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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 ニ (名残追分新田)

名残追分新田 【台地新田】名残追分新田 三方原台地上の新田で、犀が崖に近く今日両追分と呼んでいるところに / 名残追分新田
浜松市史 三 (小村の合併)

【大山村 協和村 人見村 和合村 両追分村 都盛村 有玉村 都田村 三新村】また諸制度が改められるにつれ,上田村合併)・人見村(大人見・古人見村合併)・和合村(馬生・馬船・寸田ケ谷・富新屋・不遣村合併)・両追分村,(西追分・東追分村合併)・都盛村(頭陀寺・参野・恩地・石原・本郷・西恩地・安松・弥十村合併)・有玉村(,西鴨江村 馬生村 馬船村 寸田ヶ谷村 和合村 富新屋村 不遣村 富塚村 小薮村 富塚村 西追分村, 東追分村 両追分村 長上郡 宮竹村 宮竹新屋村 宮竹村 頭陀寺村 参野村 恩地村 都盛村 石原村
浜松市史 三 (富塚村)

馬船村・寸田ヶ谷村・富新屋村・不遣村の五か村が合併して成立)・和地山(村名を公称としたのは明治以後)・両追分,(西追分村・東追分村の二か村が合併して成立)・浜松沢(沢村と称した)の五か村を大字として自治村となった,四十一年十二月二十八日浜名郡吉野村大字段子川を編入したが、大正元年十月一日大字の両追分(地積三三町歩、
浜松市史 ニ (天保期の一里塚)

は榎、南側は松 【舞坂】舞坂宿入口  南北とも松  浜松宿から本坂通り気賀までの間に三か所 【追分,】追分村地内  木立は松  祝田村・大山村地内  左の塚は榎で大山村地内、右の塚には立木がなく、祝田村地内,〃 70里 元町477 宅地となる 姫街道 小池 一里塚 65里 小池一里山1952 一里山135 追分,〃 66里 三方原築山現存 追分円塚現存 東大山 〃 67里 三方原大窪現存 和地村東大山現存 老ヶ
浜松市史 四 ([三十六メートル道路の驚き])

特に伝馬池川線は、伝馬─連尺間が国道一号線と重複する路線であるとともに、元城町で東田町追分線と交差する,交差する東田町追分線は幅員二十五メートルが計画されており、市役所周辺は、浜松駅周辺を商業中心地とすれば,  【市役所前大通りの完成】  昭和二十六年秋には、伝馬池川線と東田町追分線沿線の家屋の,移転がほぼ終わり、拡幅・整地工事の後、東田町追分線(千二百二十七メートル)は二十八年度から三十年度までの
浜松市史 ニ (現存の一里塚)

浜松宿近郷の一里塚で、現在昔の俤をとどめているのは姫街道の市野から三方原台地に登り、追分に近い道側に一基,追分一 里塚(浜松市葵町)
浜松市史 ニ (二筋の姫街道)

がくだるにつれ、見付宿から東海道を西進し、浜松宿大手門前で東海道と岐れ、さらに高町・名残町を経て、三方原の追分,現に安政三年の絵図には、浜松宿を経て追分にいたる道を姫街道、安間から市野を経て追分までを市野道と記してある
浜松市史 三 (塵芥焼却場)

しかるに昭和二年五月市から新しく委託を受けた浜松ダスト会社(昭和二年追分町設立)が龍禅寺町内の水田八百坪,【追分町 犀が崖】しかし地価と市街地からの距離との二点で問題があり、ようやく最初から数えると五転して決定,をみたのは追分町(現在布橋一丁目)の犀(さい)が崖(がけ)であった。,しかし、ここでも名残・追分の両町は焼却に反対し埋立を可としたのに対し、上池川・下池川の両町は埋立に反対
浜松市史 三 (貧困児童の増加 学校給食 中退者増加 職業指導)

百五十五名(元城小一〇、南小二〇、西小一二、東小二二、県居小二七、相生小一一、北小一二、龍禅寺小八、追分小二三,学校給食の必要が説かれ県より研究校として指定された追分小学校(第二附属小学校)が、本県最初の学校給食を,【研究会】職業指導が説かれ県の委託校として追分小学校は昭和三年六月と八年十月の両度にわたり職業指導研究会
浜松市史 四 (臨時無料診療所 戦災援護会)

