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浜松市史 三
(浜松最初の自動車 郊外自動車)
浜松最初の
自動車
郊外
自動車
浜松地方の
自動車
数は大正六年に市内に四台あったというのが最も古い記録であるが,、七年には市と郊外とを結ぶ営業用
自動車
が走りはじめている(『静岡民友新聞』によれば明治三十八年には浜松,・二俣間、四十五年には浜松・舞阪間に待合
自動車
運転計画のあったことが記されている)。,これが最初で、これより各地との間に郊外
自動車
の発達をみるのであるが、その主要な路線は①浜松・笠井間②浜松 / 浜松最初の
自動車
郊外
自動車
浜松市史 四
(鈴木自動車工業)
号の好成績を背景に、社名を鈴木
自動車
工業株式会社に変更した。,発足当時の鈴木
自動車
工業を支えたのは、初めての完成車であったコレダ号であった。, 【スズライト】 さらに鈴木
自動車
工業は軽
自動車
へも進出していった。,昭和二十九年には軽
自動車
の研究に着手し、試作車を完成させた。,昭和三十年には運輸省の型式認定を受け、同年十月日本初の軽
自動車
スズライトを発売した。 / 鈴木
自動車
工業
浜松市史 三
(自動車交通の発達)
自動車
交通の発達 市内の
自動車
交通も大正後半期から昭和へかけて発達してきた(昭和二年一四八台が三年には,そのため「交通事故防止デー」などが設けられたが(昭和二年交通事故一〇一件中五〇件は
自動車
であった『浜松警察,の百年』)、タクシーの発達、バス・トラックの増加による交通事故は増えるのみで、五年には浜松警察署は
自動車
営業者百五十名 /
自動車
交通の発達
浜松市史 三
(乗合バス 浜松循環自動車会社)
乗合バス 浜松循環
自動車
会社 ②市街乗合
自動車
(乗合バス) 市内バス路線の運行は民間より始まった。,大正十二年の浜松市街
自動車
商会(清水義直経営)がそれであったが、曲りなりに誕生といった程度であった(なお,大正十一年に小型乗合
自動車
運転計画のあったことを『静岡民友新聞』は報じている)。,【市営案】市側も市営
自動車
計画(大正十五年六月『静岡民友新聞』)を立てたりしたが機熟せず、そののちは市街電車案,これは昭和二年に浜松駅中心に四コース、料金一区十銭をもって計画された浜松市街循環
自動車
に、浜鉄が計画の / 乗合バス 浜松循環
自動車
会社
浜松市史 五
([三遠南信自動車道の建設])
[三遠南信
自動車
道の建設] 【三遠南信
自動車
道】 三遠南信
自動車
道は、長野県飯田市と静岡県引佐郡三,ヶ日町を結ぶ約百キロメートルの
自動車
道として計画され昭和五十二年から調査を開始、同五十八年度から一部で,こうした流れを受けて、平成三年六月には遠州独自に三遠南信
自動車
道建設促進遠州地域期成同盟会を結成して、,なお、同年十月には三遠南信
自動車
道のルートが一部区間を除いて確定した。,図4-31 三遠南信
自動車
道整備計画 / [三遠南信
自動車
道の建設]
浜松市史 四
([自動車の増加とトラック輸送])
[
自動車
の増加とトラック輸送] 『静岡新聞』(昭和三十二年八月十九日付)によれば、浜松県税事務所管内,の
自動車
の数は年々増加し、昭和三十年には七千五百十五台だったものが、三十二年にはついに一万台を突破した,昭和三十年から三十二年四月までの二年間に
自動車
は三千八十台増加した。,トラックをはじめとする
自動車
輸送の発展は、鉄道輸送の強力なライバルとしてその存在感を次第に高めていった,図3-55 浜松市の
自動車
台数 / [
自動車
の増加とトラック輸送]
浜松市史 四
([自動車・リヤカーと牛馬車の時代])
[
自動車
・リヤカーと牛馬車の時代] 【浜松市の
自動車
台数】 『静岡県警察史』下巻によれば、県内の,浜松市の
自動車
台数は、『浜松市勢要覧』によれば表2-41の通りである。,同表では昭和二十七年の
自動車
台数は約千七百台であるが、この数字は過小であると考えられる。,、昭和二十八年の浜松市の
自動車
