対して、それよりも遠いところにある浜名湖,浜名湖の成因は三方原の生い立ちと緊密な関係をもっており、したがって大体のことは三方原台地の生い立ちのところで,その際に記した古浜名湖は現在の浜名湖よりすこし東寄り、三方原西辺の位置にあった。,ここでは現浜名湖の生い立ちについて述べよう。
浜松市史 三 (明治初期の漁業税)

明治初期の漁業税 明治初期の漁業については資料に欠けているが、明治十三年における天竜川口から浜名湖今切口,までの遠州灘沿岸と浜名湖の東岸の漁村の漁業税は次頁表のとおりである(『明治初期静岡県史料』)。  ,8 堤村 1 倉松村 12 小沢渡村 5 舞坂宿 136 馬郡村 21 坪井村 12 篠原村 19 浜名湖東岸漁業税
浜松市史 四 ([気賀百合子と新聞小説])

[気賀百合子と新聞小説] 【気賀百合子 小説「浜名湖」】  戦後の浜松地方の文学活動として、当時創刊,気賀百合子の連載小説「浜名湖」が、『浜松民報』(第四項参照)紙上に初めて登場したのは昭和二十六年五月十五日,図2-57 連載小説「浜名湖」  「浜名湖」には、戦争末期、戦時ゆえの狂的衝動に駆られた若い航空兵少尉,との間に子どもをもうけた一人の女性を巡って、戦後を生きる人々の様々な人生模様が、浜名湖を背景にして描かれている
浜松市史 ニ (運輸方法)

【馬 舟運】牧田家のある和地村は浜名湖と三方原林野とにはさまれた谷あいにあって、笠井・浜松方面へは馬で,西南方面へは浜名湖の舟運を活用したのである。
浜松市史 四 ([弁天島と舘山寺の観光開発])

[弁天島と舘山寺の観光開発] 【弁天島 舞阪町観光協会 浜名湖競艇場 弁天島水族館】  昭和二十五年五月,に県立公園となった浜名湖の観光の中心地は、昭和三十年代の前半までは弁天島であった。,同年八月には県下唯一のモーターボート競走場である浜名湖競艇場が舞阪・新居・雄踏の三町によって舞阪町裏弁天,また、昭和二十九年九月に浜名湖ホテルのあった乙女園に県営の弁天島水族館が開設され、親子連れや学校の遠足,三十年十一月一日には浜名湖が国鉄周遊指定地に指定され、一割引きの周遊券を使って浜名湖を訪れる観光客が増加
浜松市史 一 (自然環境編)

北部山地と都田川流域           三二        北部山地  都田川流域   第六節 浜名湖,の生い立ちと特質          三四        浜名湖の概観  現在の浜名湖 第三章 温暖
浜松市史 ニ (遠州灘海岸)

遠州灘海岸 遠州灘沿岸や浜名湖岸には農業の期間を縫って漁猟を営む半農半漁の村々が存在していた。,苅藻養田、凡海浜之郷村、焼塩採藻漁猟恒産也、捕須々枳・鰡・鰺・古知・佐与利・鎮仁(チニ)・蛤・蜆」と浜名湖岸,遠州灘)にて鰺・鯖・こち・ひらめ」などを産し「浜松・吉田等都而近在江売出し候由」とあって、遠州灘沿岸や浜名湖岸
浜松市史 五 ([ウナギ養殖の浮沈])

[ウナギ養殖の浮沈] 【ウナギ養殖】  浜名湖周辺部での養鰻業は昭和四十三年頃が最盛期で、約六千七百七十八,また、昭和五十七年七月、低迷するウナギ消費の打開策として浜名湖養魚漁業協同組合と浜名湖食品会社は提携して,しかし、昭和六十三年、県と西部振興センターが実施した調査によると、浜名湖周辺の養鰻池のうち遊休池面積は,浜名湖の養鰻池は沿岸七市町全てに存在し、二十地区に分かれている。
浜松市史 五 ([減少してきたウナギ養殖])

