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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 一 (見付の国府)

見付の国府 安貞(あんてい)元年(一二二七)七月、隆寛は浄土宗を布教した罪を問われて流罪(るざい)となり,また阿仏尼は、訴訟のため鎌倉に下る途中で遠江見付の国府について、その景観を「里あれて物おそろし」と表現 / 見付の国府
浜松市史 一 (遠江守護所)

遠江守護所 【見付 堀越氏】今川範国入道心省は、遠江守護所を見付(磐田市)においたろう。,『駿河志料』によると、心省は見付の定光寺に葬られたとあり、見付字権現には「今川様」という一基の古い墓がある,了俊も見付に鎮したという(『東国紀行』)。見付の端城(破城)すなわち見付城には、のち堀越氏が住む。
浜松市史 一 (徳川氏の烽火制)

【三ヶ野坂 一言坂】徳川家康は武田の兵が駿河に侵入したときに、小夜中山・掛川西の山の上・見付東三ヶ野坂上,・同西一言坂上に一か所ずつ烽火をあげさせて、浜松城に急報させる制度を定めた(延宝弐年寅ノ七月付、遠州見付町問屋太郎兵衛等連署見付町田畑定納由緒書上控
浜松市史 ニ ([家康の防戦])

偵察隊は見付(磐田市)の台から袋井方面の降り口につく。このあたりで武田軍の攻撃をうけた。,【一言坂の戦】武田軍は近路(ちかみち)をとり、見付の西の降口(くだりぐち)にあたる一言坂(ひとことざか,)(見付から約一キロ)で家康の本隊に追いつき、後方をたちきろうとする。
浜松市史 ニ (二俣城を包囲)

二俣城を包囲 信玄は見付の台から北に向かい、匂坂(さぎさか)(見付の北方約四キロ)を攻略し、合代島(,ごうだいじま)(見付の北方約一五キロ)に陣して二俣城(合代島の西方約七キロ)を囲む態勢をとる。
浜松市史 一 (中世の都市)

【見付】遠江見付府(磐田市)でも今川の朱印状に町人百姓とある(『大久保文書』)。
浜松市史 ニ (信玄の計画)

信玄の計画 このときに信玄の将秋山信友は、信濃伊奈(いな)から天竜川を南下して見付(磐田市)に陣し、,見付は東海道の宿駅であり、引馬と懸川を遮断する中間地であるから、これは駿遠分割の契約にもそむき、家康を
浜松市史 ニ (浜松築城の意図)

浜松築城の意図 これよりさき、家康は遠江見付(国衙)に新城をきずきはじめたが、それを中止した。,見付では敵の攻撃をうけたときに、信長方からの援助をうけるのに不便だとの信長の意見にしたがったと『当代記
浜松市史 一 (町の自治権)

町の自治権 【見付町のばあい】中世の町では、市民(町衆)の経済上の実力におされて、大名などは自治権を,遠江見付町(磐田市)は、堀越氏延が城主であった。,見付では江戸時代でも自治の権利が認められていた。    
浜松市史 一 (問題の所在)

そして湖南から見付の国府を経て初倉にいたる路線を考え、ここに『県史』のごとくに浜松・見付・掛川の地に三駅,前述のように多少の難があり、また、栗原駅を篠原村付近に、引摩の地を浜松辺に求めるならば、国府(磐田市見付
浜松市史 ニ (渡辺崋山とその影響)

なおこのころ見付(磐田市)には三宅鴨渓(みやけおうけい)が活躍している。  ,【半香】半香(はんこう)(一八〇四-一八六四)は文化元年七月二日、見付に生まれ、名を恭三郎、初期の号を,いま磐田市見付の大見寺境内に石川鴻斎撰文の「半香福田翁の碑」がある。
浜松市史 ニ (本坂道)

【道筋 安間新田】姫街道の江戸時代の道筋は、東海道五十三次の遠江見付宿から三河御油宿にいたるもので、見付宿
浜松市史 ニ (霊祭と歌会)

