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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 ニ (大砲隊編成)

大砲隊編成 二十九日報国隊より大久保初太郎・竹山民部をはじめ、浜松地方では竹山主水・石津出雲(天王神主,)・竹山主馬(下堀)・竹山勝兵衛(天王)・桑原真清・加茂備後・高辻三郎・竹山卯兵衛(天王)・森縫殿之助,・竹山仙次郎・山本金木・長谷川権太夫・志賀孫兵衛ら二十七名、赤心隊よりは十名を抜擢し、大久保初太郎・竹山民部
浜松市史 四 (『遠州郷土読本』)

『遠州郷土読本』 【竹山亥三美】  昭和二十四年になると、本格的な郷土研究誌が幾つか現れる。,その最初のものが竹山亥三美が発行した『遠州郷土読本』(昭和二十四年十一月三日発行)である。,内田旭と渥美静一が記した「編集後記」を見ると「竹山亥三美氏が文化書房を経営されてより、郷土史料の缺乏を,出版元の文化書房は、戦後板屋町に出来た書店で、店主は竹山亥三美。竹山は浜松出身で慶応大学卒。
浜松市史 三 (第二回)

【竹山平八郎】議長は竹山平八郎(政友会派)。,しかし竹山が小西市長の後をうけて大正五年三月二十四日第三代の浜松市長に選出されると、その後は沢田寧がついだ
浜松市史 ニ (隊制決定)

目付兼使番には高辻三郎・加茂備後・長谷川権太夫・浜松田町分器稲荷社の神主佐藤勘解由・下堀の神主竹山主馬,(庄屋竹山左衛門の息子)ら、周旋の役には木部次郎ら、小荷駄の係には天王の神主竹山民部(庄屋竹山孫左衛門,、池田庄三郎の兄)・下堀の神主竹山主水(下堀竹山金左衛門家)、市野宿の本陣斎藤伝兵衛らがあたった。
浜松市史 ニ (印西派)

【木野理兵衛 竹山孫左衛門】浜松周辺における印西派は大橋主殿・左京父子らによって、また上村家に伝えられた,印西派の主流はそののち袋井の木野理兵衛を経て天王の竹山孫左衛門(のも陽左衛門)に移ってからは、中遠地方,【曽我柳橋】大雄庵の曽我柳橋(第七章第一節および本節三和算の項参照)も竹山孫左衛門に師事し弓術家として
浜松が生んだ名建築家中村與資平展 ([明治35年])

(妻は二俣町鹿島、田代嘉平次の三女で長女は漢学者の内田周平に、二女いつは下堀の竹山純平に嫁していた。),竹山家と当方とは同村で隣家であったので、純平の養父謙三の斡旋によりこの縁組は成立したのである。,当時は交通が不便であったので、鹿島の一行は舟で天竜川を中ノ町に下り、竹山邸で一息して、当方に来られたのである
浜松市史 ニ (編成と配置)

    村木美濃  同村      有玉村     下堀村   本間伊豆    小木左京    竹山銀左衛門,源馬寅蔵    黒田常陸  世話方共  〆 拾人   四祖人数四拾四人  世話方共  外ニ 竹山孫左衛門,    竹山平左衛門
浜松市史 三 (翼賛文化協会 文学報国会)

百合山羽公・久野茂・佐々木松次郎・飯尾哲爾・内田六郎など)・報道部(高田壬午郎・松浦錠太郎など)・厚生部(竹山朝生,の三部より成り、各部に職場・小国民・婦人の専任をおき、同人には気賀由利子(引佐郡気賀町)・後藤一夫・竹山亥三美,光明静夫・石井寛(当市鴨江町)が編集、創作を気賀由利子・竹山亥三美、詩を浦和淳・後藤一夫、短歌を松原旭
浜松市史 ニ (仕法掛任命)

