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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 ニ (渡辺蒙庵)

渡辺蒙庵 江戸幕府が封建教学として奨励した朱子学に対して、批判的な学派が起こり、そのはじめに現われたものに,徂徠学は太宰春台(だざいしゅんだい)らによってひろめられていったが、その門人渡辺蒙庵は浜松に漢学塾を開,渡辺蒙庵著老子愚読(浜松市立図書館蔵) / 渡辺蒙庵
浜松市史 ニ (渡辺蒙庵)

渡辺蒙庵 真渕は当時若宮小路(当市大工町)に塾を設けて門弟の教育にあたっていた渡辺蒙庵について漢学を,しかし清水浜臣の『泊洦筆話』に「県居翁わかくして遠州にすまゐさせられしをりは、漢学に心をふかめて、渡辺蒙庵 / 渡辺蒙庵
浜松市史 三 (渡辺市政終る)

渡辺市政終る 「輸入市長」といわれた渡辺素夫はさきに大正十三年八月任期が終ると再び迎えられて再任(第五代,昭和三年(十一月)改選の際には市会の推薦が得られず、地元出身の中村陸平に市長の座を明け渡し、二期にわたった渡辺市政 / 渡辺市政終る
浜松市史 ニ (渡辺崋山とその影響)

渡辺崋山とその影響 江戸末期の代表的画家に渡辺崋山(かざん)(一七九三-一八四一)がある。,崋山(三河田原藩家老渡辺定道の長子)は金子金陵・谷文晁などに学んで浮世絵の長所や西洋画の陰影法をとりいれて / 渡辺崋山とその影響
浜松市史 三 (市会)

市会 【自治会 戊辰会】昭和三年、渡辺市長の任期満了の八月が近づくと、新市長には市民よりの市長選出の,もっとも井上剛一・高柳覚太郎といった市会の長老たちの間には渡辺市長と政策協定を結びその留任を認めるという,動きがないわけではなかったが、情勢を察した渡辺市長は七月に引退の声明を発表してしまった。
浜松市史 三 (四代五代市長 都市問題 市機構改革)

四代五代市長 都市問題 市機構改革 【渡辺素夫】竹山市長が大正九年三月二十四日満期退職となると、迎えられて,渡辺素夫(熊本県出身、元治元年生、元警察官、明治四十四年榛原郡長、その後田方・浜名郡長を経て浜松市長となる,「輸入市長」といわれた渡辺は昭和三年八月退職まで二期にわたり浜松市長を勤めた。,浜松が工業都市として発達した時代で、そのため都市としての問題がつぎつぎと起り、渡辺市政はこれらの解決に,渡辺素夫
浜松市史 三 (調停成立)

調停成立 これにもとづいて、八月八日午前三時三十分頃、労資協調会理事添田敬一郎・渡辺素夫市長・鈴木幸作市議,・藤田調停官補・坂本県庶務課長・高野浜松署長らで手打ち式が行なわれ、次のような覚書が会社・添田・渡辺市長
浜松市史 ニ (服部保庵)

保庵は姉の夫渡辺友益が早く没したので、その三人の遺児の養育に努めた。,のも遺児の一人渡辺蒙庵は屈指の漢学者となった。保庵は享保十二年没、享年五十七。墓所紺屋町心造寺。
浜松市史 五 ([医師の増加])

から抜けば、開業医渡邊登が挙げられようか。,右書の「座談会」の記事中に室久敏三郎が渡邊登を総括した評言が見える。,それは「渡辺教マインドコントロール」である。,渡邊登(大正四年―平成二十年)の思想と行動の原点は父兼四郎の生き方にあろうか。,室久がいう「渡辺教」のカリスマ性であろう。  
浜松市史 三 (市民市長)

大正十年に新市域となった天神町村出身の市会議員であったが、望まれて市長に就任し「輸入市長」といわれた渡辺素夫,けだし大正後半期の渡辺市政から昭和初期の中村市政にかけては浜松市政に一時期を刷する時期でもあった。
浜松市史 ニ ([医学])

[医学] 浜松の医家では、寛文時代に後道の渡辺玄之、享保年間に大工町の渡辺蒙庵(国学漢学参照)・田渕玄統,渡辺玄之の祖は、永純といい三河国(愛知県)牛窪に住み今川氏に属していたが、氏真の失脚後浜松に移り家康に
浜松市史 三 (調停の動き)

八日、渡辺市長・松本半蔵県会議員は県に赴き、伊東知事・毛利警察部長と会見して、調停方を依頼している。,六月四日に評議会の代表者は渡辺市長と会見し、はじめて争議の仲裁を申し入れた。
浜松市史 ニ (水野氏以前の教育)

【渡辺蒙庵】また、えらばれて松平豊後守資訓の侍講(じこう)となった学者に渡辺蒙庵(もうあん)がある(前述
浜松市史 四 ([聖隷保養農園付属病院])

