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笠井:わが町文化誌
(浜松市立笠井公民館『笠井:わが町文化誌』 目次)
笠井
:わが町文化誌 / 目次 『
笠井
:わが町文化誌』 浜松市立
笠井
公民館 平成5年(1993年) 目 ,次 ページ 画像 目次 発刊によせて (詩)わが町
笠井
第1章 あゆみ 7 1 なりたち,2 村のあけぼの 3 明治・大正・昭和時代 第2章
笠井
市場 45 1
笠井
市場,155 1 伝説 2 由来 3 愛称標識 4 思い出 第6章 文化 173 1
笠井
地区,の神社 2 神社とまつり 3
笠井
地区の寺院 4 寺院縁起とまつり 5 まつりと屋台 / 浜松市立
笠井
公民館『
笠井
:わが町文化誌』 目次
浜松市史 一
(笠井荘)
笠井
荘 【楞厳寺 春日神社】
笠井
荘 市内
笠井
町にあたる。,永正(えいしょう)十一年(一五一四)三月今川氏親の将が井伊谷を攻撃したとき、
笠井
荘楞厳(りょうごん)寺,
笠井
町
笠井
字若林に元郷社春日神社があり、万寿二年(一〇二五)再建の棟札があると伝えている。,このほか
笠井
町には、春日神社が二社ある。,
笠井
荘の鎮守としてまつられた神社であり、藤原氏の荘園であったろう。 /
笠井
荘
浜松市史 三
(笠井線)
笠井
線 大正期に入ると、鹿島線から外れた
笠井
町民の要望により、三年五月に鹿島線西ケ崎駅と
笠井
とを結ぶ,
笠井
支線が開通した。 /
笠井
線
浜松市史 三
(笠井街道)
笠井
街道 ②
笠井
街道 従来は馬込の入口から左折し神立を経て天王たんぼへ出ていたが、曲折が多く雨期になると,明治三十年関係町村が組合会を設置し工費を負担し、路線も東海道天神町を経て大蒲より左折し、宮竹・原島・天王を経て
笠井
,県道となって浜松
笠井
線といった。 /
笠井
街道
浜松市史 三
(浜松笠井線)
浜松
笠井
線 ①浜松・
笠井
間 大正七年に
笠井
自動車株式会社が営業を開始し(大正九年『小倉家文書』、使用,〇〇円だったという)、ついで十年には乗合自動車会社の設立をみたというが、いずれも詳細は明らかでない(『
笠井
郷土,本格的な運行の開始は十二年四月八木橋周助(青森県出身)による「
笠井
自動車商会」が設立されてからである。,八木橋は「使用車はフォード二台、浜松・
笠井
間の料金は五十銭ぐらい、普通の自動車を改造した車なので乗客も,浜松
笠井
間乗合自動車のりば 乗合自動車の運行状況表 注○浜松・
笠井
・鹿島間の距離 / 浜松
笠井
線
浜松市史 三
(笠井市とボデー 笠井の新興商人)
笠井
市とボデー
笠井
の新興商人 ここで西遠平野の最大の綿作地の東北部地域に目を向けると江戸時代より引続,いての
笠井
市(いち)があり、ここにも浜松と同じようにボデーと呼ばれる買出しを主とする仲買商があり、付近,商圏も現在の周智郡森町から引佐郡三ヶ日町付近までの地方的の市場であったが、こうした
笠井
市に仲買商として,出入し、新興の木綿(太物)商人となった人に地元
笠井
の山下吉十・加藤平四郎・加藤伊久蔵や木舟の木俣千代八,
笠井
市場跡(昭和41年撮影) /
笠井
市とボデー
笠井
の新興商人
浜松市史 三
(笠井縞時代)
笠井
縞時代 ①明治前期 遠州織物が
笠井
縞と呼ばれ、遠州を商圏とした地方的な織物に過ぎなかった時代。,そこには浜松を中心として新時代にふさわしい動きが見られはしたが、まだ
笠井
市場(いちば)が中心であった。 /
笠井
縞時代
浜松市史 ニ
(笠井市の由来)
