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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 ニ (魚と肴町)

魚と肴町 浜松城主は浜松の繁栄をはかるため商工業者に特権を与えて、これを優遇した。,家中屋敷となったために一旦本魚町に移転したが、ここは城に遠く不便であったので、慶長五年(一六〇〇)さらに肴町,【肴町由緒】肴町魚商由緒については、延享四年(一七四七)肴町年寄庄屋から城中に対して提出した「御由緒書,肴商人拾人宛相働き、大勢ニて御用相達候様ニ被仰付、所々ニ而肴商売仕候者呼集、都合五十七人ニ罷成候、其節肴町,御年貢御免許被仰付候、難有奉存候、其砌ゟ肴商之儀西ハ舞坂、東ハ欠(掛)塚湊之内浜川浦々之魚鳥買取、干物魚等迄も肴町壱町限商売仕候様被仰付奉畏御請申上 / 魚と肴町
浜松市史 ニ (肴町と歩役)

肴町と歩役 肴町の起こりは家康在城時代とみられ(榎門付近の六軒の魚商)、その後魚商たちは本魚(もとうお,)町に移り、さらに慶長五年(一六〇〇)のころに「肴町」に引越した。,旅宿が多く、肴町とならんで歩役百二十八人をつとめるようになった。,【伝馬町 塩町 肴町 田町 旅籠町】この裁断にしたがって五か町の庄屋たちは、つぎのような申し合わせを行,御伝馬一五五疋       一分二厘五毛 塩町  〃 二五軒  人足一二八八人 三町方五分 三分一    肴町 / 肴町と歩役
浜松市史 ニ (西嶋村と浜松肴商人)

浜松宿古来書留」『浜松市史史料編二』)によると、元禄十六年(一七〇三)当時に同村では網繰網引船が四艘あって肴町商人,が管理し、漁猟のあったときには肴町商人が「西嶋村へ罷越候而相対にて直段仕買取」って町へ運び塩方奉行へ報告,【他売禁止】しかし文化二年(一八〇五)六月に西嶋村漁民が肴町の由緒を無視し掛塚村へ売ったとして肴町と訴訟事件,【初鰹献上】肴町商人は遠州灘の初鰹を毎年領主へ献上するのが例であった。
浜松市史 ニ (漁民との紛争)

漁民との紛争 また文化二年(一八〇五)二月には、肴町商人と西嶋村漁民とのあいだに訴訟事件がおきている,肴町側の言い分は六右衛門船が獲た魚を掛塚村へ売るので、江之嶋・福嶋・松嶋村の船もこれをみならうし、中には,抜き買いをするものもある、これは肴町商人の特権をないがしろにするものである、というのである。,それに魚類は昔から値段の高い方へ売りさばくのがしきたりで、肴町の言い分をきけば年貢や運上が納められない
浜松市史 一 (浜松のばあい)

【歩役 夫役 肴町】馬のない町には歩役(あるきやく)といい、人足が荷物をはこぶ夫役(ぶやく)がかけられた,肴町・田町・旅籠町がこの役を負担する歩役町になった。,、需要が拡大するにつれて、徳川氏は、「六十人の魚屋をとりたてるならば、六人を名主にし街道の裏に新しく肴町,をつくらす、そして西は舞坂港、東は掛塚港までの専売と、浜松市内で肴町に専売権を与え、地子を免除する」と
浜松市史 ニ (奈川新田)

奈川新田 【川沿新田】奈川新田 浜松肴町御用達川上三郎兵衛が馬込川左岸(当市中島町)に開発した新田で,弘化四年(一八四七)十二月十二日紺屋町から火が出て肴町におよんだとき、川上家はその難にあい、この新田を
浜松市史 三 (魚市場)

魚市場 【肴町 十四年】魚市場 明治十四年十一月に浜松肴町に設立。
浜松市史 三 (忘れられていく地名)

【小路】五社小路・諏訪小路・鴨江小路・江間殿(えまどの)小路(江間氏の邸があったという伝馬町から肴町へ,・稲荷小路(分器稲荷へ通ずる)・五右衛門(ごえもん)小路(神明坂の下より大安寺坂下へ出る)・新小路(肴町,三組町)や切通し坂(鴨江より伊場に通ずる)のような新道が通じたためにできた坂もあれば、ねことび小路(肴町
浜松市史 ニ (開帳)

たとえば、肴町大安寺は十七年ごと、板屋町大聖寺は二十五年ごと、海老塚村大厳寺(いま当市成子町)は二十一年,(表)鴨江寺開帳寺院一覧表 所在地 寺院名 開帳本尊名 肴町 大安寺 観世音菩薩 鴨江 快真寺 地蔵尊,正楽寺 十一面観音 伊場 長福寺 大日如来 紺屋町 心造寺 阿弥陀如来 本魚 蓮光院 阿弥陀如来 肴町
浜松市史 三 (横町通)

【肴町】たとえば肴町がある。,なおこの時代まで浜松には肴町よりほかに魚商が一軒もなかった。
浜松市史 ニ (魚専売権の紛争)