国学者追悼祭その他一覧表 開催期日 名称 開催場所 出席者数 享和元年11月27.8日 真渕33年祭 見付鈴木本陣宅,浜松梅谷本陣宅   文政元年9月20日 真渕50年祭 〃 54名 文政6年9月20日 一神六霊祭 見付鈴木本陣宅
浜松市史 一 (市場)

【見付の米屋弥九郎】遠江見付国府(磐田市)の米屋弥九郎は、新酒屋を二軒経営していたが、見付城の塀・柱などの
浜松市史 ニ (市野宿の衰退)

道中奉行宛に差出した文書(市野村旧本陣『斎藤文書』)によると、市野村は「東海道浜松宿最寄、本坂往還、気賀・見付宿前後四里宛之場所,そのため浜松宿・見付宿と市野宿との間に紛争のあったことは『斎藤文書』がその消息を伝えているし、浜松宿が
浜松市史 一 (東海道本道)

)・同上辺(浜名橋)・浜松浦(当市西南部)・引馬宿(当市東北部)・池田宿(当市中野町付近)・天竜河・見付
浜松市史 ニ (【畳師】)

来候而弟子入等仕候故者、在中ニ而細工仕候儀は相構不申候」とあり、さらに「若在中ニ而他も売物等出来候は、見付次第取置
浜松市史 ニ (氏真堀越氏延を殺す)

氏真の一族遠江見付城(磐田市)の堀越氏延がそむいたので、氏真は小原鎮実(しげざね)に攻撃させてこれを殺
浜松市史 ニ (伝馬の定)

伝馬の定 「  御定目之写     御伝馬之定  一三拾六疋ニ相定候事  一上口ハ舞坂江、下ハ見付迄之事
浜松市史 ニ (川留と川明)

しかし大雨が降りつづくと天竜川は増水し、川幅一ぱいが急流となり船渡しは中止となり、旅人は浜松や見付の宿,る、且 御朱印御証文御状箱御用物等継送候節川留有之候得は、上り之分池田村川会所江留置村方より番人付置見付宿
浜松市史 三 (小学校令 高等小学校)

ここにおいて県は高等小学校の設立位置はほぼ二郡につき一校と定め、県内十二か所(遠江では浜松・掛川・見付
浜松市史 一 (都市のなりたち)

、港津関係の大津(大津市)・博多(福岡市)・堺(堺市)・兵庫(神戸市)など、宿駅関係の遠江引馬宿・同見付宿
浜松市史 ニ (鴨渓)

安政四年没、のち林鶴梁(時の中泉代官)撰文の頌徳碑が見付の金剛寺境内に建てられた。
浜松市史 ニ (西上京都へ)

桑原真清・加茂主税(備後の弟)・鈴木覚之助(小国神社神主)・大久保初太郎(見付淡海国玉神社神主大久保忠尚
浜松市史 三 (浜松陸運会社)

このとき浜松付近では見付・袋井・掛川などにも分社がおかれ、取次所が白須賀・新居・舞坂・三ケ日・気賀などにおかれている
浜松市史 ニ (以弘追慕書画会)

記録によると主催者は以弘の子助弥で、そのほかに掛川駅・見付駅・中泉のほか浜松駅・馬郡邑・羽鳥村・恒武村
浜松市史 ニ (戦勝祈願)

川東組も見付の淡海国玉(おうみくにたま)神社大久保忠尚宅を屯所として集結し、隊員はつぎつぎと出発した。
浜松市史 一 (枡)

【見付の枡座】徳川家康は永禄十一年遠州に進むと、見付の問屋衆十二人に枡座を結成させ、判をついた枡を遠江
浜松市史 一 (伝馬の制度)

【見付の米屋弥九郎】遠江見付(磐田市)の米屋弥九郎は、宿屋で問屋を経営しており、徳川家康は、彼らの営業上
浜松市史 一 (遠江守護所)