彼ら十四名を列挙すると、石川喜左衛門・大石孫左衛門(中田村庄屋)・石田平右衛門・竹山孫左衛門(天王村庄屋,高畑村庄屋)・中村八左衛門(早出村庄屋)・篠ケ瀬四郎左衛門(篠ケ瀬村庄屋)・山本十右衛門(橋爪村庄屋)・竹山平左衛門
浜松市史 三 (資産銀行 遠州銀行)

【二十六年 竹山謙三】明治二十二年普通銀行となったが、浜松伝馬町一三一番地に移り資産銀行を称したのは二十六年二月,で、頭取は竹山謙三(嘉永三年十月長上郡下堀村生、父梅七郎、報国隊員、二俣紡績会社創立、県会議員、敷知長上浜名郡長
浜松市史 五 ([『広報はままつ』の意思表示])

この時点での公式発言は竹山県知事による浜松市誘致が表明されたからである。  ,国立医大の建設候補地はこれまで静岡・浜松であったが、竹山県知事が昭和四十七年八月二十一日に稲葉文部大臣,竹山知事は同四十七年九月七日の県議会で医科大学の浜松市誘致の考えを表明した(『静岡県史』通史編7)。,竹山知事の説明を『広報はままつ』では、次のように引用する。
浜松市史 ニ (報国隊帰郷)

隊員は十一月四日各自感状の写をもらい、翌五日大久保初太郎・竹山民部・浅羽帯刀・桑原真清ら官途についた者,ついで隊員は宮を舞坂宿今切渡まで見送り、山本金木と竹山主水の二人は、隊を代表して新居宿本陣まで出頭、舞坂海苔五帖
浜松市史 ニ (報国隊の結成)

この間山本金木・中村源左衛門・加茂備後・竹山孫左衛門・竹山平左衛門らも、金指・井伊谷(引佐町)方面の旗本
浜松市史 三 (浜松貯蓄銀行)

浜松貯蓄銀行 【三十年】浜松貯蓄銀行は、貯蓄銀行設立が流行した明治三十年三月に遠江貯蓄銀行と競願のかたちで竹山謙三
浜松市史 三 (勧善会)

明治十三年には在監者を教化し、模範囚を扶助するとともに出所者の保護と授産のため、金原明善・川村矯一郎・竹山謙三
浜松が生んだ名建築家中村與資平展 ([明治40年])

最初、自分が京城に出張した時には、京城の第一銀行支店の支配人であった義兄竹山純平宅に泊まった。,何のために自分がかくも歓待されたのか分からないので、帰郷後竹山の兄に訊てみたら、笑って今に判るよと言われた,自分の赴任当時は丁度竹山姉が上京中であったから、妻子の同伴は姉に頼んで一人で渡鮮して竹山の宅に厄介になった,自分の下には現場主任として谷民蔵氏、その下に技術員数名、竹山兄が事務長兼務で、その下に島田房太郎氏がいて,徒然に此の連中が夜遊びに来たので、酒食を供し元気にまかせて大騒ぎをして遊んだものとみえ竹山にあった菊正宗
(解説)中村與資平の建築 ((解説)中村與資平の建築)

5) 中村家と竹山家 中村與資平が第一銀行韓国総支店を担当したとき、施主である第一銀行には義兄の竹山純平,竹山家と中村家は隣村の庄屋同士で、明治期の当主である竹山謙三は地域の近代化を進めた有力者であった。,その竹山家に掛川の岡田家から養子に入ったのが竹山純平である。,そして竹山純平と中村與資平はともに妻を天竜の田代家から迎えていた。  ,中村與資平が独立の初期に朝鮮銀行の支店を次々と手掛けたのは、竹山純平との関係が強く働いている。
浜松市史 三 (浜松誘致 士族と国立銀行)

貴布弥 50 横田 保 内野 50 金原明善 安間 45 青山宙平 中泉 40 ●小林年保 浜松 30 竹山梅七郎,見附 30 気賀荘太郎 気賀 30 横田保平 内野 30 横田茂平 内野 30 青山 徹 中泉 30 竹山謙三
浜松市史 ニ (神主隊編成)