笠井
市の由来 【塩商人 肴商人】
笠井
市の由緒について『川島文書』は、
笠井
村は御検地によって四百石を打,【無高百姓】このとき
笠井
村の無高の百姓も他から「代品物」を借りたり買い出してきた「古着」などを市へ出して,これが
笠井
市の始まりで、人出が増すにつれ市場も拡張し上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三か所とし市日,嘉永二年
笠井
市場出入文書(浜松市
笠井
町 川島光治郎氏蔵) /
笠井
市の由来
浜松市史 ニ
(皆畑地帯と笠井)
皆畑地帯と
笠井
笠井
市(かさいいち)の開かれた
笠井
村は戸数百十二軒(本百姓七十六軒、水呑三十六軒)高四百二石,のゆたかな平野の中央に位し交通も至便な地にあって市を設けるのにふさわしい位置を占めていた(「文政九年
笠井
村明細帳,遠江国風土記伝』に記すように「肆を連ねて市を為」したのは、慶安年間(一六四八-一六五一)以前にさかのぼるという(
笠井
町 / 皆畑地帯と
笠井
浜松市史 ニ
(笠井市閉鎖令)
笠井
市閉鎖令 農民の副業を禁止するため、天保十四年
笠井
市の閉鎖を命じようとして農民の反発にあい、撤回 /
笠井
市閉鎖令
浜松市史 三
(笠井職業女学校)
笠井
職業女学校 このほかに大正十四年四月には町立
笠井
職業女学校(裁縫)が開校している(のち北浜高等女学校 /
笠井
職業女学校
浜松市史 四
([笠井聖観世音奉賛会])
[
笠井
聖観世音奉賛会] 【
笠井
聖観世音】 近世以来の地域住民の信仰を集め尊崇されてきた
笠井
聖観世音,は、浜松市と合併するまでは、
笠井
市場のにぎわいの「表徴」であった。,合併後の
笠井
地域の住民が抱く閉塞感や退勢を挽回させるべく、その中核に据えたのが
笠井
聖観世音であった。,すなわち、この
笠井
聖観世音奉賛会の設立主旨と会則は復興運動の目的と組織運営を記したものである(『新編史料編五 / [
笠井
聖観世音奉賛会]
浜松市史 三
(中ノ町線笠井線の廃止)
中ノ町線
笠井
線の廃止 しかし自動車の発達により中ノ町線・宮口線・
笠井
線は廃止となった。 ,されたばかりでなく、煤煙は非衛生視されて、しばしば廃止運動が起きたので、大正十四年に中ノ町線とかねてから経営不振の
笠井
線,しかし戦争が苛烈になるとこの中ノ町線は十二年に、宮口線は十四年に、
笠井
線も十九年に廃止となった(『遠州鉄道二十年史 / 中ノ町線
笠井
線の廃止
浜松市史 三
(笠井商人の自覚 西遠太物業組合)
笠井
商人の自覚 西遠太物業組合 これらの新しい時代にめざめた
笠井
商人と呼ばれた人々が二十人ほど集まり,、明治十四年
笠井
に組織された西遠産業社を母体として、今まで
笠井
稿とか河西縞(天竜川の西岸の意味)とか地方的,、一ハ以テ国家ノ有無ヲ媒介シ、一ハ以テ自己ノ営業ヲ拡張」(太物商物産社「成立趣意書」)を目的として、
笠井
村,こうして太物類の購入と販売との二方面に力を注ぐこととなったが、十八年の
笠井
の大火で罹災し解散している。,二十年になると組合設置の要望がおこり、浜名・敷知・長上の三郡にひろめ浜松の木綿商人たちも加わり
笠井
村に /
笠井
商人の自覚 西遠太物業組合
浜松市史 三
(鉄道開通と笠井市 浜松市場の勃興)
鉄道開通と
笠井
市 浜松市場の勃興 ここに於てはしなくも
笠井
商人と浜松商人が激しい競争を演することになったが,もともと
笠井
市は背後に東北部の綿作地帯を控えていたのに存在の意義があったが、明治二十二年東海道線の開通,によって外綿はもちろん諸物資が各地から鉄道で浜松へ移入される時代になってみると、