魚専売権の紛争 このように、魚商ははじめ本魚町に六人あったところが、のちに五十七人と人数も増したので肴町,そして「浜松町中にて余町のもの共、魚類干物の魚商売為間敷」、魚商売は肴町に限られるとして、専売権の存在,【隠売の紛争】寛文八年(一六六八)新町の徳兵衛という者が、その禁を冒して隠売をし、肴町庄屋宛に詫状を差
浜松市史 三 (江間殿小路火事)

なお三方に分れた火の手は伝馬東側八番地・西側一三四番地(喜屋旅館)、江間殿小路南側伝馬・肴町境、北側肴町尾島屋
浜松市史 三 (駅前広場 大安寺新道 踏切 地下道)

このほかに肴町大安寺下から田町の玄忠寺裏を経て新川へ架けた橋を渡り前記の板屋町新道へ出る道路(本章第一節第二項参照,旧来の道路の拡巾も新道路の敷設を機とし、ことに明治二十五年の入枡座(いりますざ)火災後に肴町(幅三尺拡張
浜松市史 三 (春野音羽)

春野音羽 春野音羽 浜松肴町江間殿(えまどの)小路宝来旅館の女という。
浜松市史 三 (織物関係 一般工業機械材料 特殊工業品生産品 日用品 運輸倉庫業 金融機関 その他)

合資会社田畑麻糸製造商店(四十五年、海老塚町)、Dの日用品製造売買に関する五社には浜松魚鳥株式会社(十四年、肴町,)・帝国製帽株式会社(二十九年、砂山町)・合名会社間淵商店(三十四年、肴町)・浜松瓦斯株式会社(四十三年,東伊場町)・十三株式会社(三十二年、大工町)・野口株式会社(三十四年、利町)・浜松金融株式会社(四十四年、肴町
浜松市史 三 (風俗)

【肴町】「是白昼は寸暇を厭ふ故」で、ことに魚町(肴町)は活気があり魚店四十余軒ある。  
浜松市史 一 (火災)

七軒町より出申候、此節両町不残類火仕候、  一、伝馬町火事、享保五庚子年(一七二〇)十一月十六日、此節肴町下,紺屋町立町通、袋町入口の向土橋際南側より出火、立町不残、連尺町・神明町・田町・板屋町・新町木戸外不残、肴町板橋迄北
浜松市史 四 ([有楽街と浜松座通りの発展])

[有楽街と浜松座通りの発展] 【有楽街 スズラン灯 浜松座通り】  昭和二十一年十二月二十四日肴町,こうしたことから、昭和二十三年の暮れになって、肴町の大安寺下、鍛冶町の新小路、田町の西区の三カ町は連合
浜松市史 三 (商肆)

【飲食店】江戸鮨は伝馬町に、蒲焼は魚町(肴町)に数軒あり風味がよい。,酒舗は酒店及び溜屋数軒、風味よく魚町(肴町)間渕屋はことに賑っている。髪結床は東京に同じ。
浜松市史 ニ (横町)

横町 【袋町】また多数の横町も発達し肴町に江馬殿小路(別称を沼殿小路という。
浜松市史 ニ (町幅)

三間は旅籠町・田町・七軒町・上新町・下垂町、三間未満は肴町・成子坂町・早馬町・鍛冶町・平田町・本魚町・
浜松市史 三 (道路)

・二俣線・村櫛線・鎮玉線・伝馬線・板屋町線)・市道の改良や拡幅が認められ、昭和二年には田町、三年には肴町
浜松市史 三 (遊廓 検番)

検番 歓楽街には、大正十一年に旅籠・伝馬から鴨江に移転の二葉遊廓、また市の中央部の千歳町(後道)や肴町
浜松市史 ニ (曹洞宗)

曹洞宗 天林寺末として南能庵(板屋町、明治十六年大聖寺と改称、那賀山乙巳文『真道山大聖寺誌』)・大安寺(肴町
浜松市史 三 (市立浜松病院 浜松市実費診療所)

市立浜松病院 浜松市実費診療所 市立浜松病院(鴨江町二三五番地) 肴町地内天神森(飛地で現在の北寺島町
浜松市史 三 (堅実な歩み)

西遠銀行 1000千円 伝馬町 資産銀行 1000   鍛冶町 浜松銀行 500   肴町 浜松貯蓄銀行
浜松市史 ニ (町屋)

塩町(しおまち)・肴町(さかなまち) 町名の商人が居住し、本魚町はもと肴町があった町である。  
浜松市史 ニ (塩と塩町)

塩と塩町 【塩町由来】塩 塩町は、はじめは肴町と同様に浜松城付近にあったが、のちに伝馬町の南へ移転し
浜松市史 三 (大きな町)

大きな町 百戸以上の町人町には伝馬町・田町・肴町・板屋町・新町・紺屋町があったが、この時代になると下垂町,69 5 田町 15 146 161 15 15 20 86 20 2 12 6 146 6 肴町
浜松市史 ニ (塩町と伝馬)