[聖隷保養農園付属病院] 【聖隷保養農園 渡邊兼四郎 聖隷保養農園付属病院】  聖隷保養農園の成立経緯,同十七年には聖隷保養農園は財団法人(初代理事長渡邊兼四郎)の認可を受けて付属病院(初代院長平野清彦)を,すでに早く昭和六年には市内東田町の開業医にして非常勤の勤務医である渡邊兼四郎から病棟寄付(六室)の援助
浜松市史 三 (後任市長紛争 六代市長)

ときに八月十一日ですでに渡辺市長の任期満了の日は過ぎていた。,【中村陸平】中村陸平も市会の全会一致の推薦ならばとこれを受諾し、渡辺市長辞任後四か月余に亘る後任市長問題
浜松市史 三 (女子商業学校)

設立者は池谷庄太郎・津倉亀作・山下信太郎・渡辺兼四郎などで、その代表芥菊太郎(昭和十八年三月没)が初代校長
浜松市史 ニ (引馬城主飯尾連竜の離反)

にあてた家康の老臣酒井忠次・石川数正連署の起請文、同九年正月六日付で安芸守・加賀守両人に送った家康の家臣渡辺庄右衛門,を守り、元和四年徳川頼宣に仕えることになった『新居町史』史料編一)がかさねて家康に降伏したので、家臣渡辺勢
浜松市史 ニ (藩の武芸者)

秀でた者は、剣術では直真影流浅村太兵衛、柔術では浅山一伝流上遠野杢右衛門・随変流大島安兵衛、馬術では渡辺高右衛門,ことに渡辺の馬術は当時秀れたものとして知られていた。
浜松市史 三 (平版印刷)

これは浜松塩町の渡辺安次郎が明治十年ごろに印刷機を購入し、石版職人を招いて、銅版に捨版を刻り輪郭を石板石
浜松市史 三 (陶工)

陶工 陶磁器工 明治の初めに和地山から陶器を産し(「浜松県一覧表」)、また渡辺某という陶工があり、大堀
浜松市史 三 (争議解決条件)

各勤続日数及び賃銀を標準とし解雇手当として支給する事、以上  大正十五年八月八日  調停者 添田敬一郎 渡辺素夫
浜松市史 三 (物品販売業)

旭日氷糖株式会社 砂山町 下駄履物 鍵屋 田 〃 木綿屋 〃 〃 新若森 伝馬 〃 ○若森 鍛冶町 〃 渡辺九一郎,中屋万年筆店 連尺 楽器 ●日本楽器製造株式会社 中沢町 連尺町 〃 ●河合楽器製造所 寺島町 材木 渡辺製材所,田 〃 津倉材木店 新 〃 渡辺材木店 平田東 〃 杉屋材木店 元名残 〃 村井材木店 板屋 〃 杉山材木店
浜松市史 五 (浜松方式)

【渡邊登】  しかし、これには開業医と病院、質の違う病院と病院、医師と行政側という三者の協調が前提にある,これを牽引したのが渡邊登医師の思想と行動であり、室久敏三郎をして「渡辺教マインドコントロール」と総括させたものである,「渡辺先生が開業医と病院を分けて開業医はベッドを持たないとしたことが大きかった」(『救急医療の歩み』所収
浜松市史 ニ (内山真竜)

二十三歳で真渕に入門して国学を学び、歌文の添削をうけ、二十六歳で渡辺蒙庵について老荘漢籍を学び、三十一歳
浜松市史 五 ([県西部浜松医療センターに向かう必然性])

これについては、『新編史料編六』 八医療 史料3「県西部浜松医療センターの開院」の解題・解説の部分で渡邊登医師,渡邊登は例えば内科と外科・婦人科との間に差異があることを述べている。,【渡邊登の切言】  右の記念誌に所収された坂本幹雄・竹之内弘・美甘研一・阿部正昌の論文には会員の経済的負担,また、渡邊登は医学教育を論ずる者は、医療制度、医療経済を無視しては無意味であると切言している。  
浜松市史 一 (天野氏 尾上氏 奥山氏)

天野氏は今川氏から「惣領地頭」とよばれ、犬居の地帯と遠江北部の所領を知行し、尾上・渡辺・和田氏ら在地の
浜松市史 ニ (杉浦国頭)

杉浦国頭 国頭は延宝六年(一六七八)八月二十三日、医師渡辺竹庵の次男として浜松後道(うしろみち)(当市千歳町,; 敷智郡浜名郷三箇日村 県靱負正邑 同 5 山名郡鎌田 袴田左仲為仲 同   杉浦渡辺両家関係略系
浜松市史 三 (浜松医学校新設)

中川澪忠・富田玄仙(浜松塩町)・木村質文(浜松下垂町)・宮下歓哉・久野貞三(浜松伝馬町)・宮崎保之・渡辺謹弥
浜松市史 ニ (勝頼高天神城を攻略)

