機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
参照データ一覧
浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 35件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
浜松市史 一
(浜松荘)
浜松荘
浜松荘
延元四年四月後醍醐天皇は、妙音堂領であった
浜松荘
を左衛門督に給与した(『集古文書』),【岡部郷】応安三年(一三七〇)十月、北白河宮は京都賀茂社の片岡社に対し、
浜松荘
岡部郷を保証している(『,【詫磨氏 了俊と
浜松荘
】
浜松荘
は、後醍醐天皇領のため、北朝方におさえられた。,観応元年(一三五〇)八月、尊氏の子で直義の養子直冬は、詫磨宗直に
浜松荘
などを給与した(『詫磨文書』)。,了俊は笠原荘と
浜松荘
とが欠所地になっているので、その代官職を要求した。 /
浜松荘
浜松市史 一
(浜松荘)
浜松荘
浜松荘
後堀河天皇の皇女室町院(むろまちいん)疇子は、多くの御領(ごりょう)をもっていたが、,なかに飯田荘永定卿・
浜松荘
前左大臣、遠繁・里郷権大納言典侍武勝・宇間郷後堀川院法華堂・朝田・阿多古持明院三位入道 /
浜松荘
浜松市史 一
(浜松荘 入野木寺宮領)
浜松荘
入野木寺宮領
浜松荘
浜松荘
宇間郷に吉良氏の料所(直轄領)があった。,しかし永禄六年(一五六三)五月、今川氏真は、松下筑後入道に、
浜松荘
因幡郷などを給与している(『古証文』 /
浜松荘
入野木寺宮領
浜松市史 一
(浜松荘は大覚寺統)
浜松荘
は大覚寺統 延慶元年(一三〇八)大覚寺統では後二条天皇がなくなると、後宇多上皇は、御領を尊治(,
浜松荘
のうち宇間郷の一町の年貢米は、平教時の娘の尼尊浄の所領となったが、これが永仁四年(一二九六)の『 /
浜松荘
は大覚寺統
浜松市史 一
(飯田荘)
飯田地区が
浜松荘
の原型であるかもしれない。,
浜松荘
の飯田郷が、後伏見上皇御領になったとき、飯田荘と改め、
浜松荘
の系列下に属したのであろうか。,【宇間郷】
浜松荘
は、前右大臣西園寺公衡が領家で、遠繁が請所(うけしょ)か、代官であろう。
浜松市史 一
(木寺宮領)
木寺宮領 【入野】
浜松荘
の入野(当市入野町)に木寺宮(きでらのみや)の御領があった。,
浜松荘
入野のうちを与えられたのであろう。,【
浜松荘
の構成地区】
浜松荘
は、もとの浜松郷を中心とした荘園で、二十四郷とある(永禄十年九月十二日今川氏真判物写,(遠江国
浜松荘
宇間郷などのように
浜松荘
とあるのを確認したもの)。 ,大窪十兵衛長安(岡部文書)もこの地に関係があろうか (天竜市あたりか) 伊場郷 慶長6.1.25 岡部文書
浜松荘
浜松市史 一
(大河内氏)
貞綱は
浜松荘
領家吉良氏の代官であり、引馬城に住み、遠江守護斯波義達とともに今川氏親に抗戦して遂に敗死した
浜松市史 一
(吉良氏)
本家の権威によりしだいに勢力をえて、
浜松荘
の領家職を知行するようになった。
浜松市史 一
(都市の行政)
引馬宿は、中世では
浜松荘
の領家の代官が支配し、南北朝になると吉良氏の手に移った。
浜松市史 一
(臨済宗 方広寺派 曹洞宗)
【普済寺】このために方広寺派の勢力ものびず、応永(一三九四-一四二七)の中ごろから遠江
浜松荘
におこった,なお、
浜松荘
には方広寺派の大信道及の開いた洞雲寺(当市神ケ谷町)、的伝一著(てきでんいっちゃく)の開いた
浜松市史 ニ
(引馬を浜松と改める)
いまの当市曳馬町の地区にあたる付近は引馬・引間・匹馬・曳馬などと書かれ、中世にはもっと広い地区が
浜松荘
浜松市史 一
(引馬城の飯尾氏)
【飯尾賢連】飯尾賢連は、吉良氏から
浜松荘
の代官に任命されて引馬城に入り、のち引馬は飯尾氏の居所となった
