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解説「浜松城絵図と城下絵図」
(解説「浜松城絵図と城下絵図」)
解説「
浜松城
絵図と城下絵図」 / 解説「
浜松城
絵図と城下絵図」 2017年10月 佐野一夫(元浜松市文化財課長) 1.
浜松城
絵図,その
浜松城
も明治維新で廃城となり、現在は天守曲輪や、本丸の一部、西端城曲輪の一部が
浜松城
公園として残されているに,
浜松城
の各曲輪の配置や番所、寺社や町屋も描かれ、元禄期の
浜松城
と
浜松城
下の様子を示す最重要資料である。,【
浜松城
下】
浜松城
は入り口にあたる大手門や堀・土居・塀などの外周部のみが描かれている。,【
浜松城
】
浜松城
内も描かれる。 / 解説「
浜松城
絵図と城下絵図」
浜松市史 五
(浜松城公園)
浜松城
公園 【日本庭園】 浜松市の中心部にある
浜松城
公園内に、日本庭園が完成しオープンしたのは昭和六十年四月一日,こども博覧会を契機に開設されたもので、当時は競泳用プール、動物園等が設置されており、昭和三十三年には
浜松城
天守閣,作左の森は、昔徳川家康が家臣本多作左衛門重次に命じて
浜松城
の北西につくらせ、作左曲輪(くるわ)と呼ばれた,また、同年七月には
浜松城
公園石舞台(三月に完成)で武智鉄二演出の現代薪能が行われた。 /
浜松城
公園
浜松市史 ニ
([浜松城主])
[
浜松城
主] 当期の城主は再任をふくめて四家九代におよび、いずれも将軍家にゆかりの深い譜代大名の家筋,であった(前掲「歴代
浜松城
主一覧表」)。 / [
浜松城
主]
浜松市史 四
([浜松城の再建])
[
浜松城
の再建] 【中日本観光事業会社】 明治維新後、
浜松城
跡は民間に払い下げられ、所有者は転々,昭和二十年代後半には小石幸一社長が経営する中日本観光事業会社が所有し、会社は昭和二十八年七月十二日から
浜松城
跡,
浜松城
跡は歴史的に見ても貴重で、市は昭和三十年にこれらの施設と三千坪の
浜松城
跡を買収し、そこに天守閣を,城跡へは自由に入れることになり、
浜松城
復元の計画が現実味を帯びてきた。 / [
浜松城
の再建]
浜松市史 ニ
(廃城後の浜松城)
廃城後の
浜松城
明治十三年八月に、内田周平(遠湖)は
浜松城
趾に遊び『
浜松城
墟記』を記している。 / 廃城後の
浜松城
浜松市史 ニ
(浜松城の築城)
浜松城
の築城 【家康】家康ははじめ遠江国見付に築城しようとしたが織田信長の諫めによって中止したという,【城の規模】これが
浜松城
で、その規模は「本丸・二の丸・西羽曲輪・馬出曲輪・清水谷郭・三丸尉曲輪・鳥居曲輪等 /
浜松城
の築城
浜松市史 ニ
(交代のはげしい浜松城主)
交代のはげしい
浜松城
主 前掲の「歴代
浜松城
主一覧表」からも知られるように、
浜松城
主は交代がはげしく、,幕府は譜代大名を創出し育成することにつとめ、そのためにも諸大名の改易・転封がしきりに行なわれ、当時の
浜松城
主,にともなって城主である反面に幕府の役職に就退任するところの封建官僚の性格を強めるにいたったが、この点も
浜松城
主,江戸幕府開設以後、幕藩体制確立期における
浜松城
主の経歴のあらましを、『寛政重修諸家譜』・『徳川実紀』・ / 交代のはげしい
浜松城
主
浜松城下のうつりかわり
(解説)
浜松城
下のうつりかわり / 解説 【中世】
浜松城
の前身である引馬城は、現在の東照宮付近一帯の小規模な丘陵地に位置する。,元亀元(1570)年に徳川家康が岡崎城から引馬城に移ると、城域を西側の段丘へと拡張して
