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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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検索結果 : 776件
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浜松市史 一 (本道と別道)

本道と別道 この本道のほかに別道がある。,本市と関係のあるのは、本坂峠をこえて遠江に入り、浜名湖北岸をへて三方原をとおり引馬宿・池田宿にでて、東海道本道,に入る道である。,鎌倉時代の本道と別道は、  一、鎌倉幕府ができ、京都と鎌倉をむすぶ東海道の距離をなるべく短縮させた。,しかし旧東海道もまだ旅行者が多かった。 / 本道と別道
浜松市史 一 (東海道本道)

東海道本道 つぎに鎌倉時代の東海道本道で、本市に関係する経路をあげよう。  ,三河二川(豊橋市二川)・遠江汐見坂・新居町浜名(橋本宿)・同上辺(浜名橋)・浜松浦(当市西南部)・引馬宿 / 東海道本道
浜松市史 ニ (本坂道)

本坂道 姫街道は東海道の脇往還である。公儀では本坂道・本坂通・本坂越などと呼んだ。,これはこの街道筋にあたる遠・三両国国境の本坂峠が最難所であったためである。,永禄十年(一五六七)連歌師里村紹巴(さとむらしょうは)は、気賀から「本坂越は道止れるとて」小引佐峠を越,本坂越の名称の古いこと、また本坂峠がしばしば杜絶したことがわかる。,【道筋 安間新田】姫街道の江戸時代の道筋は、東海道五十三次の遠江見付宿から三河御油宿にいたるもので、見付宿 / 本坂道
浜松市史 三 (東海道本線複線化)

東海道本線複線化 なお、この間に東海道線の複線化(このとき現在の二俣線沿いの町村では東海道線に沿う別 / 東海道本線複線化
浜松市史 五 (東海道本線高架化事業)

東海道本線高架化事業 【伊場遺跡】  昭和四十七年二月八日に市民の宿願であった東海道本線高架化事業,東海道本線高架化事業は、伊場遺跡の取り扱いをめぐる問題のため着工が遅れたものの、昭和四十八年十二月一日,同事業は、東海道本線の子安町─浜名郡可美村東若林間の五・三三キロメートルを高架(子安側一・五六キロメートル,図3-32 新幹線と在来線の間に建設途中の高架橋 【不発弾】  ただ、工事が本格化すると、現場,【浜松こ線橋】  高架橋工事を進めていく過程で問題となったのは、国道二五七号線(旧国道一号線)が東海道線 / 東海道本線高架化事業
浜松市史 五 ([東海道本線の高架化事業])

[東海道本線の高架化事業] 【高架化 東海道線高架化促進期成同盟会 西浜松駅】  浜松の市街地は東海道本線,の線路で中心地域が分断され、南北の交通は二つの狭い地下道と長時間待たされる平田などの踏み切りなどにより,こうしたことから、鉄道の高架化による南北地域の交通阻害の除去は市民の願いでもあった。,昭和三十七年三月七日、国鉄新幹線浜松駅設置期成同盟会は目的達成のために解散、同日新たに東海道本線の高架化,この運動の結果、昭和四十年の暮れまでに国鉄は浜松市の高架化事業を実施するという基本決定を行うに至った。 / [東海道本線の高架化事業]
浜松が生んだ名建築家中村與資平展 ((4)遠州電気鉄道旭町駅(本社)のちの遠州鉄道新浜松駅(本社))

(4)遠州電気鉄道旭町駅(本社)のちの遠州鉄道新浜松駅(本社) 1927(昭和2)年旭町まで線路をのばした,遠電は、昭和4年4月に本社駅ビルを起工、10月13日に完成した。    ,1階は旭町駅、2階は本社事務所であったがのちに偕楽亭が2・3階に登場する。 / (4)遠州電気鉄道旭町駅(本社)のちの遠州鉄道新浜松駅(本社)
浜松市史 四 ([浜松駅、東海道本線の拠点駅へ])

