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解説「横山八幡神社の面」
(解説「横山八幡神社の面」)
解説「横
山
八幡神
社
の面」 / 解説「横
山
八幡神
社
の面」 2017年10月 横
山
八幡神
社
の面 (浜松市指定有形民俗文化財), 浜松市天竜区横
山
町の八幡神
社
に伝わる田楽面。,
社
伝によると明治七年頃までは、正月一日から十日にかけて田遊びなどが演じられ、とくに七日には一晩中祭りをしたという,同神
社
所蔵。現在は、内
山
真龍資料館で保管。 / 解説「横
山
八幡神
社
の面」
浜松市史 ニ
(金山社)
金
山
社
金
山
社
(当市栄町)鍛冶職が守護神。,
社
伝によると、浜松城建設にあたり城内へ創立されたが、寛永年間五
社
明神造営のおり清水谷(しみずだに)(当市中
山
町 / 金
山
社
龍山村史
(龍山村史 目次)
龍
山
村史 / 今川・天野・農民 一五一 五 今川領国の崩壊 一五六 六 武田・徳川両氏の抗争 一六〇 七 寺
社
,一六五 (一)寺院 一六五 (二)神
社
一七二 第三章 近世 第一節 近世の村の成立と構造,貯穀 四三二 (五)火事 四四一 (六)疫病 四四二 第六節 幕末の世情 四四五 一 幕藩制
社
会,(四)娯楽(芝居) 五〇二 (五)その他 五〇七 第八節 江戸時代の宗教 五〇八 一 幕府の寺
社
政策,五〇八 二 寺
社
領について 五〇九 三 村内の寺院 五一一 四 村内の神
社
五一九 第四章 / 龍
山
村史 目次
浜松市史 ニ
(五社明神社)
五
社
明神
社
つぎに浜松城下の神
社
について記す。 ,五
社
明神
社
(当市利町、五
社
神
社
諏訪神
社
)創立年代不詳。,いわいぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・姫大神(ひめおおかみ)の五座という(『静岡県神
社
志,一五七九)秀忠が浜松に生まれると「台徳院殿依為御降誕所之神」(延宝三年棟札)として、天正八年七月常寒
山
(,杉
山
(当市利町、現在の市民会館の前)では延宝四年九月まで三年に一回ずつ能楽が行なわれ(『旅籠町平右衛門記録 / 五
社
明神
社
浜松市史 三
(会社)
会
社
会
社
や銀行の発展も商工業の発達につれ著しかった。,【種別】また会
社
種別は昭和十五年に株式会
社
が百五十二、合資会
社
百七十七、合名会
社
七十七、有限会
社
五である,【営業内容】会
社
の営業内容は、大正十三年に二百四十六
社
のうち織物関係が九十二
社
の三十七%と最も多く、つぎに,田町 22(11) 鍛冶町 16(4) 砂
山
町 14(2) 木戸町 12(6) 馬込町 10(9) 東田町,(1) 東伊場町 2(1) 天神町 2(2) 松江町 1(0) 野口町 1(1) 栄町 1(0) 亀
山
町 / 会
社
浜松市史 四
([白山神社と蒲神明宮の経済的基盤])
[白
山
神
社
と蒲神明宮の経済的基盤] 【白
山
神
社
蒲神明宮 農地改革 蒲神明宮】 神
社
財政の例を、,白
山
神
社
(高林)と蒲神明宮(神立町)についてうかがうことにする。 ,前者の『高林・白
山
神
社
社
殿復興五十周年記念誌』(平成十二年十二月十二日刊)の「白
山
神
社
略史」は氏子総代,この広大な敷地が白
山
神
社
の財源となっている。,神
社
庁の会計年度の出納閉鎖は六月(青島清三郎「静岡県神
社
庁設立四十年の記録」、『静岡県神
社
庁四十年誌』 / [白
山
神
社
と蒲神明宮の経済的基盤]
