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浜松市史 三
(浜松駅)
浜松駅
【位置問題】
浜松駅
の位置は、現在地(浜松市旭町)よりはるか南方の田圃(龍禅寺付近)の中へ最初予定,それでもなお浜松の市街地より離れ過ぎている、というものがあったと伝えられている(
浜松駅
構内に於て線路が /
浜松駅
浜松市史 三
(浜松駅)
浜松駅
【二十一年】
浜松駅
(当時は停車場またはステーションといった)が開業したのは明治二十一年九月一日 /
浜松駅
浜松市史 三
(浜松駅)
浜松駅
十一月になると遠江国に一大区毎に大区扱所が設けられることとなり(明治九年十一月二十日、甲第八十七号布達,【十年一月 大区扱所】十年一月十一日
浜松駅
に第十二大区扱所が置かれ気賀半十郎・小野田松一郎が第十二大区々長兼学区医務取締 /
浜松駅
浜松市史 三
(浜松駅改築)
浜松駅
改築
浜松駅
が一等駅に昇格したのは大正十年(一九二一)十一月。 /
浜松駅
改築
浜松市史 三
(浜松駅貨物)
浜松駅
貨物 【移入 移出】三八四・五頁表は大正期における
浜松駅
の貨物の集散状況であるが、浜松の商工業,(表)
浜松駅
貨物移出調 (大正期) 品名 大正4 大正13 t t 甘藷 1,124 1,650,1,566 鉄・鋼 ― 2,394 機械 ― 2,317 その他 ― 29,493 (表)
浜松駅
貨物移入調 /
浜松駅
貨物
浜松市史 五
([西浜松駅の誕生])
[西
浜松駅
の誕生] 【新貨物駅】 こうした市を挙げた運動の結果、昭和四十二年四月から高架化事業の,【西
浜松駅
】 昭和四十六年に入って新貨物駅の名称は西
浜松駅
と決まった。,また開業後の西
浜松駅
周辺には引き込み線を持つ企業の専用団地、セメントターミナルなどもつくられ、倉庫業者,また、天竜川駅、高塚駅、舞阪駅など周辺各駅の貨物の取扱いはその後西
浜松駅
に集約されることになった。,高架化は
浜松駅
周辺の都市改造と不可分であったため、市では昭和四十二年、同事業の影響範囲にある地域について / [西
浜松駅
の誕生]
浜松市史 五
([新しい浜松駅の完成])
[新しい
浜松駅
の完成] 【新駅舎】 新しい
浜松駅
(四代目)は、東海道本線高架と新幹線高架の下に、,【バスターミナル】 昭和五十五年十一月四日、当初の予定よりも約半年遅れて国鉄
浜松駅
北口駅前広場建設,十六角形のバスターミナルが建設され、この地下に直径五十五メートルの円形広場が設けられて、この地下広場は
浜松駅
,翌五十六年四月二十五日に
浜松駅
ショッピング街「コスタ」(東館・西館合わせて四十四店舗)が開店した。,これとほぼ平行してイトーヨーカ堂
浜松駅
前店や遠鉄百貨店の建設も進められた。 / [新しい
浜松駅
の完成]
浜松市史 四
([交通の拠点・遠鉄浜松駅])
[交通の拠点・遠鉄
浜松駅
] 【遠州
浜松駅
と東田町駅を統合】 二俣電車線の駅名変更と駅舎改築等については,これら施設増強の総決算として、三十三年六月一日には遠鉄
浜松駅
を完成させ、営業を開始した。, 【遠鉄
浜松駅
】 遠鉄
浜松駅
は、当初の構想では地上八階建て、第一期工事として地下一階,また、電車とバスの連絡を良くし、国鉄
浜松駅
前のバスの混雑を緩和するため、懸案であった遠鉄
浜松駅
前の路線,図3-47 交通の拠点・遠鉄
浜松駅
/ [交通の拠点・遠鉄
浜松駅
]
浜松市史 四
([電化の進展と浜松駅の変化])
[電化の進展と
浜松駅
の変化] 【ホーム拡張工事】 浜松─名古屋間の電化工事が始まって間もない昭和二十六年十一月,に、
浜松駅
は翌年二月中旬の完成を目途にホームの拡張工事を開始した。,これにより
浜松駅
の本線から蒸気機関車は姿を消した。,また、それに伴いそれまで
浜松駅
