機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
参照データ一覧
浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 67件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 2ページ
浜松市史 三
(浜松病院)
浜松病院
【大正四年】また明治十一年菩提寺付近(当市三組町)に設けられた避病院は、二十年に平田(なめだ,北寺島町)の地に移転、三十年には伝染病院と改称され、大正四年三月鴨江に新築移転、同年九月改称して市立
浜松病院
/
浜松病院
浜松市史 三
(県立浜松病院)
県立
浜松病院
【利町】明治七年一月に県立
浜松病院
と改称し、四月には利町(二二番屋敷、現在の浜松市民会館,暮に赴任した太田用成であった(信州飯田藩医太田家の養子、横浜に出て米人医師について医学と英語を学び、
浜松病院
,一時帰郷したが明治二十年再び
浜松病院
長となり、明治二十四年
浜松病院
の廃止により辞任した。 / 県立
浜松病院
浜松市史 三
(浜松病院医会)
浜松病院
医会 【西洋医学 医師免許】
浜松病院
は各地にさきがけて出来たというだけでなく、その特色は西洋医学,また、十年に入ると、院長はじめ
浜松病院
の医師連名で、「医生ヲ勧奨シ其術ト行トヲ督整シ以テ此実績ヲ民間ニ,推及セント」するために、県への
浜松病院
医会設立の建議書の提出となった。,こうして同十年四月九日設立された
浜松病院
医会は、「衛生事務ヲ振起シテ専ラ公益ヲ謀リ之ヲシテ普ク民間ニ布及,十二年における
浜松病院
の規模(職員)は院長一・当直医二・当直医補兼薬局長一・監事一・教頭一・薬剤生二・ /
浜松病院
医会
浜松市史 四
([国立浜松病院])
[国立
浜松病院
] 【国立
浜松病院
】 戦前の浜松陸軍病院が昭和二十年十二月一日に厚生省に移管され、,国立
浜松病院
となった。,国立
浜松病院
の場合、昭和二十八年三月十八日付の『静岡新聞』の報道によると結核療養所へ転換することによって,昭和二十八年四月一日からその名称は国立療養所
浜松病院
となり、この転換によって入院費が二割引、完全給食、,なお、昭和三十六年四月には再度、名称変更があり国立
浜松病院
になった。 / [国立
浜松病院
]
浜松市史 四
(国立浜松病院 天竜荘)
国立
浜松病院
天竜荘 また、昭和二十年十二月一日には、浜松陸軍病院(和合町)が厚生省医務局の管轄下で,国立
浜松病院
として発足した。,終戦に伴い同二十一年五月十八日の『静岡新聞』記事には、この国立
浜松病院
と天竜荘は同様に、入院費は有料として,この発足間もない国立
浜松病院
の実情に迫る見学記がある。,この後の国立
浜松病院
はこの存続を賭けて、幾多の問題に直面することになる。 / 国立
浜松病院
天竜荘
浜松市史 四
([浜松病院医会の発足])
[
浜松病院
医会の発足] 【太田用成】 先駆者の苦悩を刻んだ遠江医学会の前史として、
浜松病院
医会、,明治九年(一八七六)八月二十一日、浜松県は静岡県に合併されたが、民政にかかわる医療行政においては、
浜松病院
,明治十年一月六日、太田用成病院長等は
浜松病院
医会設立の建白書を静岡県令大迫貞清へ提出し、その三月に許可,があり、その際の「指令」である
浜松病院
医会仮規則(全四款、全二十二カ条)を四月に提出した。,六月二十四日付の「
浜松病院
医会誌」には医域ごとの医学生を募集し、学費はその医域負担とし、卒業後にその地 / [
浜松病院
医会の発足]
浜松市史 三
(市立浜松病院 浜松市実費診療所)
市立
浜松病院
浜松市実費診療所 市立
