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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 一 (浜松荘)

浜松荘 浜松荘 延元四年四月後醍醐天皇は、妙音堂領であった浜松荘を左衛門督に給与した(『集古文書』),【岡部郷】応安三年(一三七〇)十月、北白河宮は京都賀茂社の片岡社に対し、浜松荘岡部郷を保証している(『,【詫磨氏 了俊と浜松荘】浜松荘は、後醍醐天皇領のため、北朝方におさえられた。,観応元年(一三五〇)八月、尊氏の子で直義の養子直冬は、詫磨宗直に浜松荘などを給与した(『詫磨文書』)。,了俊は笠原荘と浜松荘とが欠所地になっているので、その代官職を要求した。 / 浜松荘
浜松市史 一 (浜松荘)

浜松荘 浜松荘 後堀河天皇の皇女室町院(むろまちいん)疇子は、多くの御領(ごりょう)をもっていたが、,なかに飯田荘永定卿・浜松荘前左大臣、遠繁・里郷権大納言典侍武勝・宇間郷後堀川院法華堂・朝田・阿多古持明院三位入道 / 浜松荘
浜松市史 一 (浜松荘 入野木寺宮領)

浜松荘 入野木寺宮領 浜松荘 浜松荘宇間郷に吉良氏の料所(直轄領)があった。,しかし永禄六年(一五六三)五月、今川氏真は、松下筑後入道に、浜松荘因幡郷などを給与している(『古証文』 / 浜松荘 入野木寺宮領
浜松市史 一 (浜松荘は大覚寺統)

浜松荘は大覚寺統 延慶元年(一三〇八)大覚寺統では後二条天皇がなくなると、後宇多上皇は、御領を尊治(,浜松荘のうち宇間郷の一町の年貢米は、平教時の娘の尼尊浄の所領となったが、これが永仁四年(一二九六)の『 / 浜松荘は大覚寺統
浜松市史 一 (飯田荘)

飯田地区が浜松荘の原型であるかもしれない。,浜松荘の飯田郷が、後伏見上皇御領になったとき、飯田荘と改め、浜松荘の系列下に属したのであろうか。,【宇間郷】浜松荘は、前右大臣西園寺公衡が領家で、遠繁が請所(うけしょ)か、代官であろう。
浜松市史 一 (木寺宮領)

木寺宮領 【入野】浜松荘の入野(当市入野町)に木寺宮(きでらのみや)の御領があった。,浜松荘入野のうちを与えられたのであろう。,【浜松荘の構成地区】浜松荘は、もとの浜松郷を中心とした荘園で、二十四郷とある(永禄十年九月十二日今川氏真判物写,(遠江国浜松荘宇間郷などのように浜松荘とあるのを確認したもの)。  ,大窪十兵衛長安(岡部文書)もこの地に関係があろうか (天竜市あたりか) 伊場郷 慶長6.1.25 岡部文書 浜松荘
浜松市史 一 (大河内氏)

貞綱は浜松荘領家吉良氏の代官であり、引馬城に住み、遠江守護斯波義達とともに今川氏親に抗戦して遂に敗死した
浜松市史 一 (吉良氏)

本家の権威によりしだいに勢力をえて、浜松荘の領家職を知行するようになった。
浜松市史 一 (都市の行政)

引馬宿は、中世では浜松荘の領家の代官が支配し、南北朝になると吉良氏の手に移った。
浜松市史 一 (臨済宗 方広寺派 曹洞宗)

【普済寺】このために方広寺派の勢力ものびず、応永(一三九四-一四二七)の中ごろから遠江浜松荘におこった,なお、浜松荘には方広寺派の大信道及の開いた洞雲寺(当市神ケ谷町)、的伝一著(てきでんいっちゃく)の開いた
浜松市史 ニ (引馬を浜松と改める)

いまの当市曳馬町の地区にあたる付近は引馬・引間・匹馬・曳馬などと書かれ、中世にはもっと広い地区が浜松荘
浜松市史 一 (引馬城の飯尾氏)

【飯尾賢連】飯尾賢連は、吉良氏から浜松荘の代官に任命されて引馬城に入り、のち引馬は飯尾氏の居所となった
浜松市史 一 (遠江の勢力分布)

