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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 一 (蜆塚人の形質)

蜆塚人の形質 蜆塚人の形質については、つぎのようにいわれている(鈴木尚「蜆塚人骨の総合所見」『蜆塚遺跡,これらの特徴は、縄文時代人骨に普遍的に認められるものであって、蜆塚人に固有のものではない。 / 蜆塚人の形質
浜松市史 一 (蜆塚第一期のころ)

蜆塚第一期のころ 蜆塚遺跡の営まれた自然環境を考えるうえで、以上のような海進海退の現象を無視できない,すなわち蜆塚第一期のころは、まだ人の動きが乏しかったが、当時は東海地方における海進の絶頂期であったと考,えられている(浜松市教育委員会『蜆塚遺跡』総括篇)。 / 蜆塚第一期のころ
浜松市史 一 ([蜆塚遺跡の終焉])

[蜆塚遺跡の終焉] いまからおよそ四千年前に蜆塚の地に定着し始め、ほぼ一千年にわたり存続した蜆塚人の,およそ三千年前のある日、長い間住み馴れたムラをあとにして、蜆塚人たちはいずこともなく姿を消した。,彼らが蜆塚の地を捨てたのには、それ相当の深い理由があったに違いない。,その第一は、蜆塚では貝塚の形成が第九期になるとまったくとだえてしまったことである。,第15図 蜆塚遺跡出土の縄文文化らしからぬ石器(浜松市立郷土博物館蔵) / [蜆塚遺跡の終焉]
浜松市史 四 ([蜆塚遺跡の発掘])

[蜆塚遺跡の発掘] 【蜆塚遺跡】  第二章第九節第八項に記したように、昭和二十四年の伊場遺跡の発掘調査,  【後藤守一 蜆塚遺跡調査団 『蜆塚遺跡その第一次発掘調査』】  昭和三十年になって、,浜松市は明治大学の後藤守一教授を団長とする蜆塚遺跡調査団に、遺跡の本格的な発掘調査を委嘱した。,昭和三十二年三月には、報告書として『蜆塚遺跡 その第一次発掘調査』がまとめられ公刊された。,図3-95 浜松市立郷土博物館蜆塚分館 / [蜆塚遺跡の発掘]
浜松市史 一 (第六期 蜆塚Ⅱ式土器)

第六期 蜆塚Ⅱ式土器 〔第六期〕種々の点で第五期と共通した特徴をもっているが、文様要素が急激に減少をみせる,この土器も蜆塚遺跡で顕著に知られるにいたったので、蜆塚式(Ⅱ式)と呼ばれることがある(第3図61~65 / 第六期 蜆塚Ⅱ式土器
浜松市史 一 (蜆塚遺跡保存会の結成)

蜆塚遺跡保存会の結成 この試掘調査が直接の契機となって、蜆塚遺跡を正式に大きな規模で調査してみたいという,この動きは、昭和三十年(一九五五)四月に「蜆塚遺跡保存会」(会長内田六郎)の結成となって実現された。,を集め、これに静岡県出身の考古学の元老、後藤守一氏を招いて調査団が組織されたのであった(後藤守一編『蜆塚遺跡 / 蜆塚遺跡保存会の結成
浜松市史 一 (蜆塚遺跡の保存と活用)

蜆塚遺跡の保存と活用 この蜆塚遺跡保存会による大規模な発掘を最後として、蜆塚遺跡は永久保存の方策がとられた,こうして蜆塚遺跡はしだいに学術公園として活用される方向に向かっているのである。 / 蜆塚遺跡の保存と活用
浜松市史 一 (第五期 蜆塚Ⅰ式土器)

第五期 蜆塚Ⅰ式土器 〔第五期〕この時期には、いままでと違った変化が生じている。,この手法は蜆塚遺跡で確認された顕著な特徴であるために、この時期の土器を蜆塚式土器(Ⅰ式)と呼ぶことがある / 第五期 蜆塚Ⅰ式土器
浜松市史 一 ([蜆塚遺跡の実年代])

[蜆塚遺跡の実年代] 土器による年代の物差しは、以上のとおりであるが、これはあくまでも相対的なものに,いま参考までに蜆塚遺跡の年代に関連する測定値を示すと、まず、蜆塚第一期と第二期の間に入ると考えられる千葉県姥山貝塚出土,この木炭は、蜆塚第八期の土器と同じ型式のものに伴出したということである。,この測定値を信頼するとすれば、蜆塚遺跡の実年代は、約四千年前から三千年前までの期間にわたっていたということになろう,第4図 蜆塚遺跡出土の縄文土器(浜松市立郷土博物館蔵) 上段 第3期,中段左 第5期,中段右 第 / [蜆塚遺跡の実年代]
浜松市史 一 ([蜆塚遺跡の年代の物差し])