[浜松駅、東海道本線の拠点駅へ] 【機関車の付け換え駅 浜松電化祭 国鉄の人員整理 浜松まつり ハーモニカ,東京─浜松間の電化完成後の昭和二十四年九月十五日には大幅なダイヤ改正が行われ、東海道本線では急行が定期三往復,また、二十五年三月には湘南電車が東海道本線に登場(後述)、五月には「つばめ」の姉妹列車「はと」の運行が,蒸気機関車が牽引したが、浜松駅は急行列車や特急列車などを牽引する電気機関車と蒸気機関車の付け換え駅として東海道本線,特急の五分間の停車時間を利用して二十六年六月から始まった竹山朝生によるラジオ体操であり、いずれも東海道本線 / [浜松駅、東海道本線の拠点駅へ]
浜風と街道:わがまち文化誌 (浜松市立篠原公民館『浜風と街道:わがまち文化誌』 目次)

浜風と街道:わがまち文化誌 / 目次 『浜風と街道:わがまち文化誌』  浜松市立篠原公民館 平成元年(1989年),愛宕神社 光雲寺 ながさとはし 坪井土橋 88 稲荷神社 東光寺 馬郡観音 如意寺 92 藤田家 東本徳寺, 西本徳寺 春日神社 97 第4章 篠原の特産たまねぎ ―産業の移り変り― 105 1、明治大正時代, 生活に潤いと節目を ―くらしの様子と年中行事― 133 1、くらしの様子 135 野良仕事 浜道 ,美人塚 173 山伏塚 魚を売る娘(魚籃観音) 波の音(波小僧) 175 比丘尼塚 お釈迦様と日本左衛門 / 浜松市立篠原公民館『浜風と街道:わがまち文化誌』 目次
浜松市史 一 (神道)

神道 南北朝時代には『日本書紀神代巻』だけで神道を説こうとする動きがでてきた。  ,室町時代には、一条兼良(一四〇二-一四八一)が儒教・仏教・道教に神道を加えた四教の融合を説く神道理論を / 神道
天竜川と東海道:わがまち文化誌 (浜松市立天竜公民館『天竜川と東海道:わが町文化誌』 目次)

天竜川と東海道:わがまち文化誌 / " 55 1 昔懐かしい東海道 57 江戸時代の東海道 街道筋の村々と松並木 傍示杭 板橋,・土橋 道幅 掃除町場 一里塚 立場茶屋 脇道姫街道 2 現在の主要道路 73 旧東海道から浜松,バイパスへ 主な県道と和国道路 愛称標識 3 東海道にかかる橋 81 天竜川の渡船 江戸時代の船橋,"東海道線の開通と天竜川駅 天竜運輸会社と半場線 現在の天竜川駅 東海道を走る乗合馬車 中野町軽便鉄道,なりわい 151 1 農業の昔と今 153 戦前の農業 戦後の農業 農業協同組合 温室園芸 全日本豚共進会 / 浜松市立天竜公民館『天竜川と東海道:わが町文化誌』 目次
浜松市史 一 (旧仏教と神道 伊勢神道)

旧仏教と神道 伊勢神道 鎌倉時代の武士や農民は、郷土をまもる神に強い信仰をもっていた。,【天台神道 真言神道】これに対し、天台宗と真言宗では、印度の仏が日本にきて、衆生(しゅじょう)を済度(,さいど)するため神になった(本地垂迹(ほんちすいじゃく)・神仏習合(しゅうごう))と説いた。,これが天台神道・真言神道である。,元寇ののち伊勢(伊勢市)の大神宮を中心に伊勢神道が成立した。   / 旧仏教と神道 伊勢神道
浜松市史 ニ (本陣)

本陣 前にも述べたように本陣は宿駅における大名・公卿等の宿泊する高等旅館であり、天保十四年ごろには本陣,が六軒あった(『東海道浜松宿大概帳』)。,【杉浦家】この本陣のなかでもっとも古いのは伝馬町の杉浦助右衛門家である。,嘉永三年浜松宿杉浦本陣の図 (浜松市菅原町 川島浦治氏蔵) / 本陣
浜松市史 三 (上水道 上水道規模)

