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浜松市史 四
([蜆塚遺跡の発掘])
[
蜆塚遺跡
の発掘] 【
蜆塚遺跡
】 第二章第九節第八項に記したように、昭和二十四年の伊場遺跡の発掘調査,さらに、当地方にはそれより千年以上も古い、縄文時代の後期から晩期(三千年から四千年前)にかけて営まれた
蜆塚遺跡
, 【後藤守一
蜆塚遺跡
調査団 『
蜆塚遺跡
その第一次発掘調査』】 昭和三十年になって、,浜松市は明治大学の後藤守一教授を団長とする
蜆塚遺跡
調査団に、遺跡の本格的な発掘調査を委嘱した。,昭和三十二年三月には、報告書として『
蜆塚遺跡
その第一次発掘調査』がまとめられ公刊された。 / [
蜆塚遺跡
の発掘]
浜松市史 一
(蜆塚遺跡保存会の結成)
蜆塚遺跡
保存会の結成 この試掘調査が直接の契機となって、
蜆塚遺跡
を正式に大きな規模で調査してみたいという,この動きは、昭和三十年(一九五五)四月に「
蜆塚遺跡
保存会」(会長内田六郎)の結成となって実現された。,を集め、これに静岡県出身の考古学の元老、後藤守一氏を招いて調査団が組織されたのであった(後藤守一編『
蜆塚遺跡
/
蜆塚遺跡
保存会の結成
浜松市史 一
(蜆塚遺跡の保存と活用)
蜆塚遺跡
の保存と活用 この
蜆塚遺跡
保存会による大規模な発掘を最後として、
蜆塚遺跡
は永久保存の方策がとられた,こうして
蜆塚遺跡
はしだいに学術公園として活用される方向に向かっているのである。 /
蜆塚遺跡
の保存と活用
浜松市史 一
([蜆塚遺跡の実年代])
[
蜆塚遺跡
の実年代] 土器による年代の物差しは、以上のとおりであるが、これはあくまでも相対的なものに,いま参考までに
蜆塚遺跡
の年代に関連する測定値を示すと、まず、蜆塚第一期と第二期の間に入ると考えられる千葉県姥山貝塚出土,この測定値を信頼するとすれば、
蜆塚遺跡
の実年代は、約四千年前から三千年前までの期間にわたっていたということになろう,第4図
蜆塚遺跡
出土の縄文土器(浜松市立郷土博物館蔵) 上段 第3期,中段左 第5期,中段右 第 / [
蜆塚遺跡
の実年代]
浜松市史 一
([蜆塚遺跡の年代の物差し])
[
蜆塚遺跡
の年代の物差し]
蜆塚遺跡
の生活を跡づけるためには、やはり最初に土器による年代の物差しを示 / [
蜆塚遺跡
の年代の物差し]
浜松市史 一
([蜆塚遺跡の終焉])
[
蜆塚遺跡
の終焉] いまからおよそ四千年前に蜆塚の地に定着し始め、ほぼ一千年にわたり存続した蜆塚人の,第三は、
蜆塚遺跡
第九期以後の遺跡として考えられる引佐郡細江町岡ノ平遺跡(第13図の③)は都田川流域に面,第15図
蜆塚遺跡
出土の縄文文化らしからぬ石器(浜松市立郷土博物館蔵) / [
蜆塚遺跡
の終焉]
浜松市史 一
(原始編)
) 一〇二
蜆塚遺跡
出土の狩の道具(矢じり)と石鏃の突きささった猪の骨(浜松市立郷土博物館蔵) ,一〇七
蜆塚遺跡
出土の漁撈の道具類(浜松市立郷土博物館蔵) 一〇九
蜆塚遺跡
発見の住居跡群と復原家屋群, 一一七
蜆塚遺跡
第1貝塚の貝層断面 一二〇
蜆塚遺跡
の,集落の構造とその変遷図 一二四
蜆塚遺跡
発見の埋葬人骨 ,一二七
蜆塚遺跡
出土の身体装飾品(浜松市立郷土博物館蔵) 一二九 浜松市内縄文時代遺跡の出土品(
浜松市史 一
(原始編)
とその時代 第一節
蜆塚遺跡
の研究史 八八 江戸時代 ,九六 土器による年代の物差し
蜆塚遺跡
の年代の物差し
