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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 三 (火災)

火災 つぎに火災をあげると、   【宝来亭】大正十二年三月十五日 伝馬町寄席宝来亭より出火し、平田町 / 火災
浜松市史 一 (火災)

火災 冬は天気が良くて空気が乾き、かつ西風が強いから火災が発生しやすく、この季節に大火が起こりやすい,浜松町在々出火之覚という項があり、寛文五年(一六六五)から享保十三年(一七二八)にいたる間に発生した主な火災十六件 / 火災
浜松市史 四 ([火災予防])

[火災予防] 戦後の自治体消防は単なる消火にとどまらず、火災予防に重点を置いたことは第二章で述べた通,また、昭和三十年十二月に浜松市消防本部は消防団などとの連名で、火災時の通報の仕方を書いた四カ条の張り紙,その中で、「火災を迅速に通報することや初期防火に協力することは市民お互の義務」と伝えている(『新編史料編五,静岡市では昭和十五年(一九四〇)に五千軒を焼く静岡大火があり、戦後も二俣や熱海で大きな火災が起きた。 / [火災予防]
浜松市史 四 ([火災防止推進本部])

[火災防止推進本部] 【火災防止推進本部】  昭和三十三年、市内の自治会連合会などにより設置された,町を住みよくする会の事業の一環として、火災防止推進本部が設けられ、市民のために火災予防の普及と啓発及び,火災防止推進本部の実践活動には次のようなものがあった。 / [火災防止推進本部]
浜松市史 四 ([浜松西高等学校の火災])

[浜松西高等学校の火災] 【浜松西高校】  昭和二十九年七月五日午前三時半ころ、西伊場町の県立浜松西高等学校,  【火災保険】  火災直後の七月七日の『静岡新聞』に、火災保険の記事が取り上げられた。,浜松西高は火災保険が全く掛けられていなかったが、当時の県立高等学校六十三校中、掛けてあるのは浜松工業高校,しかし、この火災を契機に再検討を加えるのではないかと報じている。,図3-10 浜松西高等学校の火災を報ずる『濵松西高新聞』 / [浜松西高等学校の火災]
浜松市史 四 ([商店密集地での火災])

[商店密集地での火災] 【鍛冶町】  昭和二十八年五月十五日午前四時過ぎ、鍛冶町の有楽街入口の飲食店,この火災で火元の飲食店の三階で就寝中の家族六名が焼死するという大惨事となった。,白昼の火災でこれだけの大火になった原因は、放火で火の回りが早かったこと、人家が密集しており、道路が狭く / [商店密集地での火災]
浜松市史 五 ([婦人防災クラブ、幼年消防クラブの結成])

[婦人防災クラブ、幼年消防クラブの結成] 戦後、消防が新制度の下に発足してからは、火災を消すことはもちろんだが,、火災が発生する以前のいわゆる火災予防という見地から特に予防行政に重点が置かれてきた。,その予防行政は火災を未然に防ぐことを目的としたもので、その一つに民間の防火組織の育成がある。,【婦人防災クラブ】  浜松市では昭和五十二年(一九七七)四月火災等の災害から家庭を守るという自覚の下,昭和五十五年二月に発足した蒲地区婦人防災クラブは、同年五月市消防本部の協力で天ぷら火災の際の初期消火法
浜松市史 四 ([派出所の建設と新しい装備])

これは火災現場から消防本部に状況を即刻連絡するために設けられたものである。,鴨江町に消防署があった時代では警察署の望楼で火災発見のため絶えず巡視をしている監視員の姿が見られた。,浜松市役所の望楼は高さが三十六メートルもあり、夜間は掛川方面の火災も発見できた。,ところで、火災が発生した場合は電話による通報もあった。,昭和二十五年に浜松市消防本部などが出したお知らせには、火災が発生した場合は電話で「火事々々」と呼べば、
浜松市史 五 (相互応援協定)

