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浜松市史 一
(本道と別道)
本
道
と別
道
この
本
道
のほかに別
道
がある。,
本
市と関係のあるのは、
本
坂峠をこえて遠江に入り、浜名湖北岸をへて三方原をとおり引馬宿・池田宿にでて、東海
道
本
道
,に入る
道
である。,鎌倉時代の
本
道
と別
道
は、 一、鎌倉幕府ができ、京都と鎌倉をむすぶ東海
道
の距離をなるべく短縮させた。,しかし旧東海
道
もまだ旅行者が多かった。 /
本
道
と別
道
浜松市史 一
(東海道本道)
東海
道
本
道
つぎに鎌倉時代の東海
道
本
道
で、
本
市に関係する経路をあげよう。 ,三河二川(豊橋市二川)・遠江汐見坂・新居町浜名(橋
本
宿)・同上辺(浜名橋)・浜松浦(当市西南部)・引馬宿 / 東海
道
本
道
浜松市史 ニ
(本坂道)
本
坂
道
姫街
道
は東海
道
の脇往還である。公儀では
本
坂
道
・
本
坂通・
本
坂越などと呼んだ。,これはこの街
道
筋にあたる遠・三両国国境の
本
坂峠が最難所であったためである。,永禄十年(一五六七)連歌師里村紹巴(さとむらしょうは)は、気賀から「
本
坂越は
道
止れるとて」小引佐峠を越,
本
坂越の名称の古いこと、また
本
坂峠がしばしば杜絶したことがわかる。,【
道
筋 安間新田】姫街
道
の江戸時代の
道
筋は、東海
道
五十三次の遠江見付宿から三河御油宿にいたるもので、見付宿 /
本
坂
道
浜松市史 三
(東海道本線複線化)
東海
道
本
線複線化 なお、この間に東海
道
線の複線化(このとき現在の二俣線沿いの町村では東海
道
線に沿う別 / 東海
道
本
線複線化
浜松市史 五
(東海道本線高架化事業)
東海
道
本
線高架化事業 【伊場遺跡】 昭和四十七年二月八日に市民の宿願であった東海
道
本
線高架化事業,東海
道
本
線高架化事業は、伊場遺跡の取り扱いをめぐる問題のため着工が遅れたものの、昭和四十八年十二月一日,同事業は、東海
道
本
線の子安町─浜名郡可美村東若林間の五・三三キロメートルを高架(子安側一・五六キロメートル,図3-32 新幹線と在来線の間に建設途中の高架橋 【不発弾】 ただ、工事が
本
格化すると、現場,【浜松こ線橋】 高架橋工事を進めていく過程で問題となったのは、国
道
二五七号線(旧国
道
一号線)が東海
道
線 / 東海
道
本
線高架化事業
浜松市史 五
([東海道本線の高架化事業])
[東海
道
本
線の高架化事業] 【高架化 東海
道
線高架化促進期成同盟会 西浜松駅】 浜松の市街地は東海
道
本
線,の線路で中心地域が分断され、南北の交通は二つの狭い地下
道
と長時間待たされる平田などの踏み切りなどにより,こうしたことから、鉄
道
の高架化による南北地域の交通阻害の除去は市民の願いでもあった。,昭和三十七年三月七日、国鉄新幹線浜松駅設置期成同盟会は目的達成のために解散、同日新たに東海
道
本
線の高架化,この運動の結果、昭和四十年の暮れまでに国鉄は浜松市の高架化事業を実施するという基
本
決定を行うに至った。 / [東海
道
本
線の高架化事業]
浜松が生んだ名建築家中村與資平展
((4)遠州電気鉄道旭町駅(本社)のちの遠州鉄道新浜松駅(本社))
(4)遠州電気鉄
道
旭町駅(
本
社)のちの遠州鉄
道
新浜松駅(
本
社) 1927(昭和2)年旭町まで線路をのばした,遠電は、昭和4年4月に
本
社駅ビルを起工、10月13日に完成した。 ,1階は旭町駅、2階は
本
社事務所であったがのちに偕楽亭が2・3階に登場する。 / (4)遠州電気鉄