蜆塚遺跡
の実年代 第三節, 自然環境 一〇三 海進と海退
蜆塚遺跡
の自然環境, 一三四 生活領域 物資の交流 地域圏 第九節
蜆塚遺跡
,の終焉 一四三
蜆塚遺跡
の終焉 西日本の晩期縄文文化 第四章
浜松市史 一
(若林勝邦氏の踏査)
若林勝邦氏の踏査 明治になって西欧の学問が取り入れられ、これを学んだ日本人の手によって、
蜆塚遺跡
はようやく,当時、東京理科大学(東京大学理学部の前身)の人類学教室にいた若林勝邦氏が、
蜆塚遺跡
を訪れてその時の事情,を、明治二十五年(一八九二)七月の『東京人類学会雑誌』に報じたのが、
蜆塚遺跡
を学問的に把えた記録の最初,その年の九月、若林氏は再び
蜆塚遺跡
を踏査して、その結果を『東京人類学会雑誌』第七十八号に報告している。,その中で若林氏は、貝層中に鹹水(かんすい)産の貝類が含まれている点を注意して、
蜆塚遺跡
の貝塚はかつて左鳴湖
浜松市史 一
(第四次発掘調査)
この調査をもって
蜆塚遺跡
保存会による発掘調査は、終了の予定になっていたので、四次にわたる調査成果の総まとめという,意味をもっていた(浜松市教育委員会『
蜆塚遺跡
』その第四次発掘調査)。,第2図
蜆塚遺跡
全景
浜松市史 一
([貯蔵法])
[貯蔵法]
蜆塚遺跡
においては、貯蔵施設として確かなものはない。,貯蔵施設として認めてよければ、蜆塚ではシカやイノシシが保存食糧になっていた証拠となろう(浜松市教育委員会『
蜆塚遺跡
,えることができたかどうかという点は、その社会における生活の安定性を示す重要な証拠となるわけであるが、
蜆塚遺跡
浜松市史 一
(土屋彦六氏の踏査 足立文太郎氏の踏査)
土屋彦六氏の踏査 足立文太郎氏の踏査 明治二十四年(一八九一)以降、土屋彦六氏も
蜆塚遺跡
を踏査していた,足立氏は、その時人骨を採集され、
蜆塚遺跡
には墓地もあることを主張して識者の注意を喚起したのである。,このように、明治時代になって
蜆塚遺跡
はようやく学界にその名を残すようになったのであるが、この時期の調査
浜松市史 一
(三方原台地)
三方原台地
蜆塚遺跡
の北から東にかけての地帯は、いうまでもなく広大な三方原台地であって、そこには原始林,
蜆塚遺跡
をめぐる自然環境は、大要以上のごとくであったと考えられる。
浜松市史 一
(第九期)
こうして、
蜆塚遺跡
の営まれた時代の中心は、縄文時代後期にあったことを知ることができる。 ,(表)第2表
蜆塚遺跡
の年代尺度
蜆塚遺跡
年代の大別 早期 前期 第一期 前半 中期 後半
浜松市史 一
(蜆塚第一期のころ)
蜆塚第一期のころ
蜆塚遺跡
の営まれた自然環境を考えるうえで、以上のような海進海退の現象を無視できない,の動きが乏しかったが、当時は東海地方における海進の絶頂期であったと考えられている(浜松市教育委員会『
蜆塚遺跡
浜松市史 三
(浜松土産)
浜松土産 【
蜆塚遺跡
】蜆塚(しじみづか)遺跡が明治二十二年七月の若林勝邦(東京理科大学人類学教室,二十四年の土屋彦六、二十八年の足立文太郎の調査によって学界の注目をひくようになったのもこの時代であった(『
蜆塚遺跡
発掘調査報告書
浜松市史 一
(佐鳴湖の存在)
佐鳴湖の存在
蜆塚遺跡
は、そうした佐鳴湖の存在を大いに考慮したうえで、選地されたものであろう。,
蜆塚遺跡
から西へ谷を下ると、七〇〇メートルで現在の佐鳴湖に達する。
浜松市史 一
(外海とのつながり)
外海とのつながり
蜆塚遺跡
は同時に外海にも近い位置を占めている。,
蜆塚遺跡