台数は五千五百五十九台、二十九年は六千百七十九台である。,これらから県下の
自動車
台数に占める浜松市の割合はおおよそ十二%~十三%であった。 / [
自動車
・リヤカーと牛馬車の時代]
浜松市史 五
([東名高速自動車道の建設])
[東名高速
自動車
道の建設] 【東名高速
自動車
道】 昭和三十二年に名神高速道路の建設工事が開始されると,中央道と東海道の両道はともに整備されることになったが、中央道は一足早く昭和三十二年四月に国土開発縦貫
自動車
道建設法,この結果、東海道幹線
自動車
国道建設法は、中央
自動車
道の予定路線を定める法律案とともに、昭和三十五年六月十七日衆院本会議,間もなく建設省、大蔵省、日本道路公団では、東海道幹線
自動車
国道を三十六年度から始まる新道路五カ年計画において,しかし、浜北町を中心とする北遠地方の各町村は、昭和三十五年十一月五日に東海道幹線
自動車
道路誘致期成同盟会 / [東名高速
自動車
道の建設]
浜松市史 四
([人力車と国民車の営業])
表2-41 諸車台数の推移 年版 乗用
自動車
貨物
自動車
オートバイ
自動車
計 自転車 人力車 厚生車,②
自動車
関係の項目は、25年版まで乗用
自動車
、貨物
自動車
、オートバイしかなく、23~27年版までは軽
自動車
,③26年版には、乗用、貨物、オートバイの項目以外に軽
自動車
619、特殊
自動車
9、合計1477の記載がある,④27年版には、同様に軽
自動車
700、特殊
自動車
8、三輪計593の記載がある。,⑥軽
自動車
は当時は二輪車のこと。
浜松市史 三
(その他の路線)
その他の路線 ⑥浜松を中心とする各方面への路線 昭和四年一月創立の浜松
自動車
株式会社(本社浜松市田町,これは大正時代より営業開始していた笠井・浜松市街・坂下・万歳の各
自動車
商会と遠州
自動車
株式会社の五社が,、本社磐田郡見付町、前身は昭和五年創立の昭和
自動車
株式会社)があった。,以上のほかに遠三
自動車
株式会社(気賀・三ケ日・豊橋を結ぶ)・湖西
自動車
株式会社(鷲津・入出・三ケ日を結,ぶ)・阿多古
自動車
(二俣・阿多古を結ぶ)などがあった。
浜松市史 三
(タクシー全盛)
の取扱い業者(旭町久野
自動車
商会)も出現した。 ,サイドカータクシー (表)タクシー業者 萬歳
自動車
商会(駅前) 千歳
自動車
商会 浜松構内,タクシー ホワイト
自動車
商会(伝馬町) ハヤイタクシ-(
自動車
弘業株式会社) 平和
自動車
商会 新町タクシー,(新町) 浜松西遠
自動車
商会(田町) 御園
自動車
商会(海老塚町) 金時タクシー(栄町) たかさごタクシー,(駅前) 冨士屋
自動車
(鍛冶町) 旭
自動車
(鴨江町) 市街タクシー 第一
自動車
(千歳町) 富田タクシー
浜松市史 三
(市営バスの誕生)
に入るとようやく機運が熟し、市営乗合
自動車
事業(伊場・船越線、師範学校・天神町線、中沢・向宿線、高射砲隊,すでに浜松循環
自動車
株式会社があり市内の交通網はほぼ整備されていたためであった。,【二社路線買収 十銭均一】このため市は十一年に至り従来の計画を廃し、既設の浜松循環
自動車
株式会社と中田島
自動車
株式会社,を買収し、この両者のもつ路線を継承して市営
自動車
事業を行なうことと決定し諸手続も完了、同年八月一日より,そののち十四年十二月には上池川に車庫を新設、十五年四月には
自動車
係より
自動車
課へ昇格、早出・伊場線などの
浜松市史 三
(浜松笠井線)
浜松笠井線 ①浜松・笠井間 大正七年に笠井
自動車
株式会社が営業を開始し(大正九年『小倉家文書』、使用,のシボレー車は三七〇〇円だったという)、ついで十年には乗合
自動車
会社の設立をみたというが、いずれも詳細,本格的な運行の開始は十二年四月八木橋周助(青森県出身)による「笠井
自動車
商会」が設立されてからである。,八木橋は「使用車はフォード二台、浜松・笠井間の料金は五十銭ぐらい、普通の
自動車
を改造した車なので乗客も,浜松笠井間乗合
自動車
のりば 乗合
自動車
の運行状況表 注○浜松・笠井・鹿島間の距離
浜松市史 三
(二俣線開通と西鹿島駅 遠州鉄道株式会社)
戦局が進展した十八年十一月には他の交通機関五社(浜松
自動車
・遠州秋葉
自動車
・掛塚
自動車
・遠州乗合
自動車
,・気賀
自動車
等)と合併(他に四社を買収)、社名も遠州鉄道株式会社と改称、以来同社は遠鉄の名をもって現在
浜松市史 三
(市内タクシー)
市内タクシー 浜松地方のタクシー営業は大正九年の万歳
自動車
商会(創立者磐田郡阿多古村出身加藤猛)が最初,で、ついで十一年に八木橋周助(前述)らによって浜松タクシー
自動車
商会が創立されている。,八木橋はもと日本形染株式会社社長宮本甚七のお抱え運転手で、宮本から譲りうけた
自動車
で前記の商会を創立したのであった,なおそのころ西遠
自動車
商会があったが詳細は不明である。
浜松市史 四
([成人学校の開催])
科目は料理・洋裁・華道・染色・音楽・書道などのほか、時代を反映した
自動車
技術・ラジオ技術・簿記・英語・,このうち、最も人気があったのは
自動車
技術で、三十九歳の市議会議員は「
自動車
の運転位出来ねばと思い率先受講,しました」と、四十九歳の教育事務所長は「各町村の学校を回るため、教育事務所にも小型
自動車
が備えつけられました,昭和二十九年六月からの第四回成人学校では、
自動車
技術が定員の六倍、料理は定員の五倍という人気ぶりで、全講座,
自動車
技術はその後も人気のトップを占めていた。
浜松市史 四
([国鉄バスの運行])
国鉄バスの運行] 【国鉄バス】 浜松地域における国鉄バスの運輸営業は、昭和十二年にそれまでの省営
自動車
浜名線,なお、省営
自動車
は、昭和二十一年二月に国営
自動車
、二十四年六月には国鉄
自動車
に改称した。
浜松市史 四
([無線施設とパトカーの配置])
[無線施設とパトカーの配置] 【無線
自動車
パトロールカー】 昭和二十六年末、国家地方警察本部から,静岡県に七台の警ら用無線
自動車
(ニッサン製ジープ)が配分され、それを県本部警ら交通課のほか、浜松市元城町,この無線
自動車
はラジオカーまたはパトロールカーと呼ばれ、昭和二十七年三月から運用を始めた。,この無線
自動車
により、各種の事件や事故の発生に際して現場からの報告と本署からの指揮や指示が迅速に行われるようになり
浜松市史 五
([道路計画の策定])
[道路計画の策定] 【モータリゼーション
自動車
台数】 図2-37 浜松市の
自動車
台数の推移,浜松市内の
自動車
台数は、昭和三十五年以降も増加傾向をたどった。,さらに昭和四十六年には軽
自動車
台数も上回り、四十八年に原動機付自転車の台数を凌駕した。,しかし、乗用車をはじめとする
自動車
台数の急増に比して国道一号線など浜松地域の幹線道路は、道幅が狭く整備,これに対応して、国や県・市は、地域開発計画と関わらせながら高速
自動車
道路の誘致、主要幹線道路などの整備
浜松市史 四
(オートバイ工業)
号の日進
自動車
工業、ヤマトラッキー号のヤマト商会、ホープスター号の天龍
自動車
工業(天竜織機)、ライフ号, (1)丸正
自動車
製造 丸正
自動車
製造の前身は、昭和二十三年五月(戦前の昭和十五年にも設立,(2)北川
自動車
工業 ライナー号の北川
自動車
工業は、昭和二十五年、創業者・北川広司によって創られた会社,ヤマハ発動機 協立
自動車
工業 1948
自動車
販売 1953〜54 原 ラッシュ
自動車
修理 協和発動機,タクシー業 中部
自動車
工業 1952 繊維機械部品 1953 原 ライジング
自動車
修理 天龍
自動車
工業
浜松市史 三
(浜松二俣線)
浜松二俣線 ②浜松・二俣間 大正七年七月創立の浜松
自動車
株式会社(本社浜松市大字田、社長久野幸太郎),によって営業が開始された(浜松
自動車
商会の経営権を継承したという)。,(きっすい)の浅いプロペラ船で轟音を響かせながらの運行は珍しく人気があり、このプロペラ船の乗客を浜松
自動車
側
浜松市史 五
(海外生産)
地域の大手企業であるであるヤマハ発動機、日本楽器製造、河合楽器製作所、鈴木
自動車
工業が海外に設置した生産,【鈴木
自動車
工業】 鈴木
自動車
工業の海外進出は、昭和三十八年米国ロサンゼルスに直営販売会社U.S.,鈴木
自動車
の現地生産は「技術を提供し、ともに作り上げていく」ことを理念にしているため、出資金が五十%を,昭和五十六年八月、鈴木
自動車
は世界最大の
自動車
メーカーであるゼネラル・モーターズ(GM)と資本・技術提携,さらに、昭和五十七年六月にはパキスタンの国営
自動車
公団(PACO)と四輪車生産合弁会社設立の契約を取り
浜松市史 五
([積極的な工場誘致と工場の団地化])
小沢渡団地は鈴木
自動車
工業の下請企業の工場団地として造成され、昭和三十一年に結成された鈴木
自動車
工業系列下,生産品はほとんどが鈴木
自動車
工業関連の
自動車
部品であった(表2―25参照)。 ,中部トリカ(株) 33 オートバイ、
自動車
電装部品 東海電装(株) 5 〃 三恵(株,) 41 オートバイ、
自動車
合成樹脂成形加工 宝和工業(株) 63 オートバイ、
自動車
幌、,座席製造 (株)小沢渡ケンマ 50 オートバイ、
自動車
バフ研磨 (株)湖南工業 62
浜松市史 四
([生活必需物資の輸送を開始])
なお、昭和二十年十一月には市の保有するトラック六台を
自動車
課に移管し、
自動車
課を運輸課と改称、バス営業,二十一年末の保有
自動車
台数は、再生車や米軍払下げ改装車等、代燃バス十台、トラック十八台、救急車一台であった
浜松市史 三
(浜松掛塚線)
浜松掛塚線 ④浜松・掛塚間 大正十三年創立の掛塚
自動車
株式会社(本社磐田郡掛塚町、現竜洋町)があった,もとは大正九年本多一明(愛知県出身)が、浜松駅を起点として五人乗のフォード幌付
自動車
一台で営業をはじめた
浜松市史 五
(輸送機械工業へ特化)
】
自動車
産業は、平成不況下にあっても生産台数を増やし、地域経済を支える大きな柱になっていった。,特に、浜松地域に国内の主力工場があるスズキ(平成二年に鈴木
自動車
工業から社名を変更)は平成十四年に国内生産,スズキが
自動車
生産を増加させた背景には、「ワゴンR」の成功があった。,した」(『新編史料編六』 五産業 史料83)という理由からニュー・カー・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、軽
自動車
,円高と不況の中で大型高級車の需要が落ち込んだのに対し、軽
自動車
は堅調に伸びたためである。
浜松市史 四
([増える交通事故と信号機])
[増える交通事故と信号機] 交通事故発生件数は、
自動車
の増加と道路整備の遅れなどを背景として、戦後一貫,これにより有楽街、千歳町、浜松座通り、鍛冶町大通りなどは
自動車
を駐車することが出来なくなった。,また、『静岡新聞』(昭和三十三年十一月九日付)によれば、県下で交通事故を起こした
自動車
のうち、最も多いものは,小型貨物
自動車
、次が軽
自動車
(このころはスクーターやオートバイなど)、三番目は普通貨物
自動車
であった。
浜松市史 四
([米軍進駐のうわさと市民])
これには
自動車
は連合軍の
自動車
を追い抜かないこと、みだりに連合軍将兵や
自動車
に接近したり、物珍しげに集
浜松市史 三
(中ノ町線笠井線の廃止)
中ノ町線笠井線の廃止 しかし
自動車
の発達により中ノ町線・宮口線・笠井線は廃止となった。 ,当時流行の軌道
自動車
を使用して起死再生をはかろうというのである。,そして昭和二年末から休業していた中ノ町線も四年六月には軌道
自動車
による再運転を開始した。
浜松市史 五
([路上駐車の禁止区域等設定])
段階的に規制を強化したものの、駐車禁止区域が増加するとそれまで道路を駐車場代わりに利用していた大量の
自動車
,こうした事態に対応して、昭和三十七年六月に公布した
自動車
の保管場所の確保等に関する法律を昭和三十九年一月,その後も駐車禁止区域は、中心市街地、主要道を中心に漸次拡大されるとともに、車庫なし
自動車
の一掃のための
浜松市史 四
([オートレース場の建設])
【鈴木敬司 静岡県小型
自動車
競走会】 オートレースを行うための小型
自動車
競走法案が,鈴木はオートレースを行うのに必要な小型
自動車
競走会を設立すべく、地元のオートバイメーカーの団体である浜松,そして、昭和二十九年三月二十八日、浜松商工会館において社団法人静岡県小型
自動車
競走会を設立、鈴木敬司が,「全国小型
自動車
競走会連合会と通産省の柿壷
自動車
課長を訪問、浜松市の考え方と軽オートのメーカーで設置している,このうち、浜松市小型
自動車
競走条例施行規則には、浜松市とレース部門を担当する静岡県小型
自動車
競走会との
浜松市史 四
([設立相次ぐタクシー会社])
産業の復興とともに、タクシーの需要も増大するようになり、昭和二十六年五月に遠鉄タクシー(同年十一月遠鉄
自動車
興業,、二十九年十月遠州
自動車
興業、三十年五月遠州タクシーに名称変更)、同年六月に光タクシーが設立され、二十八年三月
浜松市史 五
([交通事故の急増と対策])
[交通事故の急増と対策] 【交通戦争】 静岡県の
自動車
台数(貨物用・乗合用・乗用・特殊用途用・二輪,
自動車
が急速に普及したことがよく分かる。,【飲酒運転追放】
自動車
や交通事故の急増に対して、昭和三十七年県は静岡県交通安全対策協議会を結成し,このように徐々にではあるが交通事故防止対策は整えられてきたが、
自動車
の急激な増加に対策が追い付かないのが
浜松市史 三
(市財政の膨張)
【乗合
自動車
】昭和十一年には一般会計百五十四万円と、特別会計に都市計画費七十五万円、水道費二十三万円、,十二年には特別会計に乗合
自動車
費十六万円が増し、さらに十四年からは特別会計に公益質屋費六千円が加わり、,十五年には一般会計百九十二万円よりほかに特別会計(都市計画費・乗合
自動車
費・公益質屋費)約八十五万円となっている
浜松市史 三
(須山式 池谷式 鈴木式)
現在の鈴木
自動車
工業株式会社の前身である(大正十三年職工数九八名。,鈴木
自動車
工業株式会社『四十年史』)。
浜松市史 五
([地域工業の成長と構造変化])
松下鉄工所
自動車
部品、専用工作機械 (株)八幡機械製作所 コンプレッサー (株,)丸山塗装工業所
自動車
部品、塗装 浜松熱処理工業(株) 金属熱処理 丸七北村工業(有,)
自動車
部品、メッキ (株)平安鉄工所 木工、工作機械 丸仲鉄工所 繊維機械部品,
自動車
備品 (株)藤田パイプ
自動車
部品 オトヤ工業(株) 楽器部品 (株)富士熔接工業所,大東機工(株)
自動車
部品、冶工具 小松工業所 螺子製造 辻精密(株)
自動車
、工作機部品
浜松市史 四
([観光バスの事業拡大])
【浜松観光
自動車
】 貸切バス事業の拡大に対応して、昭和三十四年度には五十三両の大型,また、新たな観光事業立ち上げの動きに対処するため、二十九年十二月には浜松観光
自動車
株式会社を設立、三十年二月
浜松市史 五
([各産業の変化と新動向])
【
自動車
産業】
自動車
産業において、環境問題に配慮した
自動車
の開発といった新しい動きも出てきた。,地球温暖化の原因になっているCO2の排出を削減するために、ハイブリッド車や電気
自動車
の開発が行われるようになってきた,スズキはニッケル水素電池を搭載し、トラックの積載性とバンの利便性を融合させた電気
自動車
CT―1を第三十二回東京,このようにして、
自動車
メーカー各社は電気
自動車
などの環境に配慮した車の開発競争時代に突入していった。,移転したアルモニコスはCAD(コンピュータ支援によるデザイン)ソフトメーカーで、同社が開発したソフトが
自動車
浜松市史 四
([図書館と移動文化館])
【
自動車
図書館 移動文化館】 昭和二十八年九月に町村合併促進法が公布されると、全国,これにより、浜松市は
自動車
文庫を新設し、周辺地域へも図書館サービスを開始することにした。,ただ、当時は図書館が整理事務に追われていたため、
自動車
文庫の運営は社会教育課が担当することになった。,昭和三十三年一月から都田・三方原・神久呂・積志・笠井・和田・芳川・五島などの周辺部へ配本所を設置し、〝
自動車
図書館
浜松市史 五
([市営バスの採算悪化])
市長の諮問機関として昭和四十三年三月に設置された浜松市
自動車
運送事業懇談会は、同年十二月、「浜松市
自動車
運送事業
浜松市史 三
(浜松雄踏線)
浜松雄踏線 ③浜松・雄踏間 坂下
自動車
商会(浜名郡雄踏村坂下仙一郎経営)があった。
浜松市史 五
(大気汚染)
大気汚染 【光化学スモッグ】 昭和四十年代半ばから
自動車
の排出ガス量や騒音、窒素酸化物などの規制強化,また、
自動車
排出ガスによる浮遊粒子状物質もほとんどの地点で環境基準を上回っており、酸性雨も昭和五十年代
浜松市史 四
([浜松市消防署の発足])
消防署員は三十七名、消防ポンプ
自動車
二台を配備し、浜松市域全般を管轄した。,浜松市消防署は昭和二十五年七月六日に寺島町に南部派出所を設置し、職員十五名、ポンプ
自動車
一台を配備した,また、同年十月一日には相生町に東部派出所を設置し、職員十六名、ポンプ
自動車
一台を配備、防火体制の万全を
浜松市史 五
([三遠南信地域との様々な交流])
共通して取り上げられたことは三遠南信
自動車
道や南北交流の促進であった。,【三遠南信
自動車
道 草木トンネル】 昭和四十年代から建設が望まれていた三遠南信
自動車
道は、昭和六十二年,この
自動車
道は飯田市の中央
自動車
道を起点に静岡県引佐郡三ヶ日町の東名高速道路に至る延長約百キロメートル,三遠南信
自動車
道のうち初めての開通区間となったのは矢筈トンネルで、平成六年三月二十九日に開通、伊那谷と,『中日新聞』(平成六年七月十五日付)は三遠南信
自動車
道草木トンネルの開通の見出しに「3県新時代幕開け」
浜松市史 五
([観光バス事業の充実])
対して、遠州鉄道バスは、昭和四十二年七月に観光バスセンターを開設し、同社およびグループ企業の浜松観光
自動車
,(株)、浜名湖観光
自動車
(株)(昭和三十八年設立)の車両の引き受け窓口を一本化した。
浜松市史 三
(浜松被害工場 浜松交通関係被害)
また交通関係では営業用乗合
自動車
六十二輌中二十七輌焼失し(市営バスは七六輌残存、営業を中止した)、その,他の自家用諸
自動車
は八十%が焼失、遠州鉄道株式会社経営の西鹿島線は浜松駅前と助信間二・五キロメートルが
浜松市史 四
([競馬場と競輪場])
[競馬場と競輪場] 【競馬場誘致運動 競輪場 小型
自動車
競走場】 敗戦の痛手から再建に向かって必死,した上、代案として「この競輪場を狙つて取るよりも、去る五月廿七日に通産省令で施行細則の公布をみた小型
自動車
競走場,県や地元選出の中村幸八代議士の働き掛けで小型
自動車
競走場設置の声が高まったことにより、市議会では、競輪,、競馬、小型
自動車
のいずれかを選択するのかを協議することになった。,七月になって市は市営の競輪場の誘致を続け、小型
自動車
競走場は返上したいとの考えとなった。
浜松市史 三
(浜松気賀線)
浜松気賀線 ⑤浜松・気賀間 気賀
自動車
株式会社(昭和二年創立、本社引佐郡気賀町、現細江町)があり、気賀
浜松市史 四
(ヤマハ発動機)
その結果、昭和三十四年三月の時点で浜松地方に残ったオートバイメーカーは本田技研工業浜松製作所、鈴木
自動車
工業,、ヤマハ発動機、丸正
自動車
製造、ロケット商会、山王
自動車
工業(旧ヤマト商会)の六社となった。,このような状況のなか、鈴木
自動車
工業とヤマハ発動機は本田技研工業と並んで日本の三大オートバイメーカーとなっていった,鈴木
自動車
工業とヤマハ発動機の二大メーカーのオートバイ生産の開始は、産業都市浜松の工業発展の特徴の一つの
浜松市史 五
([経営協議会の発足])
経営内容を分析し、赤字解消を運賃改定のみに求めることなく抜本的な改善を図る目的で、昭和三十九年六月に浜松市
自動車
運送事業経営協議会,【市営バス再建策】 経営協議会は、昭和四十一年三月、「
自動車
運送事業経営の総合的施策に関する報告」
/ 5ページ