道
旭町駅(
本
社)のちの遠州鉄
道
新浜松駅(
本
社)
浜松市史 四
([浜松駅、東海道本線の拠点駅へ])
[浜松駅、東海
道
本
線の拠点駅へ] 【機関車の付け換え駅 浜松電化祭 国鉄の人員整理 浜松まつり ハーモニカ,東京─浜松間の電化完成後の昭和二十四年九月十五日には大幅なダイヤ改正が行われ、東海
道
本
線では急行が定期三往復,また、二十五年三月には湘南電車が東海
道
本
線に登場(後述)、五月には「つばめ」の姉妹列車「はと」の運行が,蒸気機関車が牽引したが、浜松駅は急行列車や特急列車などを牽引する電気機関車と蒸気機関車の付け換え駅として東海
道
本
線,特急の五分間の停車時間を利用して二十六年六月から始まった竹山朝生によるラジオ体操であり、いずれも東海
道
本
線 / [浜松駅、東海
道
本
線の拠点駅へ]
浜風と街道:わがまち文化誌
(浜松市立篠原公民館『浜風と街道:わがまち文化誌』 目次)
浜風と街
道
:わがまち文化誌 / 目次 『浜風と街
道
:わがまち文化誌』 浜松市立篠原公民館 平成元年(1989年),愛宕神社 光雲寺 ながさとはし 坪井土橋 88 稲荷神社 東光寺 馬郡観音 如意寺 92 藤田家 東
本
徳寺, 西
本
徳寺 春日神社 97 第4章 篠原の特産たまねぎ ―産業の移り変り― 105 1、明治大正時代, 生活に潤いと節目を ―くらしの様子と年中行事― 133 1、くらしの様子 135 野良仕事 浜
道
,美人塚 173 山伏塚 魚を売る娘(魚籃観音) 波の音(波小僧) 175 比丘尼塚 お釈迦様と日
本
左衛門 / 浜松市立篠原公民館『浜風と街
道
:わがまち文化誌』 目次
浜松市史 一
(神道)
神
道
南北朝時代には『日
本
書紀神代巻』だけで神
道
を説こうとする動きがでてきた。 ,室町時代には、一条兼良(一四〇二-一四八一)が儒教・仏教・
道
教に神
道
を加えた四教の融合を説く神
道
理論を / 神
道
天竜川と東海道:わがまち文化誌
(浜松市立天竜公民館『天竜川と東海道:わが町文化誌』 目次)
天竜川と東海
道
:わがまち文化誌 / " 55 1 昔懐かしい東海
道
57 江戸時代の東海
道
街
道
筋の村々と松並木 傍示杭 板橋,・土橋
道
幅 掃除町場 一里塚 立場茶屋 脇
道
姫街
道
2 現在の主要
道
路 73 旧東海
道
から浜松,バイパスへ 主な県
道
と和国
道
路 愛称標識 3 東海
道
にかかる橋 81 天竜川の渡船 江戸時代の船橋,"東海
道
線の開通と天竜川駅 天竜運輸会社と半場線 現在の天竜川駅 東海
道
を走る乗合馬車 中野町軽便鉄
道
,なりわい 151 1 農業の昔と今 153 戦前の農業 戦後の農業 農業協同組合 温室園芸 全日
本
豚共進会 / 浜松市立天竜公民館『天竜川と東海
道
:わが町文化誌』 目次
浜松市史 一
(旧仏教と神道 伊勢神道)
旧仏教と神
道
伊勢神
道
鎌倉時代の武士や農民は、郷土をまもる神に強い信仰をもっていた。,【天台神
道
真言神
道
】これに対し、天台宗と真言宗では、印度の仏が日
本
にきて、衆生(しゅじょう)を済度(,さいど)するため神になった(
本
地垂迹(ほんちすいじゃく)・神仏習合(しゅうごう))と説いた。,これが天台神
道
・真言神
道
である。,元寇ののち伊勢(伊勢市)の大神宮を中心に伊勢神
道
が成立した。 / 旧仏教と神
道
伊勢神
道
浜松市史 ニ
(本陣)
本
陣 前にも述べたように
本
陣は宿駅における大名・公卿等の宿泊する高等旅館であり、天保十四年ごろには
本
陣,が六軒あった(『東海
道
浜松宿大概帳』)。,【杉浦家】この
本
