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浜松市史 一
(蒲御厨)
蒲御厨
【端和 新開】
蒲御厨
応永二十九年(一四二二)閏十月の端和町屋銭催促状(『東大寺文書』)などによると,、
蒲御厨
には、新開(いまは当市新貝町)がある。,【地頭職】
蒲御厨
の地頭職は、建武の新政にあたり、得宗(北条氏家督)領として没収され、岩松経家に給与された,永和四年(一三七八)三月、遠江守護今川了俊は、守護代長瀬尾張権守に対し、
蒲御厨
神明社の造営をさせている /
蒲御厨
浜松市史 一
(蒲御厨)
蒲御厨
【地頭職 東大寺】
蒲御厨
応永十七年(一四一〇)将軍義持は東大寺大勧進惣深に同寺塔婆料所の
蒲御厨
地頭職,応永三十年十一月に、東大寺の衆徒は
蒲御厨
において不法行為があったと評定している(『東大寺文書』)。,応島久重遠江国
蒲御厨
代官職請文(奈良 東大寺蔵) 【応島氏の自立運動】永享(えいきょう)二年(,【引馬大河内氏領】やがて浜松荘領家吉良氏の代官で、引馬の領主大河内備中守の勢力が
蒲御厨
にも入ってくる。,すなわち寛正二年(一四六一)六月大河内兵庫助真家と磯島藤衛門俊家を
蒲御厨
代官職にした。 /
蒲御厨
浜松市史 一
(蒲御厨)
蒲御厨
この一件の翌年、永保元年(一〇八一)には、やはり遠江国が
蒲御厨
を荘園整理令にもとづいて停止していることが /
蒲御厨
浜松市史 一
(蒲御厨)
蒲御厨
蒲御厨
(かばのみくりや)(伊勢神宮や賀茂神社の領地が御厨) 【安間郷】当市の東部地区旧蒲村,ごほりかわ)天皇(一二一二-一二三四)皇女室町院(むろまちいん)(一二二八-一三〇〇)の御領のうちに、
蒲御厨
地頭職,
蒲御厨
略図 【渡瀬氏 頼母木氏 大角氏】
蒲御厨
では天竜川沖積層地域の開発が進み、蒲氏の一族から /
蒲御厨
浜松市史 一
(蒲御厨の地下請)
蒲御厨
の地下請 【用水路】康正(こうしょう)三年(一四五七)に、
蒲御厨
の東西の公文(くもん)(管理人 /
蒲御厨
の地下請
浜松市史 一
(蒲御厨の徳政一揆)
蒲御厨
の徳政一揆 康正元年(一四五五)は旱魃であった。,しかも鎌倉御所の足利成氏(しげうじ)征伐のため幕府の命令をうけた守護から
蒲御厨
に対しても野伏(のぶし) /
蒲御厨
の徳政一揆
浜松市史 一
(蒲御厨のばあい)
蒲御厨
のばあい 【枡】中世では、ある枡で計量した米を、ある必要からさらにいま一度他の枡ではかりかえることが,この状態が発展して年貢銭にも「交分」がつくようになった(「
蒲御厨
収納帳」『東大寺文書』四ノ二九のうち。 /
蒲御厨
のばあい
浜松市史 一
(今川了俊 今川心省)
今川了俊 今川心省 【
蒲御厨
神明社の造営】そして永和四年(一三七八)三月十日に遠江守護今川了俊は長瀬尾張権守,に対して、
蒲御厨
神明社の造営をめいじた(『蒲神明宮文書』)。
浜松市史 一
(馬借 車借)
【
蒲御厨
の馬匹】
蒲御厨
の平百姓(ひらひゃくしょう)(名子)は、馬匹をもっている。
浜松市史 一
(松井氏)
【
蒲御厨
二俣城】そして義元のときに松井宗信は、鎌田御厨をはじめ二俣・野辺・下平河・津久部、
蒲御厨
の鶴見
浜松市史 一
(河勾荘)
)門跡領河勾荘(その権利内容は未詳)の百姓らが代官をあなどり、他出したり逃散(ちょうさん)したから、
蒲御厨
,隣接する
蒲御厨
に逃散した者が多かったのであろう。
浜松市史 一
(大神宮領)
そして、現浜松市域に含まれる地としては、有名な
蒲御厨