浜松市史 一
(遠江の勢力分布)
遠江の勢力分布 このころ西遠には、南部に三河吉良氏の代官大河内氏が
浜松荘
に勢力をもち、北部に斯波氏の
浜松市史 一
(浜松御厨)
【松平氏神領】
浜松荘
は、南北朝時代に後醍醐天皇領であるから、北朝がたに押領された。
浜松市史 一
(寂室録抄の考証)
「
浜松荘
居住の菩薩戒弟子義俊」は亡女の忌辰にあたり、山河幾百里、遠く永源寺に参詣し妙法蓮華経一部を書写
浜松市史 一
(室町時代と浜松)
ただ
浜松荘
は三河吉良氏の所領で、代官の治下にあり、戦国時代に今川氏の分国となるので、それまでの施策はみるべきものがないようである
浜松市史 一
(松下氏)
徳川家康から
浜松荘
のうちを保証された松下筑後入道と之綱の関係は不明である。
浜松市史 一
(白山信仰)
当市内頭陀寺千手院に対し遠江国中での加賀国の白山先達職(せんだつしき)を保証し、市内元魚町に所在した二諦坊には、
浜松荘
浜松市史 一
(義定の軍に勝間田・横地氏従う)
十七日和田義盛・安田義定らは、遠江国の住人横地太郎長重・勝間田平三成長らをひきいて、頼朝の指令に従い、
浜松荘
浜松市史 一
(蒲御厨の徳政一揆)
【大河内氏】引馬の領主大河内氏(
浜松荘
領家吉良氏の代官)は、吉良氏を通じ遠江守護代甲斐氏に張本人の処断
浜松市史 一
(遠江の南朝方)
井伊氏の井伊城を中心とし、
浜松荘
・気賀荘など縁故のある荘園や、都田御厨がその拠点になる。
浜松市史 ニ
(藤原姓を称す)
【樹福院】つぎは天正十一年十二月七日遠江
浜松荘
樹福院(当市倉松町、現寿福寺)観音領に棟別等の免除を承認
浜松市史 一
(市庭)
京都南禅寺領の遠江初倉荘の江得郷(旧榛原郡初倉村、いま島田市)には嘉吉(かきつ)三年(一四四三)に、
浜松荘
浜松市史 一
(遠江の戦乱の一)
【大河内氏】吉良氏の知行する
浜松荘
の奉行(代官)大河内備中守貞綱は、下野守に味方しており逃亡する。
浜松市史 一
(連歌と俳諧)
】連歌師宗長(一四四八-一五三二)は、大永六年(一五二六)三月駿河から京都に帰る途中で、天竜川の西の
浜松荘
浜松市史 一
(浜松城下のばあい)
【大工職】家康は天正八年(一五八〇)三月、五郎太郎を
浜松荘
の大工職とし、大工を統制させた。
浜松市史 一
(今川氏の遠江侵入)
【引馬 大河内氏】また引馬には
浜松荘
の領家吉良氏の代官大河内氏が住んでいる。
浜松市史 一
(岡部郷)
浜松荘
もその法事の費用十五貫文(一貫文は千文、一文は銅銭一枚)を亀山上皇御所に納めた(『勘仲記』)。
浜松市史 一
(普済寺十三派)
)大慈寺からきた華蔵義曇(けぞうぎどん)(一三七五-一四五五)は、引馬城主吉良氏の代官にもとめられ、
浜松荘
普済寺
浜松市史 一
(蒲御厨)
【引馬大河内氏領】やがて
浜松荘
領家吉良氏の代官で、引馬の領主大河内備中守の勢力が蒲御厨にも入ってくる。
浜松市史 一
(繁田氏)
(引佐郡細江町) 浜松氏 今川記
浜松荘
の住人であろう。
浜松市史 一
(中世編)
三九九 北条時政下知状(浜松市 蒲神明官蔵) 四〇〇
浜松荘
構成図
浜松市史 一
(蒲御厨)
【和市 引馬市】蒲の公文は年貢・公事(くじ)・在家役(ざいけやく)の徴集権をもち、年貢を
浜松荘
引馬市で
天竜市史 上巻
(天竜市史 上巻 目次)
と天竜市域 一九四 山香郡の分置 第五節 山香荘の成立と荘域 一九六 山香庄 年貢・公事・夫役
浜松荘
汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌
(浜松市立南部公民館『汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌』 目次)
観音菩薩 龍禅寺】 16 二 くらしのひろがり〈中世〉 17 (一)土地のひろまり 【荘園
浜松荘
/ 1ページ