笠井
市へ進出した意義もようやく / 鉄道開通と
笠井
市 浜松市場の勃興
浜松市史 四
([笠井町・中ノ町村・和田村各警察署の設置と廃止])
[
笠井
町・中ノ町村・和田村各警察署の設置と廃止] 【
笠井
町警察署 中ノ町村警察署 和田村警察署 自治体警察,の問題】 新制度の導入により自治体警察として浜松市警察署以外に
笠井
町・中ノ町村・和田村の三町村に三,三つの町村(
笠井
町・中ノ町村・和田村)の自治体警察はこの時点では存続したが、日本全体でも多くの町村が廃止,表2-8 自治体警察三署の配置定員(昭和23年2月4日) 警察別\区分 警部補 巡査部長 巡査 計
笠井
町警察署 / [
笠井
町・中ノ町村・和田村各警察署の設置と廃止]
浜松市史 五
([かささぎ大橋の開通])
[かささぎ大橋の開通] 昭和四十六年二月、浜松、磐田、袋井の三市と磐田郡豊田町は、
笠井
・袋井線建設促進期成同盟会,を結成し、浜松市
笠井
地区から
笠井
大橋(仮称)を架設して袋井市に至る延長十六キロメートルの幹線道路を建設,昭和四十九年十一月に県は浜北大橋と国一天竜川橋の中間地点に
笠井
大橋(仮称)を架け、一部ルートを変更して,昭和六十三年七月になって、浜松市都市計画審議会が
笠井
大橋と都市計画道路とを接続するため計画の変更・追加,を答申、九月に
笠井
大橋以西は都市計画道路・
笠井
坪井線、磐田
笠井
線に決定した。
浜松市史 ニ
(水野藩の停止令)
歴代城主の忌むところであったが、ことに強力に勧農策を押し進めていた水野藩は、天保十四年(一八四三)に「
笠井
市不相成,」(豊町『松島文書』)として
笠井
市の閉鎖を命じ「郷方ニ諸売事御差留」の禁令を出している。,御年貢諸払仕候共過半有」る当村では、年貢も払いかねると主張した村民の反発にあい撤回せざるを得なかった(
笠井
町,前ページの表は明治五年
笠井
町の上町の職業構成である(田辺寛司「
笠井
市場覚書ー市神祭と観音縁日ー」『土のいろ
浜松市史 三
(銀行類似会社の全盛)
銀行類似会社の全盛 【十二年
笠井
銀行】以上は浜松における銀行類似会社であるが、浜松付近でも明治十一年一月,には和地村に隆永社、十二年九月舞坂宿に荷質社、十四年三月に
笠井
村に
笠井
銀行、同年八月に掛塚村に掛塚銀行,
笠井
銀行
浜松市史 五
([法永寺の百句塚を守る])
【法永寺の百句塚 田辺寛司 大木隨處 高井春雄】 平成四年四月四日付記事では、法永寺(浄土宗・
笠井
町,初めは
笠井
町の福来寺境内観音堂裏側、忠魂碑周囲に建立された。,大正八年頃に
笠井
町役場の移転に伴い、忠魂碑とともに
笠井
町御殿山の稲荷社に移設された。,【松島十湖】 なお、この
笠井
地区や長上地区の周辺には近世に建立された句碑や、松島十湖自身、あるいはその,)、法光院(浄土宗・
笠井
新田町)、十七夜観音堂(
笠井
新田町)、豊西上公会堂(豊西町)の旧松島十湖撫松庵邸前句碑群等々
浜松市史 三
(小野江善八)
小野江善八 【
笠井
屋】小野江善八 (天保元年三河国八名郡田中新田村松坂家に生、浜松小野江家へ養子、明治三十七年没,、六十七歳)は善六の本家の田町の呉服商
笠井
屋の主人。,浜松の商店(
笠井
屋 浜松町田)
浜松市史 ニ
(市の商圏)
市の商圏 これによると、
笠井
市の発達には浜松の塩商人・肴商人の出張販売が与かって大きな力があったわけである,甚八付込日記』は二俣村の商人甚八が記した元治元年(一八六四)から慶応二年(一八六六)までの身辺雑記であるが、