ただし、その期間は十二月五日から十九日までの半月間であり、施療場所は追分国民学校である。,昭和二十年三月の東京大空襲後、四月十七日に天皇下賜金一千万円が交付されたからで、戦後に継承され、右の追分国民学校
浜松市史 四 ([学校図書館の設置])

このようななか、県教育委員会は昭和二十三年に追分小学校と磐田北小・横須賀小・飯田小(周智郡)の四校を児童読物指導,追分小学校は特に学級文庫に関する研究に取り組んだが、肝心の図書は児童一人当たり毎月十円の図書費を徴収することや,そして同年十一月八日には追分小学校において四校合同の読物指導研究発表会を開催した。,追分小学校は長期にわたる研究成果を『学校図書館図書分類簿』、『図書教育の諸問題』、『学校図書館運営の実際
浜松市史 ニ (新田の種類)

新田の種類 寛政期(『遠江国風土記伝』による)における浜松周辺の新田をあげると、十軒新田・名残追分新田,【台地新田 湖沿新田】第三に三方原上の台地新田として名残追分新田があり第四に浜名湖岸に佐浜新田などがある
浜松市史 四 ([生活必需物資の輸送を開始])

、市内バス運行再開への期待が高まり、二十年十二月十五日からとりあえず従来からの西廻線を二線に分割して追分町線,(浜松駅─元浜町─追分町間)、亀山町線(浜松駅─鴨江町─亀山町間)の折り返し運転を再開した。  
浜松市史 三 (凧揚組の増加)

和地山時代】和地山練兵場は浜松が初めて得た本格的な凧揚げ広場で、このころになると砂山・寺島・鴨江・中山・追分
浜松市史 四 ([道路延長の急伸と街路計画の進展])

5 旭伊場線 旭・西伊場 27 Ⅱ. 1. 9 和合富塚線 和合・富塚 20 Ⅰ. 3. 6 東田町追分線,東田町・追分 25 Ⅱ. 1.10 曳馬住吉線 曳馬・住吉 20 Ⅰ. 3. 7 八幡三方原線 八幡,3.12 鴨江和合線 鴨江・和合 25 Ⅱ. 1.16 上島市野線 上島・長上 20 Ⅰ. 3.13 追分富塚線,追分・富塚 25 Ⅱ. 1.17 白羽大柳線 白羽地内 20 Ⅰ. 3.14 助信住吉線 助信・住吉
浜松市史 四 ([戦災による移転と学校再開])

終戦後の九月、追分町にあった旧千葉防空学校浜松分教場(現在地)の建物すべてを使用することが許可されたのでここで,ただ、授業は施設の関係からここだけでなく、興誠航空工業学校(二十年十一月から興誠中学校に改称)や追分国民学校
浜松市史 三 (教育費の増加)

21 1,288 1,151 137 24 北 大正11年 野口町 12 718 718 0 14 追分,〃12年 追分町 6 411 411 0 7 龍禅寺 〃13年 龍禅寺町 6 422 422 0 6
浜松市史 三 (時局教育 浜師時習寮 大久保教育)

これに倣い附属小学校は「寺子屋教育」の精神を説き、第二附属追分小学校は「皇運扶翼の修身教育」を提唱した,784 大11 浜松市龍禅寺国民学校 龍禅寺町 30 27 1,754 883 871 大14 浜松市追分国民学校,追分町 20 18 1,096 563 533 大12 浜松市佐藤国民学校 佐藤町 19 17 933
浜松市史 五 ([文集の発行])

曳馬尋常高等小学校では大正期から太平洋戦争が始まる昭和十六年まで文集の『夕やけ』をガリ版印刷で発行、追分尋常小学校,では昭和初期から昭和十年代半ばまで活版印刷で文集の『追分の友』を、白脇尋常高等小学校でも大正期から昭和初期
浜松市史 ニ (信玄の進軍)