[蜆塚遺跡の年代の物差し] 蜆塚遺跡の生活を跡づけるためには、やはり最初に土器による年代の物差しを示 / [蜆塚遺跡の年代の物差し]
浜松市史 一 (原始編)

)   一〇二 蜆塚遺跡出土の狩の道具(矢じり)と石鏃の突きささった猪の骨(浜松市立郷土博物館蔵) ,一〇七 蜆塚遺跡出土の漁撈の道具類(浜松市立郷土博物館蔵) 一〇九 蜆塚遺跡発見の住居跡群と復原家屋群,         一一七 蜆塚遺跡第1貝塚の貝層断面              一二〇 蜆塚遺跡の,集落の構造とその変遷図          一二四 蜆塚遺跡発見の埋葬人骨               ,一二七 蜆塚遺跡出土の身体装飾品(浜松市立郷土博物館蔵)  一二九 浜松市内縄文時代遺跡の出土品(
浜松市史 一 (原始編)

とその時代   第一節 蜆塚遺跡の研究史             八八        江戸時代  ,九六        土器による年代の物差し  蜆塚遺跡の年代の物差し  蜆塚遺跡の実年代   第三節, 自然環境                一〇三        海進と海退  蜆塚遺跡の自然環境,            一二五        埋葬法  身体装飾  抜歯風習  土偶   第七節 蜆塚人,の終焉             一四三        蜆塚遺跡の終焉  西日本の晩期縄文文化 第四章
浜松市史 一 ([生活領域])

[生活領域] 前節までは蜆塚人の生活内容を項目別にみてきたわけであるが、そこで述べた内容の基本的な面,は、とくに蜆塚遺跡に固有のものではなく、広く縄文時代後期を中心とする縄文時代人に共通したものであった。,したがって、蜆塚人の生活の具体相は、ほぼ縄文時代後期から晩期初頭にかけての縄文時代人一般の有様を代弁しているともいえるのである,このように蜆塚人の生活が、縄文文化の中で孤立したものではあり得ないとすれば、蜆塚人の生活を取りまく同時代
浜松市史 一 (釣針の有無)

釣針の有無 ところで不思議なことに、蜆塚遺跡には釣針が発見されていない。,今日魚は釣るというのが常識であるが、蜆塚人は釣針を知らなかったのだろうか。,磐田市石原貝塚では立派な釣針が出土しているのであるから、蜆塚人が釣針の存在を知らなかったはずはない。,釣るよりも突くという漁法が、蜆塚では卓越していたということなのであろうか。,第6図 蜆塚遺跡出土の漁撈の道具類(浜松市立郷土博物館蔵)            上段 もりまたはやす
浜松市史 一 (若林勝邦氏の踏査)

若林勝邦氏の踏査 明治になって西欧の学問が取り入れられ、これを学んだ日本人の手によって、蜆塚遺跡はようやく,当時、東京理科大学(東京大学理学部の前身)の人類学教室にいた若林勝邦氏が、蜆塚遺跡を訪れてその時の事情,を、明治二十五年(一八九二)七月の『東京人類学会雑誌』に報じたのが、蜆塚遺跡を学問的に把えた記録の最初,その年の九月、若林氏は再び蜆塚遺跡を踏査して、その結果を『東京人類学会雑誌』第七十八号に報告している。,その中で若林氏は、貝層中に鹹水(かんすい)産の貝類が含まれている点を注意して、蜆塚遺跡の貝塚はかつて左鳴湖
浜松市史 一 ([寿命])

[寿命] 蜆塚人の寿命について、正確な年齢を示すことはむずかしい。,『蜆塚遺跡』の学術報告書の記載にしたがって表にしてみよう。  ,いことを知るのであるが、八例を算える成年というのが、具体的にどのくらいの年齢層であるかということによって、蜆塚人,(表)第6表 蜆塚人の寿命 計 ?
浜松市史 一 ([貯蔵法])

[貯蔵法] 蜆塚遺跡においては、貯蔵施設として確かなものはない。,これを貯蔵施設として認めてよければ、蜆塚ではシカやイノシシが保存食糧になっていた証拠となろう(浜松市教育委員会,『蜆塚遺跡』その第三次発掘調査)。  ,えることができたかどうかという点は、その社会における生活の安定性を示す重要な証拠となるわけであるが、蜆塚遺跡
浜松市史 一 (犬歯抜除)