遠江の勢力分布 このころ西遠には、南部に三河吉良氏の代官大河内氏が浜松荘に勢力をもち、北部に斯波氏の
浜松市史 一 (浜松御厨)

【松平氏神領】浜松荘は、南北朝時代に後醍醐天皇領であるから、北朝がたに押領された。
浜松市史 一 (寂室録抄の考証)

「浜松荘居住の菩薩戒弟子義俊」は亡女の忌辰にあたり、山河幾百里、遠く永源寺に参詣し妙法蓮華経一部を書写
浜松市史 一 (室町時代と浜松)

ただ浜松荘は三河吉良氏の所領で、代官の治下にあり、戦国時代に今川氏の分国となるので、それまでの施策はみるべきものがないようである
浜松市史 一 (松下氏)

徳川家康から浜松荘のうちを保証された松下筑後入道と之綱の関係は不明である。
浜松市史 一 (白山信仰)

当市内頭陀寺千手院に対し遠江国中での加賀国の白山先達職(せんだつしき)を保証し、市内元魚町に所在した二諦坊には、浜松荘
浜松市史 一 (義定の軍に勝間田・横地氏従う)

十七日和田義盛・安田義定らは、遠江国の住人横地太郎長重・勝間田平三成長らをひきいて、頼朝の指令に従い、浜松荘
浜松市史 一 (蒲御厨の徳政一揆)

【大河内氏】引馬の領主大河内氏(浜松荘領家吉良氏の代官)は、吉良氏を通じ遠江守護代甲斐氏に張本人の処断
浜松市史 一 (遠江の南朝方)

井伊氏の井伊城を中心とし、浜松荘・気賀荘など縁故のある荘園や、都田御厨がその拠点になる。
浜松市史 ニ (藤原姓を称す)

【樹福院】つぎは天正十一年十二月七日遠江浜松荘樹福院(当市倉松町、現寿福寺)観音領に棟別等の免除を承認
浜松市史 一 (市庭)

京都南禅寺領の遠江初倉荘の江得郷(旧榛原郡初倉村、いま島田市)には嘉吉(かきつ)三年(一四四三)に、浜松荘
浜松市史 一 (遠江の戦乱の一)

【大河内氏】吉良氏の知行する浜松荘の奉行(代官)大河内備中守貞綱は、下野守に味方しており逃亡する。
浜松市史 一 (連歌と俳諧)

】連歌師宗長(一四四八-一五三二)は、大永六年(一五二六)三月駿河から京都に帰る途中で、天竜川の西の浜松荘
浜松市史 一 (浜松城下のばあい)

【大工職】家康は天正八年(一五八〇)三月、五郎太郎を浜松荘の大工職とし、大工を統制させた。    
浜松市史 一 (今川氏の遠江侵入)

【引馬 大河内氏】また引馬には浜松荘の領家吉良氏の代官大河内氏が住んでいる。  
浜松市史 一 (岡部郷)

浜松荘もその法事の費用十五貫文(一貫文は千文、一文は銅銭一枚)を亀山上皇御所に納めた(『勘仲記』)。
浜松市史 一 (普済寺十三派)

)大慈寺からきた華蔵義曇(けぞうぎどん)(一三七五-一四五五)は、引馬城主吉良氏の代官にもとめられ、浜松荘普済寺
浜松市史 一 (蒲御厨)

【引馬大河内氏領】やがて浜松荘領家吉良氏の代官で、引馬の領主大河内備中守の勢力が蒲御厨にも入ってくる。
浜松市史 一 (繁田氏)

(引佐郡細江町) 浜松氏 今川記 浜松荘の住人であろう。
浜松市史 一 (中世編)

                     三九九 北条時政下知状(浜松市 蒲神明官蔵)        四〇〇 浜松荘構成図
浜松市史 一 (蒲御厨)

【和市 引馬市】蒲の公文は年貢・公事(くじ)・在家役(ざいけやく)の徴集権をもち、年貢を浜松荘引馬市で
天竜市史 上巻 (天竜市史 上巻 目次)

と天竜市域 一九四 山香郡の分置 第五節 山香荘の成立と荘域 一九六 山香庄 年貢・公事・夫役 浜松荘
汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌 (浜松市立南部公民館『汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌』 目次)

観音菩薩 龍禅寺】 16 二 くらしのひろがり〈中世〉 17 (一)土地のひろまり 【荘園 浜松荘
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