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浜松市史 ニ
(職人町と屋敷)
このうち神明町には職人頭の家が三軒、
紺屋町
と大工町には二軒あり、家数からいうと大工町・
紺屋町
・鍛冶町・, 神明町 1 大工町 32 橋羽村 1 本役 2 水役 5 寺脇村 2
紺屋町
,5
紺屋町
1 鍛冶町 4 鍛冶町 1 白鳥村 1 檜物師頭 1 鍛冶町 3, 役染 10
紺屋町
7 伝馬町 3 長島村 1
紺屋町
1 下垂町 2 素人屋舗,
紺屋町
4
紺屋町
3 池町 1 伝馬町 1 瓦師頭 1
紺屋町
1 利町
浜松市史 ニ
(【檜物師】)
のとおりであったが、その後異動があり文化四年(一八〇七)の「檜物師御役勤之事」によると、檜物師頭屋敷
紺屋町
一軒,、檜物師役屋敷
紺屋町
二軒・鍛冶町一軒の計四軒となっている。,また文化十五年の「檜物師御役勤」に、檜物師頭
紺屋町
一軒、素人本役
紺屋町
三軒・連尺町二軒、水役
紺屋町
一軒計七軒,檜物師はこのように時代によってその役の人数も、居住地も変わるが檜物師頭は長右衛門と称し、代々
紺屋町
に住
浜松市史 ニ
(榎門口)
榎門口 【袋町】榎門口(えのきもん) 鉄門前から南進して袋(ふくろ)町(現在松城町・
紺屋町
)へ出る道,袋町から榎町(
紺屋町
となる)を経て東海道へ出る。また
紺屋町
・高町方面へも通じている。
浜松市史 三
([町制の施行])
へ)の三村を分離し、さらに馬込・八幡地・寺島・浅田・海老塚の各字の一部分を編入し、同時に三戸長役場(
紺屋町
,・伝馬町・田町)を合し浜松町役場と改称し、
紺屋町
九十二番地に設置した。
浜松市史 四
([罹災した寺院])
成子町)、東漸寺(成子町)、明寿院(塩町)、本称寺(元魚町)、快真寺(鴨江町)、甚教院(栄町)、善正寺(
紺屋町
,)、心造寺(
紺屋町
)、蓮華寺(
紺屋町
)、正福寺(高町)、菩提寺(三組町)、齢松寺(元城町)、芳蘚寺(池町
浜松市史 三
(浜松新聞 浜松読売新聞)
浜松新聞 浜松読売新聞 つぎに『浜松新聞』(明治九年十月、十七号現存)は浜松袋町鈴木宗甫によって
紺屋町
明九社,また『浜松読売新聞』は編集鈴木重陰、浜松
紺屋町
進盛社発刊、毎月五日、月十回、一枚一銭、一か月八銭で、明治十年六月
浜松市史 ニ
(真宗)
善正寺(
紺屋町
)名残町から移って善正寺と称したのは元亀二年という。,蓮華寺(
紺屋町
、前述第二章第六節参照)。齢松寺(後道、現在中沢町)開創は明応九年という。
浜松市史 三
(浜松三戸長役場)
浜松三戸長役場 このとき浜松宿では三つの戸長役場(浜松旅籠町組戸長役場・浜松
紺屋町
組戸長役場・浜松田町組戸長役場,浜松平田町 浜松後道町 浜松寺島村 浜松八幡地村 以上十三ケ町村 戸長林正照 【浜松西部】
紺屋町
外十一,ケ町村戸長役場 浜松
紺屋町
浜松連尺町 浜松利町 浜松肴町 浜松神明町 浜松元城町 浜松名残町 浜松元名残町
浜松市史 三
([書籍の発刊と書籍店])
浜松連尺町落合氏)・白木屋健二郎(浜松下新町)・山城屋仁平・伊勢屋太右衛門・一貫堂・奎文堂・好文社(浜松
紺屋町
,12.8 敷知郡沢村関川美健著(浜松市街図挿入) 百里園風光 14.3 青松館 遠江郡誌略 15.3 浜松
紺屋町
鈴木与平次,17.12 浜松山下久太郎編 浜松魁新誌社 静岡県遠江国敷知長上浜名郡管内図 18.5 浜名郡役所編 浜松
紺屋町
渡辺安次郎刊,松島十湖選 浜松三組町兼子義鏡 静岡県地誌 23.5 稲作改良法 25 長上敷智浜名米作改良組合著