陣のなかでもっとも古いのは伝馬町の杉浦助右衛門家である。,嘉永三年浜松宿杉浦
本
陣の図 (浜松市菅原町 川島浦治氏蔵) /
本
陣
浜松市史 三
(上水道 上水道規模)
上水
道
上水
道
規模 上水
道
商工業の発展と都市化の進展による飲料水の不足、水質の悪化、特に発展途上の,こうした状況下、市勢の発展と市民の保健衛生維持の見地からも水
道
敷設の必要性が要望され、既述のように都市計画事業,した後、高林地内を南行して中沢町に下り自然流下によって市内低区に配水する線と、喞筒(ポンプ)により姫街
道
に,そのため市当局は「水
道
を引いた家にない伝染病―大童(わらわ)で宣伝の水
道
部」(昭和六年六月二十五日『日
本
民声新聞,』)とか、「水
道
の水を使うと美人になる」と宣伝する美人をのせたり給水の拡大につとめている。 / 上水
道
上水
道
規模
浜松市史 三
(東海道線)
東海
道
線 しかし、これも明治十一年になると、東京・熱田間の全区間が馬車を主とする方式に改善された(下表参照,しかし、これもやがて明治十四年四月になると東海
道
馬車運送は内国通運
本
社によって
本
格的営業が開始され、東海
道
線,の鉄
道
開通まで続くのである。 / 東海
道
線
浜松市史 一
(唯一神道)
唯一神
道
吉田兼倶(よしだかねとも)(一四三五-一五一一)は、神
道
(しんとう)を
本
位に儒・仏二教を統合,した唯一(ゆいつ)神
道
を宣伝した。,のち吉田家の唯一神
道
は、神
道
思想の主流となった。 / 唯一神
道
浜松市史 三
(人車鉄道)
人車鉄
道
なお、四十二年には中泉町(現磐田市)と池田村(現磐田郡豊田町)を結ぶ人車鉄
道
が開通している,(表)浜松地方の民営鉄
道
出願状況 会社名 区間 出願期日 結果 豊橋鉄
道
会社 豊橋-西浜名 明治29.9.18,明治30.4.22却下 浜松〃 浜松-西鹿島 〃29.9.20 〃30.8.7仮免 〃34年失効 姫街
道
〃,〃29.6.17 〃30.4.21却下 奥浜〃 浜松-奥山 〃30.5.15却下 (『日
本
国有鉄
道
百年史 / 人車鉄
道
浜松市史 五
(下水道)
下水
道
【ポンプ場 終末処理場】 昭和三十五年(一九六〇)一月海老塚町地内で下水
道
建設が開始された,水浸しになっている地域には、人工的な排水施設としての下水
道
が必要であった。,下水
道
の終末処理場は瓜内町に設置され、昭和三十七年八月に生し尿の処理を開始した。,雨水を川へ放水、汚水だけを瓜内町の下水
道
終末処理場へ送って処理する仕組みであった。 ,また、同四十一年十月元浜排水区から瓜内終末処理場までの下水
道
本
管がつながり、同年十一月十五日に下水
道
事業 / 下水
道
浜松市史 三
(駅前広場 大安寺新道 踏切 地下道)
駅前広場 大安寺新
道
踏切 地下
道
これらの新設
道
路はいずれも旧来の
道
路に対し
道
幅が広く、ことに駅前,このほかに肴町大安寺下から田町の玄忠寺裏を経て新川へ架けた橋を渡り前記の板屋町新
道
へ出る
道
路(
本
章第一節第二項参照,また駅の新設や鉄
道
線路の敷設によって遮断された
道
路には踏切が設けられた。,旧来の
道
路の拡巾も新
道
路の敷設を機とし、ことに明治二十五年の入枡座(いりますざ)火災後に肴町(幅三尺拡張,東海
道
線浜松駅 / 駅前広場 大安寺新
道
踏切 地下
道
浜松市史 三
(各町の道路)
各町の
道
路 以上は主要な県
道
(大正八年
道
路法の公布によって国
道
・県
道
・郡
道
・町村
道
の別が定められた),について述べたが、浜松の各町でも「我が町の発達を期せんためには先づ
道