犬歯抜除 蜆塚人骨の研究結果によると、上・下顎骨に生前歯を抜いたあとが認められたという。,これを抜歯といい、抜歯の有無を調べることのできた人骨の大部分に、抜歯があったというのであるから、蜆塚人,蜆塚遺跡の例は大部分晩期であろうということは、すでに述べてきたところである。,また、抜除される歯の種類によって約三〇種の抜歯様式が知られているが、蜆塚遺跡例のように、犬歯だけを抜く,様式は、蜆塚を西限とする東部日本に多い様式である点は、蜆塚人の文化を知るうえで大いに注意しておかねばならぬことである
浜松市史 一 (地域圏の成立)

地域圏の成立 このように、蜆塚遺跡で使われた土器の特徴は、蜆塚だけに存在するものではなく、かなり広い,本節のはじめに述べたように、蜆塚人の日常の生活舞台は、せいぜい半径数キロメートルの範囲であったと思われるのに,蜆塚遺跡を中心にその地域圏を示せば第14図のようになるだろう。
浜松市史 一 (第四次発掘調査)

この調査をもって蜆塚遺跡保存会による発掘調査は、終了の予定になっていたので、四次にわたる調査成果の総まとめという,意味をもっていた(浜松市教育委員会『蜆塚遺跡』その第四次発掘調査)。,第2図 蜆塚遺跡全景
浜松市史 三 (浜松土産)

浜松土産  【蜆塚遺跡】蜆塚(しじみづか)遺跡が明治二十二年七月の若林勝邦(東京理科大学人類学教室,二十四年の土屋彦六、二十八年の足立文太郎の調査によって学界の注目をひくようになったのもこの時代であった(『蜆塚遺跡発掘調査報告書
浜松市史 一 (佐鳴湖の存在)

佐鳴湖の存在 蜆塚遺跡は、そうした佐鳴湖の存在を大いに考慮したうえで、選地されたものであろう。,蜆塚遺跡から西へ谷を下ると、七〇〇メートルで現在の佐鳴湖に達する。,これが海面のもっと高い時期であったら、すぐ北の谷底、蜆塚から二、三〇〇メートルの所に海水がきていたのである
浜松市史 一 (外海とのつながり)

外海とのつながり 蜆塚遺跡は同時に外海にも近い位置を占めている。,いまでこそ遠州灘の海岸は、台地の縁から三・五キロという遠い位置にあるが、蜆塚の全時期を通じて外海は、西伊場,蜆塚遺跡からそこまでの距離は二キロメートル以内に入っているのである。
浜松市史 一 ([身体装飾])

蜆塚遺跡から発見された身体装飾品には、つぎのようなものがある。,第11図下段下中)・透輝石製大珠(同図上段左)・石製垂飾品・骨製垂飾品などは、第三期から第五期つまり蜆塚前葉期,発見された資料は、以上のとおりであるが、これが蜆塚人の身体を飾ったもののすべてではないだろう。,の大珠などは、容易に得がたい材質であって、発見例も他のものに比べて乏しい品であることなどから推して、蜆塚人,第11図 蜆塚遺跡出土の身体装飾品(浜松市立郷土博物館蔵)
浜松市史 一 (曳駒拾遺の記事)

曳駒拾遺の記事 蜆塚遺跡に関する記事が、最初に現われるのは、正徳三年(一七一三)のことである。,「蜆塚は三つ山の東にあり、今は一村となりて、しつか家々も十余り見えぬ、此所むかしいかなる所なりけん、土,をうかち見れば底の底まても猶蜆からの尽る事をしらす、斯る事は世にも又有ものかは、」  この記事は、蜆塚
浜松市史 一 (土屋彦六氏の踏査 足立文太郎氏の踏査)

土屋彦六氏の踏査 足立文太郎氏の踏査 明治二十四年(一八九一)以降、土屋彦六氏も蜆塚遺跡を踏査していた,足立氏は、その時人骨を採集され、蜆塚遺跡には墓地もあることを主張して識者の注意を喚起したのである。,このように、明治時代になって蜆塚遺跡はようやく学界にその名を残すようになったのであるが、この時期の調査
浜松市史 一 ([物資の交流])