からそこまでの距離は二キロメートル以内に入っているのである。
浜松市史 一
(東日本の状態)
その代表的な遺跡は、いうまでもなく浜松市の
蜆塚遺跡
である。
蜆塚遺跡
については次章に述べる。
浜松市史 一
([狩猟])
蜆塚遺跡
の人々も、基本的には同じだったと思われる。以下それを詳しく述べることにしよう。 ,人間が生活を営むために必要なものを、自然に働きかけることによって獲得することを、広く生産と呼べば、
蜆塚遺跡
浜松市史 一
(戦後の状態)
蜆塚遺跡
もこうして、相つぐ考古学徒の来訪を受けたが、その動きは、正式な文献となっては現われなかった。,機関誌や地方誌の中に、踏査結果の報告が散見するにすぎない状態ではあったが、『静岡県史』以後忘れられた形の
蜆塚遺跡
浜松市史 一
(釣針の有無)
釣針の有無 ところで不思議なことに、
蜆塚遺跡
には釣針が発見されていない。,第6図
蜆塚遺跡
出土の漁撈の道具類(浜松市立郷土博物館蔵) 上段 もりまたはやす
浜松市史 一
(住居の広さ)
しかし
蜆塚遺跡
では周堤として確認されたものはなく、ただ柱穴列の外側にすぐ接して周堤の存在を示すような細,いま
蜆塚遺跡
発見の住居跡の大きさを示すために、四隅の柱穴を基準にしてその柱間を表示してみよう。,第7図
蜆塚遺跡
発見の住居跡群(上)と復原家屋群 (表)第4表 住居跡の大きさ
浜松市史 一
(地域圏の成立)
地域圏の成立 このように、
蜆塚遺跡
で使われた土器の特徴は、蜆塚だけに存在するものではなく、かなり広い,
蜆塚遺跡
を中心にその地域圏を示せば第14図のようになるだろう。
浜松市史 一
(墓地の配列)
ところで、これまで述べてきたような集落の構造は、
蜆塚遺跡
における生活の最後の日の姿を示すものである。,この時期の遺構はなにも発見されていないが、
蜆塚遺跡
での人間の活動は、まずこの時に始まった。,第9図
蜆塚遺跡
の集落の構造とその変遷 【前葉期】第三期から第五期にかけては、遺構の上ではいちじるしい,
蜆塚遺跡
の集落は、以上の五段階の変貌を遂げた。,この五段階は、第四節で指摘しておいた変化の過程と有機的に結びつくものであって、
蜆塚遺跡
における原始生活
浜松市史 一
(第三次発掘調査)
この第三次調査は、
蜆塚遺跡
の調査中最大の規模となり、地元の大学生・高校生・考古学同好者などの発掘参加、,(浜松市教育委員会『
蜆塚遺跡
』その第三次発掘調査)。
浜松市史 一
([生産活動の変遷])
[生産活動の変遷]
蜆塚遺跡
における生産活動と、その結果得られた食糧源の調理法や貯蔵法について、わかる,限りのことをまとめると以上のとおりであるが、前後一千年間とも推定される
蜆塚遺跡
の営まれた期間を通じて、
浜松市史 一
(石鏃篏入の猪骨 石鏃・骨鏃牙鏃)
これに関して
蜆塚遺跡
では大変珍しい資料が発見されている。,狩猟生活を知る手がかりとして
蜆塚遺跡
に残されていたものは、以上のものに限られるが、今日に伝わらなかった,第5図
蜆塚遺跡
出土の狩の道具(矢じり)と石鏃の突きささった猪の骨(浜松市立郷土博物館蔵)
浜松市史 一
(交換)
しかも、これは
蜆塚遺跡
に限られたことではなく、黒耀石にしても硬玉にしてもかなり広汎に分布することが知られている,なわれたのであろうが、その対象として身体装飾品のような直接生産手段に関係しないものが多く求められているのは、それだけ
蜆塚遺跡
浜松市史 一
(炉の位置)
縄文時代中期には、炉を石で囲んだり、土器を埋め込んだりする例が多いのであるが