浜松病院
(鴨江町二三五番地) 肴町地内天神森(飛地で現在の北寺島町,する声が高くなり、大正四年三月東鴨江(鴨江町、現在の鴨江二丁目)井ノ尻地内に完成、同年九月十日から市立
浜松病院
/ 市立
浜松病院
浜松市実費診療所
浜松市史 三
(日赤浜松病院 遠州病院 聖隷保養農園)
日赤
浜松病院
遠州病院 聖隷保養農園 以上の他に市民の要望と市長の要請を受けて昭和十三年三月高林町に,戦争前に設立された主な医療機関 医療機関名 位置 設立年 県立浜松鴨江病院 鴨江町 大正2年 市立
浜松病院
,鴨江町 大正4年 浜松市実費診療所 鴨江町 大正13年 浜松陸軍病院(衛戍病院) 追分町 昭和3年 日赤
浜松病院
/ 日赤
浜松病院
遠州病院 聖隷保養農園
浜松市史 五
([陸軍病院から国立病院へ])
[陸軍病院から国立病院へ] 先に『浜松市史』四で、国立
浜松病院
の成立について述べた(三九三頁、七八五頁,浜松市の場合は昭和二十八年、国の結核対策として国立療養所に転換し、国立療養所
浜松病院
として存続することになり,、さらに昭和三十六年四月には国立病院に転換して国立
浜松病院
と改称した。
浜松市史 五
([統廃合か経営移譲か])
【国立
浜松病院
】 昭和六十一年一月、厚生省は国立病院と療養所の二百三十九施設の統廃合・経営移譲を含,その数のうちの三十四施設を地方自治体などに経営移譲することとし、国立
浜松病院
もこれに該当したのである(,国立
浜松病院
の敷地面積は約一万七千坪、中に病院・職員寮(看護婦・職員)・看護学校があり、ベッド数は二百床,市民病院の役割は果たしてきたが、周辺医療施設の県西部浜松医療センターや聖隷
浜松病院
以上の設備や人員配置
浜松市史 五
([昭和三十八年時点の医療環境])
結論として、昭和三十七年に開院した浜松市医師会中央病院、日赤
浜松病院
の改築、労災病院の誘致、そのほかの,浜松赤十字病院(三四五床、一般・結核、高林町)、厚生連遠州病院(四七三床、一般・結核、常盤町)、国立
浜松病院
,国立
浜松病院
二九六床、医師会中央病院七八床とある。,ただし、神経科
浜松病院
の名称と病棟数の記事は記載がない。 ,【聖隷
浜松病院
脳外科センター】 聖隷
浜松病院
は昭和三十七年に開院したが、従来の大病院とは異なる特色
浜松市史 五
([浜松医界百年のマグマ])
【
浜松病院
】 浜松医界百年のマグマの発生を見るために、約言抄記するが、明治四年(一八七一)の浜松県発足後,、同六年に会社病院が設立され、翌七年一月、浜松県令林厚徳の布達によって県立
浜松病院
が実現した。,明治九年八月二十一日の静岡県との合併後、
浜松病院
に医学校教員として太田用成の門人で大学東校卒業生の虎岩武,
浜松病院
を設立した事を発端として、明治十年
浜松病院
医会を発足させ、さらに医生の教育機関を設けるに至った
浜松市史 四
([西遠医会から遠江医学会へ])
[西遠医会から遠江医学会へ] 【遠江医学会】 明治十四年二月二十日、西遠医会が発足し、会長には
浜松病院
院長,
浜松病院
は明治十六年二月、敷知・長上・浜名三郡に引き継がれ、同二十四年に維持困難を理由に廃止されている,この原型には明治前半期において
浜松病院
、医会、西遠医会、遠江私立衛生会などを結成し、医療行政、自己研鑽
浜松市史 四
([社会保険浜松診療所])
たとき、常盤町の浜松保健出張所一階に設営されていた診察室について述べたが、『浜松市医師会史』の「社会保険
浜松病院
, 【結核診療 社会保険
浜松病院
】 これより前、昭和二十六年三月三十一日の結核予防法改正,翌三十一年六月には診療所から病院に昇格し、名称は浜松社会保険病院となった(後に同五十三年四月、社会保険
浜松病院