上水道 上水道規模 上水道 商工業の発展と都市化の進展による飲料水の不足、水質の悪化、特に発展途上の,こうした状況下、市勢の発展と市民の保健衛生維持の見地からも水道敷設の必要性が要望され、既述のように都市計画事業,した後、高林地内を南行して中沢町に下り自然流下によって市内低区に配水する線と、喞筒(ポンプ)により姫街道に,そのため市当局は「水道を引いた家にない伝染病―大童(わらわ)で宣伝の水道部」(昭和六年六月二十五日『日本民声新聞,』)とか、「水道の水を使うと美人になる」と宣伝する美人をのせたり給水の拡大につとめている。 / 上水道 上水道規模
浜松市史 三 (東海道線)

東海道線 しかし、これも明治十一年になると、東京・熱田間の全区間が馬車を主とする方式に改善された(下表参照,しかし、これもやがて明治十四年四月になると東海道馬車運送は内国通運本社によって本格的営業が開始され、東海道線,の鉄道開通まで続くのである。   / 東海道線
浜松市史 一 (唯一神道)

唯一神道 吉田兼倶(よしだかねとも)(一四三五-一五一一)は、神道(しんとう)を本位に儒・仏二教を統合,した唯一(ゆいつ)神道を宣伝した。,のち吉田家の唯一神道は、神道思想の主流となった。 / 唯一神道
浜松市史 三 (人車鉄道)

人車鉄道 なお、四十二年には中泉町(現磐田市)と池田村(現磐田郡豊田町)を結ぶ人車鉄道が開通している,(表)浜松地方の民営鉄道出願状況 会社名 区間 出願期日 結果 豊橋鉄道会社 豊橋-西浜名 明治29.9.18,明治30.4.22却下 浜松〃 浜松-西鹿島 〃29.9.20 〃30.8.7仮免 〃34年失効 姫街道〃,〃29.6.17 〃30.4.21却下 奥浜〃 浜松-奥山      〃30.5.15却下 (『日本国有鉄道百年史 / 人車鉄道
浜松市史 五 (下水道)

下水道 【ポンプ場 終末処理場】  昭和三十五年(一九六〇)一月海老塚町地内で下水道建設が開始された,水浸しになっている地域には、人工的な排水施設としての下水道が必要であった。,下水道の終末処理場は瓜内町に設置され、昭和三十七年八月に生し尿の処理を開始した。,雨水を川へ放水、汚水だけを瓜内町の下水道終末処理場へ送って処理する仕組みであった。  ,また、同四十一年十月元浜排水区から瓜内終末処理場までの下水道本管がつながり、同年十一月十五日に下水道事業 / 下水道
浜松市史 三 (駅前広場 大安寺新道 踏切 地下道)

駅前広場 大安寺新道 踏切 地下道 これらの新設道路はいずれも旧来の道路に対し道幅が広く、ことに駅前,このほかに肴町大安寺下から田町の玄忠寺裏を経て新川へ架けた橋を渡り前記の板屋町新道へ出る道路(本章第一節第二項参照,また駅の新設や鉄道線路の敷設によって遮断された道路には踏切が設けられた。,旧来の道路の拡巾も新道路の敷設を機とし、ことに明治二十五年の入枡座(いりますざ)火災後に肴町(幅三尺拡張,東海道線浜松駅 / 駅前広場 大安寺新道 踏切 地下道
浜松市史 三 (各町の道路)

各町の道路 以上は主要な県道(大正八年道路法の公布によって国道・県道・郡道・町村道の別が定められた),について述べたが、浜松の各町でも「我が町の発達を期せんためには先づ道路の改良より始めざるべからず」(『,馬込町沿革誌』)というので、例えば馬込町では明治三十四年より大正へかけて町内の道路の拡張、新設が十本近,くに及んでいるように、浜松町の補助をうけたり、また各町による自主的な道路の新設・改修、排水溝の新設がしきりに / 各町の道路
浜松市史 ニ (二筋の姫街道)