浜松市史 三
(小山みいと永隆社 副業より専業へ)
小
山
みいと永隆
社
副業より専業へ これについてはすでに『浜松市史』(大正十五年発行)が小
山
みい(一般 / 小
山
みいと永隆
社
副業より専業へ
浜松市史 ニ
(神明社)
神明
社
神明
社
(当市三組町)もと神明町にあった(前述)。,はじめ紺屋町北裏袋町から蜆塚村宮
山
の岡之
社
へ遷座、そののち、高町(三組町)へ移ったのだという。 / 神明
社
浜松市史 ニ
(秋葉社)
秋葉
社
秋葉
社
(当市三組町)由緒によると、叶坊浄全(かのうぼうじょうぜん)が家康の命により、犬居秋葉
社
,(周智郡春野町)を勧請したのが当
社
だという(前述)。,
社
地は
山
家三方衆の屋敷跡と伝えられている。火伏の神として崇敬された。,秋葉神
社
(大正時代)(浜松市三組町) / 秋葉
社
浜松市史 ニ
(愛宕社)
愛宕
社
愛宕
社
浜松城下への入口、成子坂(なるこざか)町の裏
山
にあった。 / 愛宕
社
解説『遠江国風土記伝』と内山真龍
(解説『遠江国風土記伝』と内山真龍)
解説『遠江国風土記伝』と内
山
真龍 / 遠江国は13郡から成り、郡ごとに総説・郷村・寺
社
・
山
水・通道を記述した。,また、有玉神
社
の
社
司を務めた。,【方朗と県居翁霊
社
】 方朗は、真淵を尊敬し慕う念が極めて篤く、真淵を祭神とする県居翁霊
社
修造に全力を,そして天保10年(1839)伊場村に県居翁霊
社
(現 県居神
社
)が建立され、その後この霊
社
は遠江の国学のよりどころとなった,なお、「縣居霊
社
の図」や、方朗が師匠の内
山
真龍、小国重年らと共に出雲、長崎などを旅行した『出雲日記』は / 解説『遠江国風土記伝』と内
山
真龍
浜松市史 三
(神社の復活)
神
社
の復活 神
社
の整理統合もまた実情に即して是正されるようになった。,【三
社
神
社
分器稲荷 金
山
神
社
】秋葉神
社
(三組町)に合祀された三
社
神
社
(鹿谷町)や分器稲荷(田町)、また,五
社
神
社
(利町)に合祀の金
山
神
社
(氏子鍛冶町)は氏子の切望によって元の位置に鎮座することになった。,また
社
格も松尾神
社
(元魚町、大正五年昇格)・秋葉神
社
(大正十五年)・西神明神
社
(篠原村篠原、昭和六年),は郷
社
に、大𤭖神
社
(おおみかじんじゃ)(中野町村大明神、明治十二年)は村
社
に昇格している / 神
社
の復活
浜松市史 三
(神社の統合)
神
社
の統合 つぎに神
社
明細帳に洩れた神
社
であるが、これは整理統合と定まり、明治五年から明治九年ごろの,【池川神
社
】こうして、この時期にその地域内の
山
野や路傍に数多く散在している神祠仏堂(例えば塞神の祠とか,【須倍神
社
賀茂神
社
松尾神
社
】須倍神
社
は村内の六十九
社
を、賀茂神
社
(東伊場)は十
社
を合わせ、また松尾神
社
,には天神
社
(七軒町と上新町の氏神)と愛宕
社
(成子坂
山
にあり、浜松城の鎮護神)とが、神明宮(三組町)には,白
山
社
(元魚町)および稲荷
社
(浜松城内花畑にあり、城主崇奉の
社
)などが合祀されている。 / 神
社
の統合
浜松市史 三
(己卯社)
己卯
社
【十二年】そうした動きのうちに、浜松では十二年十二月に己卯
社
(きぼうしゃ)の結成をみた。,己卯
社
は同年一月静岡で大江孝文(元浜松県属、『重新静岡新聞』主筆)らによって結ばれた参同
社
の刺激をうけてできた,結
社
で、近藤準平(天保十二年長上郡有玉村生、明治三十三年没、六十歳)・竹村太郎(敷知郡入野村)・松島吉平,・加藤枡蔵・樋口弥一郎(浜松連尺町)・
