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浜松市史 ニ
(魚と肴町)
魚と
肴
町
浜松城主は浜松の繁栄をはかるため商工業者に特権を与えて、これを優遇した。,)さらに
肴
町
へ引越してきたことはすでに述べておいた(第三章第三節)。,【
肴
町
由緒】
肴
町
魚商由緒については、延享四年(一七四七)
肴
町
年寄庄屋から城中に対して提出した「御由緒書,、
肴
商人只今之本魚
町
ニ六人有之候、同九年(一五六六)権現様当御城江御入国被為遊、御
肴
御用も多相成御手支,罷成候、其節
肴
町
ヲ御取立屋敷地坪被下置、御年貢御免許被仰付候、難有奉存候、其砌ゟ
肴
商之儀西ハ舞坂、東ハ / 魚と
肴
町
浜松市史 ニ
(肴町と歩役)
肴
町
と歩役
肴
町
の起こりは家康在城時代とみられ(榎門付近の六軒の魚商)、その後魚商たちは本魚(もとうお,)
町
に移り、さらに慶長五年(一六〇〇)のころに「
肴
町
」に引越した。,田
町
・旅籠
町
は往還筋にあり。旅宿が多く、
肴
町
とならんで歩役百二十八人をつとめるようになった。,【伝馬
町
塩
町
肴
町
田
町
旅籠
町
】この裁断にしたがって五か
町
の庄屋たちは、つぎのような申し合わせを行,一分二厘五毛 塩
町
〃 二五軒 人足一二八八人 三
町
方五分 三分一
肴
町
〃 四九軒 /
肴
町
と歩役
浜松市史 ニ
(西嶋村と浜松肴商人)
西嶋村と浜松
肴
商人 これらの漁村のうちで、とくに西嶋村は網繰網猟がさかんで「西嶋村網繰網之事」(「浜松宿古来書留,」『浜松市史史料編二』)によると、元禄十六年(一七〇三)当時に同村では網繰網引船が四艘あって
肴
町
商人が,管理し、漁猟のあったときには
肴
町
商人が「西嶋村へ罷越候而相対にて直段仕買取」って
町
へ運び塩方奉行へ報告,【他売禁止】しかし文化二年(一八〇五)六月に西嶋村漁民が
肴
町
の由緒を無視し掛塚村へ売ったとして
肴
町
と訴訟事件,【初鰹献上】
肴
町
商人は遠州灘の初鰹を毎年領主へ献上するのが例であった。 / 西嶋村と浜松
肴
商人
浜松市史 三
(横町通)
横
町
通 以上は東海道往還筋の
町
々であるが、これをはずれると横
町
があった。,【
肴
町
】たとえば
肴
町
がある。,なおこの時代まで浜松には
肴
町
よりほかに魚商が一軒もなかった。,【池
町
利
町
】しかし同じ横
町
でも池
町
や下垂
町
は職人
町
で、傘屋(二〇戸)左官(九戸)桶屋(八戸)や古着屋,が多く、元魚
町
・利
町
は大工・左官職の多い
町
であった。 / 横
町
通
浜松市史 ニ
(横町)
横
町
【袋
町
】また多数の横
町
も発達し
肴
町
に江馬殿小路(別称を沼殿小路という。,江馬氏の住居跡という)、本魚
町
に松尾小路(松尾神社がある)、大工
町
に南小路(若宮八幡宮があるので若宮小路,ともいう)・北小路、利
町
に五社大門通・諏訪大門通、紺屋
町
に袋(ふくろ)小路(袋
町
ともいう)、その他早馬
町
,・下垂
町
・鍛冶
町
などにもあった。 / 横
町
浜松市史 ニ
(町幅)
町
幅 また四間以上の
町
幅の
町
は連尺
町
・伝馬
町
・塩
町
・神明
町
・板屋
町
・新
町
・池
町
の七か
町
で、池
町
以外は,東海道往還筋の
町
である。,中でも塩市が立つ塩
町
は五間余でもっとも広かった。,三間は旅籠
町
・田
町
・七軒
町
・上新
町
・下垂
町
、三間未満は
肴
町
・成子坂
町
・早馬
町
・鍛冶
町
・平田
町
・本魚
町
・,大工
町
・利
町
・紺屋
町
・名残
町
・清水
町
・猿屋
町
の十二
町
で、清水
町
・猿屋
町
は二間に満たない。 /
町
幅
浜松市史 ニ
(町役人)
町
役人 【庄屋】
町
奉行の支配下に、各
町
の
町
役人(庄屋と年寄)があって
町
政を担当していた。,『遠州浜松各
町