・都田(みやこだ)御厨があり、池田御厨の名もみえる,現在地 尾奈御厨 55丁(米,絹) 引佐郡三ケ日町尾奈 都田御厨 上分田見作89町 浜松市都田町
蒲御厨
浜松市史 一
(池田御厨)
池田御厨 池田御厨
蒲御厨
の方から京都の松尾神社領の池田荘を蚕食してつくられた豊受(とようけ)大神宮
浜松市史 一
(遠江初期の地頭)
遠江初期の地頭 遠江の初期の地頭として文献にみえるのは、
蒲御厨
(かばのみくりや)北条時政、雙(質(し
浜松市史 一
(浜松のおこり)
寛正(かんしょう)のころ(一四六〇-一四六五)
蒲御厨
公文(かばのみくりやくもん)大角氏の譜代(ふだい)
浜松市史 一
(神明社 但木神明社の掛仏)
【蒲神明宮
蒲御厨
】蒲大神 当市神立町の蒲神明宮。平安中期から
蒲御厨
ができ、その鎮守。
浜松市史 一
(南北朝時代と浜松)
蒲御厨
でも同じ現象である。それが文化の面でもはっきりとみられるが南北朝の時代の特色である。
浜松市史 一
(散村型荘園)
散村型荘園 【
蒲御厨
池田荘】十二世紀ころの畿内(きない)(大和・山城・摂津・河内・和泉の五か国)やその,この散村型荘園は、遠江
蒲御厨
(かばのみくりや)・池田荘もほぼ同じ村落景観であった。
浜松市史 一
(室町時代と浜松)
室町時代と浜松 本市にあった、もと
蒲御厨
は日本の農業史上で早稲と中稲、中稲と晩稲との接点になっていた
浜松市史 一
(市場商人は名主)
【
蒲御厨
の年貢 引馬市】『東大寺文書』によると、当市内にあった
蒲御厨
(かばのみくりや)の年貢なども引馬市
浜松市史 一
(荘園の祭神)
蒲神明宮】荘園内部でもそれぞれ神社があったことは当然で、式内社服織神社が羽鳥庄の中心となり、蒲神明宮が
蒲御厨
,ことに
蒲御厨
に神明宮すなわち皇大神宮の分祀があったことは、皇大神宮に貢納の義務を持つ御厨として当然のことである
浜松市史 一
(農業)
農業 【
蒲御厨
の稲作】鎌倉時代からみられる早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)の栽培がしだいに,東大寺(奈良市所在)領の遠江
蒲御厨
では、康正(こうしょう)三年(長禄元年、一四五七)に早稲・中稲だけが,【別給村】
蒲御厨
でも寛正六年(一四六五)八月に別給(いまの市内飯田町)の公文(くもん)が東方代官にあてて
浜松市史 一
(尊氏の入京)
【蒲惣検校源清保】遠江
蒲御厨
(かばのみくりや)の惣検校(そうけんぎょう)源清保は、京都の戦いに参加した
浜松市史 一
(中世編)
部分(京都 歓喜光寺蔵) 三九五 荘図・御厨地図 三九七
蒲御厨
略図, 五四一 農家の生活 光明真言絵詞 部分 (滋賀 明王院蔵) 五四三 広島久重遠江国
蒲御厨
代官職請文
袖紫ケ森:わがまち文化誌
(浜松市立蒲公民館『袖紫ケ森:わが町文化誌』 目次)
歴史と天竜川平野 6 宮竹野際遺跡 7 蒲の由来と蒲氏 12 蒲神明宮縁起誌 15 蒲神明宮と
蒲御厨
浜松市史 一
(村櫛荘如意寺の大般若経)
補智郡笠子郷 東福寺 永徳2.10中澣 (1382) 東福寺 無 浜名郡湖西町 〃 巻第 264
蒲御厨
輝くいなほはたの音:わが町文化誌
(浜松市立東部公民館『輝くいなほはたの音:わが町文化誌』 目次)
飯田遺跡群 飯田町】 54 【律令制と農民】 56 【坂上田村麻呂と水晶松 青屋町】 58 【
蒲御厨
浜松市史 五
([施設の刷新])
光褝寺大日如来座像は「平安時代末期にこの地が伊勢神宮の神領
蒲御厨
と定められた」(『神道史大辞典』)が、
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