[物資の交流] 蜆塚遺跡の出土品の中には、前項で推測した生活領域内ではとても入手できない材質で作ったものが,もちろん蜆塚の出土品中には見あたらない。,とすると、蜆塚人は長野県の八ケ岳付近の黒耀石を入手していたとみられる。
浜松市史 一 (三方原台地)

三方原台地 蜆塚遺跡の北から東にかけての地帯は、いうまでもなく広大な三方原台地であって、そこには原始林,蜆塚遺跡をめぐる自然環境は、大要以上のごとくであったと考えられる。
浜松市史 一 (第九期)

こうして、蜆塚遺跡の営まれた時代の中心は、縄文時代後期にあったことを知ることができる。  ,(表)第2表 蜆塚遺跡の年代尺度 蜆塚遺跡 年代の大別 早期 前期 第一期 前半 中期 後半
浜松市史 一 (交換)

しかも、これは蜆塚遺跡に限られたことではなく、黒耀石にしても硬玉にしてもかなり広汎に分布することが知られている,なわれたのであろうが、その対象として身体装飾品のような直接生産手段に関係しないものが多く求められているのは、それだけ蜆塚遺跡,これも、ひとり蜆塚だけにみられる現象ではなく、中期以後の縄文文化に一般的に認められているのであって、縄文文化
浜松市史 ニ (名残追分新田)

【蜆塚】『遠江国風土記伝』には「高二十五石一斗七升六合、属原」と記載されているだけであるが、『変化抄』,に「当村(入野村)新田蜆塚村は蜆からの大なる塚有之故の名に候処、天保十年水野様楮掛役人名残新田江楮植付候,【楮畑】そしてこれによると、この新田には楮(かじ)畑があること、またその肥料源として蜆塚の貝殻を運んでいたことがわかる
浜松市史 一 (第一期)

第一期 〔第一期〕たった数片の小さい土器片によって、蜆塚遺跡へ人間がたち寄った最初の時期をつかむことができる,これらは、中期の前半から中ごろにかけての土器にみられる特徴であることから、蜆塚での人間の動きは、中期に
浜松市史 一 (生活領域の広さ)

そして第8表をこれに加味してみると、各群にはそれぞれ少なくとも一遺跡ずつ、中期と蜆塚第九期の遺跡が含まれることがわかる,他の時期ではこれははっきりしないが、少なくとも蜆塚第九期のころには、三方原台地の縁辺に四ないし五の集落,氏蔵) 下段 都田町川山出土(浜松市立郷土博物館蔵)   (表)第8表 近隣遺跡群の年代関係 蜆塚遺跡
浜松市史 一 (東日本の状態)

その代表的な遺跡は、いうまでもなく浜松市の蜆塚遺跡である。蜆塚遺跡については次章に述べる。
浜松市史 一 ([狩猟])

蜆塚遺跡の人々も、基本的には同じだったと思われる。以下それを詳しく述べることにしよう。  ,人間が生活を営むために必要なものを、自然に働きかけることによって獲得することを、広く生産と呼べば、蜆塚遺跡
浜松市史 一 (戦後の状態)

蜆塚遺跡もこうして、相つぐ考古学徒の来訪を受けたが、その動きは、正式な文献となっては現われなかった。,機関誌や地方誌の中に、踏査結果の報告が散見するにすぎない状態ではあったが、『静岡県史』以後忘れられた形の蜆塚遺跡
浜松市史 一 (変化抄の記事)

変化抄の記事 「当村新田蜆塚村は、蜆からの大なる塚有之故の名に候処天保十年水野様楮掛役人名残新田江楮植付候,相成乍併今以近辺はから計畑是以から余程見え候是衰微の基と存誠ニ歎ケ敷存候事」    この記事には、蜆塚,ところでこの二つの記録は、蜆塚遺跡に関していずれも蜆殼のたくさん出る不思議な所であるということだけを述
浜松市史 一 (第二期から第七期のころ)

海水が若干加わるような条件の下で、ヤマトシジミやハマグリ、それにアサリなどが育ちやすいのであるから、蜆塚遺跡,それは蜆塚第二期から第七期にかけてのころであった。
浜松市史 一 (上屋の構造)

蜆塚ではこのほかに周堤と柱との間隔を示す証拠はないので、上屋の構造を考えるのは非常に困難である。,現在蜆塚遺跡には、後藤守一氏の設計によって、切妻式で妻入りの天地根元造りの復原家屋が建てられている。
浜松市史 ニ (楮栽培)