書上』によって宝暦九年(一七五九)の浜松二十四か
町
の庄屋と年寄の人数をつぎに示そう。,(表)宝暦9年浜松の
町
役人
町
名 庄屋数 年寄数 連尺 2 3 伝馬 2 6 旅籠 2 1 塩 2,3 田 4 3
肴
3 3 成子坂 2 1 七軒 1 2 上新 1 2 神明 1 2 板屋 1 2,本魚 1 2 大工 1 2 利 1 2 紺屋 2 2 名残 1 2 清水 1 1 猿屋 1 1 計
町
数 /
町
役人
浜松市史 ニ
(町屋)
塩
町
(しおまち)・
肴
町
(さかなまち)
町
名の商人が居住し、本魚
町
はもと
肴
町
があった
町
である。 ,大工
町
(だいくまち)・紺屋
町
(こうやまち)・鍛冶
町
(かじまち)・利
町
(とぎまち)
町
名の職人が多く住み,下垂
町
(しもだれちょう)・平田
町
(なめだちょう)・清水
町
(しみずまち) 下垂
町
は水のしたたれであろうし,と七軒
町
で、七軒
町
は家数が七軒になったときはじめて
町
となった。 ,新
町
(しんまち)・板屋
町
(いたやまち) 東海道往還の東端にできたのが新
町
と板屋
町
で、新
町
はもと、かや屋
町
/
町
屋
浜松市史 三
(大きな町)
大きな
町
百戸以上の
町
人
町
には伝馬
町
・田
町
・
肴
町
・板屋
町
・新
町
・紺屋
町
があったが、この時代になると下垂
町
,(しもだれちょう)・元魚(もとうお)
町
の二
町
と三方原方面の発展につながる名残
町
が新しく加わっている(『,また侍屋敷
町
では高
町
・早馬・御組(おくみ)
町
(名残)が百戸以上となっている。 ,農 不詳 計 職 渡世 稼 農 その他 不詳 計 旧
町
人
町
1 連尺
町
2 67 69 2 2,15 20 86 20 2 12 6 146 6
肴
町
4 113 117 4 4 13 83 / 大きな
町
浜松市史 ニ
(塩と塩町)
塩と塩
町
【塩
町
由来】塩 塩
町
は、はじめは
肴
町
と同様に浜松城付近にあったが、のちに伝馬
町
の南へ移転し,この塩も塩
町
に限り専売権が付与されていたという。,その後、その塩売りは城下の
町
民であったことがわかり、恩賞としてその者の居住する塩
町
一
町
を限って塩専売を / 塩と塩
町
浜松市史 ニ
(各町の夫役)
各
町
の夫役 【伝馬役】伝馬役 伝馬・塩・田・旅籠・
肴
・連尺のいわゆる御役六
町
。,【普請役】新道土橋並道普請役 伝馬・
肴
・神明・連尺・鍛冶・利・紺屋の七
町
。,たとえば明和九年(一七七二)二月十二日に紺屋
町
から出火して連尺
町
・神明
町
・田
町
・板屋
町
方面まで延焼するという,
肴
町
下・鍛冶
町
・後道・平田
町
,70軒余焼失 〃 11.8 甚教院火事 〃 12.12.19,) 紺屋
町
より出火榎
町
・神明・田
町
・連尺・
肴
町
・伝馬
町
後道におよぶ火元清水屋大安寺焼失(『旅籠
町
平右衛門記録 / 各
町
の夫役
浜松市史 ニ
(塩町と伝馬)
塩
町
と伝馬 若林村にいた塩商人は浜松城内の塩御用をつとめるとともに大手門筋の塩市場の支配権を持っていたが,、そののち半頭
町
に移り、さらに高力城主の時代に「塩
町
」へ引越した。,このような事情によって塩
町
に伝馬役がかけられた。,【歩方三
町
方】伝馬役二
町
方に対して
肴
町
・田
町
・旅籠
町
の三
町
が歩役三
町
方と呼ばれて荷物運搬の人夫役をつとめた,歩役三
町
方の起源については明確ではない。 / 塩
町
と伝馬
浜松市史 三
(大字制度 新町名)
・北寺島の各
町
へ編入 松江
町
まつえちょう 〃 馬込 新・板屋・浜松寺島・浜松八幡地・
肴
・紺屋・伝馬の,いたやまち 〃 板屋 本馬込・北馬込・伝馬・
肴
・新の各一部 一部を松江
町
へ編入 田
町
たまち 〃 田,常盤・鍛冶の各一部 一部を馬込・東田・新・
肴
・北田・尾張・早馬・常盤・八幡・元浜・山下の各
町
