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浜松市史 一
(庄域 田積)
庄域 田積 すなわち、北限は羽鳥の南、石原の付近、南は
磐田市
西南の草崎付近と思われ、東の線は
磐田市
西辺
浜松市史 一
(遠江守護所)
がどこにおかれたかは不明であるが、「いまの国府跡とみられる大見寺、磐田北小学校付近に義定がいたろう」との説は(『
磐田市
誌,富士川合戦で敗退した平維盛は、千騎を越える兵力をもち、いまの
磐田市
見付にあたる遠江国府で援軍を待った。
浜松市史 五
([相互応援協定の締結])
県西部広域消防相互応援協定市 浜松市、
磐田市
外二町消防組合、掛川市、袋井市外四町村消防組合、小笠地区消防組合,引佐郡消防組合、湖西市新居町消防組合 市町村相互応援協定市町 浜松市、浜北市、引佐郡消防組合、
磐田市
外二町消防組合,、湖西市新居町消防組合 東名高速道路消防相互応援協定市町
磐田市
外二町消防組合、引佐郡消防組合
浜松市史 一
(池田荘)
池田荘 池田荘 元亀(げんき)二年(一五七一)に徳川家康は検地をして、前野村(
磐田市
)のうちを西八王子社
浜松市史 一
(磐田原台地の石器群)
中でも
磐田市
池端前遺跡は、昭和三十五年(一九六〇)に発掘調査が行なわれ、総数三二三点の石器や剝片が発見,されている(麻生優・小田静夫「静岡県
磐田市
大藤池端前遺跡」『人類学雑誌』第七十四巻第二号)。
浜松市史 一
(熊野信仰)
向笠郷であったうちの竹之内村(
磐田市
向笠竹之内)に熊野権現、袋井市木原に熊野神社がまつられているのは、
浜松市史 ニ
(氏真堀越氏延を殺す)
氏真の一族遠江見付城(
磐田市
)の堀越氏延がそむいたので、氏真は小原鎮実(しげざね)に攻撃させてこれを殺
浜松市史 ニ
(渡辺崋山とその影響)
なおこのころ見付(
磐田市
)には三宅鴨渓(みやけおうけい)が活躍している。 ,いま
磐田市
見付の大見寺境内に石川鴻斎撰文の「半香福田翁の碑」がある。
浜松市史 一
(遠江総社)
そしてまず修造したのは各国の総社(そうしゃ)である(遠江国の総社は、
磐田市
の淡海国玉神社である)。
浜松市史 一
(中世の都市)
【見付】遠江見付府(
磐田市
)でも今川の朱印状に町人百姓とある(『大久保文書』)。
浜松市史 一
(経塚古墳)
経塚古墳 ②
磐田市
連城寺・経塚古墳 この古墳は東海道本線の工事中に発見され、その完成とともに消滅したので
浜松市史 一
(遠江守護所)
遠江守護所 【見付 堀越氏】今川範国入道心省は、遠江守護所を見付(
磐田市
)においたろう。
浜松市史 一
(徳川氏の烽火制)
一言坂(
磐田市
一言)
浜松市史 一
(尊氏の上京)
さらに遠江の国府(
磐田市
)・匂(鷺)坂(磐田郡豊田村)・手越河原(安倍川西岸)の戦いに直義は敗北した(
浜松市史 ニ
(信玄の計画)
信玄の計画 このときに信玄の将秋山信友は、信濃伊奈(いな)から天竜川を南下して見付(
磐田市
)に陣し、
浜松市史 三
(社会不安と一揆)
木舟村(一軒)・新原村(三軒)・長嶋村(二軒)・宮口村(三軒)が「打倒」され、三年二月には中泉方面(現
磐田市
浜松市史 ニ
([家康の防戦])
偵察隊は見付(
磐田市
)の台から袋井方面の降り口につく。このあたりで武田軍の攻撃をうけた。
浜松市史 四
(東洋ピアノ製造)
東洋ピアノ製造 【石川隆己 アポロ】 東洋ピアノ製造株式会社の起源は、昭和九年掛塚町(現
磐田市
)
浜松市史 一
(蒲冠者範頼)
のち清倫は吉祥子に家をつがせ、範頼の子藤姫に婿を取らせ、生まれた男子が清常だという(『
磐田市
誌』、内田旭
浜松市史 一
(三方原)
磐田原台地の末端に
磐田市
があり、三方原をおおって浜松市がある。
浜松市史 三
(人車鉄道)
人車鉄道 なお、四十二年には中泉町(現
磐田市
)と池田村(現磐田郡豊田町)を結ぶ人車鉄道が開通している
浜松市史 一
(釣針の有無)
磐田市
石原貝塚では立派な釣針が出土しているのであるから、蜆塚人が釣針の存在を知らなかったはずはない。
浜松市史 一
(義定の乱妨)
同国頭陀寺荘惣検校として年貢を未納したとか(『仁和寺文書』)、紀伊熊野山(和歌山県那智神社)領(いまの
磐田市
笠梅
浜松市史 一
(遠江国の初期の武士団)
同三郎高政(たかまさ)・源清成・源清倫(きよとも)・原氏などの武士の集団があった(以上『静岡県史』『
磐田市