に停車していた特急「つばめ」と特急「はと」のうち「はと」が上り下りとも
浜松駅
,特急「つばめ」の
浜松駅
での停車時間も五分から三分へ短縮された。 / [電化の進展と
浜松駅
の変化]
浜松市史 四
([浜松駅移転構想と新駅舎])
[
浜松駅
移転構想と新駅舎] 【運輸省構想 電化優先 新駅舎の落成】 応急的なバラック駅舎の改築が,
浜松駅
の移転構想は、すでに昭和二十年九月ごろから運輸省で立案され、移転位置が決まると、二十一年から三カ,そして、計画を主に
浜松駅
の改築のみに限定して、
浜松駅
移転とそれに伴う路線変更・高架化を中止し、従来の路線,こうして同年十月二十日から待望の
浜松駅
の新築工事が始まったが、運輸省はこの新築工事を、将来、
浜松駅
移転,
浜松駅
の移転及び高架化について関係方面に運動したが実現には至らなかった。 / [
浜松駅
移転構想と新駅舎]
浜松市史 五
([JR東海の発足と浜松駅])
[JR東海の発足と
浜松駅
] 【JR東海】 昭和六十二年四月一日に、東海道新幹線と東海地域を営業エリア,『静岡新聞』(昭和六十二年四月一日付)は、国鉄最後の日の三月三十一日夜の
浜松駅
の様子を次のように伝えた,JR東海
浜松駅
に変わる国鉄
浜松駅
(滝沢寛治駅長)では新会社の〝出航〟に向け、準備万端整った。,翌四月一日、JR東海
浜松駅
のスタートを記念して午前九時からセレモニーが行われた。 / [JR東海の発足と
浜松駅
]
浜松市史 四
([浜松駅前繊維問屋街の誕生])
[
浜松駅
前繊維問屋街の誕生] 【駅前繊維問屋街】 戦後、遠州織物の問屋は
浜松駅
前の旭町(
浜松駅
前繊維問屋連盟,板屋町中通り繊維問屋連盟が設立されたのは昭和二十四年で、
浜松駅
前繊維問屋連盟は昭和二十八年に設立された / [
浜松駅
前繊維問屋街の誕生]
浜松市史 五
([新幹線の試運転と浜松駅の落成])
[新幹線の試運転と
浜松駅
の落成] 東海道新幹線の東京・新大阪間五百十五キロメートルのレールが、五年三,列車が
浜松駅
に着くとすでに上り列車は到着しており、発車直前だった」と記している。,【東海道新幹線
浜松駅
の落成式】 新幹線開業日前日の九月三十日に、東京、新大阪、名古屋、静岡の各駅から,この日、午後二時半から浜松では東海道新幹線
浜松駅
の落成式が行われ、東海道線
浜松駅
と新幹線
浜松駅
を結ぶ渡線橋 / [新幹線の試運転と
浜松駅
の落成]
浜松市史 五
([浜松駅前の複合高層施設の建設計画])
[
浜松駅
前の複合高層施設の建設計画] 【駅周辺整備計画】 東海道線の高架化が決まった後の昭和四十四年三月,、静岡県は
浜松駅
周辺地域整備の計画案を発表し、駅周辺につくるべき様々な施設などの具体案を浜松市に示した,浜松市は同四十九年九月に多くの関係者を集めて
浜松駅
周辺整備計画協議会(会長は平山市長)を立ち上げ、多くの / [
浜松駅
前の複合高層施設の建設計画]
浜松市史 四
([浜松駅、東海道本線の拠点駅へ])
[
浜松駅
、東海道本線の拠点駅へ] 【機関車の付け換え駅 浜松電化祭 国鉄の人員整理 浜松まつり ハーモニカ,電化後しばらく貨物列車の多くは蒸気機関車が牽引したが、
浜松駅
は急行列車や特急列車などを牽引する電気機関車,また、機関車の付け換え駅となった
浜松駅
のホームでは、付け換え時間を利用したユニークな光景が見られるようになった,二十八年七月二十一日の浜松―名古屋間完全電化の前日限りでその姿を消すことになるが、ハーモニカ娘は以後約二十年にわたって
浜松駅
,図2-42
浜松駅
ホームでのラジオ体操 / [
浜松駅
、東海道本線の拠点駅へ]
浜松市史 三
(商業地域 浜松駅開通 新興商店街)
商業地域
浜松駅
開通 新興商店街 【鍛冶町 旭町】商業地域は、依然として東海道筋の田町・神明町・連尺町,・伝馬町が中心であったが、
浜松駅