へ編入,新設 (寺島) 北馬込・新・浜松寺島・浜松八幡地・
肴
・紺屋の各一部
肴
町
さかなまち
町
をつける,
肴
田の一部 一部を松江・板屋・北寺島の各
町
へ編入 神明
町
しんめいちょう 〃 神明 連尺
町
れんじゃくちょう / 大字制度 新
町
名
浜松市史 ニ
(城主の町づくり)
城主の
町
づくり 近世の封建領主にとって城と
町
とは一体不可分の存在であったから、家康をはじめ、初期の浜松城主,たちは城下の
町
立(
町
づくり)に力を用いた。,その際に、他の多くの城下
町
建設の場合と同様に、道路・水路・住民の居住地域区分(職業階級別)などが重視されたことは,【高力氏の
町
割】浜松の
町
づくりが軌道にのったのは、城主高力忠房の時代(元和五年―寛永十五年)であった。,確実であり、寛永十五年には
肴
町
からの請願にこたえて同地区の武家屋敷二つを払い下げている。 / 城主の
町
づくり
浜松市史 ニ
(御役六町)
御役六
町
【連尺
町
】その後、正徳二年にいたり、旅籠
町
の出訴により(後述)連尺
町
が役
町
に加えられ、御役
町
,(表)浜松宿御役
町
成立過程表 取立
町
名 伝馬
町
伝馬数 歩役
町
町
の取立者 備考 人足数 駄賃伝馬数,慶長年間
肴
町
128人 55疋 小島三郎右衛門外 歩役三
町
方と称す 田
町
杉本彦九郎外 旅籠
町
杉浦八郎左衛門外,25疋 小山市郎兵衛外 伝馬
町
・塩
町
を伝馬役二
町
方と袮す 計100疋 〃19 ,; 御役
町
に加わる,旅籠
町
の訴願によるもので,旅籠
町
の役の半分を負担 / 御役六
町
浜松市史 ニ
(町検地と町絵図)
町
検地と
町
絵図 その後、天和二年(一六八二)に、時の城主青山和泉守忠雄は浜松の
町
検地を実施し、惣
町
屋敷,(表)浜松
町
数家数間尺表
町
名 家数 通道の長(
町
間) 通筋(新
町
から七間
町
まで),545 20
町
42間 裏
町
通 池 22 2 10 下垂 40 1 49, 尾張 24 1 30
肴
96 2 56 3尺 鍛冶 38 1 40 ,24か
町
1111軒
町
地高587石7斗2升2合(「浜松
町
数村数家数田地高間尺之帳」『浜松市史史料編三 /
町
検地と
町
絵図
浜松市史 ニ
(御役六町の増減)
御役六
町
の増減 浜松宿の中心は御役六
町
である。そこでこの都心部の家数を眺めよう。,そのために役
町
が二
町
方と三
町
方との五か
町
であった延宝八年(一六八〇)と、後に連尺
町
がこれに加わって六か,これをみると、御役
町
が五
町
から六
町
へと一か
町
増したけれども、家数の方はあまり増加していない。,(表)御役六
町
の家数の変化 役
町
総家数 本役家数 問屋・庄屋家数 A B A B A B 伝馬
町
,3 3
肴
町
96 94 49 49 4 4 旅籠
町
29 30 27 27 2 2 連尺
町
(53 / 御役六
町
の増減
浜松市史 三
(各町消防組 連合消防組)
各
町
消防組 連合消防組 【七年十月】しかるに明治七年の小野組大火によって、各
町
は消防組設置の必要を感,じ、同年十月に新
町
・田
町
・
肴
町
・連尺
町
・伝馬
町
・塩
町
・成子
町
・七軒
町
上新
町
・紺屋
町
・利
町
・大工
町
・元魚
町
,・下垂
町
・旅籠
町
の十四か
町
に消防組の結成をみた。,【出初式】明治十五年には天神
町
・神明
町
・池
町
・平田
町
・板屋
町
・早馬
町
・鍛冶
町
の七組を加え二十一組となって / 各
町
消防組 連合消防組
浜松市史 ニ
(職人町と屋敷)
このうち神明
町
には職人頭の家が三軒、紺屋
町
と大工
町
には二軒あり、家数からいうと大工
町
・紺屋
町
・鍛冶
町
・,平田
町
2 高林村 1 利
町
1 神明
町
1 神明
町
1 鍛冶
町
10 天神
町
村,連尺
町
1 神明
町
6 早馬
町
1 板屋
町
12 平田
町
3 将監名村 1 紺屋