路の改良より始めざるべからず」(『,馬込町沿革誌』)というので、例えば馬込町では明治三十四年より大正へかけて町内の
道
路の拡張、新設が十
本
近,くに及んでいるように、浜松町の補助をうけたり、また各町による自主的な
道
路の新設・改修、排水溝の新設がしきりに / 各町の
道
路
浜松市史 ニ
(本末制度)
本
末制度
本
末制度は寺院の
本
山と末寺との関係を定めたもので、この制度によってすべての寺院は
本
末組織に,【齢松寺】これは階層的な統属関係の成立を示すもので、たとえば明和年間、浜松後
道
齢松寺(東
本
願寺の末寺),の住持が遠州の山奥へ棟木をさがしに行っているのも
本
山の命によるものであった(これを物語として記した『遠山奇談 /
本
末制度
浜松市史 ニ
(二筋の姫街道)
二筋の姫街
道
【浜松
道
】いずれにせよ、時代がくだるにつれ、見付宿から東海
道
を西進し、浜松宿大手門前で,東海
道
と岐れ、さらに高町・名残町を経て、三方原の追分にいたる
道
筋が姫街
道
といわれるようになっていったのである,享和三年(一八〇三)八月
本
坂
道
普請のため見分が行なわれているが、そのときも気賀から浜松へ出ているし、天保十四年,『東海
道
浜松宿大概帳』(『浜松市史史料編三』)にも
本
坂通として「大手前」が浜松からの起点となっている。,近世前期の
本
坂
道
や市野宿の状態などは、「青山御領分絵図」によって、くわしく知ることができる。 / 二筋の姫街
道
浜松市史 ニ
(町道の変化)
寛文期において東海
道
通町
道
子二百四十二間、裏(脇)町通
道
千八百六十三間で合計三千百五間であったのに宝暦九年,には東海
道
通町
道
子四百二十一間、脇町通
道
子二百三十一間で合計二千六百五十二間となっている。,これは宿の中心となる東海
道
通町
道
がほとんど変化がないのに脇町通
道
の延長が減縮しているためである。,これを町別でみると減少のいちじるしいのは早馬町・池町・平田町・
本
魚町・大工町・利町・紺屋町・猿屋町などのおもに,これは寛文期において御役六町をはじめ東海
道
通町
道
がすでに固定化していたのに対し、脇町通
道
は町域に明確さを / 町
道
の変化
浜松市史 ニ
(姫街道の名称)
姫街
道
の名称 【三つの説】姫街
道
のいわれにはいろいろの巷説がある。,その一つは婦女子が取調べの厳しい今切関所をさけて
本
坂
道
をえらんだから名づけられたというのである。,また今切という言葉が婦女子にとって縁切れに通ずる不吉のひびきがあるので、
本
坂
道
をえらんだから姫街
道
と呼 / 姫街
道
の名称
浜松市史 一
([神道])
[神
道
] 天台宗・真言宗は、神に対する信仰をとりいれ、新仏教に対し巻き返しをはかった。,すなわち元寇を機会とし、日
本
は神にまもられる神国だとの「神国思想」をひろめた。 / [神
道
]
浜松市史 ニ
(本陣の規模)
本
陣の規模 街
道
筋でこのような
本
陣が六軒も設けられていたのは東海
道
では箱根宿と浜松宿のみである。,
本
陣の規模は上表のとおりである。 ,「今宵の宿は
本
陣にて伊藤平左衛門といふ。上段と思しき所にあげ畳あり。,
本
陣 凡建坪272坪 伝馬町(杉浦助右衛門) 壱軒 門構玄関付
本
陣 凡建坪180坪 伝馬町(梅屋市左衛門,) 壱軒 門構玄関付
本
陣 凡建坪163坪 伝馬町(川口次郎兵衛) 壱軒 門構玄関付
本
陣 凡建坪225 /
本
陣の規模
浜松市史 三
(遠州軌道株式会社 遠州電気鉄道株式会社)
遠州軌
道
株式会社 遠州電気鉄
道
株式会社 そののち第一次世界大戦による好況の波が輸送機関にも及ぶと、鹿島線,こうなると西遠地方の今後の発展のためにもまた北遠地方の開発のためにも、いつまでも鹿島線を大日