寺社役所から沙汰があって一般神職も有事のさいは農兵隊に加えられることになり、神官たちは弓術師範として天王村竹山陽左衛門
浜松市史 三 (浜松第六区)

【近藤準平】その結果、近藤準平(中立)が二百九十六票を得て当選し、次点竹山謙三(中立)二百八十五票、中村録郎
浜松市史 ニ (報国隊員の得たもの)

、たちまちのうちに零落するもの、大久保初太郎・長谷川権太夫のように陸海軍の大将・中将に昇進したもの、竹山主馬
浜松市史 ニ (藩論決定と遠州神主層)

遠州神主層 遠州随一の富豪で藩財政と密接な関係にあった池田庄三郎、あるいは彼の弟の池田庄二郎、庄三郎の兄竹山孫左衛門,とその一族竹山平左衛門ら領内豪農商や神官層、あるいは足立良斎や藩士らの動向は、もはや藩上層をしていつまでも
浜松市史 三 (翼賛文化協会)

され、浜松翼賛文化協会(昭和十七年四月創立、浜松市立図書館内、会長浜松市長)によって「国意考」の意訳(竹山亥三美
浜松市史 ニ (城下の不穏)

(権左)衛門・神明町木綿屋柳瀬権左衛門・七軒町八百屋善兵衛・塩町権太・利町平六・池町久左衛門・天王村竹山孫左衛門,また若森長右衛門・木綿屋権左衛門・天王村竹山孫左衛門は藩の出入の米商人であった。
浜松市史 ニ (名前帳提出)

 小籔 寸田ヶ谷 馬 船    重立三人 農兵三拾九人   四、稽古所  橋羽村妙恩寺   竹山平左衛門, 篠ケ瀬四郎左衛門 竹山孫左衛門 加藤秀蔵 松山平六  下堀 天王  中田 上新屋 丸塚 佐藤  西塚
浜松市史 三 (大渕羅州)

弓術 天王の竹山家は代々日置(へき)流印西派の家元で、弓術皆伝免許権を握っていた名家であった。
浜松市史 四 (『浜松文化新聞』)

『浜松文化新聞』 【竹山亥三美】  『浜松文化新聞』の創刊は、昭和二十四年九月十五日のことである。,同紙は、浜松の文化人の一人であった竹山亥三美と関係が深いと見られるが、発行人兼編集人として彼の名が見えるのは
浜松市史 三 (資産金貸附所)

御用係には一名五百円の身元保証金を納付させて、本社の気賀半十郎・竹山梅七郎・平野又十郎・横田保平・気賀鷹四郎,られるにいたり、ついに二十二年一月に時代に応じて経営方針を変更し、普通銀行業務に移行することに決定し竹山謙三
浜松市史 ニ (従軍運動)

加茂水穂・長谷川権太夫らは従軍の運動と情報蒐集のため、すでに駿府に出かけ、つづいて杉浦大学・竹山民部らも
浜松市史 ニ (報国隊東上)

十三日川崎、十四日池上本門寺に着陣、十五日大総督は芝増上寺に入り、報国隊は飯倉町瑠璃光寺に駐屯警備、十七日竹山仙次郎
浜松市史 ニ (下堀村吾憂社)

では、儒者寺西易堂を招き、国書・習字・詩文などを教え、塾生は常に三、四十人を下らなかった(清水虎次郎『竹山梅七郎翁事蹟
浜松市史 三 (散髪)

浜松では十九年各町に散髪役員がおかれて普及をはかったが、北馬込の役員竹山重兵衛は旧御家人で、「役目だから
浜松市史 三 (第二回選挙)

第二回選挙 【松島廉作】第二回総選挙は二十五年二月、第六区では松島廉作が竹山謙三・近藤準平らを破って
浜松市史 四 (浜松市史編さん関係者名簿)

 井口久男 池川義雄 内山宏之 岡田裕  河村初友 久米洋司 斎藤良宏 佐藤昭  高林和夫 竹山勝茂
浜松市史 ニ (開掘願出)