が開通すると、二十七年には鍛冶町の齢松寺が元城(浜松城本丸跡)に移り、 / 商業地域
浜松駅
開通 新興商店街
浜松が生んだ名建築家中村與資平展
((4)遠州電気鉄道旭町駅(本社)のちの遠州鉄道新浜松駅(本社))
(4)遠州電気鉄道旭町駅(本社)のちの遠州鉄道新
浜松駅
(本社) 1927(昭和2)年旭町まで線路をのばした,しかし、
浜松駅
周辺整備事業により、昭和56年に取りこわされた。 / (4)遠州電気鉄道旭町駅(本社)のちの遠州鉄道新
浜松駅
(本社)
浜松市史 五
(遠州鉄道高架化事業)
遠鉄高架は東海道線の高架、
浜松駅
周辺整備とともに一体の事業として昭和四十七年に都市計画決定されたものである,国鉄
浜松駅
前の新
浜松駅
から遠州馬込駅でスイッチバックして遠鉄
浜松駅
に至る区間を廃止し、新しい国鉄
浜松駅
,栗原市政下の昭和五十五年七月五日、
浜松駅
前整備と遠鉄高架化問題についての市政懇談会が開かれた。,これらの意見を調整し、高架化された国鉄
浜松駅
への乗り入れはやめて、現在の新
浜松駅
を起点とし、昭和五十五年十二月十一日,高架化の完成で新
浜松駅
―西鹿島駅間の所要時間はこれまでの四十分から三十六分に短縮された。
浜松市史 五
(遠鉄高架化事業)
遠鉄高架化事業 遠鉄高架化事業は、遠州助信駅から新設される新
浜松駅
までの二・六四キロメートルを高架橋,遠州助信駅から遠鉄
浜松駅
付近までは都市計画街路曳馬中田島線の中央分離帯上空、その先の遠鉄
浜松駅
から新しく,出来る新
浜松駅
までは新川上空に高架橋が建設される計画であった。,同事業は、東海道線高架化、
浜松駅
周辺整備事業と一体のものとして計画され、東海道線高架化が完成する昭和五十四年秋,遠鉄高架化を受けて、JR
浜松駅
、新
浜松駅
周辺には様々な大型商業施設が相次いで開業し、一層にぎわいを増した
浜松市史 三
(市営バスの誕生)
(表)浜松市営乗合自動車運行状況 路線名 経由地 距離 回数 km 1日 西廻線
浜松駅
鴨江,広沢 名残 追分 下池川 野口
浜松駅
(相互循環) 7.9 158 東廻線
浜松駅
龍禅寺 北寺島,向宿 天神町 佐藤 野口
浜松駅
(相互循環) 6.9 43 北廻線
浜松駅
千歳 平田 伝馬 元城,山下 高林 助信 野口
浜松駅
(相互循環) 6.5 38 中田島線
浜松駅
中田島(夏季6か月季節運転,) 4.9 5 佐鳴湖線
浜松駅
中山町 高町 広沢 小薮(夏季3か月季節運転) 4.9 4
浜松市史 四
([駅本屋と上下ホーム等の焼失])
[駅本屋と上下ホーム等の焼失] 【
浜松駅
の戦災被害 運休状況】 終戦とともに浜松にも待望の平和が,しかし、
浜松駅
は昭和二十年(一九四五)六月十日のB29による高性能爆弾投下によって駅舎と客車用の二本の,また、
浜松駅
が米軍に提出した資料によれば、空襲による
浜松駅
を通過する列車の運休状況は、次の通りであった,とはいえ、戦中から戦後にかけて、
浜松駅
はこれ以外には休むことなく列車の運行を続け、乗降客と発着貨物を取
浜松市史 五
([新幹線ひかり号の増停車])
[新幹線ひかり号の増停車]
浜松駅
に停車する「ひかり」「こだま」の本数は、平成に入ってしばらくの間は,これにより「ひかり」の停車数は
浜松駅
で一日上下十本増え、上下合わせて二十六本に増加した。,このダイヤでは、
浜松駅
の上りで午前六時~九時と午後五時~九時、下りで午前八時~十一時と午後五時~十一時,また、
浜松駅
に午後十一時十二分に到着する東京駅午後十時発の「ひかり」が新設された。
浜松市史 五
([こだまの増発とひかり号の停車])
[こだまの増発とひかり号の停車] 【こだまの増発】 「こだま」の
浜松駅
停車本数は、新幹線開業時には,昭和四十七年七月、浜松市、浜松商工会議所、同市観光協会の三者は、「ひかり」の
浜松駅