山
下斧治・県勇・内田政治(浜松紺屋町)・小池文雄(文久二年敷知郡浅田村生,浜松を中心として活動したが、政党というよりも親睦団体で国会開設運動に参同
社
と同一歩調をとった以外に特に / 己卯
社
浜松市史 ニ
(寺社領)
寺
社
領 【朱印地 除地】江戸時代の寺
社
領には朱印地と除地とがあり、『元禄高帳』によると両者の件数はほぼ,家康は関ケ原戦の直後、慶長六年(一六〇一)当地方の寺
社
領を数多く寄進し、同八年将軍に補せられると寺
社
領,寛文(かんぶん)五年(一六六五)幕府が全国の寺
社
宛に朱印状を下付するにいたって、当地方の寺
社
領もほぼ固定,【集中する寺
社
領】ところで、当地方の寺
社
領の形態については、その集中形態、つまり特定の寺
社
領が一村または,六か村に分布しているという意味、海老塚の石高は七十八石であるがそれは五
社
と白
山
社
の領有であるという意味 / 寺
社
領
浜松市史 ニ
(諏訪明神社)
諏訪明神
社
諏訪明神
社
(当市利町、五
社
神
社
諏訪神
社
)五
社
明神
社
の南隣にある。,前述したように弘治二年(一五五六)中嶋(中島村六本松)から浜松(当市伝馬町)に移り、その後西
山
へ再遷したが,(元和元年)、寛永十八年常寒
山
に造営が成った(戦災焼失)。,五
社
明神とならんで「台徳院殿御誕生処之明神」(寛永十一年
社
領寄付朱印状写)として崇敬された。,五
社
明神といい諏訪明神といい、
社
殿も荘厳で(後述。第七章第五節)、浜松の代表的な神
社
であった。 / 諏訪明神
社
浜松市史 三
(信行社)
信行
社
信行
社
(しんぎょうしゃ) 心学布教の団体で、明治三十二年一月に守本恵観にあい、その教えに心服,【助信】のち助信へ移り財団法人浜松信行
社
と称した。,浜名郡曳馬村)・高村栄蔵(浜松板屋町)・平松実(天神町村中島)・鈴木犀十郎(浜松常盤町)・中村弥八・
山
口喜代次郎,などの熱心な唱導により大正時代には三百名に近い
社
員を有した(飯尾哲爾「浜松と心学」『遠江郷土研究会誌』,第二号・大野木吉兵衛「浜松信行
社
の沿革」『浜松短期大学研究論集』)。 / 信行
社
浜松市史 一
(神社の統制)
神
社
の統制 【小領主の神
社
】大名の分国内の小領主も神
社
をもっていた。,いままでは神
社
をおそれたっとんでいたが、いまはこれを利用するまでになった。,大名は、小土豪がその神
社
の神官や
社
領を統制し保証する事実を認証して、間接に統制した。,新しく領土となった地域の神
社
は、信仰と政治上の統制をうけることになる。 ,』)、同十二年徳川家康は
山
野荘土橋郷(袋井市土橋)八貫文を、いずれも熊野那智神
社
(和歌
山
県那智勝浦町、 / 神
社
の統制
浜松市史 三
(神社仏閣)
神
社
仏閣 【五
社
明神 諏訪明神】「神
社
仏閣」 五
社
大明神・諏訪大明神がある。,宿の西方の白
山
神
社
は神官が松下氏。石坂のある愛宕
社
はその南に、ここには金刀毘羅
社
もある。,【松尾
社
】松尾
社
は例祭六月十五日で神輿が出で踊りや唐人囃がある。,【心造寺】時の鐘は五
社
大明神の北隣の心造寺で二六時撞いている。,五
社
神
社
(浜松市利町) 鴨江観音(浜松市鴨江4丁目) / 神
社
仏閣
浜松市史 三
(リズム社)
リズム
社
浜松地方の音楽に趣味をもつ人たちによって「リズム
社
」が創立され、音楽誌『リズム』の発刊をみたのは,【県善三郎】これは浜松地方で最初の音楽結
社
で、同人は県(あがた)善三郎(当市鴨江町)・関川美作雄(関川美健,『リズム』誌は浜松在住の松井多門・中道朔爾(さくじ)・後藤国道・