町
, 紺屋
町
4 紺屋
町
3 池
町
1 伝馬
町
1 瓦師頭 1 紺屋
町
1 利
町
,1 橋爪村 1 平田
町
1 屋根屋頭 1
肴
町
1 下垂
町
2 伝馬
町
2 / 職人
町
と屋敷
浜松市史 三
(物品販売業)
菓子 山口屋 連尺 〃 ○巌邑堂 伝馬
町
〃 花月堂 鍛冶 〃 松月 〃 〃 梅月
肴
〃 春華堂 田,〃 ●若松園菓子舗
肴
町
漬物罐詰 ●尾張屋本店 伝馬
町
〃 中野仲太郎
肴
胡麻油 ●内田駒次商店,板屋
町
食料品 ●山田食料品店
肴
町
忍冬酒 ●神谷忍冬酒店 成子
町
酒類 間淵店
肴
〃 ○八百庄,〃 〃 太田酒店 〃 〃 〃
肴
〃 ●中村酒造店 天神
町
浜名納豆 ○鈴木幸作 成子
町
牛肉類 八百清,
肴
金物 ○田中五郎七 田
町
〃 平岡定平 田 〃 中村惣太郎 連尺 〃 ○小谷嘉蔵 鍛冶
町
〃 豊田佐市
浜松市史 ニ
(漁民との紛争)
漁民との紛争 また文化二年(一八〇五)二月には、
肴
町
商人と西嶋村漁民とのあいだに訴訟事件がおきている,
肴
町
側の言い分は六右衛門船が獲た魚を掛塚村へ売るので、江之嶋・福嶋・松嶋村の船もこれをみならうし、中には,抜き買いをするものもある、これは
肴
町
商人の特権をないがしろにするものである、というのである。,それに魚類は昔から値段の高い方へ売りさばくのがしきたりで、
肴
町
の言い分をきけば年貢や運上が納められない
浜松市史 一
(浜松のばあい)
【歩役 夫役
肴
町
】馬のない
町
には歩役(あるきやく)といい、人足が荷物をはこぶ夫役(ぶやく)がかけられた,
肴
町
・田
町
・旅籠
町
がこの役を負担する歩役
町
になった。,、需要が拡大するにつれて、徳川氏は、「六十人の魚屋をとりたてるならば、六人を名主にし街道の裏に新しく
肴
町
,をつくらす、そして西は舞坂港、東は掛塚港までの専売と、浜松市内で
肴
町
に専売権を与え、地子を免除する」と,【旅人宿
町
】田
町
も旅籠
町
も旅人宿の
町
である。
浜松市史 ニ
(奈川新田)
奈川新田 【川沿新田】奈川新田 浜松
肴
町
御用達川上三郎兵衛が馬込川左岸(当市中島
町
)に開発した新田で,弘化四年(一八四七)十二月十二日紺屋
町
から火が出て
肴
町
におよんだとき、川上家はその難にあい、この新田を
浜松市史 三
(魚市場)
魚市場 【
肴
町
十四年】魚市場 明治十四年十一月に浜松
肴
町
に設立。,【旅籠 八幡地】しかし
町
が発展し魚類の需要が増してくると四十四年には旅籠
町
に浜松水産株式会社が設立されて,魚市場が開始され、大正十年には八幡地(のちの旭
町
)に浜松魚業株式会社が設立されて魚類の取引が行なわれるようになった
浜松市史 三
(忘れられていく地名)
【小路】五社小路・諏訪小路・鴨江小路・江間殿(えまどの)小路(江間氏の邸があったという伝馬
町
から
肴
町
へ,通ずる小路、訛ってぬまどの小路ともいわれた)・若宮小路(大工
町
若宮八幡社前)・松尾小路・稲荷小路(分器稲荷,へ通ずる)・五右衛門(ごえもん)小路(神明坂の下より大安寺坂下へ出る)・新小路(
肴
町
の横
町
)など、数々,しかし秋葉坂(三組
町
)や切通し坂(鴨江より伊場に通ずる)のような新道が通じたためにできた坂もあれば、ねことび,小路(
肴
町
、芸妓が通るため)などもできた。
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌
(浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)
54 【杵屋勝四久 邦楽家 利
町
長唄 杵勝会 芳村伊四次郎
肴
町
大工
町
五月ばやし】 55,【唐人 西島
町
難破 西来院】 181 ○ 連尺
町
の玄沢さま(連尺
町
) 182 ○
肴
町
の狐(
肴
, 松尾芭蕉 句碑】 213 【大安寺
肴
町
毘沙門堂 酉の市】 214 【玄忠寺 田