誌
浜松市史 三
(天領)
そして中泉(現
磐田市
)に参河裁判所出張所が置かれるのは五月であった。
浜松市史 ニ
(信玄の進路)
主力をひきい、天方(あまかた)・一宮(いちのみや)・飯田(いいだ)(以上周智郡森町)・向笠(むかさ)(
磐田市
浜松市史 一
([浜松地方の中期古墳文化])
入ると同じ天竜川平野部を地盤として、赤門上古墳の周辺(内野地区)・千人塚古墳とその周辺(積志地区)・
磐田市
銚子塚古墳
浜松市史 一
(浜松周辺の状態)
中期前半の資料は浜北市の根堅付近から平口(ひらくち)にかけての地域と、磐田原南部の
磐田市
西貝塚(最下層
浜松市史 一
(平治の乱と遠江の武士)
平重盛が遠江守になってから、遠江は平氏方となったのであろう(『
磐田市
誌』)。
浜松市史 一
(立地の特殊性)
この古墳から磐田原台地への最短距離は三キロで、そこには
磐田市
寺谷の銚子塚古墳(中期初頭の前方後円墳)が
浜松市史 ニ
(応挙と文晁)
【鉄支】応挙と遠江との関係はきわめて少ないが、応挙の門人に中泉(
磐田市
)の山田鉄支がある。
浜松市史 一
(そののちの宗良親王)
(一三八二)宗良親王は、また伊勢から遠江井伊城により、元中二年(一三八五)八月十日薨去したという(『
磐田市
誌
浜松市史 三
(浜松新聞)
明治三十六年)となり、大正十五年には社長佐藤章次、取締役兼支配人松浦孤山で、静岡・沼津・清水・中泉(現
磐田市
浜松市史 一
(天竜川)
平安時代に遠江国府(
磐田市
)と京都とのあいだを租税を運ぶ人は、往は十五日、復は八日である。
浜松市史 一
([千人塚古墳])
代表的な古墳は、
磐田市
御厨の堂山古墳(全長一〇五メートルの前方後円墳であったが削平された)・同市寺谷銚子塚古墳,(全長一一二メートル)・天竜市山東光明山古墳(全長八二メートル)・
磐田市
見付兜塚古墳(基底径八〇メートル
浜松市史 一
(中央と地方)
国司はその任として、しばしば管内を巡回し、国分寺も
磐田市
西郊の台地に建立された。
浜松市史 ニ
(文晁門人)
【月湖 蘭陵 鴨渓 弘道 文明】つぎに文晁の門人についてしるすと、掛川の大庭月湖・山田蘭陵、見付(
磐田市
浜松市史 一
(町の自治権)
遠江見付町(
磐田市
)は、堀越氏延が城主であった。
浜松市史 一
(問題の所在)
することも前述のように多少の難があり、また、栗原駅を篠原村付近に、引摩の地を浜松辺に求めるならば、国府(
磐田市
見付
浜松市史 一
(官寺の没落 仁和寺末寺 木船廃寺址)
磐田市
西郊にあった遠江国分寺もその例に洩れず、この後ほとんど文献に姿をあらわすことなく、寺址を留めるに
浜松市史 ニ
(印西派)
上村清兵衛父子】印西派は吉田与左衛門重保(日置流印西派家元吉田久米之助宗重の次男、諱如玄)の教えをうけた見付(
磐田市
浜松市史 一
(松林山古墳)
松林山古墳 ①
磐田市
新貝・松林山古墳 全長一一六・四メートルの前方後円墳で、後円部径六五メートル、高
浜松市史 一
(遠江武士の去就)
この富士川から敗退ののち、維盛は遠江国府(
磐田市
)に留まって、京都からの援軍を待とうとしたが、これも実行
浜松市史 一
(大神宮領)
また、市域に近いものとしては、
磐田市
に鎌田御厨、浜北市に美園(みその)御厨(一部分は当市域)、引佐郡に
浜松市史 ニ
(森繁子)
「いつしかも春たちけらし梓弓ひくまの野べに霞たなびく」 繁子は鎌田神明宮(
磐田市
)の神官袴田為寿
浜松市史 三
(鈴木覚馬)
鈴木覚馬 【嶽南史】鈴木覚馬(かくま)(文久元年豊田郡草崎村、現
磐田市
生、当市高町在住、昭和十二年四月二十日没
浜松市史 ニ
(金原清興)
【青楓亭】ついで享保十九年三月十二日、鎌田(
磐田市
)江塚吉年家の青楓亭に蒙庵・国頭をはじめ暉昌・方塾・
浜松市史 ニ
(旅籠屋)
畳数を考慮にいれて畳数三十畳以上を大、二十畳から三十畳前後を中、二十畳以下を下としたようだという(『
磐田市
誌
浜松市史 ニ
(浜松宿内と周辺の私塾寺子屋)
俊吉(号寿々園、諱佳賢、文化四年七月十四日生)は長野村(
磐田市
)の鈴木巫山に漢学・書道を学んだのち子弟
浜松市史 四
([『広報はままつ』の発刊])
磐田市
の広報紙の誕生は昭和二十四年のことなので、浜松市のそれは、ほかの都市に比べて早いというものではなかった
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