にでて南下して有玉(ありたま)にむかい、大菩薩(だいぼさつ)(当市有玉西町)から三方原の台地にあがり、追分
浜松市史 三 (大字制度 新町名)

通称伊場西)・森田町(もりたちょう)(大字伊場のうちの森田)・広沢町(ひろさわちょう)(大字浜松沢の改称)・追分町,(おいわけちょう)(大字両追分の改称)・亀山町(かめやまちょう)(大字元名残の改称)・元浜町(もとはまちょう,なかざわまち 町をつける 中沢 野口の一部 上池川町 かみいけがわまち 〃 上池川 名残・高林・両追分,おいわけちょう 改称 両追分 一部を上池川・和地山の各町へ編入 広沢町 ひろさわちょう 〃 浜松沢,和地山町 わじやまちょう 町をつける 和地山 両追分・和合の各一部 和合 和地山町へ編入 伝馬町
浜松市史 ニ (名前帳提出)

、稽古所  入野村永福寺   竹村田三郎 藤谷嘉兵衛 重三郎  宇布見  西鴨江 入野 富塚 西追分, 東追分 富新屋 馬生 小籔 寸田ヶ谷 馬 船    重立三人 農兵三拾九人   四、稽古所  
浜松市史 五 ([幼稚園])

都市化の進んだ地区へ進出する園もあり、昭和五十二年に天王幼稚園(天王町)、篠ケ瀬幼稚園(篠ケ瀬町)、追分幼稚園,追分・佐鳴台を除いて、ほかは市立幼稚園が存在する地域であった。
浜松市史 四 ([千葉陸軍高射学校浜松分教所])

先発隊は設営のため早速派遣され、八月初旬に移動した隊のことは、敵の艦載機の攻撃を避けて午後に部隊のあった追分町
浜松市史 四 ([暴力団の取り締まり])

この時、捜索を受けたのは相生町・追分町・大工町、浜名郡積志村・北浜村などの親分や幹部たち十六名であった
浜松市史 三 (蒲村)

(表)町村合併表 順位 合併年月日 町村名 大字名 1 大正元.10.1 富塚村のうち 両追分 和地山
浜松市史 三 (罹災学校)

× 廃校  ● 全焼 ×● 元城校 6.18空襲で全焼,7.1分散授業開始(追分校,元百十三部隊へ移転した ● 浜松高女 6.18記念館を残して全焼,休学として焼跡整理,9.11授業再開(追分校,466  相生 23  18  838  北 19  5  144  龍禅寺 19  12  619  追分
浜松市史 五 ([住居表示の実施])

次いで西伊場町と南伊場町が同四十一年二月一日に、四番目は同年五月一日に上池川・追分・名残(一部)の三町,上池川町は城北一・二丁目、布橋一丁目、和地山一丁目に、追分町は布橋一・二丁目、城北二・三丁目に、名残町,この住居表示により古くから親しまれた追分・上池川・名残(一部)の町名が消えた。
浜松市史 ニ (本坂道)

から三河御油宿にいたるもので、見付宿から天竜川を渡り安間新田(当市安間町)で東海道と岐れ、三方原へ上り追分
浜松市史 四 ([賭博の流行])

昭和二十一年九月六日浜松署員は追分町某宅倉庫に踏み込み、花札賭博を開帳中の八名を現行犯で検挙した。
浜松市史 三 (浜松師範の郷土教育)

なお、浜松附属小学校では郷土教育資料附属叢書を、また第二附属小学校では『追分の友郷土綴方号』を刊行している
浜松市史 三 (学区制)

古人見村   155番 358 大人見村  19小区 稲垣伝八郎   156番 638 西追分村, 東追分村 馬生村 馬船村 段子川村 不遣村 寸田ヶ谷村 富新屋村 横田保   157番 500 富塚村,志都呂村  20小区 間宮鉄次郎   162番 680 和地山 横田保   163番 651 東追分,  164番 679 西追分 三方原   165番 610 三方原   166番 665 大凹
浜松市史 三 (青年学校 浜松の青年学校)