山
田千之(せんし)・渥美実などが提供した,リズム
社
は一時
社
友九十名を越えたが、同人たちの中に転任するものなどがあって十三年十一月第三十号をもって,【松井多門】松井多門(当市
山
下町、昭和九年二月没、三十五歳)は、浜松中学在学当時に同人雑誌『松風』を編集 / リズム
社
浜松市史 三
(会社病院)
会
社
病院 【六年三月 紺屋町】浜松地方の医療の近代化は、明治六年三月、浜松紺屋町に設立された会
社
病院,現在の医療法人にあたるもので、気賀半十郎・平野又十郎・古沢五平・青
山
徹・その父青
山
宙平等の出資と浜松県,県は六年三月に、病気になったら呪術などに頼らずこの会
社
病院で正しい診療を受けるよう布達を出している(「 / 会
社
病院
浜松市史 三
(日本楽器会社)
日本楽器会
社
【オルガン製作 中村藤吉】日本楽器製造株式会
社
山
葉寅楠(やまはとらくす)によって創立,され、初め
山
葉風琴(ふうきん)製造所(のちに
山
葉楽器製造所)と称し、浜松宿七軒町(菅原町)の旧修道学校跡,明治二十一年三月わずか十人ほどで風琴つまりオルガンの製作を本格的に開始したが、二十二年三月資本金三万円の合資会
社
を,しかし時運熟せず二十四年合資会
社
を解散し、
山
葉の個人経営に移し
山
葉楽器製造所と改称した。,、日本楽器製造株式会
社
と改名するにいたった。 / 日本楽器会
社
浜松市史 三
(会社の内紛)
会
社
の内紛 また『浜松新聞』は「三井系の魔手・会
社
乗ッ取りの陰謀、白昼公然と旧
山
葉天野系を圧迫、日本楽器,箕輪は三井の各会
社
から却って
社
員三十名を抜擢し来り、楽器の要職に据え旧
山
葉並に天野系の
社
員に圧迫を加えている,に提出 22 内輪同志で円満解決したいと天野
社
長語る 23
社
長,従業員代表3名と非公式に会見 会
社
,浜松合同労組主催で浜松最初のメーデー開催 2 争議団本部をライオン館より元城町
山
住神
社
に移す。,労働者側団結 小
山
重役,横浜工場へ急行 28 28名解雇申渡す。 / 会
社
の内紛
浜松市史 四
([敗戦と神社])
五
社
神
社
(利町)・諏訪神
社
(利町)・県居神
社
(東伊場町)・松尾神
社
(元魚町)・秋葉神
社
(三組町)・東照宮,(元城町)・日枝神
社
(広沢町)・八柱神
社
(船越町)・稲荷神
社
(田町)・神明宮(三組町)・鹿島神
社
(海老塚町,)・須佐之男神
社
(鴨江町)・亀
山
神
社
(亀
山
町)・天神
社
(天神町)・金
山
神
社
(栄町)・白
山
神
社
(高林町),・六所神
社
(砂
山
町)・熊野神
社
(龍禅寺町)・若宮神
社
(大工町)、以上十九
社
。,ここに挙げられているのは、町村合併以前の旧市内の神
社
である。 / [敗戦と神
社
]
浜松市史 三
(松島授三郎 西遠農学社 三遠農学社)
松島授三郎 西遠農学
社
三遠農学
社
松島授三郎(明治三十一年没、六十三歳)、豊田郡羽鳥村の人。,【十五年】八年引佐郡(いなさぐん)伊平村に移り、十二年、野末八郎を
社
長とする農学誠報
社
を設け村民の風俗,を講じたが、入
社
を乞うもの千余名に達したので、気賀、奥
山
に支
社
を設けた。,三遠農学
社
と改名、
社
員の数三千余名に達したという。,西遠農学
社
が明治十八年十一月四日呉松村鹿島神
社
で催した農談会は、出席者二百余名、松島授三郎の
社
側朗読、 / 松島授三郎 西遠農学
社
三遠農学
社
浜松市史 ニ
(浜松の諏訪社)
浜松の諏訪
社
延宝三年(一六七五)の諏訪
社