楮栽培 『変化抄』によると、天保十年蜆塚村に藩役人が現われ土を運びはじめた。,そのため蜆殼の堆積によってできた塚ももとの姿を失ってしまった(現在の蜆塚遺跡である)。
浜松市史 一 (住居の広さ)

しかし蜆塚遺跡では周堤として確認されたものはなく、ただ柱穴列の外側にすぐ接して周堤の存在を示すような細,いま蜆塚遺跡発見の住居跡の大きさを示すために、四隅の柱穴を基準にしてその柱間を表示してみよう。,第7図 蜆塚遺跡発見の住居跡群(上)と復原家屋群 (表)第4表 住居跡の大きさ
浜松市史 一 (行動半径)

したがってこれを蜆塚遺跡に移して考えると、蜆塚人の生活領域は佐鳴湖を中心とした三方原台地の南部一帯を占
浜松市史 一 (住居跡からの推算)

この数字はそのまま使えば、一戸平均五人として、蜆塚人の人口は多くて二五名ということになる。  ,っていたわりに寿命は長いといわれているので、第7表の中から死亡率を千人につき三〇人と推定しておくと、蜆塚人,存続年数とその期間中の死者の数は、人口推算に関しては反対方向に影響しあう条件であるから、一般的にいって蜆塚人,蜆塚遺跡と同時期の集落は現市域に限ってみると、次節において述べるように三~四か所と推定される。
浜松市史 一 (墓地の配列)

ところで、これまで述べてきたような集落の構造は、蜆塚遺跡における生活の最後の日の姿を示すものである。,この時期の遺構はなにも発見されていないが、蜆塚遺跡での人間の活動は、まずこの時に始まった。,第9図 蜆塚遺跡の集落の構造とその変遷  【前葉期】第三期から第五期にかけては、遺構の上ではいちじるしい,蜆塚遺跡の集落は、以上の五段階の変貌を遂げた。,この五段階は、第四節で指摘しておいた変化の過程と有機的に結びつくものであって、蜆塚遺跡における原始生活
浜松市史 五 ([浜松市博物館の開館])

[浜松市博物館の開館] 【市立郷土博物館 蜆塚分館】  蜆塚四丁目の地に、浜松市博物館がオープンしたのは,まず館の建設と関連のある事柄として、昭和三十年十二月、蜆塚遺跡の発掘調査が行われている(昭和三十三年八月,こうして、蜆塚に出来た出土品収蔵庫と陳列館の二つは浜松城の市立郷土博物館の蜆塚分館とされた。  ,伊場遺跡資料館はそのまま分館として存続、蜆塚分館は改装され別館体験実習室となった。  
いろはの「イ」:城北地区わが町文化誌 (浜松市立西部公民館『いろはの「イ」:城北地区わが町文化誌』 目次)

浜松高等工業学校 学生生活】 18 四、西部公民館ものがたり  20 五、思い出の演芸会 【復員 蜆塚青年会, 寺坂 【普済寺 西来院 付属小学校 市営バス 木炭自動車】 44 十二、発掘の思い出 【蜆塚,) 一、鹿谷商店街の移りかわり(近藤政雄さんの話) 【30年前と現在の商店名】 95 二、蜆塚,の移りかわり 【入野村 広沢小学校 昭和11年、32年、44年、58年の蜆塚】 99 三、池川(
浜松市史 一 (第三次発掘調査)

この第三次調査は、蜆塚遺跡の調査中最大の規模となり、地元の大学生・高校生・考古学同好者などの発掘参加、,(浜松市教育委員会『蜆塚遺跡』その第三次発掘調査)。
浜松市史 一 ([生産活動の変遷])

[生産活動の変遷] 蜆塚遺跡における生産活動と、その結果得られた食糧源の調理法や貯蔵法について、わかる,限りのことをまとめると以上のとおりであるが、前後一千年間とも推定される蜆塚遺跡の営まれた期間を通じて、
浜松市史 一 (石鏃篏入の猪骨 石鏃・骨鏃牙鏃)

これに関して蜆塚遺跡では大変珍しい資料が発見されている。,狩猟生活を知る手がかりとして蜆塚遺跡に残されていたものは、以上のものに限られるが、今日に伝わらなかった,第5図 蜆塚遺跡出土の狩の道具(矢じり)と石鏃の突きささった猪の骨(浜松市立郷土博物館蔵)
浜松市史 ニ (神明社)

はじめ紺屋町北裏袋町から蜆塚村宮山の岡之社へ遷座、そののち、高町(三組町)へ移ったのだという。
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