浜松城
と改称したとされる,家康在城期の
浜松城
の構造は不詳であるが、石垣や瓦葺建物のない中世的な城であったとみられる。,天正18(1590)年、家康の関東移封に伴い豊臣秀吉配下の堀尾吉晴が入城すると、
浜松城
は現在みられる野面積,参考文献:「
浜松城
跡10」発行/浜松市教育委員会
浜松城
跡の周辺地形 →今川氏配下
浜松市史 ニ
(浜松城と家康)
浜松城
と家康 家康の浜松築城は遠江経営の基地を得たことであり家康にとってその一生を劃する重要な事件であった,(表)歴代
浜松城
主一覧表(主として『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』による) 城主名 在城期間 年限 /
浜松城
と家康
浜松市史 一
(浜松城下のばあい)
浜松城
下のばあい 【御用職人】
浜松城
下では、家康が紺屋・檜物師・塗師・瓦師・仕立物師・桶師・屋根屋・ /
浜松城
下のばあい
浜松市史 ニ
([浜松城下をめざす])
[
浜松城
下をめざす] はたして六月二十二日、こんどは遠州灘沿岸の村々を中心として再度の一揆が勃発した / [
浜松城
下をめざす]
浜松市史 四
(浜松市立郷土博物館)
浜松市立郷土博物館 【
浜松城
再建 大林稔
浜松城
再建期成同盟会 城戸久
浜松城
の落成式】
浜松城
再建,
浜松城
の再建については歴史的に貴重な石垣の保存と天守閣の復元を中心に行うことを考え、昭和三十一年十月三日,に
浜松城
再建後援会を結成した。,これは後に「
浜松城
は市民ひとり十円の寄付によって出来た」と言われるようになる。,
浜松城
はついにその姿を現わさないまま国体は終了した。
浜松市史 ニ
(天正の修築)
天正の修築
浜松城
は天正六年(一五七八)二月、つづいて松平家忠の奉行で天正七年二月と十月、さらに九年九月,思うに
浜松城
がいかに「隣国ニ稀ナル」堅城だったとはいえ、忽忙のさいだったので、天正へはいって数回にわたる,【
浜松城
の完備】後代につたわる
浜松城
は天正期に完備したと考えられる。 ,
浜松城
の築城・修築にあたって多数の浜松付近の住民が使役にかり出されたにちがいないが、これを伝える資料はない,』)、また城内の法雲寺(当市旭町)が替地を賜わって現在地に移転(『法雲寺記』)したと伝えているのは、
浜松城
修築
浜松市史 ニ
(青山忠雄)
【浜松入封】延宝六年、高齢の故を以って大坂城代を辞し、遠江
浜松城
主五万石に封ぜられた。,【青山忠重】延宝七年宗俊死し、次男忠雄が襲封して
浜松城
主となったが貞享(じょうきょう)二年病没(三十五歳,)、宗俊の三男忠重が忠雄の養子となり遺領をつぎ元禄十五年まで
浜松城
主であった。 ,以上の歴代
浜松城
主のうち、幕藩体制確立期の浜松地方に大きな影響力を持っていたのは高力氏・太田氏・青山氏
浜松市史 ニ
(城絵図)
城絵図 家康は天正(てんしょう)十四年(一五八六)十二月、在城十七年間にわたる
浜松城
を去って駿河府中,に移ったが、
浜松城
は存在する。,、以下「享保絵図」とよぶ)、安政元年(嘉永七年、一八五四)十一月の安政地震のとき御普請方の下書になる
浜松城
,などの所蔵絵図があるが、ここでは主として「御家中配列図」・「安政絵図」によって記すことにする(「明治六年
浜松城
払下告示
浜松市史 ニ
(武家屋敷の分布状態)
武家屋敷の分布状態
浜松城
築城当時の侍屋敷の設定については前節でふれた。,