停車と「こだま」の増発,【ひかり停車】 待望の「ひかり」が初めて
浜松駅
に停車することになったのは、昭和五十五年十月のことである,他方、「こだま」の
浜松駅
の停車本数は、上下各四十三本、合計八十六本に削減された。 ,これに対して「こだま」の
浜松駅
の停車本数は、上下合わせて八十二本から七十二本へ減少した。
浜松市史 三
(乗合バス 浜松循環自動車会社)
これは昭和二年に
浜松駅
中心に四コース、料金一区十銭をもって計画された浜松市街循環自動車に、浜鉄が計画の,
浜松駅
・元城駅間の連帯運輸路線を吸収して創立された会社であった。,営業路線は市内大循環線と、
浜松駅
と元城駅間(浜鉄と連絡)を結ぶ二路線であった。,【東廻り 西廻り 北廻り】大循環線(下池川・追分・名残・広沢・鴨江・鍛冶・
浜松駅
・砂山・龍禅寺・北寺島,佐鳴湖遊園バス株式会社(昭和五年八月設立)を合併し、また翌十年には中田島自動車株式会社(昭和五年十月設立、
浜松駅
浜松市史 五
([自動改札機の導入])
県内の東海道本線では、
浜松駅
・三島駅間の十四駅に導入することが決まり、西部地方から三駅程度ずつ配置されることになり,同十年三月七日には、
浜松駅
にも自動改札機が設置された。,なお、
浜松駅
では南口と乗り換え口の二カ所に設置された。
浜松市史 五
(駅前整備)
駅前整備 【北口駅前広場 バスターミナル 南口駅前広場】 これまでの
浜松駅
の駅前広場は極めて狭隘,昭和四十一年十月に完成した
浜松駅
前ビルの竣工などにより、北口の面積は四千四百平方メートルとなった。,特に
浜松駅
前ビルは地下二階、地上八階の巨大なビルで、三菱信託銀行や河合楽器製作所の音楽教室などが入り、,その後、東海道本線の高架化事業の決定により、新たに
浜松駅
周辺土地区画整理事業が実施されることになり、昭和四十六年,一万八千九百平方メートルに変更となり、昭和五十七年十一月一日にその中心となるバスターミナルが供用を開始、これにより
浜松駅
浜松市史 五
([東海道線高架化促進運動])
[東海道線高架化促進運動] 【高架化促進期成同盟会】 国鉄新幹線
浜松駅
設置期成同盟会は所期の目的,昭和三十九年八月、国鉄中部支社長から
浜松駅
高架化計画の概要が明らかにされ、同四十年十二月には国鉄の第三次長期計画,しかし高架化は、
浜松駅
の客貨分離、
浜松駅
の同新幹線駅北側への移転、相生─森田間の高架化と三段構えになっており
浜松市史 四
([バラック駅舎からの出発])
駅舎 乗車人数の急増】 終戦直後の昭和二十年八月二十五日夜、雨の中を満員の列車で復員した少年兵は、
浜松駅
,れっきとした
浜松駅
構内であった。,空襲で焼失した
浜松駅
は、焼け残った木材、トタン等によって応急的に修復されたバラック駅舎で戦後を出発しなければならなかった,
浜松駅
の乗車人数は、昭和十四年に約二百五十万人であったが、二十年には約四百万人に、二十二年には約五百七十万人
浜松市史 五
([列車の電車化とスピードアップ])
浜松駅
の利用客は、乗客数で見ると、昭和三十四年の約七百万人から二年後の三十六年には約八百万人、さらに四十年,
浜松駅
に向かう列車と
浜松駅
の混雑は、年々激しさを増していった。 ,【電車化】 この間、
浜松駅
に発着する列車の本数とそのうちの電車の本数を時刻表により調べてみると、
浜松駅
発着,しかし、昭和四十年には
浜松駅
に一日平均五万人もの乗客が乗り降りしたため、普通列車については、電車化に加,第二こだま」(東京―大阪間)のほかに、「あさかぜ」(東京―博多間)と「おおとり」(東京―名古屋間)が
浜松駅
浜松市史 四
([何でも揃っているやみ屋])
一つは国鉄
浜松駅
から遠州鉄道の遠州
浜松駅
を結ぶ板屋町(広小路)の大通りであり、二つめは国鉄
浜松駅
前であった,されるようになり、買い出しの人々が行き来する二つの駅の間がやみ市となったと考えられる(遠州鉄道が国鉄