二筋の姫街道 【浜松道】いずれにせよ、時代がくだるにつれ、見付宿から東海道を西進し、浜松宿大手門前で,東海道と岐れ、さらに高町・名残町を経て、三方原の追分にいたる道筋が姫街道といわれるようになっていったのである,享和三年(一八〇三)八月本坂道普請のため見分が行なわれているが、そのときも気賀から浜松へ出ているし、天保十四年,『東海道浜松宿大概帳』(『浜松市史史料編三』)にも本坂通として「大手前」が浜松からの起点となっている。,近世前期の本坂道や市野宿の状態などは、「青山御領分絵図」によって、くわしく知ることができる。 / 二筋の姫街道
浜松市史 ニ (町道の変化)

寛文期において東海道通町道子二百四十二間、裏(脇)町通道千八百六十三間で合計三千百五間であったのに宝暦九年,には東海道通町道子四百二十一間、脇町通道子二百三十一間で合計二千六百五十二間となっている。,これは宿の中心となる東海道通町道がほとんど変化がないのに脇町通道の延長が減縮しているためである。,これを町別でみると減少のいちじるしいのは早馬町・池町・平田町・本魚町・大工町・利町・紺屋町・猿屋町などのおもに,これは寛文期において御役六町をはじめ東海道通町道がすでに固定化していたのに対し、脇町通道は町域に明確さを / 町道の変化
浜松市史 ニ (本末制度)

本末制度 本末制度は寺院の本山と末寺との関係を定めたもので、この制度によってすべての寺院は本末組織に,【齢松寺】これは階層的な統属関係の成立を示すもので、たとえば明和年間、浜松後道齢松寺(東本願寺の末寺),の住持が遠州の山奥へ棟木をさがしに行っているのも本山の命によるものであった(これを物語として記した『遠山奇談 / 本末制度
浜松市史 ニ (姫街道の名称)

姫街道の名称 【三つの説】姫街道のいわれにはいろいろの巷説がある。,その一つは婦女子が取調べの厳しい今切関所をさけて本坂道をえらんだから名づけられたというのである。,また今切という言葉が婦女子にとって縁切れに通ずる不吉のひびきがあるので、本坂道をえらんだから姫街道と呼 / 姫街道の名称
浜松市史 一 ([神道])

[神道] 天台宗・真言宗は、神に対する信仰をとりいれ、新仏教に対し巻き返しをはかった。,すなわち元寇を機会とし、日本は神にまもられる神国だとの「神国思想」をひろめた。 / [神道]
浜松市史 ニ (本陣の規模)

本陣の規模 街道筋でこのような本陣が六軒も設けられていたのは東海道では箱根宿と浜松宿のみである。,本陣の規模は上表のとおりである。  ,「今宵の宿は本陣にて伊藤平左衛門といふ。上段と思しき所にあげ畳あり。,本陣 凡建坪272坪 伝馬町(杉浦助右衛門) 壱軒 門構玄関付 本陣 凡建坪180坪 伝馬町(梅屋市左衛門,) 壱軒 門構玄関付 本陣 凡建坪163坪 伝馬町(川口次郎兵衛) 壱軒 門構玄関付 本陣 凡建坪225 / 本陣の規模
浜松市史 三 (遠州軌道株式会社 遠州電気鉄道株式会社)

遠州軌道株式会社 遠州電気鉄道株式会社 そののち第一次世界大戦による好況の波が輸送機関にも及ぶと、鹿島線,こうなると西遠地方の今後の発展のためにもまた北遠地方の開発のためにも、いつまでも鹿島線を大日本軌道株式会社,の浜松支社のもとに委ねておくべきではないという地元の声が高まり、天竜運輸株式会社の主唱により大日本軌道株式会社浜松支社,からその営業権を譲り受け、地元資本をもって新会社を創立することになった。,そして社名を遠州軌道株式会社(資本金一〇〇万円、社長竹内竜雄)と称することになった。 / 遠州軌道株式会社 遠州電気鉄道株式会社
浜松市史 一 (漆部造道麻呂)

漆部造道麻呂 『続日本紀』の文武天皇四年(七〇〇)八月二十二日条にみえる勤広壱漆部造(きんこういちぬりべのみやつこ,)道麻呂は、文献に名をあらわした最初の遠江守である。,続日本紀 版本 文武天皇四年条遠江国司の記事 / 漆部造道麻呂
浜松市史 一 (国造本紀)