紺屋町
郁文舎
浜松市史 三
(大工職)
大工職 大工職 江戸時代より引続いて杉浦・桑原(浜松
紺屋町
)・金子・大山家などがあった。
浜松市史 三
(石工)
石工 石工 佐藤北洲(浜松
紺屋町
)。高町半僧坊境内の梅村金八の碑は明治三十二年の作品である。
浜松市史 三
(会社病院)
会社病院 【六年三月
紺屋町
】浜松地方の医療の近代化は、明治六年三月、浜松
紺屋町
に設立された会社病院
浜松市史 ニ
(戸口の増減)
町別でみると、戸数百軒以上を数えるのは田町が一か町のみであったのに伝馬町・肴町・板屋町・新町・大工町・
紺屋町
,二十五軒以上の増加は、御役六町では塩町があるばかりでその他は七軒町・板屋町・新町・早馬町・下垂町・大工町・
紺屋町
浜松市史 ニ
(神明社)
はじめ
紺屋町
北裏袋町から蜆塚村宮山の岡之社へ遷座、そののち、高町(三組町)へ移ったのだという。
浜松市史 ニ
(【桶師】)
各陣場で火矢筒の御用を桶師頭神明町源六の先祖がうけていたことから「除地屋敷 一軒、配下屋敷 神明町二軒・
紺屋町
三軒
浜松市史 ニ
(小沢衆甫)
墓所
紺屋町
心造寺。【仁庵】その孫仁庵もまた連尺の医家として知られた。
浜松市史 三
(横町通)
【
紺屋町
】
紺屋町
には紺屋職は住んでおらず大工町と同様に建築関係の職人が多く石工・井戸掘・桶職・塗師や荒物
浜松市史 三
(救世軍)
三十九年元魚に日本聖公会浜松講義所、四十二年利町にハリストス正教降誕会堂(日本ハリストス正教会)、四十四年に
紺屋町
浜松市史 三
(第三回)
政友会系二十二名(一級一〇名、二級七名、三級五名)、非政友会系八名(二級三名、三級五名)、議長は中村忠七(政友会、
紺屋町
浜松市史 ニ
(侍屋敷)
高町(たかまち)
紺屋町
坂の上の高台にあって、東高町と西高町(北高町)とに分かれていた。,なお、この坂をひくま坂ともいって(前述)
紺屋町
との境に木戸があった。
浜松市史 ニ
(奈川新田)
弘化四年(一八四七)十二月十二日
紺屋町
から火が出て肴町におよんだとき、川上家はその難にあい、この新田を
浜松市史 ニ
(横町)
がある)、大工町に南小路(若宮八幡宮があるので若宮小路ともいう)・北小路、利町に五社大門通・諏訪大門通、
紺屋町
浜松市史 ニ
(町幅)
田町・七軒町・上新町・下垂町、三間未満は肴町・成子坂町・早馬町・鍛冶町・平田町・本魚町・大工町・利町・
紺屋町
浜松市史 ニ
(町筋の屈曲)
町筋の屈曲 町筋は東海道では神明町の神明坂下と気賀へ通ずる
紺屋町
の紺屋坂下で大きく屈曲していた。
浜松市史 ニ
(服部保庵)
墓所
紺屋町
心造寺。
浜松市史 ニ
(高津元慎)
翌三十一年七月には有志により、
紺屋町
善正寺に「不知庵無為宗匠之碑」を建立した(塚本五郎「浜松の碑銘(二
浜松市史 三
(集会所制 浜松の集会所)
心造寺は浜松
紺屋町
にあった)。
浜松市史 ニ
(町名の変化)
おそらく尾張町は下垂町に榎町は
紺屋町
に、宝暦九年以前において合併されたのであろう。
浜松市史 四
(ざざんざ織)
平松の中島町の実家は、動力織機を入れた織布業で、工場内にざざんざ織の工房を置いていたが、新たに
紺屋町
に,図2-67 ざざんざ織と平松實 しかし、この
紺屋町
の工房も、太平洋戦争の戦火により焼かれてしまう
浜松市史 三
(製糸)
設立年代 町名 動力 巻数 生産額 明治11
紺屋町
太田勇次郎 手廻 40 17貫 〃 〃 〃 〃
浜松市史 ニ
(【紺屋役】)
この当時の紺屋頭は
紺屋町
の弥左衛門であった。
浜松市史 ニ
(浄土宗)