浜松駅
前
浜松市史 五
([国鉄財政再建])
まず国鉄運賃について見ると、
浜松駅
─静岡駅間の運賃は、昭和四十九年に三百二十円だったものが昭和五十二年,また
浜松駅
の乗客輸送人数は、昭和四十九年の約九百七十万人をピークに昭和五十七年には約八百五十八万人へ百万人以上減少,
浜松駅
の乗客輸送人数が上昇に転ずるのは国鉄分割・民営化後のことである。,また、国鉄貨物について見ると、市内の貨物取扱数が減少傾向を示す一方、貨物の取り扱いは、漸次西
浜松駅
に集約,この結果、舞阪駅は昭和四十九年、
浜松駅
は五十一年、高塚駅は五十八年、天竜川駅は五十七年(専用線発着を除
浜松市史 三
(浜松掛塚線)
もとは大正九年本多一明(愛知県出身)が、
浜松駅
を起点として五人乗のフォード幌付自動車一台で営業をはじめた,その後
浜松駅
南口を経由する路線や五島方面へ行く路線も設け、昭和十年ごろにはロマンスシート車も採用し、銀色
浜松市史 四
([利用客の動向と能力の限界])
既述のように、同年に奥山線の起点である東田町駅と二俣電車線の遠州
浜松駅
とが遠鉄
浜松駅
に統合され、バスの,幸町、追分の三停留場新設 10月 1日 豊岡停留場を新設 28年 8月 1日 旭町駅を新
浜松駅
,日 岡地停留場の営業再開 32年 9月15日 元城駅の駅舎竣工 33年 6月 1日 遠鉄
浜松駅
浜松市史 五
([東海道本線の高架化事業])
[東海道本線の高架化事業] 【高架化 東海道線高架化促進期成同盟会 西
浜松駅
】 浜松の市街地は東海道本線,昭和三十七年三月七日、国鉄新幹線
浜松駅
設置期成同盟会は目的達成のために解散、同日新たに東海道本線の高架化,森田町への移転が同四十二年七月十七日に国鉄が正式に決定、そして同四十六年四月二十六日に新しい貨物駅(西
浜松駅
浜松市史 四
([浜松─豊橋間の電車運転])
この時の
浜松駅
の様子を『静岡新聞』(昭和三十二年三月十一日付)は、「上下線を(と)も同時に始められているので,-25 天竜川・浜松・高塚・舞阪各駅の乗車人員数の推移 単位(人) 年度 天竜川駅
浜松駅
,884,912出典:『鉄道統計年報』第1編運輸 鉄道各駅旅客発着通過人員表より作成 図3-41
浜松駅
,の貨物発着トン数(年度別)
浜松駅
貨物取扱実績による。
浜松市史 五
([市の通過コース提案])
こうした中、国鉄当局から
浜松駅
設置が内定したことが伝えられ、十月十日には国鉄当局の浜松通過コース地域の,【
浜松駅
設置の決定】 一方、十一月十四日には
浜松駅
を含む十一の新幹線駅(東京、横浜、小田原、熱海、
浜松市史 五
(駅前再開発)
駅前再開発 東海道線の高架化に伴って
浜松駅
周辺の再開発と大型店の進出計画が打ち出された。,【
浜松駅
ショッピング街・コスタ】 このような駅前広場の整備に伴って大型小売店の進出が計画された。,昭和五十六年四月、浜松ターミナル開発株式会社は東海道線と新幹線の高架下に
浜松駅
ショッピング街・コスタ(
浜松市史 三
(日露戦争 浜松婦人会)
【
浜松駅
接待】
浜松駅
通過の軍隊は、浜名郡犒軍団(浜名郡民によって組織された浜名郡各駅通過軍隊の犒軍を目的,
浜松駅
には茶・煙草・菓子などを供えた供茶休憩所を設け、ピアノを置いて弾奏し慰安に心を配った。
浜松市史 四
([市内中心部の被害甚大])
結果として本社ビル一階の旭町駅と遠州馬込駅、遠州
浜松駅
は焼失(全壊)、旭町駅─遠州
浜松駅
間は線路の破損
浜松市史 五
([新幹線の開業])
新幹線
浜松駅
の設置に始まって、北線実現と高架化実現に向けて運動を重ねて来た浜松市民の喜びもひとしおであった,【こだま停車】 この日から
浜松駅
には上下各十四本の特急「こだま」が停車することになった。,座席は全て指定で特急券は各駅に割り当てられることになっていたため、割当て枚数の関係で