浜松市史 五
([献血・預血の血液センター設立])
昭和四十年四月二十九日付『静岡新聞』によれば、市内の「病院や診療所で使用する血液は国立
浜松病院
、日赤
浜松病院
,、遠州病院、聖隷
浜松病院
など大口需要の三百本をはじめ、他の医療施設をふくめ年間に千本から千百本。,【心臓外科 預血制度】 他方、聖隷
浜松病院
では昭和三十四年、東京女子医大の榊原仟を聖隷病院顧問に迎,そこで同四十年七月、聖隷
浜松病院
は労働者組織と連携した血液銀行の設置に着目した。,【血液銀行】 かくて同四十一年二月十一日、聖隷
浜松病院
内に血液銀行が発足した。
浜松市史 四
([浜松市結核療養所])
市内各町を国立
浜松病院
・浜松赤十字病院・遠州病院に割り当てて運動を展開したのである。 ,組みによって昭和三十二年一月三十一日現在の浜松地域では、結核病床を有する病院(病床数)は、国立療養所
浜松病院
浜松市史 四
([地域医療の第一歩])
[地域医療の第一歩] 【社会保険浜松診療所 国立
浜松病院
浜松赤十字病院 山田鉄三郎】 先に見たように,これに並んで先述の遠州病院の活動や、以下に述べる国立
浜松病院
、浜松赤十字病院の活動がある。,昭和二十一年七月には、国立
浜松病院
が無料診察班を組織し、主として復員者、引揚者、戦災者を巡回して診察した
浜松市史 三
(医師養成)
明治二十七年没、三十八歳)・中西玄仙・河合虹平・奥田喬治・柴田邵平・太田用成などがあった(『明治十年
浜松病院
医会日記
浜松市史 三
(浜松医学校新設)
経費は殆ど県費で、月謝五十銭も本科生よりは徴収せず、級外生も半額にするなどの優遇策がとられていた(「
浜松病院
医学校場規則
浜松市史 三
(入枡座火事)
町役場では炊出しをなし、罹災者立退所として旧
浜松病院
・浜松高等小学校を指定し救済につとめた。
浜松市史 三
(信行社)
(しんぎょうしゃ) 心学布教の団体で、明治三十二年一月に守本恵観にあい、その教えに心服した福島豊策(
浜松病院
長
浜松市史 三
(伝染病)
【天然痘】種痘は明治六年に会社病院が設立されると「貧富ノ別ナク施行」と条例化され、その業務は県立
浜松病院
浜松市史 四
([講和成立後の婦人会])
また、市の婦人連盟は昭和二十三年に国立
浜松病院
で傷痍軍人の食事の世話や演芸隊による慰問を行うなど、様々
浜松市史 五
([エイズ認識])
この記事は聖隷
浜松病院
産婦人科部長鳥居裕一、浜松市立高校『礎新聞』、浜松市保健所保健相談課に基づくものであり
浜松市史 五
([『浜松教会百年史』の完成])
【加茂喜一郎】 他方、加茂喜一郎は『静岡県郷土研究』第十五輯(昭和十六年発行)に、「
浜松病院
と七科約説
浜松市史 五
([浜松市移譲])
浜松市リハビリテーション病院】 平成十一年四月二十日発行『広報はままつ』(第一〇五一号)は、国立
浜松病院
浜松市史 五
([社会復帰施設の増設])
聖隷
浜松病院
では整形外科医一人、マッサージ師四人の陣容で入院・外来患者百二十人を治療している、と報じている,『静岡新聞』の昭和四十五年四月二十五日付の記事では、聖隷
浜松病院
では五月一日から関節外科センターを開設
浜松市史 五
([再編の主体])
[再編の主体] 国立
浜松病院
の再編方法には三通りの案があった。
浜松市史 四
([化学療法の普及])
そのため聖隷病院や国立療養所
浜松病院
は結核サナトリウムから地域の中核病院へと転換していくことになる。
浜松市史 五
([医師の増加])
第三十七条(翌八年の改正医制では第十九条)に基づく医術開業試験制度の下で受験したと思われるから、定めし
浜松病院
長太田用成等,を追って小児科の開設をみると、同三十六年に浜松鉄道病院(国鉄浜松工場『五十年史』)、同三十七年に聖隷