国造本紀 遠江の地域にあった国造として確実な文献にみえるものは、この遠江国造ただ一つであるが、このほかに,、『先代旧事本紀』巻十の国造本紀には、なお二三の国造名がみえている。,この『先代旧事本紀』(略して旧事紀)は、しかし、偽書であることがすでに明らかにされているものなので、これを,信用することは史学の正道としてはできるわけのものではない。,ことに、その巻十の国造本紀は、全国百数十の国造名を列挙した、他に類をみないまとまった内容のもので、記紀 / 国造本紀
浜松市史 ニ (山本源吉)

山本源吉 この源吉は浜松宿肴町に生まれ、通称源右衛門という。,後年青木元悦と改め、出家して道佐と号(別号考祥)した。,【浜の松風】『浜の松風』は源吉の門人近藤玄瑞(号橘井斎淡山、磐田郡豊田村森本、医師)が、寛政九年(一七九七,【浜松の四天王】その序文に山本源吉を「浜松の四天王と衆人称せり」と記している(四天王とは渡辺蒙庵・賀茂真渕,・山本源吉・小篠大記)。 / 山本源吉
浜松市史 ニ (正光寺竜道貫)

正光寺竜道貫 さらに豊西村上石原(当市豊町)の正光寺第十二世竜道貫和尚は安政年間(一八五四-一八五九,寺子に積志村上前島(当市大島町)の橋本茂登治(犬居村秋葉神社宮司)がある(『浜名郡積志村村誌』)。 / 正光寺竜道貫
浜松市史 ニ (姫街道の重要性)

姫街道の重要性 浜名湖の今切の渡船をさけて通行がしげかったので、幕府でも重視した道で『本坂御往来留書,一七〇八)まで八十六年間、すなわち近世初期における諸侯通行の概略が記されているが、これによってもこの街道が,脇道と呼ばれるようなものでないことがわかる。,明和元年(一七六四)には道中奉行の支配に属している(『御触書天明集成』)。 / 姫街道の重要性
浜松市史 三 (中道朔爾異礼)

中道朔爾異礼 中道朔爾(後述)は詩の個人雑誌『異礼』を大正十二年発刊している。,のため鴨江快真寺付近に住み、兄儀一郎(同志社大学神学部講師、大正十三年没)の感化をうけて詩をつくり『日本詩人,また永田武之(三木露風門下)・後藤國道なども詩作をしている。 / 中道朔爾異礼
浜松市史 三 (浜松鉄道株式会社)

浜松鉄道株式会社 奥山方広寺のある引佐郡奥山方面や三方原などを浜松と結ぶ浜松鉄道株式会社は、はじめは,四年五月に浜松鉄道株式会社と改称し、本社(大字元目町)を新設の元城駅へおいた。,同年九月元城駅から大日本軌道株式会社の板屋町駅までの路線も完成した。,する案)・篠原と掛塚間軽便鉄道・湖岸循環鉄道(浜名湖遊覧鉄道)・伊場と雄踏山崎間鉄道計画など立案されては,【光明電鉄】以上の他に静岡県西部地方には、光明電鉄株式会社(大正十四年六月設立、本社磐田郡中泉町、現磐田市 / 浜松鉄道株式会社
浜松市史 五 ([新しい道路])

[新しい道路] 都市計画事業のうち、重要幹線街路の整備を進める一方、昭和三十七年三月に国の認証を経て,浜松市都市計画街路を決定、二十年後の完成を目標に環状線、放射道路など四十七本が決まった。 / [新しい道路]
浜松市史 ニ (姫街道の通行停止)

姫街道の通行停止 【浜松宿への影響】これは浜松宿をはじめ東海道の諸宿にとって「御役難勤渡世経営不罷成迷惑,その結果本坂道通行の差留となったのが享保二年(一七一七)十一月で、地震以後十一年目であった。,といっても、享保三年四月には浄円院(将軍吉宗の生母)の通行があるというようなわけで、やはり本坂道を往復 / 姫街道の通行停止
浜松市史 ニ (東海道往還通)