【歩方三町方】伝馬役二町方に対して肴町・田町・旅籠町の三町が歩役三町方と呼ばれて荷物運搬の人夫役をつとめた
浜松市史 四 (神社の統合 墓地の移転)

肴町の大安寺の墓地は寺院の南側にあり広大な面積を占めており、旭町の法雲寺の墓地は浜松駅前の一等地に大安寺以上
浜松市史 三 (浜松の仮戸長と管轄地)

成子坂町・塩町・旅籠町・伝馬町・連尺町・神明町・平田町・平田村  一市川吉平 七百四十九軒 田町・肴町
浜松市史 三 (中田島 米津海岸 弁天島)

明治二十年ごろ浜松肴町の酒屋間渕屋の妻女が転地療養をしたのが最初という。
浜松市史 三 (入枡座火事)

はじめ風は強くなかったが、火の手がひろがるとともに風が加わり、江間殿(えまどの)小路にひろがり肴町を焼尽
浜松市史 ニ (糀と竜禅寺村)

心得違にて去る正月二十九日浜松御領分西ケ崎村へ糀商売に罷出候所御察当に預り、一言の申訳無御座候、依之今般肴町三九郎,                 親類隣家惣代  利右衛門    竜禅寺村糀屋衆中                浜松肴町
浜松市史 ニ (城主の町づくり)

浜松在城二十年間におよび、浜松藩の基礎をきずいた城主で、彼が「町割」を励行したことは確実であり、寛永十五年には肴町
浜松市史 三 (中島登)

さかな)町でたまたま旧知大島清慎にあい、すでに武士の時代が過ぎていることを知らされ、浜松居住を決意し浜松肴町魚惣
浜松市史 三 (明治二十二年度)

【古川 新川】古川とは新川に対する川の名で、肴町新小路を流れ、新川に注いだ川で、この頃その一部が残っていたのであった
浜松市史 三 (士族の配置)

とぎまち)(一軒)新町(一軒)平田(なめだ)町(二軒)池町(一軒、明光寺)旅籠町(一軒)田町(一軒)肴町
浜松市史 ニ (水の手)

となって、一つは下垂町・池町・田町(いずれも低湿地)方面へ、他は神明町(しんめいちょう)の神明坂下から肴町大安寺坂下方面
浜松市史 ニ (家臣団の配置)

ちなみに引馬城主飯尾豊前守の重臣江馬加賀守の屋敷は江馬殿小路(当市連尺町と肴町を通ずる小路、沼殿小路ともいったという
浜松市史 ニ (戸口の増減)

これを町別でみると、戸数百軒以上を数えるのは田町が一か町のみであったのに伝馬町・肴町・板屋町・新町・大工町
浜松市史 三 (各町消防組 連合消防組)

七年十月】しかるに明治七年の小野組大火によって、各町は消防組設置の必要を感じ、同年十月に新町・田町・肴町
浜松市史 ニ (山本源吉)

山本源吉 この源吉は浜松宿肴町に生まれ、通称源右衛門という。
浜松市史 ニ (御役六町の増減)

75 73 3 2 塩町 39 37 25 23 2 4 田町 100 80 52 52 3 3 肴町
浜松市史 三 (物品販売業)

開華堂 伝馬 〃 ●堤崎保太郎 木戸町 〃 ●〃 鍛冶町 〃 ●上星製菓店 元目町 〃 ●若松園菓子舗 肴町,●尾張屋本店 伝馬町 〃 中野仲太郎 肴 胡麻油 ●内田駒次商店 板屋町 食料品 ●山田食料品店 肴町
浜松市史 ニ (浜松の商圏)

【肴の商圏】まず肴町の魚商については、延享四年(一七四七)同町年寄・庄屋から城中に対して提出した「御由緒書,」に「肴商之儀西ハ舞坂、東ハ掛塚湊之内浜川浦々之魚専売仕、干物之魚迄も肴町壱町限商売仕候様被仰付」と仕入圏
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌 (浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)

豊田耕児 ヴァイオリン奏者 元浜町】 54 【杵屋勝四久 邦楽家 利町 長唄 杵勝会 芳村伊四次郎 肴町,【九月 十五夜 秋の彼岸】 122 【十月 神様のお立ち 十三夜】 123 【十一月 酉の市 肴町,181 【唐人 西島町 難破 西来院】 181 ○ 連尺町の玄沢さま(連尺町) 182 ○ 肴町, 連尺町 349 【松菱 トヨダヤ洋傘店 店舗名 浜松城の堀 曳馬萩筆 秋葉神社】 350 七 肴町,【魚問屋 肴町通り まちづくり 昭和15年頃の市中心街 店舗名】 352 八 田町 【田町
浜松市史 四 ([罹災した寺院])

紺屋町)、蓮華寺(紺屋町)、正福寺(高町)、菩提寺(三組町)、齢松寺(元城町)、芳蘚寺(池町)、大安寺(肴町
浜松市史 四 (浜松商店界連盟)

鍛冶町・板屋町・鴨江町・砂山町・常盤町・名残町・追分町・旅籠町・田町・肴町・千歳町 ・連尺町・高町・伝馬町
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