の棟札(『浜松市史史料編二』)に、同
社
の遷座についてつぎのように,【浜松の五
社
】そして三代将軍家光の命令により寛永十一年(一六三四)から
社
殿の修造が始まり、この時に
社
地,を「並宮」の五
社
と一緒に引きあげて西
山
へ遷した―駅屋之上とか西
山
へ引きあげという傾斜地は正徳三年(一七一三,慶長のころまではここに五
社
・諏訪
社
はなかった―五
社
が浜松城内からこのあたりにうつされたのは浜松城普請の,浜松城下の建設に意を用いた城主高力忠房は寛永十五年、五
社
・諏訪両
社
の広前に石の手洗鉢を献納し、同じく太田資宗 / 浜松の諏訪
社
浜松市史 三
(永久社創立)
永久
社
創立 その後、永久印の縞三綾の注文が急増すると
山
本又六(浜松工業試験所長)の支援を得て同業者に,呼びかけ、十二年八月、産業組合法による有限責任輸出織物販売利用組合永久
社
(理事長高柳信蔵、事務所浜名郡吉津村鷲津,大正十四年九月政府に対する永久
社
の進言もあって、産業組合と製品検査権をもつ同業組合の双方の長所を取り入,財産・事業をひきつぎ、全国初の工業組合として遠州輸出綿織物工業組合永久
社
が認可設立された。 ,【天竜
社
】こうして大正末年には天竜川以東の天竜
社
(既述)、天竜川以西の永久
社
と従来からの遠江織物同業組合 / 永久
社
創立
浜松市史 ニ
(寺社領の村)
【八幡村】八幡村は旧浜松のあたりで八幡宮があり
社
号を村名とした。,【二諦坊】白
山
二諦坊(にたいぼう)領も特色のある存在で、二諦坊は
社
僧格であった。,一五九〇)秀吉は朱印状をもって二諦坊に寺領四十五石(海老塚・寺嶋両村のうち)を寄進し、三遠駿三か国の白
山
先達職,なお、寺
社
領については寺院と神
社
(第七章第一節)を参照されたい。,#160; 39 48 87.7 二諦坊(白
山
) / 寺
社
領の村
浜松市史 三
(天竜運輸会社)
天竜運輸会
社
2 天竜運輸会
社
二十六年十二月、金原明善・平野又十郎・村越伊平らによって、和田村半場,この会
社
は二十五年九月に、天竜川の「木材其他ノ貨物鉄道便ヲ以テ迅速安全」に運輸営業の目的をもって、発起人金原明善,・野口組小松正一・掛塚村掛塚商船会
社
平野又十郎の三人によって創立された㊣天竜運輸会
社
の後身である。,木材のみならず天竜川上流の鉱石(古河鉱業久根鉱
山
)・洋紙(王子製紙の気田、中部分工場)の輸送にもあたり,、大正初年には貨物取扱高年間四十五万トン、労役者延べ七万二千人の運輸会
社
となった。 / 天竜運輸会
社
浜松市史 三
(遠州紡績株式会社)
社
名を遠州紡績株式会
社
(
社
長竹
山
謙三)と称し、明治十七年に操業開始、二十一年には年額四万三千五百五十貫,(全国二〇
社
紡績会
社
の二・七%)に達した。,同
社
は翌二十七年に工場を宮口に移し遠州紡績合資会
社
として再発足したが、成績振わず日露戦争後に廃業した。,なお、この会
社
の綿花は笠井の綿花商
山
下重平が取扱い、岡崎商人から購入し、豊橋を経て浜名湖を渡り、浜松から,馬で運んだという(
山
本又六『遠江織物史稿』)。 / 遠州紡績株式会
社
浜松市史 四
([社会教育委員])
[
社
会教育委員] 【
社
会教育委員】
社
会教育委員は戦前にもあったが、昭和二十四年の
社
会教育法の施行,に伴い、浜松市は翌二十五年二月から
社
会教育委員を置くことにした。,
社
会教育委員の仕事は、民間の立場から
社
会教育全般について市に意見を反映させることであった。,この時任命された二十人の顔触れは小・中・高校の校長をはじめ、三輪信一、
山
