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浜松市史 三
(連合義勇隊)
連合
義勇隊 六月十八日の浜松空襲にあたり、隣接の浜名・引佐・磐田三郡の
連合
義勇隊は浜松市当局と連絡し /
連合
義勇隊
浜松市史 三
(各町消防組 連合消防組)
各町消防組
連合
消防組 【七年十月】しかるに明治七年の小野組大火によって、各町は消防組設置の必要を感,明治十五年には天神町・神明町・池町・平田町・板屋町・早馬町・鍛冶町の七組を加え二十一組となって、浜松
連合
消防同盟規約,を定め、各組の和親・仲裁規定・傷疾見舞・死亡祭祀料・家族扶助料の制を設け、毎年一月五日
連合
消防組出初式 / 各町消防組
連合
消防組
浜松市史 三
(連合凧揚会 屋台の出現)
連合
凧揚会 屋台の出現 【統監部】しかし凧の数が多くなると(天神町の伊藤嘉七、伝馬町の桑原安太郎、板屋町,千歳の小名木延次郎は凧揚げの名人といわれた)自ら統制も必要になり、相互の連絡のため大正三年には浜松市
連合
凧揚会,が、また五年には統監部(初代部長殿岡勝蔵、浜松市
連合
凧揚会本部の前身)も結成された。 /
連合
凧揚会 屋台の出現
浜松市史 三
(連合制の発達 浜松宿二十六か町村連合会 地方自治制の出発 浜松宿議会)
連合
制の発達 浜松宿二十六か町村
連合
会 地方自治制の出発 浜松宿議会 明治十二年三月町村会規則が定められ,、町村に町村会・町村
連合
会が設けられた。,浜松地方では浜松宿二十六か町村
連合
会が結成され、十二年六月に選挙が行なわれたが選挙手続に誤りがあったので,ついで明治十四年十二月に三郡
連合
町村会が敷知・長上・浜名郡下に設けられた。 ,浜松宿二十六か町村
連合
会議員 明治13年改選 明治12年選挙 議員名 選挙区 議員名 若森又次郎 /
連合
制の発達 浜松宿二十六か町村
連合
会 地方自治制の出発 浜松宿議会
浜松市史 四
([連合国軍への対応の変化])
[
連合
国軍への対応の変化] 【進駐軍 浜松銀行集会所 不法将兵】 名古屋を中心に各地に収容されていた,
連合
国軍の捕虜二千数百名(数は報道により大きな違いがある。),
連合
軍の静岡県への進駐第一陣は昭和二十年九月十日、駿東郡富士岡村の旧陸軍部隊跡に入った。,内容は「自動車ハ
連合
軍自動車ヲ追抜カナイコト」、「濫リニ
連合
軍将兵又ハ自動車等ニ接近シタリ或ハ物珍シゲニ,ただ、
連合
軍兵士の浜松進駐は十一月六日になって中止され、磐田町に進駐した。 / [
連合
国軍への対応の変化]
浜松市史 四
([浜松での労働組合と連合組織の形成])
[浜松での労働組合と
連合
組織の形成] 【遠州地方労働組合会議 静岡県労働組合協議会 労働組合総同盟静岡県
連合
会,このようななか、県内でも労働組合の
連合
体をつくる運動が活発となった。,昭和二十一年二月には浜松地方労働組合代表者会議が開かれ、
連合
組織をいかにするかが話し合われた。,そして、同月二十五日に浜松銀行集会所において遠州地方労働組合
連合
会が結成された。,県労協の発足に続いて昭和二十一年五月には労働組合総同盟静岡県
連合
会が結成された。 / [浜松での労働組合と
連合
組織の形成]
浜松市史 三
(連合制の不便 浜松宿各町村分離願)
連合
制の不便 浜松宿各町村分離願 しかし、当時浜松宿の行政は郡区改正草創の際であって宿行政統一の実を,ハ古来各町村独立致居リ各々名主或ハ庄屋年寄等ヲ置キ、町村限リ事務取扱(中略)、百般ノ事総テ他ノ町村ト
連合
/
連合
制の不便 浜松宿各町村分離願
浜松市史 三
(浜松青年同志会 青年会より青年団へ 浜松市連合青年団)
浜松青年同志会 青年会より青年団へ 浜松市
連合
青年団 浜松の青年運動も、上述と同じような経過をたどって,十二年十二月には規則を改正して浜松市
連合
青年団と称し部は廃した。 / 浜松青年同志会 青年会より青年団へ 浜松市
連合
青年団
浜松市史 五
(労働運動の再編)
労働運動の再編 【
連合
全労連】 昭和六十年代から平成初年にかけて、労働戦線の全国的な再編成が大,(全日本民間労働組合
連合
会)が発足した。,これを受けて、平成元年十一月二十一日に日本労働組合総
連合
会(
連合
)の結成大会が開かれた。,平成元年十二月には
連合
静岡(日本労働組合総
連合
会静岡県
連合
会)が結成され、翌年にはこれらの支部とも言うべき,が平成元年に反
連合
系の全労連に加盟すると、
連合
系の職員は平成二年六月に浜松市職員労働組合を結成した(『
浜松市史 五
([労働運動の模索])
[労働運動の模索] 【JMIU河合
連合
支部】 戦後間もなく発足した河合楽器製作所の労働組合は昭和三十年,全国金属労働組合が
連合
に加盟すると、平成元年九月、全国金属河合
連合
支部は全国金属を脱退し、
連合
に批判的,となった(『河合
連合
支部結成30周年記念誌 歩み』平成三年刊)。,全金同盟河合楽器労働組合は
連合
系のゼンキン
連合
カワイ労働組合となった。 ,JMIU河合
連合
支部の人たちは同年四月、「音楽の街浜松からカワイをなくすな!
浜松市史 三
(同業組合)
太物】西遠太物業組合 長上郡笠井町に二十五年九月に、長上・敷知・浜名の三郡と豊田・麁玉の二郡の一部が
連合
地域,【藍】西遠藍業組合 長上郡天王村下石田に二十二年六月に、長上・敷知・浜名の三郡が
連合
地域。 ,【酒】西遠酒造組合 敷知郡浜松町成子に二十年一月に、長上・敷知・浜名の三郡が
連合
地域。 ,【米】米作同業組合 浜松町高に二十四年四月に、長上・敷知・浜名の三郡が
連合
地域。
浜松市史 四
([凧揚げ祭の復活])
[凧揚げ祭の復活] 【浜松市
連合
青年会 凧揚
連合
会 凧揚げ祭 西寮グランド 浜松市凧揚
連合
会 統監部,この祭の準備としては昭和二十二年四月に浜松市
連合
青年会や凧揚
連合
会の代議員会や理事会などがたびたび開かれ,四月三十日に浜松市
連合
青年会長は各町の祭担当者に「凧揚げ祭行事計画に就て」の文書を送ったが、その中に「,凧揚げ会の名称は、戦前は浜松
連合
凧揚会であったが、戦後は浜松市凧揚
連合
会とした。,また、統監部も復活したが、構成メンバーは浜松市
連合
青年会会長以下の幹部であった。
浜松市史 四
([氏子会の結成])
[氏子会の結成] 【氏子総代会
連合
氏子会】 神社庁浜松支部の動向について見たとき、財源確保と教化活動,その現れが浜松市氏子総代会や浜松市
連合
氏子会であろう。,は、昭和二十年十二月十五日付
連合
軍最高司令部発表の覚書たる、所謂る『神道指令』の趣旨に基づきて行動する,後者の「浜松市
連合
氏子会趣旨」での「前文」では踏み込んだ表現をとっている。,あるいは、構成員の差異、氏子総代の会議と氏子会の
連合
とのそれぞれの存立基盤を見極めることが必要であろう
浜松市史 四
([米軍進駐のうわさと市民])
これにより、日本は
連合
国軍(ほとんどは米軍)の占領下に置かれることとなり、米軍は地方都市にも進駐を開始,これには自動車は
連合
軍の自動車を追い抜かないこと、みだりに
連合
軍将兵や自動車に接近したり、物珍しげに集,こうして
連合
軍の進駐を無難に迎えるように市民に通達していたが、十一月六日の進駐当日になって中止となり、
浜松市史 三
(浜松宿 三十二か町村独立)
【二十九戸長役場】ここに於て和地山村との
連合
は解かれ、浜松宿三十二か町村各独立の姿をなして、その町村名,の上に「浜松」の二字を冠し浜松何町または浜松何村と称することになり、元城町・常盤町・元名残町の
連合
と、,高町・三組町の
連合
とを除き他町村は各々独立戸長を置いて結局浜松宿は三十二か町村、二十九名の戸長及び役場
浜松市史 四
([中田島での凧揚げ])
[中田島での凧揚げ] 【中田島 浜松市
連合
凧揚会 五社神社】 昭和二十三年と二十四年の凧揚げは遠州灘,主催団体の名称は浜松市凧揚
連合
会から浜松市
連合
凧揚会となり、会長には坪井貞治が就任した。,昭和二十三年四月に浜松市
連合
凧揚会が出した案内状には先述のように「健全娯楽、男性的大スポーツとして復活,22 浜松名物凧揚祭 浜松市凧揚
連合
会 5/3~5 浜工専西寮グランド 15 46 凧揚げは5/4、5,24 浜松名物凧揚祭 浜松市
連合
凧揚会 5/1~5 中田島海岸 42 54 初日に五社神社拝礼。
浜松市史 三
(統制会 在郷軍人会 大日本婦人会)
の諸団体については帝国在郷軍人会は昭和十一年九月より軍の公的機関となり、大日本青少年団は従来の大日本
連合
青年団,は十七年二月に、大日本国防婦人会(昭和七年十月結成されたが浜松支部の発足は十年十月であった)と大日本
連合
婦人会
浜松市史 一
(大和朝廷)
大和朝廷は、近畿地方の大和方面をその本拠とし、皇室を中心としてしだいに発展した部落国家の
連合
体であると,倭人伝には、紀元三世紀ごろの日本(倭)の状況として、邪馬台国という、一大部落国家
連合
体が存在したことが,日本の国家統一が完成していなければ絶対に不可能な大事業であるから、たとえ前記の邪馬台国が北九州の国家
連合
浜松市史 四
([新制高校のPTA])
この会では、学校に保護者会があるのにPTAをなぜ結成するのかという質問があったが、学校は「
連合
軍の指令,
連合
軍の指令とはいへ強制的ではない本人の意志により入会するものである。」,このようななか、市内十一の公私立高校のPTAは昭和二十四年六月に浜松市内高校PTA
連合
会を結成、各PTA
浜松市史 四
([引き揚げの終息と戦争犠牲者への援護])
【静岡県引揚者団体西部
連合
会】 ちなみに静岡県引揚者団体西部
連合
会が昭和三十二年三月現在, 【静岡県身体障害者団体
連合
会 静岡県傷痍軍人会
連合
会 浜松身体障害者授職所】 昭和二十七年三月,、傷痍軍人会なども入った静岡県身体障害者団体
連合
会が設立され、傷痍軍人だけの静岡県傷痍軍人会
連合
会も同年八月
浜松市史 四
([終戦と教育内容の変化])
十一月に入って米軍主体の
連合
軍が静岡県にも進駐してくることが報道された。,これに対して、十一月九日には西遠地方事務所長から生徒・児童の指導について
連合
軍将兵の進駐にあわせて「卑屈,図2-8
連合
軍の浜松進駐を報ずる新聞
浜松市史 五
([道・坂・橋等の愛称標識])
それぞれの町の歴史的ないわれのある坂、道、橋、場所などを将来に伝えてゆくために、浜松市や地域の自治会
連合
会,標識には浜松市が設置した擬木(コンクリート製)や木製のものと、地域の自治会
連合
会の愛称標識設置委員会が,刊行した『愛称標識』(サブタイトル「駅とともに変わりゆくまち」)の「発刊にあたって」によれば、自治会
連合
会
浜松市史 四
([右側通行])
こうした道路整備の遅れや交通取り締まりの不徹底は、交通違反、交通事故の増加にもつながり、
連合
国軍の現地司令部,こうした事態に対して、
連合
国軍総司令部(GHQ)は、可及的速やかに歩行者の右側通行を実施するよう命令した,しかし、
連合
軍による右側通行の指示は不徹底であったため、逆に交通秩序に混乱を生じた。
浜松が生んだ名建築家中村與資平展
((7)その他のおもな建築)
(7)その他のおもな建築 ・静岡県茶業
連合
会議所 ・藤相鉄道(駅、事務所) ・浜松商工会議所
浜松市史 三
(日赤浜松病院 遠州病院 聖隷保養農園)
となり、戦災にあわなかった唯一の公的病院として戦災患者の収容と治療に全力をあげた)、県西部の産業組合組織
連合
,により昭和十三年十月常盤町一〇〇番地に開設された保証責任医療利用組合
連合
会遠州病院(設立当時内科をはじめ
浜松市史 三
(町内会と隣組)
【
連合
会】十六年には浜松市内町内会は九十九を算したので、七月には十二区に分けて町内会の
連合
会を組織した
浜松市史 ニ
(騒然たる浜松地方)
騒然たる浜松地方 禁門の変につづいて、長州征伐の議がおこり、八月には四国
連合
艦隊の下関占領、十一月には
美しかる可き里:わが町文化誌
(浜松市立可美公民館『美しかる可き里:わが町文化誌』 目次)
の行事 258 (四)秋の行事 264 三 各種団体 266 (一)可美地区自治会
連合
会,(三)可美公園 340 (四)可美地区体育振興会 342 (五)可美校区子ども会世話人
連合
会,343 (六)可美地区老人クラブ
連合
会 344 (七)可美希望学級放課後児童会 345
浜松市史 三
(ポプリン)
のほか綿ポプリン・別珍・コール天・捺染綿布・綿ネル生地・仁斯(じんす)等があり、日本輸出綿織物工業組合
連合
会
浜松市史 一
(幕府と守護大名)
だからといって室町幕府の性格を守護の
連合
政権だといいきることはできない。
浜松市史 五
([浜松まつりへの高校生の正式参加])
【浜松まつり参加自治会
連合
会 高校生の参加決定】 そこで、まつりに参加する自治会は平成三年八月に浜松,まつり参加自治会
連合
会を設立し、十月から高校生の祭典参加問題の検討を開始し、西遠地区の校長会との折衝も,しかし、浜松まつり参加自治会
連合
会と校長会との折衝では、事故が起こった場合の受け皿となる自治会への指導,同月三十日、これまで高校生の参加問題を検討してきた浜松まつり参加自治会
連合
会、西遠地区Aブロック校長会
浜松市史 一
(名主の対抗 惣の成立)
名主の対抗 惣の成立 この進みに対し、もとの名主は
連合
して、その結合力でもとの指導権を失うまいとした
浜松市史 四
([墨塗り教科書と『くにのあゆみ』])
[墨塗り教科書と『くにのあゆみ』] 【墨塗り教科書
連合
軍関係指令綴 『くにのあゆみ』】 教科書,飯田小学校に保管されている「
連合
軍関係指令綴」によれば、地理の授業の再開が通知されたのは昭和二十一年八月二十五日,図2-10 墨塗り教科書 墨塗り前と後 図2-11 「
連合
軍関係指令綴」 飯田小学校
浜松市史 四
([農民運動の再生])
[農民運動の再生] 【山崎光雄 農民運動 三方原農民組合 北浜村農民組合 西部地方農民組合
連合
会 静岡県農民組合協議会,三方原に続いて同年五月に北浜村農民組合が結成され、六月には西部地方農民組合
連合
会(会長・山崎光雄、書記長,同
連合
会は昭和二十二年一月には、湖西地区七、浜名地区二十五、引佐地区六、磐田地区十二の計五十組合、組織人員七千名
浜松市史 四
([十二月十五日の神道指令])
として、アレン陸軍大佐が、神道指令について、詳細かつ極めて長文にわたる解説書を書いている(入野小学校蔵「