町
安居院庄七,【松菱劇場 東宝劇場 田
町
東映劇場
肴
町
銀映座 板屋
町
肴
町
劇場 国際劇場 旭
町
】 307,堀 曳馬萩筆 秋葉神社】 350 七
肴
町
【魚問屋
肴
町
通り まちづくり 昭和15年頃の市中心街 / 浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが
町
文化誌』 目次
浜松市史 ニ
(開帳)
たとえば、
肴
町
大安寺は十七年ごと、板屋
町
大聖寺は二十五年ごと、海老塚村大厳寺(いま当市成子
町
)は二十一年,また七軒
町
普大寺不動尊では享保九年、下垂
町
明光寺は享保十三年(『旅籠
町
平右衛門記録』)、寺嶋村大聖寺は,(表)鴨江寺開帳寺院一覧表 所在地 寺院名 開帳本尊名
肴
町
大安寺 観世音菩薩 鴨江 快真寺 地蔵尊,
肴
町
大安寺 薬師如来 沢 大仙寺 文殊菩薩 下垂 昌安寺 十王地蔵 七軒
町
普大寺 薬師十二神 浅田,慈光院 十一面観音 成子坂 西道院 阿弥陀如来 高
町
宗安寺 阿弥陀如来 塩
町
光珠寺 十王地蔵 沢
浜松市史 ニ
(魚専売権の紛争)
魚専売権の紛争 このように、魚商ははじめ本魚
町
に六人あったところが、のちに五十七人と人数も増したので,
肴
町
に居屋敷を得て、地子免許の特権を与えられるとともに伝馬役も勤めることになり、そのとき西は舞坂から東,そして「浜松
町
中にて余
町
のもの共、魚類干物の魚商売為間敷」、魚商売は
肴
町
に限られるとして、専売権の存在,【隠売の紛争】寛文八年(一六六八)新
町
の徳兵衛という者が、その禁を冒して隠売をし、
肴
町
庄屋宛に詫状を差,・永田の各村および浜松宿内の成子坂・板屋・下垂の各
町
でも同様な隠売をして紛争が起きている。
浜松市史 三
(主要商店)
盆と正月がこれらの商店の書き入れどきで、
町
は人出でにぎわった。 ,竹下商店(神明) 鳥居屋十七吉(田) マカラズヤ(板屋) えびす屋磯部茂平(神明) 麻糸商 沢木屋倉次郎(
肴
),(連尺) 畳表・行李 松葉屋仁三郎(神明) 敷物人形 霞屋織田利三郎(田) 帽子商 尾崎帽子製造店(
肴
), 杉浦定太郎(旅籠) 茶商 川下屋茶店(
肴
) ラムネ蜜柑水 金泉舎広田辰次郎(連尺) 淡泉舎(板屋), 芙蓉館(後道) 自笑亭(成子) 鯛めし(
肴
) 聴濤館(下後道) 川島屋本店(
肴
) 旅館 大米屋(駅前
浜松市史 三
(中心街板屋町 問屋街の形成)
中心街板屋
町
問屋街の形成 板屋
町
は天保十四年(一八四三)「板屋
町
町
内諸職并渡世向人御改帳」(『浜松市史二,(表)浜松宿内木綿関係業者の戸数表(明治10年ころ)
町
村名 戸数 職 渡世 合計 % 糸 車,0 0 0 塩
町
78 0 1 1 1 1.3 田
町
,161 0 1 1 1 3 3 1.9
肴
町
117,4.8 池
町
77 1 1 1 1 2 2.6 鍛冶
町
/ 中心街板屋
町
問屋街の形成
浜松市史 三
(町制施行 敷知郡浜松町 大字制度)
町
制施行 敷知郡浜松
町
大字制度 【二十二年】明治二十二年二月県令第十九号を以って、浜松
町
の区域・名称,なお、このとき敷知郡は浜松
町
をふくめ二十六か
町
村、長上(ながかみ)郡十五か村、引佐(いなさ)郡八か
町
村,(表)
町
村制施行当時の
町
村名(明治22年4月1日)
町
村名 大字名 役場位置 敷知郡(26か
町
村),天神
町
上中島 向宿 福地 馬込 佐藤一色 馬領家 塚越 名切(塚越・名切は長上郡より編入) 天神
町
,134 田 (た) 155 八幡地 (はちまんち) 28 寺島 (てらじま) 6 鍛冶 (かじ) 90
肴
/
町
制施行 敷知郡浜松
町
大字制度
浜松市史 三
(江間殿小路火事)
なお三方に分れた火の手は伝馬東側八番地・西側一三四番地(喜屋旅館)、江間殿小路南側伝馬・
肴
町
境、北側
肴
町
尾島屋
浜松市史 三
(入枡座火事)