内泉、林ひで、内田六郎など各界,このうち、
山
内や内田らは後の浜松市立図書館の建設や運営に大きな働きをすることになる。 / [
社
会教育委員]
浜松市史 三
(浜松鉄道株式会社)
浜松鉄道株式会
社
奥
山
方広寺のある引佐郡奥
山
方面や三方原などを浜松と結ぶ浜松鉄道株式会
社
は、はじめは,浜松軽便鉄道株式会
社
(
社
長伊藤要蔵)と称し、浜松(中村忠七・石岡孝平)・引佐郡の有志によって大正元年十月創立,四年五月に浜松鉄道株式会
社
と改称し、本
社
(大字元目町)を新設の元城駅へおいた。,【奥
山
線】終点の奥
山
までの全長二十五・八キロメートルの全線開通をみたのは大正十二年四月であった(なお、,【光明電鉄】以上の他に静岡県西部地方には、光明電鉄株式会
社
(大正十四年六月設立、本
社
磐田郡中泉町、現磐田市 / 浜松鉄道株式会
社
浜松市史 三
(浜松瓦斯株式会社)
【砂
山
町】浜松瓦斯株式会
社
は、瓦斯事業には先鞭をつけていた豊橋瓦斯株式会
社
の計画に浜松側から小西四郎らの,五名が加わり、本
社
を製造所のある浜松八幡地(現在の砂
山
町)において四十三年五月に創立した会
社
(資本金五,浜松瓦斯株式会
社
(砂
山
町,昭和初年) 【街灯用】当時のガス灯は電灯(炭素線電球であった)に比してはるかに,【豊橋瓦斯会
社
合併】浜松瓦斯株式会
社
は昭和十八年九月一日戦時下の会
社
統合により豊橋瓦斯株式会
社
と合併、,中部瓦斯株式会
社
浜松支
社
となって今日にいたっている。 / 浜松瓦斯株式会
社
浜松市史 ニ
(賀久留神社の絵馬)
賀久留神
社
の絵馬 そのほか賀久留神
社
(当市神ケ谷町)拝殿にも別表のように掲げられている。 ,(表)賀久留神
社
の絵馬一覧表 画題 奉掛年月 備考 1 賀久留神
社
神輿行列の図 文化,〃 〃 5 俳額(俳句39句と俳画) 天保 2年 仲春 6 中
山
美石の和歌一首,〃 7年 4月 7 当
社
八景堀聴雪法橋の和歌 〃 10年 春 8 笠載奉納,の額 弘化 2年 8月 9 石
山
前中納言書.裏辻宰相公理卿和歌 / 賀久留神
社
の絵馬
浜松市史 ニ
(茜山)
茜
山
茜
山
(せんざん)(一八二〇-一八六二)は幕吏の子として生まれ、本姓長谷川氏、名を寛、寿
山
と号したがのち,茜
山
と改めた。,幼時から絵を好み、十歳のとき崋
山
の門に入り描法・着色などの教えをうけて技能を発揮し、崋
山
幽閉ののちは諸国,明治三十二年福田半香の門人足立雪
山
が来遊した際、茜
山
の頌徳碑「画伯永村茜
山
翁之碑」を有志とともに巌室
社
,その撰・書はいずれも西有穆
山
(にしありばくざん)である(杉江徳次郎『画界叢談』)。 / 茜
山
浜松市史 ニ
(五社の絵画と彫刻)
五
社
の絵画と彫刻 このうち五
社
の本殿について述べると、建物は内外とも漆塗にし、外部は朱、内部は蝋色でいずれも,に極彩色をほどこし花鳥または瑞雲が描かれ、ことに内陣胴板には鳳凰(ほうおう)と折花をえがいた壁画は桃
山
風,ただ壁画(鳳凰と折花)は狩野
山
楽(一五五九-一六三五)あたりの筆であろうと伝えられている(吉岡勇蔵「浜松五
社
神
社
御由緒並,五
社
神
社
拝殿正面欄間彫刻 / 五
社
の絵画と彫刻
浜松市史 四
([社殿再建築の動き])
戦後、まず昭和二十三年に五
社
神
社
仮殿ができ、同三十五年には五
社
神
社
と諏訪神
社
が合祀されて五
社
神
社
境内に,昭和二十三年・秋葉神
社
(三組町)鳥居再建、同二十五年・秋葉神
社
社
務所再建、白
山
神
社
(高林町)
社
殿再建、,・日枝神
社
(広沢町)
社