結成の狙いは、火災原因の中で子供の火遊びによる火災が多く、特にそのほとんどが幼児の火遊びによって発生している,には、私立幼稚園三十一園、一万一千五百三名、指導者七十六名により、花火教室の開催および消防署の見学など火災予防
浜松市史 三 (明治八大火事)

明治八大火事 以上の火災と小野組の火災を合わせ明治の八大火事という。
浜松市史 三 (少年消防隊)

少年の火災予防消防思想を養成し、消防組の規律訓練を学校教育の訓育に資するのが設立の趣旨であった。,富塚村では大正八年の一月に創立、消防訓練で静岡県消防組連合会や浜松警察署長などから表彰をうけたり、自村の火災
浜松市史 五 ([化学消防車、はしご付き消防車などの導入])

化学車が導入されたのは、その頃車両増によるガソリンスタンドの増設、工場の油タンク新設等都市における油火災,この車両のタンクは水で千二百リットル、薬品だと三百リットルの容量を持ち、油火災の場合は薬品を放射して消火,に当たり、その他の火災は放水消火が行えるという新型消防車であった(『静岡新聞』昭和三十六年十二月二十二日付,これまで浜松市には専門の化学消防車が無く、航空自衛隊の二台に依存していたが、石油類の使用増から危険物火災,これによりビル火災に対する消火威力は一段と強化された(『新編史料編六』 二自衛隊 史料24)。
浜松市史 三 (田町火事)

田町火事 右の二火災につづき明治二十年代には、田町と江間殿小路を火元とする二火災があった。
浜松市史 五 ([放火事件の増加])

】  昭和五十三年(一九七八)六月、浜松市消防本部は管内(浜松市、浜名郡可美村・雄踏町・舞阪町)の火災原因,それにもかかわらず同六十一年度上半期(一~六月)は放火・不審火は火災原因の第一位(三十三件、全体では二百九件,平成九年は火災件数は三百九十九件で、昭和五十一年以降で第二位(最高は平成七年四百二十六件)の多さであった,同年の火災の原因で最も多い放火・放火の疑いを見ると、三月に和地町の和地幼稚園周辺で十七件、十一月から十二月,こうしたこともあり、翌十年三月一日から始まる全国一斉の春の火災予防運動では、浜松市消防本部の二つの重点目標
浜松市史 五 ([消防本部庁舎の改築と消防情報システムの設置])

これはコンピュータを使い、災害や火災通報があると発生地と周辺の地図が即座に画面に映し出され、同時に出動消防隊,また、近接した地域で複数の火災などが起きた場合でも、それぞれの現場への出動隊が的確に振り分けられ、効果的,また、一階は防災展示ホールとなり、一一九番通報、初期消火、煙避難などを体で学ぶ体験コーナーや火災や地震,平成七年三月一日からはこれまでの消防防災総合情報システムに一一九発信地表示システムを組み込み、一一九番通報における火災
浜松市史 三 (入枡座火事)

入枡座火事 【二十五年】小野組の火事があってから十七年のちの明治二十五年三月二十三日に、連尺に火災がおこり,明治25年3月23日 連尺火災焼失区域図                 (『浜松町沿革誌』)
浜松市史 五 ([救急業務の近代化])

その上、救急車の要員は火災の第一線で活躍する消防士を充てて兼務させていたため、火災の時には救急活動は要請,【救急車】  これを受けて浜松市は増加する交通事故や火災時に対応するため、翌昭和三十五年八月十七日に,救急業務には先に挙げた以外には火災・風水害等、水難、運動競技、犯罪等があり(『消防総覧』一九七二年版)
浜松市史 一 (正倉の焼失)

はこれを神火、すなわち神の祟りだと称し、不可抗力としてその責任を逃れようとしたが、なかには不可抗力の火災,政府もこの点を重視して、平安初頭にはこのような倉の火災について厳しく監督したが、この遠江の場合も、果たして
浜松市史 四 ([松城官庁街の大火])