本
軌
道
株式会社,の浜松支社のもとに委ねておくべきではないという地元の声が高まり、天竜運輸株式会社の主唱により大日
本
軌
道
株式会社浜松支社,からその営業権を譲り受け、地元資
本
をもって新会社を創立することになった。,そして社名を遠州軌
道
株式会社(資
本
金一〇〇万円、社長竹内竜雄)と称することになった。 / 遠州軌
道
株式会社 遠州電気鉄
道
株式会社
浜松市史 一
(漆部造道麻呂)
漆部造
道
麻呂 『続日
本
紀』の文武天皇四年(七〇〇)八月二十二日条にみえる勤広壱漆部造(きんこういちぬりべのみやつこ,)
道
麻呂は、文献に名をあらわした最初の遠江守である。,続日
本
紀 版
本
文武天皇四年条遠江国司の記事 / 漆部造
道
麻呂
浜松市史 一
(国造本紀)
国造
本
紀 遠江の地域にあった国造として確実な文献にみえるものは、この遠江国造ただ一つであるが、このほかに,、『先代旧事
本
紀』巻十の国造
本
紀には、なお二三の国造名がみえている。,この『先代旧事
本
紀』(略して旧事紀)は、しかし、偽書であることがすでに明らかにされているものなので、これを,信用することは史学の正
道
としてはできるわけのものではない。,ことに、その巻十の国造
本
紀は、全国百数十の国造名を列挙した、他に類をみないまとまった内容のもので、記紀 / 国造
本
紀
浜松市史 ニ
(山本源吉)
山
本
源吉 この源吉は浜松宿肴町に生まれ、通称源右衛門という。,後年青木元悦と改め、出家して
道
佐と号(別号考祥)した。,【浜の松風】『浜の松風』は源吉の門人近藤玄瑞(号橘井斎淡山、磐田郡豊田村森
本
、医師)が、寛政九年(一七九七,【浜松の四天王】その序文に山
本
源吉を「浜松の四天王と衆人称せり」と記している(四天王とは渡辺蒙庵・賀茂真渕,・山
本
源吉・小篠大記)。 / 山
本
源吉
浜松市史 ニ
(正光寺竜道貫)
正光寺竜
道
貫 さらに豊西村上石原(当市豊町)の正光寺第十二世竜
道
貫和尚は安政年間(一八五四-一八五九,寺子に積志村上前島(当市大島町)の橋
本
茂登治(犬居村秋葉神社宮司)がある(『浜名郡積志村村誌』)。 / 正光寺竜
道
貫
浜松市史 三
(中道朔爾異礼)
中
道
朔爾異礼 中
道
朔爾(後述)は詩の個人雑誌『異礼』を大正十二年発刊している。,のため鴨江快真寺付近に住み、兄儀一郎(同志社大学神学部講師、大正十三年没)の感化をうけて詩をつくり『日
本
詩人,また永田武之(三木露風門下)・後藤國
道
なども詩作をしている。 / 中
道
朔爾異礼
浜松市史 ニ
(姫街道の重要性)
姫街
道
の重要性 浜名湖の今切の渡船をさけて通行がしげかったので、幕府でも重視した
道
で『
本
坂御往来留書,一七〇八)まで八十六年間、すなわち近世初期における諸侯通行の概略が記されているが、これによってもこの街
道
が,脇
道
と呼ばれるようなものでないことがわかる。,明和元年(一七六四)には
道
中奉行の支配に属している(『御触書天明集成』)。 / 姫街
道
の重要性
浜松市史 三
(浜松鉄道株式会社)
浜松鉄
道
株式会社 奥山方広寺のある引佐郡奥山方面や三方原などを浜松と結ぶ浜松鉄
道
株式会社は、はじめは,四年五月に浜松鉄
道
株式会社と改称し、
本
社(大字元目町)を新設の元城駅へおいた。,同年九月元城駅から大日
本
軌
道
株式会社の板屋町駅までの路線も完成した。,する案)・篠原と掛塚間軽便鉄
道
・湖岸循環鉄
道
(浜名湖遊覧鉄
道
)・伊場と雄踏山崎間鉄
道
計画など立案されては,【光明電鉄】以上の他に静岡県西部地方には、光明電鉄株式会社(大正十四年六月設立、
本
社磐田郡中泉町、現磐田市 / 浜松鉄
道
株式会社
浜松市史 五
([新しい道路])
[新しい
道
路] 都市計画事業のうち、重要幹線街路の整備を進める一方、昭和三十七年三月に国の認証を経て,浜松市都市計画街路を決定、二十年後の完成を目標に環状線、放射
道
路など四十七
本
が決まった。 / [新しい
道
路]
浜松市史 ニ
(姫街道の通行停止)
姫街
道
の通行停止 【浜松宿への影響】これは浜松宿をはじめ東海
道
の諸宿にとって「御役難勤渡世経営不罷成迷惑,その結果
本
坂
道
通行の差留となったのが享保二年(一七一七)十一月で、地震以後十一年目であった。,といっても、享保三年四月には浄円院(将軍吉宗の生母)の通行があるというようなわけで、やはり
本
坂
道
を往復 / 姫街
道
の通行停止
浜松市史 ニ
(東海道往還通)
東海
道
往還通 浜松城主松平富之助資昌の命により宝暦九年(一七五九)に浜松町奉行川原甚左衛門が浜松宿内各町,これによると、東海
道
往還通の長さは二十三町四十八間、町数二十四町、家数千六百九十八軒を数える都市であった, 町名 総軒数(軒)
本
役家数(軒) 借屋(軒) 借地(軒) 店借(軒) 庄屋(軒) 問屋,#160; 片側55 2.3 有 火 18
本
魚町,馬 火 茶 西60 諏訪大門
道
21 紺屋町 114 47 35 2 北113 2.5 袋町 / 東海
道
往還通
浜松市史 四
(岡本廣司)
岡
本
廣司 【『詩旗』 「西遠詩界の思い出」】 『巣』が廃刊となった昭和二十七年の十月、岡
本
廣司らを,同誌の歴史は、平成五年刊行の百号記念特集号の岡
本
の文章に詳しい。,浦和と岡
本
との詩人としての交友関係は極めて長く、かつ親密でまさに盟友関係にあった。,第三十九号(昭和三十七年六月)]には、「最も親しい僕の友として、また好伴侶として三十年余り一途に詩の
道
を,歩いて来た岡
本
広司」云々とも記している。 / 岡
本
廣司
浜松市史 ニ
(姫街道と宝永地震)
姫街
道
と宝永地震 姫街
道
が脇往還としてもっともその機能をあらわしたのは、宝永四年(一七〇七)十月四日,の東海
道
地震の直後であった。,「今切之渡海広罷成故、浪荒渡舟不自由」(「宝永の災害」『細江のあゆみ』3号)になったので、一時に姫街
道
に,『
本
坂御往来留書』にも「五日之朝より
本
坂江往還之旅人荷物迄通り享保二酉年迄御通行繁有之」とあって十月四日 / 姫街
道
と宝永地震
浜松市史 一
(日本書記の伝説)
日
本
書記の伝説 『日
本
書紀』には、崇神天皇の時の四
道
将軍の派遣や、景行天皇の治世の日
本
武尊の東方征伐,しかし、『日
本
書紀』の紀年が、六世紀前半、欽明天皇のあたりまではことにあてにならず、また、記事そのものにも,これを史実として認めるだけの根拠がないことは明らかであって、大和朝廷の勢力発展の姿は、一応このような『日
本
書紀 / 日
本
書記の伝説
浜松市史 五
(天竜浜名湖鉄道)
天竜浜名湖鉄
道
昭和六十一年八月、国鉄に代わる事業主体として第三セクターの天竜浜名湖鉄
道
株式会社(資
本
金六億三千万円,運輸審議会は、同年十一月、二俣線の運営を引き継ぐ天竜浜名湖鉄
道
会社と、線路、駅舎などの無償譲渡についての,こうして、昭和六十二年三月十五日に天竜浜名湖鉄
道
株式会社が開業した。 ,【レールバス】 天竜浜名湖鉄
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では、それまでの気動車に代わって小型ディーゼルカー「レールバス」が運行 / 天竜浜名湖鉄