笠井
市,【市の保護】また
笠井
市の関係者も、たとえば天竜川以東の商人には天竜川の渡船賃を大豆・麦によって池田の渡船業者,このとき川西の村々は、近くの
笠井
村の「月六度之市場」へ出荷すると大きな下値になるので川東に販路を求めたのだ,
笠井
市にはこのような事件もあったのである。
浜松市史 三
(浜松商人の進出)
浜松商人の進出 【遠陽市場】この
笠井
市(いち)へ、浜松商人たちが進出をしたのは明治二十三年十月であった,その位置は
笠井
村の地続きの豊西村の地籍に属する地で、
笠井
街道に沿って棟割長屋建の家屋を構えた。
浜松市史 三
(社会不安と一揆)
社会不安と一揆 【
笠井
一揆】しかし、領主交代によるこのような地方行政機関改変の不安定のせいもあってか,、それに天竜川出水被害による民心の動揺もともなって二年十一月には
笠井
村方面で乱妨人およそ六百人が「百姓一揆打壊騒動,」をおこし、
笠井
村(二軒)・中野町村(二軒)・木舟村(一軒)・新原村(三軒)・長嶋村(二軒)・宮口村(
浜松市史 ニ
(和地村牧田家)
くの水車を経営して粉ひきのほかに各地から菜種・綿実・胡麻・麻実を仕入れて油を絞り、これを近隣の村々や
笠井
市,【
笠井
地方】第二に三方原の林野を越えて
笠井
市とその周辺の村々との交流も密接であった。,ことに
笠井
市に関係して綿実・大豆・小豆・胡麻などの農作物や種油・胡麻油・粉糟・油などの農産加工品の取引,、さらには唐傘(からかさ)の仕入、また浜松の
笠井
屋や
笠井
市の保田屋(ほたや)などとも商取引が行なわれている,なお村櫛方面では油粕を多量に買い入れていること、
笠井
市では胡麻粕・油粕・粉糟などが盛んに売りさばかれていることは
浜松市史 ニ
(天明の騒動)
【
笠井
方面 二俣方面】このころ、また
笠井
村には過激な立札を立てる者があり、豊田郡二俣(ふたまた)村では,禁止の旨触書がでている)、という廻状を出す者もあらわれ世情なんとなく不穏であったが、はたして十月十六日
笠井
村,
笠井
村といい二俣村といい、いずれも町名をもって呼ばれ、前者は
笠井
市(後述)の市場であり、後者は北遠地方
浜松市史 ニ
(和泉屋の永代帳)
その取引先も長上郡平口・高畑・沼・横須賀・東美薗・西美薗・小林・寺嶋・小松・道本・油一色・万斛・橋詰・
笠井
,【
笠井
市】そして集荷した製品は多く
笠井
市で販売されたらしいことは『永代帳』に「かさい」とあり、「一弐百文,【市機】当時農家で
笠井
市へ販売用として布を織ることをとくに「市機(いちはた)」とよんだという。
浜松市史 三
(大木随処 野沢十寸穂)
大木随処 野沢十寸穂 浜松地方の門人には大木随処(久太郎、
笠井
新田、昭和十六年六月没、七十歳)・高井春雄,(
笠井
新田、昭和四十四年十月没、八十三歳)、明治の末期に浜松新聞の主筆であった野沢十寸穂(増吉、引佐郡奥山村生
浜松市史 ニ
(兄弟庵連)
【彦端】また
笠井
村(当市
笠井
町)の内藤彦端(げんたん)も多くの門人を指導している。,門人は彼の七回忌にあたる同七年九月、
笠井
の定明寺に「葡萄の実熟したりけり珠の色 左光」の句碑を建てている,にのこりけり 半場 北魚 鹿鳴や古郷遠き旅こころ 恒武 文明 小夜砧打や都の片辺
笠井
,小松 3 金指 1 石田 9 小計 48 小計 6 市野 1 豊田郡 恒武 3 敷智郡 浜松 16
笠井
,薬師 2 萱場 1 志都呂 1 下堀 1 中ノ町 6 高林 1 上石田 1 松小池 1 宇布見 1
笠井
新田
浜松市史 ニ
(百洲)