浜松城
と家臣団屋敷を詳細にえがいたもので、成立期の武家屋敷の実態を知り得る貴重な資料といってよい。,これによってみると総軒数五百四十一戸、その分布状態は、
浜松城
を中心にして東海道往還筋の町屋をつつむように
浜松市史 ニ
(地勢)
明治二十三年
浜松城
地勢図
浜松城
略絵図(安政年間) 現在の
浜松城
(昭和三十三年再建
浜松市史 ニ
(廃城)
【徳川氏が接収】九月
浜松城
主井上河内守正直は上総鶴舞に移封(翌二年正月鶴舞へ移る)を命ぜられ、十二月十五日,『松永春英雑記』(『浜松市史史料編五』)に、明治二年十一月十二日の聞書として「遠州
浜松城
・掛川城・横須賀三,
浜松城
が正式に廃城になったのもこの時であった。ちょうど徴兵令が発令された月である。
浜松市史 ニ
(松平資訓)
松平資訓 【浜松襲封】松平資訓(すけのり)は資俊の養子として享保八年そのあとをついで
浜松城
主となり、,【七万石】その後奏者番となり、寛延二年には京都所司代・侍従に任ぜられるとともに再び
浜松城
主七万石(近江国内
浜松市史 ニ
(目次)
の形成 第一節
浜松城
六〇 位置と地勢, 城郭 築城 その後の
浜松城
第二節 武家屋敷と, 一〇六 譜代大名
浜松城
主 第二節 検地, 貢租取立 第五章 交通・産業経済の発展と町や村の生活 第一節 幕藩政の動向と
浜松城
主, 一六九 幕藩政の動向
浜松城
主 第二節
浜松市史 五
([歴史の散歩道の整備])
一年以上前のことで、既に昭和五十四年十一月二十一日付の『静岡新聞』が「町並み保存に『歴史の散歩道』」「
浜松城
,設定された散歩道のコースは、
浜松城
公園から佐鳴湖まで約四・二キロメートル。,途中にある史跡・施設等として、
浜松城
公園・普済寺・西来院・宗源院・三謡公園・蜆塚公園・博物館・太刀洗いの,これは
浜松城
に十七年間を過ごした徳川家康を前面に出した事業であるが、ルートはスタートを
浜松城
公園から誕生井戸
浜松市史 ニ
(浜松入城)
元亀元年七月、家康が上杉輝虎に和親を申しいれたときに
浜松城
の図などを贈ったとある。,のちの三方原合戦で、信玄が家康を誘いだしたのは、
浜松城
を攻めおとすのがたやすくなかったからである。,それほど
浜松城
は壮大で堅固であった。
浜松市史 ニ
(知行経過)
大坂在勤中の役知として摂津・河内・播磨の代官支配地および大名預所において一万五千石余が与えられ、その代わりに
浜松城
付領,同十三年(天保元年、一八三〇)閏(うるう)三月に前述の大坂在勤中の役知一万五千石余が収公され、その代わりに
浜松城
付領,ついで翌天保二年十月には
浜松城
付領のうち城東(きとう)・榛原(はいばら)両郡の村々六千六百九十石余が豊田
浜松市史 四
(公園)
昭和二十三年度から建設が始まったのは野口公園(今の静岡文化芸術大学一帯)、和地山公園、
浜松城
公園で、様々, 【
浜松城
公園 中日本観光事業株式会社 空中ケーブルカー】
浜松城
の跡地は明治以降に,このため、
浜松城
公園建設に当たっては多くの民家の移転が必要であった。,はこのような空中ケーブルカー(ロープウエー)は珍しく浜松の新名所となっていたが、浜松市がここを買収して
浜松城
浜松市史 ニ
(浜松の諏訪社)
慶長のころまではここに五社・諏訪社はなかった―五社が
浜松城
内からこのあたりにうつされたのは
浜松城
普請の,【
浜松城
主の保護】徳川将軍家は、二代将軍秀忠の御産神としても、五社諏訪の大明神を崇敬し手あつい保護を加,えたのであったが、その意をうけて