この火災に際しては、消防署の十台の消防車をはじめ、市内すべての消防団(三十五分団)の全消防車、さらに篠原,  【野次馬】  この火災は白昼、しかも市の中心部の大きな官公署ということもあって、「五万人,同年九月六日に消防本部・消防団、浜松中央・東両警察署の協議会で話し合われ、消火活動をより合理化するための火災現場取
浜松市史 四 ([浜松市消防署の発足])

[浜松市消防署の発足] 【浜松市消防署 石津谷茂 火災予防】  自治体消防制度の根幹となる常設の消防本部,消防本部の予防係は火災予防上の立入検査や危険物の取り締まり、建築物の認可などを担当したが、これは消防団,戦後の自治体消防は単なる消火にとどまらず、火災予防に大きなウエイトを置いたことが注目される。
浜松市史 ニ (高札場)

ここには切支丹禁制・火災防止・徒党禁止など五種類の高札が掲示されていた。
浜松市史 三 (遠州秋葉山炎上)

遠州秋葉山炎上 さて、こうして迎えた昭和十八年三月には火伏の神として崇められた遠州秋葉山が火災で焼失
浜松市史 一 (安政の被害)

袋井は皆潰の上、火災が起こって焼失し、死者六十余人を数えるという悲惨な目に逢い、掛川もやはり皆潰・焼失,山梨も潰家が出た上、火災も起こっている。山地入口の森はあまり被害を受けなかった。
浜松市史 三 (呼鈴一派)

本名は百合子といったらしく、その異色ある作品は北園克衛の注目するところとなって「小さな言はば瞬間的の火災,であったけれども、それは充分意義がある…また現代の火災であった」と評している。
浜松市史 三 (新しい都市へ)

(明治六年)や伝馬制度の廃止もあって江戸期以来の城下町宿場町としての面目はようやく薄らぎ、明治七年の火災
浜松市史 三 (浜松伝馬所)

浜松伝馬所 【本陣家】伝馬町の伝馬所は廃され、浜松最古の本陣杉浦助右衛門家も、梅谷本陣家も明治七年の火災
浜松市史 ニ (市の内争)

利害が互に反するために惹起したもので、嘉永二年(一八四九)の下組一同が領主宛に出した書上書によると、【火災,】下組は文化五年に中組とともに焼けて打撃を受けたところへ文政二年・天保十一年と連続三回の火災にあった。
浜松市史 五 ([町を住みよくする運動])

同三十五年度の総会が四月十一日に開かれ、新年度の予算として九百二十万円余を計上、公衆衛生の向上、交通事故防止、火災防止,防火運動では、火災が家庭のちょっとした不注意から発生する傾向が目立っていたので、婦人会と協力して消防団
浜松市史 四 ([東署の改築])

この火災は昼に発生したこともあり、野次馬が五万人も詰め掛け、消火活動に支障を来すなどの間題も起きた。,この火災のため、東警察署の新庁舎への移転は遅れ、落成祝賀式が行われたのは同年七月二十三日のことであった
浜松市史 五 ([宿日直制度の廃止])

の廃止】  学校の宿日直は明治期に教育勅語や御真影を守るために始まったとされているが、戦後は学校の火災,また、宿直時間中の緊急事務(文書・電話)はめったにないこと、火災・盗難などの事故も少ないことなどが分かったという,まず、火災対策として校舎の鉄筋コンクリート化が急がれ、外部からの侵入や盗難防止のための施錠、消防署への
浜松市史 三 (高町火事)

【三十四年】その一回目は三十四年五月二十日の高町の火災で、同町一〇四番から午後一時四十分に出火、西南の
浜松市史 五 ([相互応援協定の締結])

昭和四十八年版の『浜松消防』(消防年報)では、火災・救急の規模の拡大などに伴い次のように相互応援協定がより,この協定第三条に、ここで言う災害とは消防組織法第一条に規定するもので「水火災又は地震等」とあった。
浜松市史 三 (明治初期の凧揚げ)