東海道往還通 浜松城主松平富之助資昌の命により宝暦九年(一七五九)に浜松町奉行川原甚左衛門が浜松宿内各町,これによると、東海道往還通の長さは二十三町四十八間、町数二十四町、家数千六百九十八軒を数える都市であった,  町名 総軒数(軒) 本役家数(軒) 借屋(軒) 借地(軒) 店借(軒) 庄屋(軒) 問屋,#160; 片側55 2.3 有       火   18 本魚町,馬 火 茶 西60 諏訪大門道 21 紺屋町 114 47 35 2 北113 2.5 袋町 / 東海道往還通
浜松市史 ニ (姫街道と宝永地震)

姫街道と宝永地震 姫街道が脇往還としてもっともその機能をあらわしたのは、宝永四年(一七〇七)十月四日,の東海道地震の直後であった。,「今切之渡海広罷成故、浪荒渡舟不自由」(「宝永の災害」『細江のあゆみ』3号)になったので、一時に姫街道に,『本坂御往来留書』にも「五日之朝より本坂江往還之旅人荷物迄通り享保二酉年迄御通行繁有之」とあって十月四日 / 姫街道と宝永地震
浜松市史 四 (岡本廣司)

岡本廣司 【『詩旗』 「西遠詩界の思い出」】  『巣』が廃刊となった昭和二十七年の十月、岡本廣司らを,同誌の歴史は、平成五年刊行の百号記念特集号の岡本の文章に詳しい。,浦和と岡本との詩人としての交友関係は極めて長く、かつ親密でまさに盟友関係にあった。,第三十九号(昭和三十七年六月)]には、「最も親しい僕の友として、また好伴侶として三十年余り一途に詩の道を,歩いて来た岡本広司」云々とも記している。 / 岡本廣司
浜松市史 五 (天竜浜名湖鉄道)

天竜浜名湖鉄道 昭和六十一年八月、国鉄に代わる事業主体として第三セクターの天竜浜名湖鉄道株式会社(資本金六億三千万円,運輸審議会は、同年十一月、二俣線の運営を引き継ぐ天竜浜名湖鉄道会社と、線路、駅舎などの無償譲渡についての,こうして、昭和六十二年三月十五日に天竜浜名湖鉄道株式会社が開業した。  ,【レールバス】  天竜浜名湖鉄道では、それまでの気動車に代わって小型ディーゼルカー「レールバス」が運行 / 天竜浜名湖鉄道
浜松市史 五 ([道路計画の策定])

しかし、乗用車をはじめとする自動車台数の急増に比して国道一号線など浜松地域の幹線道路は、道幅が狭く整備,【都市計画街路】  こうした中、浜松市は大正十五年につくられたものを見直して本格的な都市計画街路を作成,この都市計画街路によれば、内・外環状線、八本の放射状街路、国道一号線バイパス(後述)、東海道線へのこ線橋,の設置など、道路幅五十メートルから十一メートルまでの幹線道路四十七本(総延長二百三十三キロメートル、うち,以後、都市計画街路の街路数、路線名・路線区間等に変更はあるものの、市の道路整備は基本的には同計画に基づいて / [道路計画の策定]
浜松市史 三 (上水道候補地)

上水道候補地 上水道問題を生じたのは大正十三年であった(後述)。,ここに於て市は上水道計画を即行するか延期をするかの採択を迫られることとなったが、市としては飲料水問題は,捨ておきがたい問題ということで他の事業は延期しても敷設即行を決定し、工事費は市債・増税、又は市の基本財産 / 上水道候補地
浜松市史 一 (日本書記の伝説)

日本書記の伝説 『日本書紀』には、崇神天皇の時の四道将軍の派遣や、景行天皇の治世の日本武尊の東方征伐,しかし、『日本書紀』の紀年が、六世紀前半、欽明天皇のあたりまではことにあてにならず、また、記事そのものにも,これを史実として認めるだけの根拠がないことは明らかであって、大和朝廷の勢力発展の姿は、一応このような『日本書紀 / 日本書記の伝説
浜松市史 三 ([遠州電気鉄道])

