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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 三 (浜松宿)

浜松宿 【旧地域 新地域】当時、浜松宿は①旧侍屋敷(一九)と旧町人町(二五)より成る旧地域と②明治になって / 浜松宿
浜松市史 三 (浜松宿政)

浜松宿政 浜松宿では、従来各町の庄屋年寄で町政が行なわれていたが、奉行所の宿政統一方針により浜松宿市街取締 / 浜松宿政
浜松市史 ニ (浜松宿の困窮)

浜松宿の困窮 【火災】ひるがえって浜松宿をみると、文政十二年二月二十七日伝馬町熊野屋から出火し、後道,【助郷村との紛争】このため宿と助郷村とのあいだに紛争を生じ、翌七年三月の浜松宿増助郷三十五か村五か年間,しかし、浜松宿助郷総代も「浜松宿江助馬之儀被仰付候、少茂我儘成儀不仕、浜松宿より触次第馬急度出し可申事 / 浜松宿の困窮
浜松市史 三 (浜松宿)

浜松宿 【戸数 人口 面積】なお、参考に他の統計をあげると、明治六年浜松宿の戸数三千六十七戸、人口一万一千百三人 / 浜松宿
浜松市史 三 (浜松宿勢)

浜松宿勢 【三年】明治維新当時の浜松を伝える書に、刊行はされなかったが、当時浜松へ移住した幕臣の石渡安信 / 浜松宿勢
浜松市史 ニ (浜松宿と助郷村の係争)

浜松宿と助郷村の係争 弘化四年七月から十一月ごろにかけては、何か不穏な情況がつづいたらしい。,弘化四年の秋は作柄が悪かったせいもあろうが、助郷村々は、浜松宿の連尺・伝馬・旅籠・塩・田・肴の六か町にたいして,代官清水助次郎排撃の張り紙が城の大手門や馬込の木戸に張られながら「郷方ニ而致候哉」と噂されたのも、浜松宿,清水助次郎を罷免し犬塚啓三郎を登場させた原因も、この浜松宿方と助郷村々との係争にあったかもしれない。 / 浜松宿と助郷村の係争
浜松市史 三 (浜松宿 三十二か町村独立)

浜松宿 三十二か町村独立 【十五年九月】右の願いに対し、明治十五年(一八八二)九月十三日許可の指令があり,【二十九戸長役場】ここに於て和地山村との連合は解かれ、浜松宿三十二か町村各独立の姿をなして、その町村名,することになり、元城町・常盤町・元名残町の連合と、高町・三組町の連合とを除き他町村は各々独立戸長を置いて結局浜松宿,【総務戸長】しかし浜松宿としての統轄上の必要もあって、別に総務戸長として杉浦為次郎・内田政治の二名を置 / 浜松宿 三十二か町村独立
浜松市史 三 (連合制の発達 浜松宿二十六か町村連合会 地方自治制の出発 浜松宿議会)

連合制の発達 浜松宿二十六か町村連合会 地方自治制の出発 浜松宿議会 明治十二年三月町村会規則が定められ,浜松地方では浜松宿二十六か町村連合会が結成され、十二年六月に選挙が行なわれたが選挙手続に誤りがあったので,【十三年四月】ついで十三年四月区町村会法が定められ町村会が公的の代議機関として公認されると、浜松宿単独,浜松宿二十六か町村連合会議員 明治13年改選 明治12年選挙 議員名 選挙区 議員名 若森又次郎 / 連合制の発達 浜松宿二十六か町村連合会 地方自治制の出発 浜松宿議会
浜松市史 ニ (浜松宿内と周辺の私塾寺子屋)

浜松宿内と周辺の私塾寺子屋 私塾・寺子屋は江戸時代にもっとも普及した民間の教育施設であった。,別表は幕末から明治初年にかけて設けられた浜松宿内の私塾(下に示す)および寺子屋(次ページに示す)を表示 / 浜松宿内と周辺の私塾寺子屋
浜松市史 三 (連合制の不便 浜松宿各町村分離願)