百洲 【白兎】百洲は
笠井
(当市
笠井
町)稲荷明神の神主で、通称池田庄三郎、名を勝彦という。
浜松市史 ニ
(市の内争)
市の内争 紛争といえば、
笠井
市の内部においてもしばしば生じている。,これによると、このころには、
笠井
村に隣接して市を開く者があったり、また市日も規定どおりでなくなって「古門,【新興商人の台頭】しかし、その反面にこの
笠井
市を基盤として新興の商人が成長しつつあった。,(表)明治5年
笠井
町(上町)職業構成(田辺寛司調査) 太物 1 塗物 1 太物質商 1 紙類 2
浜松市史 ニ
(親村と枝村)
薬師新田 神立 将監名・下 宮竹 宮竹新屋 上之郷 西在所 渡瀬 次広・別久 天王 天王新田・下堀・中田
笠井
,
笠井
新田 寺嶋 打上・寺嶋新田 美薗 油一色 木舟 木舟新田 内野 小嶋 万斛 橋爪 向嶋 天神町
浜松市史 四
(浜松北保健所)
同三十三年八月一日、
笠井
町に新設された浜松北保健所が仕事を始めている。,浜松市の北部(長上・積志・
笠井
・三方原・都田)と浜北町を管轄区域とするものである。
浜松市史 四
(五島・新津・河輪三村の浜松市合併)
【
笠井
町の誕生】 先述のようにシャウプ勧告以来、町村の合併話は各地で進んでいたが、,こうしたなか、浜松市以外で合併話が進んでいたのは浜名郡
笠井
町と隣接する豊西村であった。,それによると新町名は
笠井
町と決定、役場はこれまでの
笠井
町役場とし、豊西村役場は町立図書館と幼稚園に転用,こうして
笠井
町と豊西村は昭和二十六年四月一日に合併し、新しい浜名郡
笠井
町が誕生した。,このほか、当初は
笠井
町に合併しようとしていた浜名郡竜池村は同郡北浜村との合併に傾き、中ノ町村と和田村、
浜松市史 三
(織物工場分布)
これを町村別にみると①東北部地域(積志・北浜・小野口・龍池・豊西の各村と
笠井
町)②東南部地域(可美・新津,遠江織物同業組合製造者地域別分布図 (表)浜名郡一帯綿織物生産額 (昭和6年) 町村名 産額反
笠井
,舞阪・南・北庄内 1,967,399 赤佐・中瀬・新居・鷲津・ 三ヶ日等 413,815 (『
笠井
郷土
浜松市史 三
(新しい商法)
そこで浜松や
笠井
の商人たちはまだ鉄道未開通のこととて製品を自ら背負い或は馬の背に乗せて、山を越え川を渡, 【関東】①関東方面 明治十二、三年頃試みたが成功せず、同二十年ごろ山下吉十等がはじめて成功(『
笠井
郷土,の俤』)、後には加藤伊久蔵(
笠井
村)等他の人々も進出した。
浜松市史 ニ
(寺子屋の教科目)
福来寺(当市
笠井
町)第十世福田観了(明治二十三年没、六十九歳)が、筆子たちに書き与えたという自筆の習字手本,『寺子屋教訓書』『孝行和讃』(山下浜女使用のもの、
笠井
町山下竜郎氏保存)がある。
浜松市史 ニ
(新生の村々)
安富・庄屋 石田 2 下石田・上石田 天王 4 天王・天王新田・下堀・中田 大瀬 2 上大瀬・下大瀬
笠井
,2
笠井
・
笠井
新田 寺嶋 2 打上・寺嶋新田 美薗 3 東美薗・西美薗・油一色 高苑 1 高畑 木舟
浜松市史 四
([浜松市警察署の改革])
浜松市東警察署】 浜松市は昭和二十六年(一九五一)に新津村・五島村・河輪村を合併、同二十九年三月には
笠井
町,合併町村のうち
笠井
町・和田村・中ノ町村は以前は自治体警察署を持ち、そのほかは国家地方警察の東浜名地区警察署,三月末日に合併する
笠井
町、長上村・中ノ町村・和田村は浜松市東警察署の管轄に入ることになった。
浜松市史 四
([野球の流行])
[野球の流行] 【野球 北部中学校