浄土宗 浄土宗 心造寺(
紺屋町
)天正八年創立。心造寺殿は二代将軍秀忠の母の法号という。
浜松市史 三
(姫街道)
【新姫街道】しかしそののち、浜松神明で東海道国道と別れ、榎町(えのきまち)(
紺屋町
の一部)・紺屋・高・
浜松市史 三
(大きな町)
大きな町 百戸以上の町人町には伝馬町・田町・肴町・板屋町・新町・
紺屋町
があったが、この時代になると下垂町,5 3 92 21 利町 7 48 55 1 6 7 20 8 15 1 4 48 22
紺屋町
浜松市史 三
(浜松医学校新設)
浜松医学校新設 【九年】なお、この附属医学教場は明治九年五月
紺屋町
心造寺の側(四三番屋敷)に新築開場
浜松市史 三
(浜松の仮戸長と管轄地)
一梅谷甚三郎 八百五十八軒 秋葉町・清水町・利(とぎ)町・本魚町・
紺屋町
・大工町・大堀新地・猿屋町・愛宕町
浜松市史 ニ
(烏明の来遊)
天明五年九月、永田白輅・吉田玄彦(徐生、浜松藩士)・蓮華寺(当市
紺屋町
)住職鳥居柳也・入野(当市入野町,【柳也】柳也(号を一棺亭という)は
紺屋町
の玩照山蓮華寺の住職で、俳諧を蝶夢に師事し、立花・生花などもたしなんだ
浜松市史 ニ
(芭蕉柳の句碑)
芭蕉柳の句碑 蝶夢は天明八年四月十六日、俳弟子木姿と共に江戸を出て、二十五日浜松宿
紺屋町
の蓮華寺(れんげじ
浜松市史 三
(政友会)
【中村忠七 道惣】この間に中央政党の勢力も浸潤し、ことに財閥派の中村忠七(安政四年浜松
紺屋町
生、連尺町
浜松市史 三
(アララギ派 あかしや)
【法月歌客】また法月歌客(のりづきかきゃく)(照三郎、当市
紺屋町
、歌集『砂丘』)は雪腸門下の歌人で昭和二年浜松新聞
浜松市史 ニ
(町道の変化)
これを町別でみると減少のいちじるしいのは早馬町・池町・平田町・本魚町・大工町・利町・
紺屋町
・猿屋町などのおもに
浜松市史 三
(長尾学校 女紅場)
長尾学校は十年九月長尾ワキ女(天保二年生、明治二十四年三月没、六十一歳)の創立、浜松
紺屋町
にあった。
浜松市史 三
(中島登)
中島登 異色の人物に、浜松
紺屋町
に明治十七年銃砲火薬店を創めた中島登(明治二十年四月没、五十歳、墓天林寺
浜松市史 三
(衛生組合)
岡部譲会長の遠江私立衛生会(浜松利町)より、また『通俗衛生月報』(明治二十五年六月第九号現存)が浜松
紺屋町
浜松市史 ニ
(無役町の人足割)
(表)無役町の人足割 無役町 人足 早馬町 2 人 板屋町 16 本魚町 6
紺屋町
12 下新町
浜松市史 一
(自然環境編)
浜松市舘山寺町) 二一 百里園旧士族屋敷の井戸(浜松市三方原町) 二二 東鴨江累層(浜松市
紺屋町
浜松市史 四
([泉松山法林寺の復興])
にかけての本堂復興は、昭和二十五年に東漸寺(成子町)、同二十六年に芳蘚寺(池町)、同二十六年に心造寺(
紺屋町
,)、同二十九年に大聖寺(板屋町)、同三十年に万福寺(野口町)、同三十一年に善正寺(
紺屋町
)、同三十二年
浜松市史 三
(己卯社)
明治三十九年没、五十九歳)・杉浦公正・加藤枡蔵・樋口弥一郎(浜松連尺町)・山下斧治・県勇・内田政治(浜松
紺屋町
浜松市史 三
(遠陽自由党)
【十五年 沢田寧】沢田一朗・沢田寧(代言人)・鈴木貫之(代言人、士族、安政二年八月生、浜松
紺屋町
)らが
浜松市史 三
(気賀林の建白)
気賀林の建白 駿府藩が藩の殖産興業政策として渋沢栄一(篤太郎)を起用して商法会所を静岡
紺屋町
に開業したのは
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