連合制の不便 浜松宿各町村分離願 しかし、当時浜松宿の行政は郡区改正草創の際であって宿行政統一の実を / 連合制の不便 浜松宿各町村分離願
浜松市史 ニ (立場)

東海道筋の浜松付近には、【天神町 安間】浜松宿から天竜川までの間に立場は二か所で、一つは浜松宿から十九丁,へだてた向宿村地内天神町、他は浜松宿から一里十五丁ほどはなれた薬師新田地内安間(当市安間町)にあった。,【篠原村】浜松宿から舞坂宿までの間には、篠原村地内に立場が一か所あり、浜松宿から距離は一里十四丁であった
浜松市史 ニ (増助郷村の困窮と代助郷)

浜松宿では「浜松宿増助郷羽鳥村外八ケ村水難に付、吟味之上、休役並代助郷共割合を以て左之通申付候」とあるように,このときは浜松宿に比較的近い距離の村々が指定されているので「宿方より相触次第人馬無滞可差出者也」とあるように
浜松市史 ニ (本陣)

本陣は宿駅における大名・公卿等の宿泊する高等旅館であり、天保十四年ごろには本陣が六軒あった(『東海道浜松宿大概帳,一六一六)浜松城主水野対馬守のとき改めて家作をし「地子御免許ニて旅人止宿之営」を仕ったと伝えている(「浜松宿御役町由来記,嘉永三年浜松宿杉浦本陣の図 (浜松市菅原町 川島浦治氏蔵)
浜松市史 ニ (市野宿の衰退)

〇)に市野宿役人惣代が道中奉行宛に差出した文書(市野村旧本陣『斎藤文書』)によると、市野村は「東海道浜松宿最寄,ところで、浜松宿と気賀宿との間にも人馬の継立が行なわれていた。,そのため浜松宿・見付宿と市野宿との間に紛争のあったことは『斎藤文書』がその消息を伝えているし、浜松宿が
浜松市史 ニ (姫街道の通行停止)

姫街道の通行停止 【浜松宿への影響】これは浜松宿をはじめ東海道の諸宿にとって「御役難勤渡世経営不罷成迷惑,」のことで、宝永六年三月には浜松宿をはじめ舞坂・新居・白須賀・二川・吉田の六宿よりの「見付宿より市野村
浜松市史 ニ (伝馬町の成立)

伝馬町の成立 浜松宿御役町の成立は、慶長六年(一六〇一)の伝馬町成立を直接の起点とし、幕藩権力の助成,その概況を『浜松宿御役町由来記』・『浜松宿古来書留』などによってつぎに述べる。
浜松市史 三 (西南戦争)

浜松方面では三方原等に入植した士族が志願し参加しているが浜松宿出身の従軍々人数も氏名も、記録の確実なものがない,浜松宿の戦死者は五名であった。
浜松市史 ニ (幕府と藩の二重支配)

ところで、浜松宿は浜松領内にあったので浜松藩主も宿駅の維持に関係をもち、宿場をめぐる幕府と浜松藩の権限,や浜松宿住民に対する二重支配の問題が発生したのである。,【高力氏時代】元和五年(一六一九)、幕府は老中連署を以って浜松城主高力忠房に対して、浜松宿における伝馬人足,この時、伝馬制創始の時から浜松宿の問屋として朱印改めを命ぜられていた伝馬町の杉浦助右衛門は「内勤」のため,【朱印状の保管】寛政期の『浜松宿御役町由来記』には「中か御番所には伝馬御朱印が今日まで保管されているが
浜松市史 三 (青物市場)