はじめ風は強くなかったが、火の手がひろがるとともに風が加わり、江間殿(えまどの)小路にひろがり
肴
町
を焼尽,し、また一方には伝馬より鍛冶に延焼し、消防組警察官が必死の消火につとめたが延々四時間にわたり連尺・
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の,
町
役場では炊出しをなし、罹災者立退所として旧浜松病院・浜松高等小学校を指定し救済につとめた。,明治25年3月23日 連尺火災焼失区域図 (『浜松
町
沿革誌』)
浜松市史 三
(駅前広場 大安寺新道 踏切 地下道)
このほかに
肴
町
大安寺下から田
町
の玄忠寺裏を経て新川へ架けた橋を渡り前記の板屋
町
新道へ出る道路(本章第一節第二項参照,旧来の道路の拡巾も新道路の敷設を機とし、ことに明治二十五年の入枡座(いりますざ)火災後に
肴
町
(幅三尺拡張,)・神明連尺並に榎
町
(幅三尺拡張)・田
町
(幅四尺拡張)、このほか通称江間殿(えまどの)小路や通称五右衛門小路,(南小路といい田
町
に属した)などもわずかながらも拡巾された。
浜松市史 ニ
(国入と領民)
)の得替(とくたい)御祝儀が行なわれ、領内村々の庄屋が麻上下を着用して城中(新台所)へ召し出され、酒
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吸物赤飯,翌日城中で一村ごとに組頭・惣百姓(小前)へ酒
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が渡され、翌四日に庄屋宅でこれを配分した。,有玉下村の場合は、組頭四人に酒一升二合・干
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二十枚、惣百姓八十六軒に酒一斗七升二合・
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二百五十八枚(
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,寛政十年正月年始席次 浜松宿諸職記録 部分(浜松市紺屋
町
中山忠平氏蔵)
浜松市史 三
(織物関係 一般工業機械材料 特殊工業品生産品 日用品 運輸倉庫業 金融機関 その他)
・西遠染色株式会社(四十年、馬込
町
)・高橋合資会社(四十三年、木戸
町
)・東海染色会社(四十三年、船越
町
,(四十五年、海老塚
町
)、Dの日用品製造売買に関する五社には浜松魚鳥株式会社(十四年、
肴
町
)・帝国製帽株式会社,(二十九年、砂山
町
)・合名会社間淵商店(三十四年、
肴
町
)・浜松瓦斯株式会社(四十三年、砂山
町
)・浜松水産株式会社,(三十一年、鍛冶
町
)・浜松倉庫株式会社(四十年、板屋
町
)・林運送合資会社(四十四年、旭
町
)があり、Fの,、大工
町
)・野口株式会社(三十四年、利
町
)・浜松金融株式会社(四十四年、
肴
町
)があり、またGの二社には
浜松市史 三
(中島登)
中島登 異色の人物に、浜松紺屋
町
に明治十七年銃砲火薬店を創めた中島登(明治二十年四月没、五十歳、墓天林寺,降服、徳川藩に引渡され、遠州白須賀で農業をかね剣術の指範をしていたが、上京を志し浜松まで来たところ、
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(,さかな)
町
でたまたま旧知大島清慎にあい、すでに武士の時代が過ぎていることを知らされ、浜松居住を決意し浜松
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町
魚惣
浜松市史 ニ
(浜松の商圏)
【
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の商圏】まず