[減少してきたウナギ養殖] 【ウナギ養殖】  浜名湖のウナギは全国的に有名であるが、昭和四十三年頃,平成十年以降になると国内において価格の暴落が起き、そのため、浜名湖養魚漁業協同組合の組合員も、ピーク時,浜名湖沿岸の養鰻業は、長い歴史を持ち、より生産性の高い技術進歩を積み重ねてきた。,このような厳しい市場競争の中で生き残るためには、浜名湖のウナギのブランド価値を、さらに高めていく必要がある,そのためには浜名湖産ウナギの品質の維持・向上への努力が必要であると同時に、稚魚であるシラスウナギの安定的
浜松市史 一 (浜名橋)

浜名橋 浜名湖の南端を経過するこの駅路は、本来官使連絡用のものであるが、公定の幹線道路であるから、一般,それは浜名湖南端に架せられた浜名橋である。  ,浜名湖口図
浜松市史 ニ (入野川の水運)

入野川の水運 また水上輸送には、佐鳴湖(佐鳴池または佐鳴浦)から浜名湖に注ぐ入野川を利用することもあった,幕末のころ浜松藩では浜名湖からこの川をさかのぼり関西米を入野村土橋(どばし)に陸上げし、これを早馬(はやうま
浜松市史 三 (漁業組合)

漁業組合 【二十二年】漁業組合は二十二年に舞坂漁業組合・浜名湖漁業組合があって、前者には遠州灘、後者,には浜名湖の大部分がこれに属していた(『村櫛村資料』『静岡県水産誌』)。
浜松市史 五 ([石油危機後の舘山寺温泉])

昭和五十二年二月十三日には中日浜名湖一周駅伝と中日浜名湖ロードレースが始まり、同年五月二日には有料道路,の舘山寺・村櫛間が開通、浜名湖大橋と結ばれることになった。,第1回中目浜名湖一周駅伝競走大会、同ロードレース開催。,56年 57年 浜名湖周遊自転車道に歌碑、句碑を建立。,これに伴い、国民宿舎浜名湖かんざんじ荘と名称を変更した。
浜松市史 三 (戦記)

科学書には小栗源市の『浜名湖を中心としての博物学的研究』(昭和六年刊)・『浜名湖と三方原の生物調査』(
浜松市史 五 (ウナギ養殖)

ウナギ養殖 【浜名湖養魚漁業協同組合 スッポン養殖】  全国的に有名な養鰻事業は、明治中頃に始まって,以来、着実に発展し、昭和四十年頃には一市七カ町・組合員四百余名を擁する浜名湖養魚漁業協同組合を中心に営,地域的には篠原・村櫛・庄内地区など浜名湖沿岸に集中したが、これまで養鰻と縁のなかった天竜川西岸沿いの河輪,このような動きはシラスウナギや養鰻用水の不足を生み、さらに生産過剰による値崩れの恐れがあったため、浜名湖養魚漁業協同組合
浜松市史 三 (浜松地方決戦作戦 軍民一体の撃退訓練)

新設第百四十三師団(兵団符号を護古と称したので護古部隊といい、引佐郡井伊谷村に司令部があった)を天竜川と浜名湖,【浜名湖 天竜川】さらに独立戦車第八旅団(引佐郡三ケ日町に司令部があった)を浜名湖北岸に配置し、五月に,入ると高射砲隊を天竜川や浜名湖の橋梁及び鉄道施設守備のために配備、総司令官杉山元帥が巡視している(浜松方面防衛担当部隊配置表参照,【特攻基地】また三方原には航空ガス部隊があり、浜名湖には人間魚雷(ぎょらい)回天や震洋の特攻基地を特設,また浜名湖口の新居には浜名海兵団と海軍施設部隊が開設された(昭和十九年八月に敵の魚雷が舞阪海岸に不発のまま
/ 6ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 参照データ一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました