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浜松市史 ニ
(船越村の渡船労務組織)
船越
村の渡船労務組織 つぎに
船越
村の渡船労務組織について述べる。,近世後期の
船越
村の家数はおおむね五十数軒で、そのうちほぼ五十軒が渡船にかかる家とされており、村高は百十石程度 /
船越
村の渡船労務組織
浜松市史 ニ
(馬籠渡船の廃絶と船越村)
馬籠渡船の廃絶と
船越
村 以上を要するに、小天竜馬込川は正保・慶安・承応以前にその水量を減じ、しだいに,産業経済の動向に多大な影響を与えたことは後にもふれるが、ここでは交通への影響として「小天竜馬籠渡船」(
船越
村,渡船に依存度の強かった
船越
村は、先規格式を以って「二里」もはなれた天竜川渡船に加入することを幕府に歎願 / 馬籠渡船の廃絶と
船越
村
浜松市史 三
(渡船 船越一色村 天竜川船橋 天竜橋 船越一色村の困窮 池田橋 豊田橋 渡船場 掛塚橋)
渡船
船越
一色村 天竜川船橋 天竜橋
船越
一色村の困窮 池田橋 豊田橋 渡船場 掛塚橋 水上交通では,船橋が架けられたが、このとき船橋の架設権の行方は、江戸時代を通じ天竜川の渡船権をもって生活をしていた
船越
一色村,(当市
船越
町)の死活に関する問題であったので、池田村とともに「船橋の儀は私共江被仰付度」(『水野家文書,これには
船越
一色村は池田村とともに猛反対をしたが、同六年十一月県の許可によって約二千八百円の費用を投じて,しかし失職した
船越
一色村・池田村渡船方はほとんどが田畑の日雇、荷車引をして生活を立てたといわれている。 / 渡船
船越
一色村 天竜川船橋 天竜橋
船越
一色村の困窮 池田橋 豊田橋 渡船場 掛塚橋
浜松市史 ニ
(馬籠渡船)
【
船越
村 天竜渡船 池田村】近世の交通制度の多くが戦国大名の施策に始まったように、天竜川の渡船制度も家康,するもので、天正元年(一五七三)十一月に「遠州馬籠渡船之事」「遠州天竜池田渡船之事」という同趣旨の渡船掟を
船越
村,その要旨は、関係村の船頭(
船越
村二十四軒、池田村三十五軒と解される)に渡船役負担を義務づけると同時にその,代償として屋敷の年貢および諸役を免除し(
船越
の場合は、近世後期を通じて村高の内、天竜
船越
役料として七十石,【渡船規定】つぎに
船越
村宛の掟の主要部分を掲げておく。
浜松市史 三
(日本形染会社)
日本形染会社 【三十五年 宮本甚七】日本形染株式会社 明治三十三年九月に曳馬村
船越
一色(現在当市
船越
町,片面式中型糊付機)を使用し形染布を製造する目的で設立された会社であったが、水の便をはかって馬込川の沿岸
船越
浜松市史 三
(小山正)
このほか「天竜川渡船資料」(『
船越
一色村水野家文書』『
船越
一色村富田家文書』)などの写本もある(昭和三十二年小山正
浜松市史 ニ
(定助役)
たとえば、宝暦十年の伊場村では「米二斗八升五合
船越
村船賃米 銭九六四文 池田村船賃銭」とある(『岡部家文書,また
船越
村の取集高は池田村のそれの三分一程であったという。,池田村渡船方や
船越
村にとって、渡船は生活の資であったから、両村は渡船制度の特権存続に力をいれたのであった,(以上、特記した場合の外は、
船越
町『水野家文書』、池田村『大庭家文書』『大橋家文書』、小山正氏所蔵『天竜川渡船資料
浜松市史 ニ
(水神)
天竜川の渡船を業とした
船越
(ふなこし)一色村(当市
船越
町)ではこの社に灯籠の寄進をしている。
浜松市史 三
(曳馬町)
曳馬町は町村制施行によって上島・一本杉・早出・細島新田・十軒新田・島之郷・高林・助信・新津・茄子一色・
船越
一色,〇)・野口(戸数一七一、人口一〇二六)・八幡(戸数一四、人口八四)・下池川(戸数六七、人口四〇二)・
船越
一色
浜松市史 五
([集団検診の試行])
浜松市が平成元年七月十八日から三日間、
船越
町の高齢者を対象に認知症の早期発見のための集団検診を実施することを,同七月十八日付記事では、
船越
町の勤労青少年ホームで、対象者六十五歳以上約三百人のうち、百六十一人が申し,この集団検診の精査作業は、同年九月一日付の『静岡新聞』記事によれば、現在進行中であり、
船越
町の六十五歳以上
浜松市史 三
(馬込川出水)
馬込川出水 昭和七年九月十四日 馬込川が氾濫し諏訪橋が流失、浸水地域は
船越
・野口・浅田・寺島・砂山・
浜松市史 ニ
(馬込川流域)
馬込川流域 【
船越
一色村】馬込川水域では、安永六年(一七七七)に上之郷・西在所・西塚の各村の田が「水腐悪水,」となったので、これらの村々は謝礼を出すことを条件に
船越
一色村から水を引いているし、享和三年(一八〇三,)には
船越
一色村地先の馬込川に葭や芦が繁茂し流れが渋滞したため川下の寺脇・瓜内・福塚・大柳・八反田・三嶋
浜松市史 三
(上水道候補地)
すると近隣から井戸水が涸れるという苦情がおこったので、急遽市内
船越
と伊場に変更したが、伊場からは水が出,ず、
船越
からは「平素でさえ地下水汲上量の多い染色工場地帯のこの町にこれ以上の鑿井は」と反対され、最初の
浜松市史 三
(大字制度 新町名)
まごめちょう)(大字馬込のうちの北馬込の改称)・松江町(まつえちょう)(大字馬込のうちの本馬込の改称)・
船越
町,び大字名改称の概要 町名 改称又は新設 従前の大字名 他から編入した個所 他の町へ編入した個所
船越
町,ふなこしちょう 改称
船越
一色 野口の一部 一部を野口・木戸・佐藤の各町へ編入 馬込町 まごめちょう,常盤 田・早馬・八幡の各一部 一部を東田・田・早馬・八幡の各町へ編入 野口町 のぐちまち 〃 野口
船越
一色,・八幡の各一部 一部を山下・中沢・
船越
・八幡・元浜の各町へ編入 八幡町 はちまんちょう 〃 八幡 田・
浜松市史 五
([住居表示の実施])
の住居表示実施計画によると第一次計画(昭和三十九~四十一年度)では浜松城を中心に、北は和地山、中沢、
船越
,こうして昭和四十年(一九六五)四月一日、市内初めての住居表示が
船越
町と和地山三町で実施されることになった,
船越
町の街区数は四十二、和地山一丁目は十二、和地山二丁目は三十八、和地山三丁目は十六であった。,
船越
町はほぼ町界に変更はなく、和地山三町はこれまでの和地山町を三つに分け、入り組んだ境界を合理的に手直
浜松市史 三
(染色業者分布)
また染色業者の分布状況についてみると(大正十五年調)、浜松市には染色業者数八十九、そのうち馬込二十・
船越
十一
浜松市史 三
(馬込川大水)
流失して浸水家屋六千戸に達し、十年九月四日には馬込川の破堤で浸水家屋五千戸余(ともに浸水区域はいつも
船越
浜松市史 三
(販売業)
2 旅籠 1 肴 1 平田 1 池 1 後道 1 高 1 馬込 1 森田 1 野口 1 下池川 1
船越
浜松市史 四
([校舎の新増築])
当初は廃校となった八幡小学校の復興ということで始まったが、建設地の町名を取って
船越
小学校となった。,
船越
小学校創立三十周年記念誌『船小は生きている』には、「校舎は、当時、鉄筋では浜松で最初のモデル校舎として
浜松市史 ニ
(馬込川の禁猟)
「享保十四年七月馬込村庄屋口上覚」)、禁制が定まったのは浜松城主松平伯耆守資俊のころで、川筋の馬込・
船越
浜松市史 三
(織物関係 一般工業機械材料 特殊工業品生産品 日用品 運輸倉庫業 金融機関 その他)
運輸倉庫業 金融機関 その他 【馬込川流域】Aの十一社のうち織物製造会社に日本形染株式会社(三十三年創立、
船越
町,)・西遠染色株式会社(四十年、馬込町)・高橋合資会社(四十三年、木戸町)・東海染色会社(四十三年、
船越
町
浜松市史 三
(蒲村)
両追分 和地山 和合の一部 浜松沢 2 〃5.5.1 曳馬村のうち 高林の一部 野口 八幡 下池川
船越
一色
浜松市史 ニ
(御用船)
小天竜川の方は古くから浜松領分の
船越
村(当市
船越
町)から役人一人・水主十二人と池田村から役人一人・船役十一人
浜松市史 ニ
(検地の実施)
上新屋・西在所・上ノ郷・薬師 4 中田・佐藤・天王・下堀・天新田 明暦元
船越
,新田のみ(6村) 大明神・大見・長命・白鳥 2 茄子一色・西・下飯田・
船越
,中野嶋・蠟燭・上嶋・上小嶋・新野・三家・下神増・上神増 新田のみ 〃〃 3
船越
浜松市史 三
(雪腸の自由俳句運動)
大正六年浜松の清水吟社所属)・田中貫川(麻次郎、当市北寺島町)・高柴象外(当市下池川町)・富田翠邦(太郎、当市
船越
町
浜松市史 三
(第四回 市議員選)
松城・三組・和地山・両追分・名残・元名残・高) 第五区 定員二名(旧天神町村全部) 第六区 定員三名(
船越
一色
浜松市史 五
([中央地区で難航の住居表示])
の住居表示] 【住居表示】 浜松市の住居表示は第二章で述べたように昭和四十年四月の和地山三町と
船越
町
浜松市史 四
([罹災した寺院])
平田町)、玄忠寺(田町)、法雲寺(旭町)、大聖寺(板屋町)、仙林寺(野口町)、万福寺(八幡町)、広厳寺(
船越
町
浜松市史 ニ
(田尻湊)
天竜川の流路に変遷があっても船役権を存続し得た
船越
村に比して、田尻村の場合は適切な処置を欠いたためにおきた
浜松市史 三
(織物工場分布)
そして特に多く分布するのは馬込川東岸地帯(佐藤町・木戸町・中島町・
船越
町・馬込町・向宿町・天神町など)
浜松市史 五
([大交番制度])
ここはこれまでの高林・助信・中沢・野口・
船越
の五派出所を統合したもので、巡査部長以下十二名が勤務することになった
浜松市史 四
([鼠の一斉駆除])
)、3毒餌の製法について、4捕獲計画(第一日から第四日まで)の具体的説明、という主項目が並んでいる(
船越
町自治会所蔵文書
浜松市史 五
([勤労青少年ホームと勤労青少年の生活の変化])
【アイミティ浜松】 国際青年年の昭和六十年四月二十八日、浜松市立勤労青少年ホームは、
船越
町に移設され,
船越
町への移転前は年間利用者数は三万人ほどであったが、移転後は四万人ほどに増加した。
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌
(浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)
船越
の花火】 210 【愛染稲荷 板屋町】 211 (二)仏 閣 212 【心造寺 紺屋町 ,下池川町】 222 【仙林寺 野口町】 223 【萬福寺 八幡町 黒衣地蔵尊 身代り地蔵 広厳寺
船越
町,
船越
町 東小学校 八柱神社】 248 【中部中学校 松城町 市立高等女学校 敗戦 蜆塚中学校】 250,【浜松市役所跡 浜松市歌 万葉集遠江歌考 賀茂真淵 戊辰戦争報国隊紀念碑 天皇行幸】 310 ④
船越
公園,385 二十三 八幡町 【八幡町消費生活協同組合 床屋 遠州鉄道 踏切】 386 二十四
船越
町
浜松市史 三
(市営バスの誕生)
らによって論議されていたが、七年中村陸平市長時代に入るとようやく機運が熟し、市営乗合自動車事業(伊場・
船越
線
浜松市史 ニ
(中郡地域)
この理由はいろいろあろうが、地理的条件として天竜川の川筋が江戸前期に東へ移動したために(馬込川・
船越
・
浜松市史 五
([小中学校の運動場・体育館の開放])
授業などに影響のない土曜日の午後、日曜日に開放することを決め、昭和四十六年十月から市内の相生小学校、
船越
小学校
浜松市史 三
(会社)
(0) 中沢町 6(4) 千歳町 6(0) 森田町 5(3) 海老塚町 5(2) 佐藤町 5(4)
船越
町
浜松市史 ニ
(浜松領の成立期)
・白羽・中田嶋・福塚・寺脇・瓜内・三嶋・三嶋新屋・馬領家・上中嶋・向宿・堀込・佐藤一色・馬込・野口・
船越
一色
浜松市史 ニ
(禅宗)
若林 野崎 堤 米津 法枝 田尻 新橋 東若林 明神野 寺脇 恩地 参野 本郷 向宿 助信 新津
船越
浜松市史 三
(市内道路の改良)
【六間道路】六間道路は上池川から下池川を経て元浜・
船越
方面へ通ずる新設道路であって、昭和三年に全通した
浜松市史 ニ
(流行の仏たち)
仏堂名 数 所在地 薬師堂 7 早出薬師下堀羽鳥笠井高薗永嶋 阿弥陀堂 7
船越
上之郷佐藤永田長命白鳥羽鳥
浜松市史 五
([下水道事業の開始])
昭和三十四年度から総工費十四億六千万円をかけ、十カ年計画で六排水区、ポンプ場二カ所、浅田・伝馬・元浜・寺島・
船越
浜松市史 四
([敗戦と神社])
東伊場町)・松尾神社(元魚町)・秋葉神社(三組町)・東照宮(元城町)・日枝神社(広沢町)・八柱神社(
船越
町
浜松市史 ニ
(柳也と月並句会)
近郷の
船越
・金洗・篠原・高塚・宇布見・掛塚とつづき、中泉・横須賀(磐田郡)・上州館林(第六章第六節参照
浜松市史 四
([諸寺の復興])
戦後の寺院開放の例では、子供会を組織した広厳寺(
船越
町、めぐみ会)や長福寺(恒武町、恒武明朗子供会)があり
浜松市史 ニ
(糀と竜禅寺村)
三品の専売権紛争問題は、いわゆる御由緒だけで、
船越
村の船役権のように確実な証がなかったためにおきた係争
浜松市史 三
(浜松市役所 機構)
塩町 174 成子町 140 元魚町 321 菅原町 302 海老塚町 1254 浅田町 717
船越
町
浜松市史 四
([社殿再建築の動き])
、同二十八年・日枝神社(広沢町)社殿再建、同三十年・亀山神社(亀山町)社殿再建、同三十二年八柱神社(
船越
町
浜松市史 三
(敷知長上浜名郡役所 郡域変更)
上池川村 助信村 島ノ郷村 十軒新田村 茄子一色村 八幡村 下池川村 新津村 上島村 早出村
船越
一色村
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