笠井
町野球連盟】 戦争のために禁止されていた野球が浜松で復活,
笠井
町では、
笠井
タイガースなど二十数チームができ、
笠井
町野球連盟の下、野球大会が開催された。
浜松市史 四
([派出所の建設と新しい装備])
昭和二十九年七月一日、橋羽(後に天竜川町)に和田派出所、
笠井
(後に
笠井
町)に
笠井
派出所が開所、和田は職員八名,、
笠井
は職員七名と、それぞれにポンプ自動車一台を配備した。
浜松市史 四
([農繁休暇と手伝い])
笠井
中学校では昭和三十一年六月二十三日から二十九日までの一週間(麦刈りと田植え)と十一月七日から十三日,当時
笠井
中学校の一年生であった村木千代八は昭和三十一年十一月十三日の日記に「長日にわたった稲かり休業(,
笠井
中学校の農繁休暇は昭和三十三年も六月に約一週間、秋はやや短縮され十一月六日から八日まで(三年生の一部
浜松市史 ニ
(流行の仏たち)
観音菩薩 鴨江寺・竜禅寺・福来寺(当市
笠井
町)。馬頭観音では西鴨江村の花学院。 ,仏堂名 数 所在地 薬師堂 7 早出薬師下堀羽鳥
笠井
高薗永嶋 阿弥陀堂 7 船越上之郷佐藤永田長命白鳥羽鳥,観音堂 6 中田北嶋松小池長命
笠井
永嶋 地蔵堂 5 馬込天王北嶋壱貫地上嶋 大日堂 2 薬師天新田
浜松市史 一
(天竜川と馬込川)
永正十一年(一五一四)に今川氏親が井伊谷に井伊次郎を攻めたときには、
笠井
荘(当市
笠井
町)から川をわたり,大菩薩に陣したとあるから(『宗長手記』)
笠井
の西を小天竜が流れていたことになる。
浜松市史 三
(町制施行 敷知郡浜松町 大字制度)
有玉 小野田村 半田 内野 小松 小松 平貴村 (大字名省略) 平口 美島村 (〃) 東美薗
笠井
村,
笠井
笠井
新田 上 (明24.9.17
笠井
町と改称)
笠井
万斛村 上前島 万斛 漆島 西ヶ崎 橋爪
浜松市史 ニ
(横浜貿易)
横浜貿易 【遠州屋】久平は、このようにして蓄積した財をもって
笠井
村清六・下石田村治三郎・同村宗兵衛とともに,清六の姓は鈴木で屋号を糀屋といい、油粕などを扱う
笠井
商人で、治三郎(小池姓)・宗兵衛(佐藤姓)も農業に
浜松市史 ニ
(運輸方法)
【馬 舟運】牧田家のある和地村は浜名湖と三方原林野とにはさまれた谷あいにあって、
笠井
・浜松方面へは馬で
浜松市史 三
(小野組支店)
18.2 西遠(第一次) 敷知郡浜松伝馬町 大正9.6 資産銀行と合併して遠州銀行を設立 明治14.2
笠井
,長上郡
笠井
町 明治31.2 資産銀行へ合併 明治14.9 掛塚 長上郡掛塚村 明治31.3 西遠銀行,浜名郡
笠井
町 明治42.10 千葉県へ移転 大正4.1 天富 浜名郡富塚村 昭和3.8 他行と合併,(第二次)を設立 明治34.2 中瀬 浜名郡中瀬村 昭和5.7 二俣銀行へ合併 明治34.11
笠井
,(第二次) 浜名郡
笠井
町 大正12.9 浜松商業銀行へ合併 明治44.4 浜浦 浜名郡雄踏村 昭和4.4
浜松市史 ニ
(農村の職人)
大工・鍛冶に多く大工では北嶋村の九人、永嶋村の五人が多い方であり、また鍛冶は薬師新田(三人)・長命・
笠井
,紺屋十四人の内訳は高薗村四人、長瀬村三人、長命村三人、松木嶋村二人、三家村一人、
笠井
村一人となっており
浜松市史 五
(障害児者施設)
障害児者施設 【
笠井
学園】 昭和三十年代まで、重い身体障害者を受け入れてくれる施設はほとんどなかった,また、昭和四十四年
笠井
町に本格的な心身障害児小規模通園施設として浜松市は
笠井
学園を開園した(『新編史料編六
/ 5ページ