連合
軍最高司令部発教育関係指令綴,」、飯田小学校蔵「
連合
軍関係指令綴」)。
浜松市史 四
([生活改善と消費者運動])
これら各地の勤労者協議会の
連合
体として浜松市勤労者協議会
連合
会が昭和三十三年十一月に結成され、活動はレクリエーション
浜松市史 三
(少年消防隊)
【富塚村】富塚村では大正八年の一月に創立、消防訓練で静岡県消防組
連合
会や浜松警察署長などから表彰をうけたり
浜松市史 四
(遠州病院)
遠州病院 【静岡県厚生農業協同組合
連合
会 厚生連】 遠州病院の成立事情については、既刊『新編史料編四,すなわち、昭和二十三年に農業会に代わって市町村に農業協同組合が結成され、この
連合
会の一つとして静岡県厚生農業協同組合
連合
会
浜松市史 一
(党と一揆 守護大名の位置)
そこで彼らは同族だけでなく、共同の利害関係にたつ地域的な
連合
体をつくった。
浜松市史 五
([婦人防災クラブ、幼年消防クラブの結成])
同五十六年四月には浜松地区婦人防災クラブ
連合
会が発足し、クラブの拡充を図るとともに、防火について婦人同士,同六十一年度の
連合
会の事業としては秋季(十一月)、春季(三月)の火災予防運動行事に参加はもちろん、指導者研修会
浜松市史 三
(浜松和地山戸長役場)
浜松和地山戸長役場 このとき浜松宿は和地山村と
連合
し、浜松宿和地山村戸長役場を置き、堀口勘蔵が選ばれてその
浜松市史 四
([産業基盤の喪失])
これ以降、日本は
連合
軍の占領下に置かれることになった。
浜松市史 四
([戦没者慰霊と遺族会])
その結成単位は各町内会・
連合
会・地区ごとに支部を結成するというものである。 ,終戦連絡中央事務局総裁から同名古屋事務局長へあてた「公葬戦没者取扱ひ、忠霊塔等に関する件」(飯田小学校蔵「
連合
軍関係指令綴,行ってもさしつかえないことに定められましたので、命によって通達します」と説明している(飯田小学校蔵「
連合
軍関係指令綴
浜松市史 四
([進駐軍と神社])
[進駐軍と神社]
連合
軍進駐がいよいよ現実化したとき、西遠地方事務所長は昭和二十年十月四日付で管内市町村長
浜松市史 三
(浜松市青年団総会)
【体育大会】毎年一回開催される
連合
青年団の体育大会は、トラック・フィールド・柔道・剣道・相撲に覇を争い
浜松市史 四
([浜松乱闘事件])
二十二年四月に小野は県議会議員に当選、その後小野組を解散し、露天商組合を組織、また静岡県露天商組合
連合
会長,翌年三月には同
連合
会長を辞任、小野興行社の社長として興行関係に大きな力を持っていた。,この事件の推移は
連合
軍も注目し、岐阜から百数十名の警備部隊が来浜する事態となった。
浜松市史 四
([子ども会])
【浜松市子供会世話人
連合
会 浜松市こども会芸能大会】 浜松市の子供会は昭和三十年の,時点で六十余あり、これらを束ねた浜松市子供会世話人
連合
会が同年四月に結成された。
浜松市史 四
([進駐軍と寺院])
[進駐軍と寺院]
連合
軍進駐が現実化したとき、西遠地方事務所長から寺院への指示は、神社の場合と同様に
浜松市史 三
(銃後各種行事の中止)
ラングーン占領 6. 5 ミッドウェー海戦に敗る 18. 2. 1 ガダルカナル撤退開始 4.18
連合
艦隊司令長官山本五十六元帥戦死
浜松市史 四
([火災防止推進本部])
[火災防止推進本部] 【火災防止推進本部】 昭和三十三年、市内の自治会
連合
会などにより設置された
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