浜松城
主たちも両社の保護に尽力した。,
浜松城
下の建設に意を用いた城主高力忠房は寛永十五年、五社・諏訪両社の広前に石の手洗鉢を献納し、同じく太田資宗
浜松市史 ニ
(幕府の助成)
【拝借米】寛文八年に拝借した銭三千貫の返済事務を
浜松城
主が行なっており、同年の拝借米七百俵は
浜松城
から
浜松市史 ニ
(城下の寺社地)
このあたりは
浜松城
下の一つの出入口にあたり、浜松藩主の軍事的要求にかなうものであったと考えられる。,その外、寺社の配置については格別の特色をみとめがたいが、
浜松城
主に関係の深かった利町の五社と諏訪社について
浜松市史 ニ
(城地内に町ができる)
【
浜松城
の再建】現在の再建
浜松城
は昭和三十二年(一九五七)に浜松市民の有志によって結成された「
浜松城
再建期成同盟会
浜松市史 ニ
(五社明神社)
五社明神社 つぎに
浜松城
下の神社について記す。 ,もとは
浜松城
内にあったが、天正七年(一五七九)秀忠が浜松に生まれると「台徳院殿依為御降誕所之神」(延宝三年棟札,安藤対馬守(重信)が奉行となって元和元年(一六一五)の霜月に上棟(元和元年棟札)造営が成ったが、そののち
浜松城
主高力忠房
浜松市史 ニ
(家康江戸に移る)
【堀尾吉晴
浜松城
主となる】このとき、家康は功績抜群とされて関八州の領主として関東に移封され、
浜松城
主(,家康の駿府移転後、土岐(菅沼)定政が
浜松城
を守衛した『寛政重修諸家譜』)には秀吉方の有力大名である堀尾帯刀吉晴,慶長四年(五年説がある)には吉晴に隠居料として越前府中城五万石(六万石説がある)が与えられ、忠氏が家督(
浜松城
十二万石
浜松市史 ニ
(家康の浜松移城)
家康の浜松移城 元亀元年(一五七〇)七月に、家康は秋葉山叶坊光播を使者として上杉輝虎に
浜松城
図を贈って,家康の浜松移城は元亀元年六月(『当代記』)だから、七月には
浜松城
の主要な部分はできていたのだろう(前述
浜松市史 ニ
(松平信祝)
正徳二年三河吉田城主となり、まもなく奏者番に任ぜられ、その後享保十四年に大坂城代に任ぜられるとともに
浜松城
主,ともかく
浜松城
主出世コースの典型の一人といえる。
浜松市史 五
([齢松寺の移転])
この一件は明治初年の
浜松城
東側の国有地払い下げに始まる。,戦後の昭和二十四年、浜松市の都市計画で
浜松城
一帯が都市計画公園に指定されたのを機に、寺院とその附属幼稚園,昭和二十九年に換地案も浮上したが、当初は後道から
浜松城
跡に移転させられた時の、役場との交渉経緯を理由に
浜松市史 ニ
(井上正定)
【井上正甫】三代目正甫(まさもと)のときに陸奥棚倉へ移封となったが、同家の子孫は幕末に
浜松城
主にもどったのである,三代六十年の井上氏は、
浜松城
主としては定着度の高いものとして注目されるが、その間の施政は不明である。
浜松市史 ニ
(宗安寺と太田青山氏)
宗安寺と太田青山氏
浜松城
主青山家の日記『仰青録』の延宝九年の条につぎのような記事がある。,―浜松の高町という侍町の中に、
浜松城
主太田資次の時分に宗安寺という父太田資宗の「菩提所」があった。
浜松市史 ニ
(築山殿殺される)
そこから浜名湖をわたり、宇布見から入野をへて佐鳴湖(さなるこ)にでて小籔(こやぶ)(当市富塚町)で上陸し、
浜松城
,【小藪御前谷 西来院】小籔から
浜松城
へ向かう途中、湖畔から約五〇〇メートルで蜆塚の台地となるが、その台地
浜松市史 ニ
(馬込法印村)
なお
浜松城