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町
の魚商については、延享四年(一七四七)同
町
年寄・庄屋から城中に対して提出した「御由緒書,」に「
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商之儀西ハ舞坂、東ハ掛塚湊之内浜川浦々之魚専売仕、干物之魚迄も
肴
町
壱
町
限商売仕候様被仰付」と仕入圏,【塩の商圏】つぎに塩
町
に限り塩専売権が認められており、その商圏は享保三年(一七一八)の評定所の裁定文書,したがって前に述べたように馬郡村との紛争では、馬郡村の者が規定の牓示内にありながら、塩
町
の専売権を冒して,他国塩の売買を行なったことに端を発し、これも評定所の裁決で、塩
町
以外の者が牓示内で塩売買は行なわぬよう
浜松市史 三
(小野組大火)
(蔵一〇八、寺五、狂言小屋一)で、被災
町
は伝馬
町
・旅籠
町
・鍛冶
町
・後道・平田
町
・平田村・塩
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・大工
町
・,利
町
・紺屋
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・連尺
町
・神明
町
・
肴
町
・池
町
・板屋
町
・新
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・元魚
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・大堀新地の十八
町
村に及び、被災者四千六百四十九人,浜松廃城と小野組の大火、この二つの事件は城下
町
・宿場
町
として生きてきた浜松への挽歌であった。,明治5年 浜松古城建物入札触書 主要
町
焼失戸数
町
名 焼失戸数 塩 70 旅籠 47 伝馬,91 連尺 53 神明 26 板屋 126 新 114 鍛冶 62
肴
124 池 28 計 741
浜松市史 一
(火災)
旅籠
町
平右衛門記録(『浜松市史史料編一』)の中に浜松
町
在々出火之覚という項があり、寛文五年(一六六五),一、上新
町
七軒
町
火事、元禄七甲戌年(一六九四)十一月二十九日朝、火元は七軒
町
より出申候、此節両
町
不残類火仕候,、 一、伝馬
町
火事、享保五庚子年(一七二〇)十一月十六日、此節
肴
町
下の
町
焼、鍛冶
町
・後道・平田
町
も,これによると、 一、明和九辰年(一七七二)二月十二日昼九ツ時過より暮迄、紺屋
町
立
町
通、袋
町
入口,の向土橋際南側より出火、立
町
不残、連尺
町
・神明
町
・田
町
・板屋
町
・新
町
木戸外不残、
肴
町
板橋迄北の方橋より
浜松市史 三
(連合制の発達 浜松宿二十六か町村連合会 地方自治制の出発 浜松宿議会)
、
町
村に
町
村会・
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村連合会が設けられた。,(元魚
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) 清水寅太郎 小西四郎 (神明
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) 武田勘平 本田五十司 (名残
町
) ●山崎金重 松下安平,(紺屋
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) ●岡田安貞 山田和三郎 (下垂
町
) 熊野俊治 酒井吉重 (旅籠
町
) 大庭作平 武田勘平 (,松下茂平 (平田
町
) 殿岡善太郎 水島敬四郎 (塩
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) 小野江善八 中野丹入 (大工
町
) 松本兵次郎,樋口林治郎 (連尺
町
) 樋口弥一郎 谷野治平 (