開掘願出 【慶応三年】入野村庄屋竹村又兵衛・楊子村庄屋引馬伝三郎・天王村庄屋竹山孫左衛門・有玉下村庄屋高林維兵衛
浜松市史 ニ (西遠・中遠の書家)

「 思玄(法多) 淡庵(気賀) 隆斎(ヨコヲ) 緑介 子旭 長弘 梨堂(山梨) 竹山(掛川) 介石 任斎
浜松市史 五 ([医大誘致運動と浜松医科大学の開学])

同年十二月に竹山知事と佐野県議会議長の連名で政府に出された「静岡大学医学部設置に関する陳情書」には、県内,医科大学浜松設置決定】  昭和四十七年に入って浜松と静岡の医科大学の争奪戦は一段とエスカレート、このような中、竹山知事,来年度予算の発表を控えた同年十二月二十二日、竹山知事は医科大学は浜松市に設置することが政府との折衝で内定,七年間に及ぶ医大誘致に成功したが、これには浜松市への誘致に条件を整えてきた平山市長やこれを後押しした竹山知事
浜松市史 ニ (神主隊結成の理由)

水野藩政下において農兵隊が組織されるとともに、神職をも隊中に加える計画がたてられ、同じ八幡社中において、竹山陽左衛門,天保十四年高林左衛門が竹山陽左衛門に出した入門の請書(高林家文書『記録之内書抜簿二』)によると、「今般御城主様神職之者江者
浜松市史 ニ (作付面積の増加)

畑作のうち綿の作付面積を年代順に比較すると別表のとおりで、文化十三年には八四%に達している(天王町『竹山文書
浜松市史 ニ (弓術訓練)

これらの稽古には竹山陽左衛門が、その都度指導し、稽古日には幾人かが集まったが、必ずしも大きな団体訓練ではなく
浜松市史 三 (浜松県の復活運動)

【十六年】主唱者は竹村太郎(県会議員、敷知郡入野村)・竹山謙三(敷知長上浜名郡長、長上郡下堀村)・岡田良一郎
浜松市史 ニ (神主出動令)

【神主隊結成 浜松矢師】評議は加勢することに一決し、弓術で著名な天王村(当市天王町)竹山陽左衛門を教師
浜松市史 三 (明治三十一年度)

】町長は中村忠七が二期勤めたのちは小西四郎(明治三十五年二月二十七日就任、三十六年二月十二日辞職)・竹山平八郎
浜松が生んだ名建築家中村與資平展 ([明治38年])

これは、竹山純平兄が第一銀行に居た関係もあったと思う。
浜松市史 三 (浜松学校)

川口左又郎 18 女 1 女 356 下堀学校 下堀村 新築 男 1 男 381 16円余 40円 竹山梅七郎,40円 近藤政敏 3 女 0 女 70 高塚学校 高塚村 寺院 男 2 男 311 2円余 40円 竹山又一郎,40円 馬渕金吾 2 女 0 女 175 羽鳥学校 羽鳥村 寺院 男 1 男 368 1円弱 40円 竹山梅七郎
浜松市史 三 (東海道鉄道計画)

加茂(海軍小書記官)らの誘致運動となり、浜松でも翌十七年の「八月十日丸尾文六・鈴木八郎・気賀半十郎・竹山謙三
浜松市史 四 (浜松張子)

志乃はこの年十二月、浜松駅前にあった松竹山房において浜松郷土玩具展を開催し、自作の浜松張子の全作品を展示
浜松市史 三 (遠州紡績株式会社)

社名を遠州紡績株式会社(社長竹山謙三)と称し、明治十七年に操業開始、二十一年には年額四万三千五百五十貫
浜松市史 ニ (隊員と旧幕臣との摩擦)

それより三日目、やはり官に残った鷹森(竹山)民部が、公用で京都より東京に下る途次、浜松に泊ることを聞きつたえた
浜松市史 三 ([市政を荷なった人々])

、昭和十五年九月没、七十八歳)・中村藤吉(田町住)・田中五郎七(田町住、昭和三年七月没、七十七歳)・竹山平八郎
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