殿再建、同三十年・亀
山
神
社
(亀
山
町)
社
殿再建、同三十二年八柱神
社
(船越町)
社
殿再建,、同三十四年・東照宮(元城町)
社
殿再建(銅板葺権現造鉄筋コンクリート)、同三十五年金
山
神
社
(栄町)
社
殿再建,賀茂真淵を祭る県居神
社
の場合には、昭和三十三年十一月、復興後援会の会長小
山
正、県居神
社
宮司三浦巌が連署 / [
社
殿再建築の動き]
浜松市史 三
(帝国製帽会社)
帝国製帽会
社
【二十九年】帝国製帽株式会
社
明治二十九年三月、資本金十万円をもって、気賀賀子治・平野又十郎,・気賀敬太郎らによって浜松八幡地(砂
山
町)に誘致された。,前身は東京市下谷区にあった初音合資会
社
といい、野沢卯之吉と野沢源次郎父子が帽子製造を目的として設立した,浜松へ誘致し帝国製帽株式会
社
と改称したのであった。 ,【鈴木仁一郎】
社
長に鈴木仁一郎があった。 / 帝国製帽会
社
浜松市史 三
(浜松地方報徳社)
浜松地方報徳
社
【五十三
社
】上は大正初期の浜松市及び周辺の報徳
社
の表で、計五十三
社
、
社
員数千六百二十六人,認可年月
社
名 市町村名
社
員数 明治 5年11月 報徳遠譲
社
第四分
社
浜名郡豊西村 15 12,32年2月 報徳遠譲
社
第四分
社
雲岩寺
社
浜名郡赤佐村 28 〃 〃 浜名郡赤佐村 30 〃 報徳遠譲
社
第四分
社
油一色
社
,浜名郡北浜村 16 〃 報徳遠譲
社
第四分
社
尾野
社
浜名郡赤佐村 25 32年3月 報徳遠譲
社
第六分
社
報徳堀江
社
,23 36年6月
山
口
社
浜名郡吉津村 29 38年2月 伊左地
社
浜名郡伊佐見村 13 40年7月 / 浜松地方報徳
社
浜松市史 三
(天竜木材株式会社)
天竜木材株式会
社
1 天竜木材株式会
社
四十年四月創立、明善門下の鈴木信一・竹内竜雄・平野又十郎・中
山
誠一,これは明善と交友のあった熊谷三郎馬らが明治十六年半場村(当市材木町)に開業経営した合本興業
社
をひきついだ,(天)天竜製材店(設立明治二十八年十月)の系統をひく会
社
である。,天竜製材株式会
社
【製材業と掛塚】浜松地方の近代的製材業は掛塚港を中心にして発達した。,この時代はインフレ景気がおこり全国的に企業熱や投機熱が勃興し、銀行や会
社
が濫立された時代であった。 / 天竜木材株式会
社
浜松市史 三
(山葉寅楠)
山
葉寅楠
山
葉寅楠(嘉永四年四月生、大正五年八月没、六十六歳)、紀州に生まれ、父は孝之助といい紀州藩,【福島豊策】その
山
葉寅楠が、はしなくも楽器製作に己れの進む道を発見し、浜松を生涯の地とするようになったのは,
山
葉寅楠と河合喜三郎が自作の風琴を天びん棒でかついで箱根
山
を越す姿は、のちに銅板となって会
社
の玄関近く,オルガンにはじまってピアノの製作を開始するまで、これが会
社
の創業期であった。 ,日本楽器製造株式会
社
『
社
史』)。 /
山
葉寅楠
浜松市史 ニ
(山住信仰)
山
住信仰 このほか、遠江の
山
住
社
(周智郡水窪町)の信仰などと数えあげると限りがないが、いずれも利益あらたかな /
山
住信仰
浜松市史 ニ
(下堀村吾憂社)
下堀村吾憂
社
【寺西易堂】さらに慶応元年(一八六五)下堀村(当市天王町)に開設された吾憂
社
では、儒者寺西易堂,を招き、国書・習字・詩文などを教え、塾生は常に三、四十人を下らなかった(清水虎次郎『竹
山
梅七郎翁事蹟』 / 下堀村吾憂
社
浜松市史 三
(山本金木 賀茂水穂)
山
本金木 賀茂水穂
山
本金木(大隅、明治三十九年没、八十一歳)。,父を賀茂鞆音(宇布見村、金