浜松駅
では特急券がなかなか
浜松市史 五
([浜松まちなかループの運行])
[浜松まちなかループの運行] 平成に入ると、昭和六十年前後の
浜松駅
周辺への大型店の進出や大型店の郊外出店等,コースは時計回りの西ループ(
浜松駅
発十時~十八時三十分)と反時計回りの東ループ(
浜松駅
発十時七分~十八時三十七分
浜松市史 四
(緊急戦災復興対策懇談会)
参集したのは藤岡浜松市長、上原憲兵分隊長、中西地方事務所長、藤山
浜松駅
長をはじめ、交通・運輸、電力・電灯,初めに交通機関の復元強化を提案しているが、これは国鉄
浜松駅
の移転や遠鉄電車の
浜松駅
乗り入れ、浜松鉄道の,拡幅と
浜松駅
乗り入れ、トラック・バスの運営合理化を意味していた。
浜松市史 三
(日清戦争)
【
浜松駅
接待】これを町会の動きでみると、明治二十七年八月
浜松駅
を通行する軍人接待費の支出を可決、十二月広島大本営
浜松市史 三
(南口駅)
南口駅 ②については大正十五年以来、駅南出身の堀内勝治郎・神田太作等の有志により
浜松駅
南口停車場開設促進連盟,が組織され、昭和三年には開設寄付金の募集や用地取得についても努力が行なわれた(水谷家文書『
浜松駅
南口開設寄付請書,(表)
浜松駅
における貨客取扱高 年次 旅客 小荷物 貨物 乗車 降車 出荷 入荷 出荷 入荷 人
浜松市史 五
([国鉄による最終案の提示])
これがいわゆる坂本私案と言われるもので、市が要望してきた北線とは一部コースの経過地点が異なるが、
浜松駅
,【コースの正式決定】 国鉄新幹線浜松コースと
浜松駅
の位置(東海道本線
浜松駅
の南約八十メートル)は、,キロメートル、うち東部中学校 から成子町切通しまでの2.5キロが高架構造。移転家屋570戸、駅舎は国 鉄
浜松駅
浜松市史 五
([放置自転車への対応])
また、
浜松駅
周辺には有料の自転車預かり所が幾つかあったが、有料を嫌って歩道に停める人たちが増え、
浜松駅
表口西側,放置自転車が最も多かった
浜松駅
周辺で昭和五十六年七月に市の道路維持課が調べたところ、駅周辺の放置自転車,これによると
浜松駅
に近いところは自転車等放置禁止区域として、直ちに撤去し、木戸町の保管所へ、その外側一帯
浜松市史 三
(市街電車)
【遠電案】遠電出願路線は、第一次案(大正十四年一月)は
浜松駅
と第二中学校を単線電車で結ぶ案であったが、,との連絡路線を設けるとともに、広沢普済寺前から南進して東海道に至る案であったが、第二次案は板屋町駅から
浜松駅
前
浜松市史 五
([駅前バスターミナルの完成])
[駅前バスターミナルの完成] 【バスターミナル】 昭和五十七年十一月一日、
浜松駅
北口にバスターミナル,各バースへは、
浜松駅
や周辺街区と地下広場へ通ずる四本の地下道を通って上る仕組みであった。,ただし、ターミナルの許容量の関係で、従来
浜松駅
北口まで路線が延びていた南部方面の路線バス(市営バス五路線
浜松市史 三
(被爆地域)
に弾道音と弾着音が激しく、次第に鹿谷(しかたに)から浜松城址方面へ移り一旦砲声は跡絶えたが、再開後は
浜松駅
,からの報告によると、敵艦隊は八隻で遠州灘を東から西へ航行しながら砲撃を行なったということで、被爆地域は①
浜松駅
,死者の大部分は六月十八日の空襲に人々が助かった
浜松駅
前の防空壕に砲弾が直撃したための五十三名と、駅東方
浜松市史 五
([新幹線計画のスタート])
最終答申から間もなく、浜松市は新幹線駅誘致へ向けた運動をスタートさせ、昭和三十四年四月には国鉄新幹線
浜松駅
設置期成同盟会準備会,同年五月一日に平山市政がスタートすると、六月九日に市議会に国鉄新幹線
浜松駅
設置特別委員会が設置された。
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