青物市場 【木戸市場】青物市場 浜松宿の東はづれの向宿村木戸(現在当市木戸町)にあった。,浜松宿の野菜の供給地(芳川方面)にも近く、東海道と掛塚街道の交差点にあたり、交通の便がよかったので慶応年間,(一八六五-一八六七)すでに市場が立ち、浜松の八百屋組(代表浜松宿成子坂町八百庄)と生産者側(総代西伝寺村広野増吉,【新町市場】このとき浜松の商人側は新町の北裏に三反歩の土地を購入して浜松宿内に市場を誘致しようとし、生産者側
浜松市史 ニ (浜松の交通圏)

交通圏 『旅籠町杉浦日記』(『浜松市史史料編二』)には文化十年(一八一三)ごろの近在人馬賃銭割として、浜松宿,これは浜松宿と日ごろ深い交通的つながりがあるため定められたのであろうから、これによって浜松の交通圏を求,かりに浜松宿の中心部から一二キロの半径で円を描くと、これらの三十七か村はことごとくこの円内におさまり、,注目すべきことは、この内圏が後述するところの初期定助郷圏と一致するという点で、江戸時代初期における浜松宿
浜松市史 ニ (天保期の一里塚)

浜松宿から天竜川にいたるまでの東海道筋には一里塚が二か所 【向宿】向宿村地内  南の塚は松、北の塚は,榎 【安間新田】安間新田地内  木立は両方とも榎  浜松宿から舞坂宿までの間に二か所 【篠原】篠原村地内,  北側は榎、南側は松 【舞坂】舞坂宿入口  南北とも松  浜松宿から本坂通り気賀までの間に三か所,気賀村・中下刑部村地内  左の塚は気賀村地内、右の塚は中下刑部村地内にあって、ともに立木は松(『東海道浜松宿大概帳
浜松市史 三 (小野組大火)

小野組大火 【七年】翌七年四月二十七日、浜松宿はじまって以来の大火があった。,取調書(『浜松市史史料編六』)によると、火元は浜松宿伝馬町小野組支店で、浜松宿家数三千二百二軒の内、焼失家数千三百十八軒,【中心街焼失】火元の名をとって小野組の火事といったが、浜松宿の東海道筋目抜き通りはほとんど灰燼に帰し、
浜松市史 ニ (藩の助成)

藩の助成 延宝二年、幕府は浜松宿拝借銭千貫を金二百五十両として取り扱ったが、当時銭相場下落のため実際,―浜松宿が寛文八年に幕府から拝借した銭三千貫の処置をどうするか、同じく万治三年の金三百両については今日,浜松宿では浜松城主から金三百両を拝借した。,その後、宝永元年(一七〇四)にも幕府は御料の宿々のみに銭八百貫文宛拝借させ、浜松宿では城主から米三百俵拝借
浜松市史 三 (市街地)

このうち、城下町でもあった浜松宿の改租経過は不明であるが、前に述べた浜松宿政の推移や後に述べる浜松の士族,とくに浜松宿二十九か町の町名・反別表(第四節第三項「各町の特色」参照)は改租終了後間もない時期の資料として
浜松市史 ニ (宿駅の困窮と余荷)

浜松宿では天保六年十一月に大火が起こり、伝馬町ほか五か町が類焼し、常備人馬の持立が困難となったので、御定人馬百疋百人,【継続】浜松宿では嘉永二年(一八四九)から文久三年までの十五年間に総増助で余荷してきたが、その季明になっても,これをみると、前の増助郷に比べて数が増しているばかりでなく、その分布も比較的に浜松宿に接し、その北部に,(表)天保7年浜松宿の増助郷 増助郷村 増助郷村 中瀬村 恒武村 永嶋村 大見村 万正寺村 長命村,大崎村   本坂村   津々崎村 釣り村 35か村   (表)嘉永年間浜松宿
浜松市史 三 (移住士族戸数)

移住士族戸数 徳川の旧臣たちが帰参がかない、浜松宿・三方原・和地山・内野方面へ移住してきたのは明治二年,その戸数三方原は八百余戸(「明治七年三方原御払下上申指令」『浜松市史史料編六』)人数二千人余、浜松宿は
浜松市史 ニ (米の津出湊)