肴
町
) 伊藤重平 内藤彦十郎 (沢村) 水島敬四郎 松本半蔵 / 連合制の発達 浜松宿二十六か
町
村連合会 地方自治制の出発 浜松宿議会
浜松市史 三
(風俗)
【
肴
町
】「是白昼は寸暇を厭ふ故」で、ことに魚
町
(
肴
町
)は活気があり魚店四十余軒ある。 ,【松の内】松の内は五日までで、
町
では子供が飾り松の枝を手折って「往来せる若き婦人の尻をたたきよき子産て,【紙凧】また紙凧は初春には揚げないで二月ごろから三、四月の頃にいたって「十枚余の物
町
々の若者等翫ふ。
浜松市史 三
(商肆)
【飲食店】江戸鮨は伝馬
町
に、蒲焼は魚
町
(
肴
町
)に数軒あり風味がよい。,酒舗は酒店及び溜屋数軒、風味よく魚
町
(
肴
町
)間渕屋はことに賑っている。髪結床は東京に同じ。,呉服では伝馬
町
信濃屋があって、紙荒物も商ふ。,芸妓は揚屋が伝馬
町
にある。,線香壱本の揚代は銀五匁で、妓では伝馬
町
の飯盛が甲とし揚代銀拾匁、旅籠
町
は乙で金弐朱である。
浜松市史 三
(春野音羽)
春野音羽 春野音羽 浜松
肴
町
江間殿(えまどの)小路宝来旅館の女という。
浜松市史 三
(浜松病院)
浜松病院 【大正四年】また明治十一年菩提寺付近(当市三組
町
)に設けられた避病院は、二十年に平田(なめだ,)に移されたが不完全であったため、二十九年一月浜松
町
大字
肴
字天神森(飛地、現在の北寺島
町
)の地に移転、
浜松市史 三
(道路)
大正八年道路法の施行により、国道・県道(気賀線・笠井線・掛塚線・二俣線・村櫛線・鎮玉線・伝馬線・板屋
町
線,)・市道の改良や拡幅が認められ、昭和二年には田
町
、三年には
肴
町
に約五百メートルの舗道ができ、鍛冶
町
御幸,(みゆき)通りの完成は四年で、犀が崖新道は十年、板屋
町
に人道・車道の別ができたのは十一年ごろ、連尺の拡幅完成,鍛冶
町
御幸通り
浜松市史 三
(明治二十八年度)
明治二十八年度 明治二十八年度
町
長渥味正人より沢田一朗(明治二十八年四月八日就任、二十九年七月二十七日辞職,【避病院】避病院の新設を決定し浜松
町
肴
地内字天神森二九五(現在の北寺島
町
)を候補地とした。,浜松
町
役場用文庫修繕費、浜松
町
より東浜名村都筑に達する道路改良費支出を議決。
浜松市史 三
(駅前新道)
駅前新道 【二十一年】①駅前新道 鍛冶
町
の東端(後道及び
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新小路入口)から駅へ至る新道(長さ一四五間,このとき鍛冶
町
の道幅(一間ないし二間)も拡巾され、駅へ出るために最も利用される道路となった。,なお、これによって鍛冶
町
から新川に架したやなぎ橋を渡り法雲寺へ出るむかしからの道は裏道となった。
浜松市史 四
([有楽街と浜松座通りの発展])
[有楽街と浜松座通りの発展] 【有楽街 スズラン灯 浜松座通り】 昭和二十一年十二月二十四日
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町
,こうしたことから、昭和二十三年の暮れになって、
肴
町
の大安寺下、鍛冶
町
の新小路、田
町
の西区の三カ
町
は連合
浜松市史 ニ
(笠井市の由来)
笠井市の由来 【塩商人
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商人】笠井市の由緒について『川島文書』は、笠井村は御検地によって四百石を打,ち出されたけれども家数も多く農業だけでは渡世ができない村なので、浜松御城下から塩や
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の「売人」を招き表店,嘉永二年笠井市場出入文書(浜松市笠井
町
川島光治郎氏蔵)
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