富士川合戦で敗退した平維盛は、千騎を越える兵力をもち、いまの磐田市見付にあたる遠江国府で援軍を待った。
浜松市史 ニ (問屋場)

所 宿立人馬 100人100疋 郷倉 なし 町数 24町 舞坂宿へ 2里30町 京へ 60里19町 見付宿
浜松市史 ニ (姫街道の通行停止)

御役難勤渡世経営不罷成迷惑」のことで、宝永六年三月には浜松宿をはじめ舞坂・新居・白須賀・二川・吉田の六宿よりの「見付宿
浜松市史 ニ (浜松城の築城)

浜松城の築城 【家康】家康ははじめ遠江国見付に築城しようとしたが織田信長の諫めによって中止したという
浜松市史 一 (勝間田成長御家人の資格を失う)

また慶安元年(一六四八)の徳川家光の寺領寄進朱印状写(『蓮光寺文書』)には「遠江国磐田郡見付内蓮光寺阿弥陀寺領
浜松市史 ニ (蒼山)

文久二年、京都に摩訶庵を結んだが翌三年、見付(磐田市)の烏谷門人らの招きに応じて庵を見付に移した。
浜松市史 一 (引摩駅)

浜松の引馬宿に充てたから、この駅を流布本によって□摩駅として考え、『倭名抄』の磐田郡駅家郷にあたり、見付
浜松市史 三 (始審裁判所)

そして、その下に十二出張所(二俣・雄踏・新居・笠井・小野口・気賀・伊平・見付・袋井・龍川・山香・奥山)
浜松市史 ニ (文晁門人)

文晁門人 【月湖 蘭陵 鴨渓 弘道 文明】つぎに文晁の門人についてしるすと、掛川の大庭月湖・山田蘭陵、見付
浜松市史 三 (郵便取扱所)

浜松と同じ三月一日に創設された取扱所には、白須賀・荒井・見付・袋井などがあり、すこしおくれて舞坂・中泉
浜松市史 三 (総選挙)

したが新人のため落選)・県忍(あがたしのぶ)(中立、高柳覚太郎らの萩の会が支持、明治元年十一月生、磐田郡見付町住
浜松市史 一 (佐浜泥層)

【伊左地 大人見】また伊左地や大人見付近では多くの貝化石を採集することができる。
浜松市史 一 (国司の赴任)

とにかく国司に任命されれば、任国遠江にはかならず下向していたと認められるから、国府があった磐田(いわた)市見付
浜松市史 ニ (従軍を請願)

とこれらを見付の大久保忠尚に通報している(『山本大隅日記』)。
浜松市史 四 ([休止路線とその復旧])

昭和二十年末には見付─磐田駅間、掛塚─磐田駅間が再開されたのをはじめ、翌年には浜松─河輪間や中遠地方、
浜松市史 ニ (印西派)

上村清兵衛父子】印西派は吉田与左衛門重保(日置流印西派家元吉田久米之助宗重の次男、諱如玄)の教えをうけた見付
浜松市史 三 (オリンピック出場 世界新記録)

当市成子町出身、浜中―東大)、コーチ野田一雄・片山兼吉(浜一中―明大)・宮崎康二(浜一中)・牧野正蔵(見付中
浜松市史 一 (実暁記)

つけのこう 佐夜の中山 日坂 大井川 言継卿記 弘治2年 (1556) 山科言継 引馬 引馬川 天竜川 見付,国府 富士見道記 永禄10年 (1567) 紹巴 塩見坂 白菅 浜名橋あと 今切の渡り 引間 天竜川 見付
浜松市史 一 (安政の被害)

見付宿では裏通りに潰家多く、死者七人を出している。
浜松市史 三 ([その他の工場])

三十八年には見付煙草製造所の浜松分工場となっている(須知善一『遠江煙草株式会社』)。
浜松市史 三 (その他の路線)

この他に「黄バス」と呼ばれて浜松・中ノ町間を往復する遠州乗合自動車株式会社(昭和十一年創立、本社磐田郡見付町
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