米の津出湊 『東海道浜松宿大概帳』によると「米の津出し、冨田村・一色村・中野町村・安間村・安聞新田ハ,、夫より海上江戸迄七拾里」また、「米の津出し、篠原村・新居湊江凡弐里、海上江戸迄九拾里余」とあって、浜松宿
浜松市史 ニ (助郷村の困窮)

文久元年(一八六一)に浜松宿助郷村のうち四十九か村が困窮し、そのかわりとして代助郷が定められている。,当時の浜松宿の定助郷は六十か村(小名分をあわせ七十七か村)であったから、そのうちの四十九か村といえば助郷村,】その範囲は遠州北部の山間部から三州八名郡・宝飯郡・設楽郡の広域におよび、村数は百四か村で、遠い所は浜松宿,(表)文久元年浜松宿代助郷 郡 代助郷村 豊田 波ヶ嶋村ほか26か村 引佐 下刑部村・中刑部村・上刑部村
浜松市史 ニ (五町同役の事情)

五町同役の事情 前述の寛文八年浜松宿拝借米配分一件は、役町が幕府の割りつけ方式に反対し役町間の従前の,この事件の経過には幕藩制下の浜松宿の生き方が象徴されているのであり、これと同様の事例として連尺町が御役町
浜松市史 ニ (寛文期)

【元禄期】寛文年間(一六六一-一六七二)の浜松宿の戸数が千百十一軒であったが、それからほぼ三十年を経た,またこの年、若年寄稲垣対馬守・道中奉行・勘定奉行・大目付の四人が揃って浜松宿へ泊ったとき、町奉行から書,(表)浜松宿家数の変遷   寛文期 元禄16年 宝永期 宝暦9年 文化期 天保14年 通筋町
浜松市史 三 (浜松和地山戸長役場)

浜松和地山戸長役場 このとき浜松宿は和地山村と連合し、浜松宿和地山村戸長役場を置き、堀口勘蔵が選ばれてその
浜松市史 三 (小村の合併)

とあって戸数三十一軒(うち寺四か寺、平民二十七軒)、人員百二十六人(うち男六十一人、女六十五人)がまず浜松宿,され(『明治九年六月壱村限戸数人口取調書 第一大区十九小区』)、つづいて名残村・寺島村等も合併によって浜松宿
浜松市史 三 ([侍屋敷と町人町])

[侍屋敷と町人町] 「浜松町別戸数調」は明治十年ごろ浜松宿に属した町村に命じて、町村別に士族平民の数,われる職名にも表記に差異があったり必ずしも正確といいがたいが、それを考慮においても明治十年を中心とした浜松宿勢
浜松市史 ニ (二筋の姫街道)

二筋の姫街道 【浜松道】いずれにせよ、時代がくだるにつれ、見付宿から東海道を西進し、浜松宿大手門前で,)八月本坂道普請のため見分が行なわれているが、そのときも気賀から浜松へ出ているし、天保十四年『東海道浜松宿大概帳,現に安政三年の絵図には、浜松宿を経て追分にいたる道を姫街道、安間から市野を経て追分までを市野道と記してある
浜松市史 ニ (増助郷)

浜松宿では天保七年(一八三六)に三十五か村が増助郷として指定されている。,総助郷高は二千石で、村々は天竜川中流域と浜名湖北三ケ日付近の二か所に集中し、もっとも遠い豊田郡青谷村は浜松宿
浜松市史 ニ (問屋場)

表筋町十一か町は交通業者が多く「旅籠屋は旅人の休泊を請、又は食物を商ふ茶店有之、其外諸商人多し」(『東海道浜松宿大概帳,(表)天保14年浜松宿一覧表 宿高 なし 宿往還 23町15間余 人別 5964人 男2932人
浜松市史 ニ (浜松の職業)