の釜払いは毎年正宝院が勤めるのが例で(塚本松平『馬込町沿革誌』)馬込村は元旦門飾の葉竹を
浜松城
浜松市史 三
(浜松総社の決定 凧揚げ由来の普及)
酒井真邑の著という浜松凧揚げの由緒を記した『
浜松城
記』(大正十五年発行『浜松市史』収録)が発見されたのもこのころであった,飯尾豊前守殿御居城 義広(豊前守殿長子)殿誕生の時佐橋甚五郎(入野の者)凧の大なるものに御名を記し揚奉る」と記した『
浜松城
記
浜松市史 ニ
(連尺町加入の事情)
幕府は
浜松城
主へ願い出るようにといって、らちがあかないので庄屋は浜松へ帰った。,「私領」のことであるから幕府から申し付けることは「当たりさわり」がある、よって
浜松城
主へ願い出させるのがよい
浜松市史 ニ
(愛宕社)
愛宕社 愛宕社
浜松城
下への入口、成子坂(なるこざか)町の裏山にあった。
浜松市史 五
([新しい高校の誕生と郊外移転])
【
浜松城
北工業高校
浜松城
北工業高等学校 新居高等学校 昼間定時制高校
浜松城
南高等学校】 一方、,浜松農工高等学校の工業部門を引き継いで昭和三十九年四月一日に新発足したのが
浜松城
北工業高等学校であった,それによると
浜松城
北工業高等学校と新居高等学校に昼間定時制の課程が設けられ、定員は両校とも八十名であった,こうして、昭和四十年四月一日、県下で初めての昼間定時制高校が
浜松城
北工業高校と新居高校に開設された。,そして昭和四十三年四月、これまでの
浜松城
北工業高校昼間定時制課程は静岡県立
浜松城
南高等学校となった。
浜松市史 ニ
(災害の記録)
普請方の調査(「遠江国
浜松城
地震ニ而損所之覚」)によれば上表のとおりで、修理には三か年ないし五か年を要,その他 櫓四か所 損大破または潰 多聞壱か所 大破 門拾か所 倒壊 囲塀数か所 倒壊 明治初年の
浜松城
浜松市史 四
([楽しい動物園])
ライオン・トラ・ヒョウ・ヒグマ・ゾウ・ニホンザル・シマウマ・キリン・カンガルー・コヨーテ・チンパンジー・ラクダ・ダチョウ・エミュー・
浜松城
,数年前から入園者が減少していたが、この年は
浜松城
が完成したこともあって増加し、同年度の入園者は約三十九万四千人
浜松市史 ニ
([浜松の寺院])
[浜松の寺院] では
浜松城
下にどのような寺院があったか、宗派別に触れてみよう。
浜松市史 ニ
(北部綿作地帯の紺屋職)
北部綿作地帯の紺屋職 前に述べたように
浜松城
下には紺染屋があって領主の手厚い保護をうけていたが、在方
浜松市史 ニ
(本丸)
【地積】地積は八反七畝三歩(「明治六年
浜松城
払下告示」の本丸跡地積による)である(小字名千畳敷。,面積も縮小されて
浜松城
公園の一部となる)。【鉄門】周囲を石垣でかこみ、南面する正門を鉄門とよぶ。
浜松市史 三
(風致地区)
風致地区
浜松城
・佐鳴湖地区・曳馬野地区が風致地区に指定されたのは昭和九年、さらに十三年には和合地区
浜松市史 ニ
(樹木)
鎧掛松・樹木屋敷(前述)があったが、その他に松・樫・椎や雑木が繁茂していたと思われる(「明治六年八月
浜松城
地所立木払下告示
浜松市史 ニ
(八千蔵)
二の丸の北の広場(小字名花畑・八千蔵)には、米蔵があって、御城米蔵とか八千蔵と称していた(「明治六年
浜松城
払下告示
浜松市史 ニ
(家康の出撃)
家康の出撃 十二月二十二日家康は、信長からの援軍をふくめて全軍をひきい、
浜松城
をでている。
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