十四年三月から男子は義務制となり、浜松市では十九年八月になると浜松元城・西・北・追分・富塚の五青年学校,220 市立八幡青年学校 野口町 12 8 269 市立高砂青年学校 龍禅寺町 9 5 190 市立追分青年学校,追分町 11 6 179 市立高工青年学校 広沢町 16 4 68 私立東洋紡績青年学校 東伊場町
浜松市史 三 (浜松市役所 機構)

224 中山町 291 三組町 402 高町 325 松城町 321 亀山町 281 名残町 536 追分町,1750 新津 助信 高林 池川 和地山本 島之郷 十軒新田 細島新田 早出 上島 一本杉 和地山 追分
浜松市史 三 (道路網計画)

停車場通り 792  〃3.4年 792  連尺・和地山 2,376  〃4.5年 3,420  追分
浜松市史 三 (第四回 市議員選)

元魚・塩・伊場・東鴨江・菅原) 第四区 定員三名(元城・上池川・下池川・浜松沢・松城・三組・和地山・両追分
浜松市史 三 (日赤浜松病院 遠州病院 聖隷保養農園)

年 市立浜松病院 鴨江町 大正4年 浜松市実費診療所 鴨江町 大正13年 浜松陸軍病院(衛戍病院) 追分町
浜松市史 四 (静岡銀行)

これより先の昭和二十六年十一月には木戸町に東支店を、同二十七年十月には追分町に追分支店を開設するなど業績
浜松市史 四 ([都市計画道路の舗装と国道の改良])

都市計画道路の舗装と国道の改良] 【道路の舗装】  都市計画道路のうち市役所の南を東西に通る東田町追分線,保安隊から自衛隊と名前が変わった同年七月からは同じ東田町追分線や伝馬池川線、飛行学校線(和合町から自衛隊正門
浜松市史 四 ([金融機関の拡充])

二十六年には東支店、二十七年には追分支店、二十八年には駅南支店、二十九年には西ケ崎支店、三十年には鷲津支店,静岡銀行名残支店 名古屋相互銀行浜松支店 浜松信用金庫東支店 静岡銀行砂山支店 日本相互銀行浜松支店 浜松信用金庫追分支店
浜松市史 五 (特殊学級)

昭和三十年代に入ると、八幡中学校、北部中学校、南小学校、追分小学校、佐藤小学校、東部中学校などに開設された
浜松市史 四 ([市内線の運行拡大])

これらの学校へ通う生徒や学生が利用するため追分町線は毎回乗客を収容できなくなり、昭和二十一年十月六日から
浜松市史 三 (開拓着手)

そして追分をもって初杭としてそれから北へ一丁目ごとに、三十六丁目までの杭打をした。
浜松市史 四 (浜松商店界連盟)

鍛冶町・板屋町・鴨江町・砂山町・常盤町・名残町・追分町・旅籠町・田町・肴町・千歳町 ・連尺町・高町・伝馬町
浜松市史 ニ (市野宿の衰退)

天保十四年(一八四三)にあり、市野宿が潰れたのちは「本坂筋も浜松より気賀江御通行ニ相成、安間村より三方原追分迄者潰往還
浜松市史 三 (借家建築)

【平民長屋】林の割渡しを受けた追分に全部で五棟、このほか都田通一丁目には桁行十間梁間三間の四軒長屋が四棟
浜松市史 四 ([学校の校地])

昭和二十年度新入生の入学式を行い、次いで同十七日から授業が開始されたが、校舎が足りず、興誠中学校及び追分国民学校
浜松市史 三 (入植の困難)

このとき気賀林は、この長家を気賀往還筋に「五十棟追分西」「五十棟壱里塚西」へ建築されたい、と浜松調所へ
浜松市史 ニ (浜松の主要交通路)

浜松追手御高札場より当所名残新田札木まで拾六丁三拾壱間、名残新田札木より小豆餅と申所迄弐拾五町二十間、小豆餅より追分三辻,まで拾弐丁四十間、追分より大谷と申所迄三十弐丁十間、大谷より気賀御番所まで三十丁三十間  右之道法、
浜松市史 三 (最初の夜間空襲)

夜間攻撃で全焼二百四十三戸、死者二人、二十五日は広沢町・中沢町方面に、二十九日は海老塚町・浅田町・砂山町・追分町
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