長忠は信興と改名するが、渡辺信重も行動をともにしている。
浜松市史 ニ (蒙庵門人)

の住職釈躰空の『懐旧録』によると「当時学に従事する者、其門に出ざるはなし」とあり、(内田旭「浜松処士渡辺蒙庵
浜松市史 五 ([病棟内の薬剤師])

【渡邉亨】  医薬分業の赴くところは右の状況が必至となろうか。,このチーム医療について開業医である浜松オンコロジーセンター渡邉亨が、現場からの発言をしている(平成二十五年三月一日付
浜松市史 三 (評議会弾圧 争議団動揺 協調会案受諾)

そこで翌七日添田理事は再び来浜し、渡辺市長(日本楽器会社株主)・鈴木幸作市議とともに天野社長・小竹監査役
浜松市史 一 (信長と天竜川)

信長は舟をあがり、右手の浜名の橋で家康の家臣渡辺孫一郎から橋や今切の由来を聞き黄金を与えた。
浜松市史 ニ (百人一首講義)

(1)袴田縫之助 (1)山住外記 (1)山崎千倉 (2)教興寺 (2)善正寺 (4)木村松意 (3)渡辺杏安
浜松市史 ニ (山本源吉)

【浜松の四天王】その序文に山本源吉を「浜松の四天王と衆人称せり」と記している(四天王とは渡辺蒙庵・賀茂真渕
浜松市史 三 (内田旭)

このほか『渡辺蒙庵の研究』『村尾元融兄弟』『浜松の村尾元融』『浜松の大雄庵』『遠州の先賢掛川海野予介』
浜松市史 ニ (遠江国侍の来服)

本知)・浜名郡堀江城主大沢基胤(本知)・中安安定・権太泰長(以上大沢一族)、閏五月鱸源六郎(本知)・渡辺三左衛門尉
浜松市史 ニ (囲穀奨励)

【崋山の感想】天保四年正月二十八日に浜松を通った渡辺崋山も輿夫から、水野忠邦が領民から人望のないことや
浜松市史 三 ([浜松警察署移転問題])

渡辺市政時代は過ぎ、中村陸平市政の時代であった。
浜松市史 ニ ([幕末の算法])

【渡辺謙堂】その門に金指(引佐郡引佐町)の渡辺兵治謙堂がある。,「浜松藩         軽部佐一郎敏武   引佐郡金指町      渡辺兵治謙堂   敷智郡浜松宿,渡辺謙堂作遠江小図(浜松市鴨江 渥美静一氏蔵) 安間好易編追遠発矇(浜松市城北 塚本五郎氏蔵
浜松市史 四 (『労苑』)

    評論=岡本富郎、三輪信一、渡辺忠雄   創作=勝見次郎、気賀百合子   随筆=
浜松市史 三 (自由画教育 粘土細工 綴方教育)

女子校)の『みどり』、北小学校の『北光』、曳馬小学校の『夕やけ』、三方原小学校の『れいめい』、可美小学校渡辺巌太郎
浜松市史 ニ (浜松町奉行)

林孫右衛門 松平伊豆守 石川善兵衛 役替 大久保彦八 并川源五兵衛 善兵衛代 沖慶右衛門 渡辺弥六
浜松市史 ニ (杉浦国満)

杉浦国満 国満は正徳五年(一七一五)五月十一日渡辺玄之の子として、後道(うしろみち)(当市千歳町)に
浜松市史 三 (岡部譲)

岡部譲 譲(嘉永二年一月生、昭和十二年四月没)は浜松藩学校克明館に学び、明治四年上京「平田・矢野・渡辺等皇学
浜松市史 ニ (浜松宿内と周辺の私塾寺子屋)

浜松における私塾のうち、もっとも早く、開設されたのは渡辺蒙庵(一六八七-一七七五)が若宮小路(いまの大工町
浜松市史 ニ (漁業と貢租)

船運上として延享三年(一七四六)鰹百二十本代を一本につき二十八文ずつ鐚三貫五百文を上納している(舞阪町『渡辺文書
浜松市史 三 (郷学校)

浜松板屋町 ●久保田行哉 〃 浜松利町 ●中村かう 〃 浜松白山下 ●鈴木忠三郎 〃 浜松鴨江小路 ●渡辺宗蔵
浜松市史 三 (爆弾事件)

)は、争議団としては解決の曙光が見出されないので遂に七月十六日、決死隊を募り一隊は鴨江観音に集合して渡辺市長宅
浜松市史 三 ([書籍の発刊と書籍店])

浜松山下久太郎編 浜松魁新誌社 静岡県遠江国敷知長上浜名郡管内図 18.5 浜名郡役所編 浜松紺屋町渡辺安次郎刊
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