明治初期の凧揚げ 明治維新当時、浜松の凧揚げ(『浜松市史二』参照)は小野組火事をはじめ数回にわたる火災
浜松市史 三 (堀留運河)

上新町は明治八年十一月には火災があって十七、八軒焼失したこともあったが、川島屋とか大海屋という茶店や(
浜松市史 ニ (浜松宿の困窮)

浜松宿の困窮 【火災】ひるがえって浜松宿をみると、文政十二年二月二十七日伝馬町熊野屋から出火し、後道
浜松市史 五 ([はしご車の増車と化学車・工作車])

最高で、機能も優れているので、九・十階建てビルの屋上までホースが届き、市内舘山寺温泉街や舞阪町のビル火災,【化学消防車】  昭和五十四年度に市は車両・航空機・油タンク等危険物火災に対処するため、新鋭の化学消防車
浜松市史 五 ([東海地震の可能性と想定被害])

県作成の危険度試算では、地震による浜松市内の全壊は約二千四百戸、半壊は約七千四百戸、火災による焼失(春,しかし、同年五月の市の試算(火災のみ)では前述の条件下では県の想定の二倍の一万六千戸に上ることが判明、
浜松市史 ニ (松平忠頼)

忠頼は慶長十二年(一六〇七)火災にあった駿府城の普請役をつとめている。
浜松市史 三 (駅前広場 大安寺新道 踏切 地下道)

旧来の道路の拡巾も新道路の敷設を機とし、ことに明治二十五年の入枡座(いりますざ)火災後に肴町(幅三尺拡張
浜松が生んだ名建築家中村與資平展 ((1)浜松市公会堂 設計大正14年 竣工昭和2年)

昭和20年6月の空襲で一部が火災にあい、戦後補修して再び公会堂として使用していたが、昭和37年児童会館
浜松市史 ニ (災害の記録)

に被害があり(『徳川実紀』)、元禄四年一月・同十三年二月・宝永三年(一七〇六)九月には城内家中屋敷の火災
浜松が生んだ名建築家中村與資平展 (2.大陸での活躍)

しかし、1920(大正9)年京城の中村建築事務所が火災に遭い、建物のみならず資料等がほとんど焼失、ここで
浜松市史 ニ (市野宿の衰退)

なお市野宿は文化九年(一八一二)九月七日火災があって十二軒ほど焼けている。  
浜松市史 五 ([学童災害共済制度])

起こしてはならないものは数多くあるが、そのうち特に重要なものは学校管理下における子供たちの事故、学校火災
浜松市史 四 ([製塩と地引網])

しかし二十二年三月に稼動したものの、同年五月三十一日に火災が発生、製塩施設は焼失した。
浜松市史 四 ([木炭・薪からプロパンガスへ])

で、「最近時代の脚光を浴びて登場した家庭燃料プロパンガス」と紹介しつつ、過去に石油コンロの普及途上に火災,ただ、連続して注意を喚起する記事を広報紙に載せていることからも、爆発や火災事故の発生防止に力を入れていたことがうかがえる
浜松市史 四 ([モダンな新庁舎の完成])

玄関の裏手には高さ三十メートルの望楼がそびえ、望楼では火災発見のための巡視が行われた。
浜松市史 三 (仏葬の復活 遠州大念仏)

このような傾向はどこも同じで、火災で焼失した龍禅寺(明治二十一年八月出火、二十五年再建)・普済寺(明治三十年六月出火
浜松市史 三 (統制の強化 配給制 体力検定と国民服 紀元二千六百年祭 板屋町火事)

そのようなうちに十六年四月十六日には浜松市板屋町に四十七戸焼失という火災が発生し、七月十二日より大風雨
浜松市史 四 ([浜松市消防団の誕生])

浜松市消防団はそれぞれの地域からなる消防組織で、団員は職業を持ち、仕事をしているが、火災などの緊急時には,服務、規律の面では、団員は召集によって出動し服務することになっていたが、召集を受けない場合でも水火災その
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