山
神
社
神官)といった。,金木は日坂八幡・渭伊(いい)神
社
・小国神
社
・井伊谷(いいのや)宮の神官を勤めた。,『
山
本大隅日記』は報国隊資料として知られている。,明治二十一年海軍大主計、二十四年靖国神
社
宮司。 /
山
本金木 賀茂水穂
浜松市史 三
(社寺の創建 小学校新築)
社
寺の創建 小学校新築 寺院も明治三十六年三月には大久保牧太・横
山
義珍・小倉丈太郎の尽力によって日蓮宗橋羽妙恩寺,の塔頭を移して本称寺(ほんしょうじ)が創設され、神
社
も大正十一年六月には元城神
社
(昭和三十一年七月九日,、三方原神
社
と改称)を移し、ようやく村民の精神的なよりどころもできた。 /
社
寺の創建 小学校新築
浜松市史 ニ
([神社の建築物と庭園])
[神
社
の建築物と庭園] 【五
社
諏訪
社
】浜松地方の代表的な建造物に五
社
・諏訪
社
(当市利町)があげられる,「お江戸みたくば五
社
・諏訪ごろじ、お江戸まさりの五
社
や諏訪」「石になりたや浜松石に五
社
のお前(まえ)の,切石に」とむかし俗謡にうたわれた五
社
・諏訪
社
は桃
山
様式の権現造りで、すぐれた彫刻・絵画をそなえていた。,この五
社
・諏訪
社
も竣工以来たびたび修復されて維持してきたが、本殿(五
社
神
社
の本殿は大正三年に特別保護建造物 / [神
社
の建築物と庭園]
浜松市史 一
(山伏の統制)
山
伏の統制 天文(てんぶん)二十年(一五五一)、今川義元は駿河大宮浅間
社
の慶学坊に、駿河・遠江の
山
伏 /
山
伏の統制
浜松市史 五
(「県居霊社修造の沿革」)
中心となるのは第四節「県居霊
社
修造の沿革」で、修造の内願、水野忠邦公の碑文、
社
地の見立、公儀への造立願書,、設計図、勧進、碑石、
社
殿、竣工、遷座式、
社
頭歌会等につき、資料に基づいて具体的に詳細に記している。,小
山
は、さらに永代除地(公租免除)の申請、
社
頭の歌会に触れ、また明治以降の現在地への移転と県
社
県居神
社
,小
山
はこの後、自身でまとめた「履歴と研究」(昭和三十六年)によれば、さらに栗田土満・竹村茂雄・夏目甕麿,なお、小
山
は昭和三十二年文学博士の学位を受けている。 / 「県居霊
社
修造の沿革」
浜松市史 四
([社会福祉協議会の発足])
[
社
会福祉協議会の発足] 【長谷川保
山
形春人 浜松市
社
会福祉協議会 共同募金】 昭和二十年代半,を解散させ、新組織の
社
会福祉協議会への統合を促してきた。,中央や各県で
社
会福祉協議会が作られたが、静岡県では昭和二十六年二月二十日に静岡県
社
会福祉協議会が創立総会,会長は小塩孫八、副会長の一人は長谷川保、理事の一人は
山
形春人であった。,から広く浄財を集め、
社
会福祉団体に分配する運動が推進され、毎年十月に
社
会福祉のための寄付金を公募することになった / [
社
会福祉協議会の発足]
浜松市史 四
([浜松信行社の人々])
[浜松信行
社
の人々] 【大野木吉兵衛 報徳仕法 浜松信行
社
福嶋豊策 遠江二葉会 袴田五平】 遠州,報徳の指導者岡田良一郎と竹
山
謙三による国策即応の結果である。,これ以後の報徳仕法は経済部門と道徳部門との二分法(dichotomy)で整理され(
山
田猪太郎『増訂報徳及結
社
,信仰心が厚く、
山
葉寅楠の創業を支援したことが著名である。,注目すべきは守本恵観以来、信行
社
では
社
員からの入会金・会費徴収は一切ない。 / [浜松信行
社
の人々]
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