【男日雇 女糸とり】天保十四年(一八四三)の『東海道浜松宿大概帳』(『浜松市史史料編三』)に「此宿、男,浜松宿新町町並図(浜松市立図書館蔵)
浜松市史 ニ (町道の変化)

浜松宿中心部要図 (浜松市菅原町 川島浦治氏蔵) 浜松宿略絵図(宝永時代)
浜松市史 ニ (無役村の人足割)

そこで助郷全村が出払ってもなお不足するという場合、宿を助ける助郷そのまた助郷を助けるものとして浜松宿では,その範囲は大体浜松宿の助郷圏内で四触れに分割されている。
浜松市史 ニ (町民の生活)

は、統一政治や庶民生活にとって重要な意味を持つものとして注目する必要があるが、文政六年(一八二三)に浜松宿新町,【質屋】庶民的な金融機関として質屋があったが、享保十三年(一七二八)の「浜松宿質屋仲間定」によると、当時二十一軒,文政六年浜松宿秤文書(浜松市三組町 内田六郎氏蔵) 享保十三年浜松宿質屋仲間定(浜松市鴨江 
浜松市史 ニ (定助役)

その村名その他は、天保期の『東海道浜松宿大概帳』にも詳細に述べられている。,この間に位置した浜松宿への影響も少なくなかったことは川留川明の事例(『東海道浜松宿大概帳』)からも察せられる
浜松市史 三 (浜松刑務所)

浜松刑務所 【浜松監嶽 五年】明治五年浜松県時代に浜松宿高町に囚獄が置かれたが、静岡県時代に入ると九年八月,【小政】清水の次郎長の子分として知られた小政こと浜松宿新町の政五郎(吉川冬吉)が「産業ナクシテ脇差(わきざし
浜松市史 ニ (幕府から藩へ)

幕府から藩へ 要するに、浜松宿に対する助成において、浜松藩は寛文・延宝のころからその役割を強化したのであり
浜松市史 三 (浜松の戸長)

町民方 士族方】また「広ク入札ヲ以各区戸長副新任」ということになり、投票が行なわれたのもこのころで、浜松宿
浜松市史 三 (御東幸船橋)

つづいて高橋内匠によって長さ百二十八間、建設費一万両の船橋が完成し(堀江藩が橋番をした)、天皇は十月三日浜松宿
浜松市史 ニ (助郷の一本化)

浜松宿では宿民が「商賈之志ニ変じ」て「御定之賃銭ニテ者飼料夫食も不行届」(「浜松宿御役町由来記」『浜松市史史料編一,宝暦四年(一七五四)には、浜松宿の有馬の減少いちじるしく三十五疋となったので、雇馬三十疋を助郷村から出
浜松市史 三 (八十二区 戸長制)

このとき浜松宿は第六十九区に属し、戸籍事務のみを行なう戸長副戸長が置かれ、秋葉町外三十か町村からなっていた
浜松市史 三 (天竜川出水)

倉中瀬・高薗・新堀・上小島等各村におよび破堤およそ四千間、しかもその距離右岸は左岸の二倍におよび、濁流は浜松宿
浜松市史 三 (浜松三戸長役場)

浜松三戸長役場 このとき浜松宿では三つの戸長役場(浜松旅籠町組戸長役場・浜松紺屋町組戸長役場・浜松田町組戸長役場,の町村名を冠して、何町村組戸長役場と称えたが、明治十八年一月戸長役場の位置が改正されて(甲第三号)、浜松宿
浜松市史 ニ (川留と川明)

その川留・川明について『東海道浜松宿大概帳』には、   【川会所 川立札】「此川留明之節ハ支配御代官并宿方,之分池田村川会所江留置村方より番人付置見付宿より持人足罷越川明次第早速継立いたす、下り之節は一色村江留置村方より番人付置浜松宿
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