浜松病院
,、同四十八年に県西部浜松医療センター、同五十一年に聖隷三方原病院、同五十二年に聖隷
浜松病院
に未熟児センター
浜松市史 五
([肥満は薄命と知るべし])
なお、この年の八月に聖隷
浜松病院
が分離独立。
浜松市史 四
([結核予防法の改正])
また、市内三病院(国立
浜松病院
・浜松赤十字病院・遠州病院)の病床拡充策はこの法律に基づいているのである
浜松市史 五
([病診連携])
【病診連携】 この浜松市内の病診連携の実現状況は、平成九年には聖隷
浜松病院
、同十一年には遠州総合病院
浜松市史 五
(看護婦養成施設)
看護婦養成施設 【浜松高等看護学院】 他方、市内の看護婦養成施設のうち、正看護婦学校は国立
浜松病院
附属高等看護学院,他方、聖隷
浜松病院
では同四十年十一月から二十五人の韓国人看護婦を採用しており、その後十三人が帰国したが
浜松市史 五
([看護婦養成学校の設置])
これらのほか、看護婦養成機関は国立
浜松病院
附属高等看護学院など大きな病院にあった。
浜松市史 五
([分煙と全面禁煙])
住吉二丁目の聖隷
浜松病院
は平成十四年六月から敷地内の全面禁煙に踏み切った。
浜松市史 三
(救護活動 戦災対策本部)
【治療対策】⑥傷病者のため市内六か所(中部配電浜松営業所・銀行集会所・日赤
浜松病院
・西遠高女・追分国民学校
浜松市史 四
([盲学校・聾啞学校の復興])
校舎にあてられたのは追分町にあった旧浜松陸軍病院(戦後になって国立
浜松病院
と改称)で、戦前は多くの病棟
浜松市史 四
(浜松診療所)
と保健施設、四、浜松市健民修練所」の項目があって、その「三、救療施設と保健施設」の小項目として、市立
浜松病院
浜松市史 五
([諸機関紙のキャンペーン])
昭和四十二年三月の日本国有鉄道浜松工場の機関紙である『はままつ』(第一一三号)には、昭和四十一年度の聖隷
浜松病院
浜松市史 四
([浜松鉄道病院])
静岡鉄道管理局が誕生し、本庁の方針として一局一病院が貫徹され、すでに静岡鉄道病院が建設されていたために
浜松病院
実現
浜松市史 四
([看護婦養成])
同三十八年二月には国立
浜松病院
付属看護学校が開設され、同三十九年九月には静岡県立浜松高等看護学院が海老塚町
浜松市史 五
([聖隷クリストファー大学の開学])
四年間の専門教育を受けた一期生は看護婦(士)として聖隷
浜松病院
などに六十九名、保健婦(士)として静岡市
浜松市史 三
(浜松市役所 機構)
図書館 公会堂 商品陳列所 馬込公益質屋 寺島公益質屋 海老塚保育園 下池川保育園 馬込保育園
浜松病院
浜松市史 三
(静岡師範浜松支校 浜松中学校 静岡中学へ併合)
そのほか明治初期には県立
浜松病院
内に設立された附属医学教場通称浜松医学校(第四節第六項「近代医療と浜松
浜松市史 三
(山葉寅楠)
や木村庫太郎から元城小学校のオルガンの修理について相談をうけていた福島豊策(佐賀蓮池藩士、明治十二年
浜松病院
長
浜松市史 四
(『浜松市戦災史資料』)
このほかにも浜松市内には、①市立
浜松病院
(鴨江町)、②浜松診療所(中沢町)、③浜松市健民館(板屋町)が
浜松市史 五
(医薬分業の実施)
出店攻勢を伝え、平成十三年十二月一日発行の『浜松情報』においても、平成十四年四月、医薬分業に踏み切る聖隷
浜松病院
浜松市史 四
([空襲被害者の治療])
として、六カ所の治療救護所と、八カ所の患者収容所(城北国民学校・曳馬国民学校・日本赤十字社静岡県支部
浜松病院
浜松市史 五
([長谷川保のホスピス構想])
なお、昭和三十七年に住吉町に開設した聖隷
浜松病院
は、翌三十八年八月、聖隷病院から分離させ、他方、聖隷病院
/ 2ページ