[遠州電気鉄道] 遠州電気鉄道株式会社は、その前身は浜松鉄道株式会社と称し、明治四十年(一九〇七)四月,わが国の私鉄王と呼ばれた雨宮敬次郎の参画を得て創立された会社であったが、翌年五月には雨宮の経営する大日本軌道株式会社 / [遠州電気鉄道]
浜松市史 一 (東日本の状態)

東日本の状態 これに反して、東北日本では、食物採捕の生活が一層強化安定したことを思わせる事例が多くなる,骨角器(骨や角で作った道具類で主として漁具が含まれる)の類が一段と進歩しているのもそのためであろう。 / 東日本の状態
浜松市史 一 (遠江と三河をむすぶ道路)

遠江と三河をむすぶ道路 【本坂路 浜名峠路 中山峠路 大知波峠路 浜街道】遠江と三河をむすぶ道路は、,本街道・本坂路のほか、浜名峠路・中山峠路・大知波峠路・浜街道がある。  ,しかし室町中期までの湖西地方の東海道は、三河からいまの湖西町新所原・吉美・古見をへて橋本の裏山にあたる,猪鼻坂から橋本にかせられた浜名橋にかかった。,現在の白須賀経由の街道は、戦国時代に開け急速に発達したという(彦坂良平「古代街道に関する一考察」『湖西 / 遠江と三河をむすぶ道路
浜松市史 三 (日本楽器会社)

日本楽器会社 【オルガン製作 中村藤吉】日本楽器製造株式会社 山葉寅楠(やまはとらくす)によって創立,され、初め山葉風琴(ふうきん)製造所(のちに山葉楽器製造所)と称し、浜松宿七軒町(菅原町)の旧修道学校跡,普大寺が廃寺となっていた跡地)に仮工場を設け、明治二十一年三月わずか十人ほどで風琴つまりオルガンの製作を本格的,に開始したが、二十二年三月資本金三万円の合資会社を組織し中村藤吉の後援を得て、浜松町八幡地(現在の旭町,の株式会社となし、日本楽器製造株式会社と改名するにいたった。 / 日本楽器会社
浜松市史 四 ([神道指令以後])

[神道指令以後] 【神道指令 国体 人間宣言】  神道指令の徹底化は、昭和二十年十二月二十九日付で,ここに国家神道は終わりを迎えた(北庄内村役場文書「神社関係綴」)。,統治権を総攬するという「国体」の下の軍国主義、極端な国家主義教育を否定するために、十二月三十一日、日本歴史 / [神道指令以後]
浜松市史 四 ([神道指令を再指導])

[神道指令を再指導] 【神道指令 神道指令違反】  先には昭和二十一年一月十九日付で、教育界における,に潜む宗教行為を、国家神道否定の原理から峻別することであった。,国家神道下の慣行に鎧われた宗教行為を一刀両断で改めることの困難さは、日本各地で神道指令違反として顕在化,通達は本(内務)省及終戦連絡東海北陸事務局長よりの通知で、「各県とも一層の趣旨徹底に努力されたい」と、,昭和二十一年十一月三日に公布され、翌年五月三日から施行された日本国憲法の下、神道指令を遵守する宗教事務 / [神道指令を再指導]
浜松市史 四 ([浜松鉄道病院])

[浜松鉄道病院] 【浜松鉄道病院 静岡と浜松の二つの鉄道病院】  原則的には一般市民に開放されている,病院とは言えないが、企業内診療所の代表例としては浜松鉄道病院がある。,が誕生し、本庁の方針として一局一病院が貫徹され、すでに静岡鉄道病院が建設されていたために浜松病院実現は,これにより静岡鉄道管理局管内には、静岡と浜松の二つの鉄道病院が設営されたことになる。  ,国鉄浜松工場機関紙『はままつ』の昭和三十八年二月号によれば、鉄道病院が新幹線道床工事地点に相当し、解体撤去 / [浜松鉄道病院]
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