蜆塚遺跡
には、そうした施設
浜松市史 一
(本山彦一の踏査)
本山彦一の踏査 大正四年(一九一五)、本山彦一氏は浜名湖沿岸を踏査して
蜆塚遺跡
にもたち寄り、たくさんの
浜松市史 一
(土器の型式 土器型式の編年)
蜆塚遺跡
の調査においては、まず最初年代の物差しを作る必要があった。,発掘調査の結果、この点に関しては
蜆塚遺跡
には僅少な資料も含めて整理すると九つの時期のあったことが明らかにされている
浜松市史 一
(犬歯抜除)
蜆塚遺跡
の例は大部分晩期であろうということは、すでに述べてきたところである。,また、抜除される歯の種類によって約三〇種の抜歯様式が知られているが、
蜆塚遺跡
例のように、犬歯だけを抜く
浜松市史 一
(第二貝塚)
第8図
蜆塚遺跡
第1貝塚の貝層断面
浜松市史 一
(総括篇の刊行)
があったのであるが、これらの成果や、調査結果についての報告は、年次別に刊行されたほか、総まとめとした研究篇は『
蜆塚遺跡
浜松市史 一
([身体装飾])
蜆塚遺跡
から発見された身体装飾品には、つぎのようなものがある。,第11図
蜆塚遺跡
出土の身体装飾品(浜松市立郷土博物館蔵)
浜松市史 一
(錘の利用法)
蜆塚遺跡
からは軽石が少量出土しているので浮子を作る材料であったとすることもできるが、浮子は、大体木か竹
浜松市史 一
(静大教育学部の試掘)
の試掘 昭和二十九年(一九五四)、静岡県文化財審議会専門委員の一行は、伊場遺跡の現場調査をかねて、
蜆塚遺跡
浜松市史 一
(第二次発掘調査)
夏期の調査で一部未確認のところが残ったので、同年十二月に第二次調査の補掘を行なっている(後藤守一編『
蜆塚遺跡
浜松市史 一
(第一期)
第一期 〔第一期〕たった数片の小さい土器片によって、
蜆塚遺跡
へ人間がたち寄った最初の時期をつかむことができる
浜松市史 一
(第六期 蜆塚Ⅱ式土器)
この土器も
蜆塚遺跡
で顕著に知られるにいたったので、蜆塚式(Ⅱ式)と呼ばれることがある(第3図61~65
浜松市史 一
(第一次発掘調査)
に石鏃が突きささったものと、透輝石製の大珠が発見されたことは、特筆してよいものであった(後藤守一編『
蜆塚遺跡
浜松市史 一
([寿命])
『
蜆塚遺跡
』の学術報告書の記載にしたがって表にしてみよう。
浜松市史 一
([生活領域])
前節までは蜆塚人の生活内容を項目別にみてきたわけであるが、そこで述べた内容の基本的な面は、とくに
蜆塚遺跡
浜松市史 一
(原野と谷)
【彦尾谷】
蜆塚遺跡
は厚い貝層をもつ縄文時代の集落跡であるが、こうした谷の一つである彦尾谷の谷頭付近に位置
浜松市史 一
(第七期)
第3図
蜆塚遺跡
出土の土器による時期区分 11~14 第1期 21~29 第2期 31~34 第
浜松市史 一
(第二期から第七期のころ)
海水が若干加わるような条件の下で、ヤマトシジミやハマグリ、それにアサリなどが育ちやすいのであるから、
蜆塚遺跡
浜松市史 一
(鳥類の骨 獣類の骨)
鳥類の骨 獣類の骨
蜆塚遺跡
から発見された鳥獣の種類には、つぎのようなものがある。
浜松市史 一
(住居の平面形)
住居の平面形 柱穴の配列をみると、
蜆塚遺跡
ではほとんど長方形に並んでいる。
浜松市史 一
(上屋の構造)
現在
蜆塚遺跡
には、後藤守一氏の設計によって、切妻式で妻入りの天地根元造りの復原家屋が建てられている。
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