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浜松市史 五
([道路計画の策定])
しかし、乗用車をはじめとする自動車台数の急増に比して国
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一号線など浜松地域の幹線
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路は、
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幅が狭く整備,【都市計画街路】 こうした中、浜松市は大正十五年につくられたものを見直して
本
格的な都市計画街路を作成,この都市計画街路によれば、内・外環状線、八
本
の放射状街路、国
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一号線バイパス(後述)、東海
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線へのこ線橋,の設置など、
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路幅五十メートルから十一メートルまでの幹線
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路四十七
本
(総延長二百三十三キロメートル、うち,以後、都市計画街路の街路数、路線名・路線区間等に変更はあるものの、市の
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路整備は基
本
的には同計画に基づいて / [
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路計画の策定]
浜松市史 三
(上水道候補地)
上水
道
候補地 上水
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問題を生じたのは大正十三年であった(後述)。,ここに於て市は上水
道
計画を即行するか延期をするかの採択を迫られることとなったが、市としては飲料水問題は,捨ておきがたい問題ということで他の事業は延期しても敷設即行を決定し、工事費は市債・増税、又は市の基
本
財産 / 上水
道
候補地
浜松市史 一
(東日本の状態)
東日
本
の状態 これに反して、東北日
本
では、食物採捕の生活が一層強化安定したことを思わせる事例が多くなる,骨角器(骨や角で作った
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具類で主として漁具が含まれる)の類が一段と進歩しているのもそのためであろう。 / 東日
本
の状態
浜松市史 三
([遠州電気鉄道])
[遠州電気鉄
道
] 遠州電気鉄
道
株式会社は、その前身は浜松鉄
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株式会社と称し、明治四十年(一九〇七)四月,わが国の私鉄王と呼ばれた雨宮敬次郎の参画を得て創立された会社であったが、翌年五月には雨宮の経営する大日
本
軌
道
株式会社 / [遠州電気鉄
道
]
浜松市史 一
(遠江と三河をむすぶ道路)
遠江と三河をむすぶ
道
路 【
本
坂路 浜名峠路 中山峠路 大知波峠路 浜街
道
】遠江と三河をむすぶ
道
路は、,
本
街
道
・
本
坂路のほか、浜名峠路・中山峠路・大知波峠路・浜街
道
がある。 ,しかし室町中期までの湖西地方の東海
道
は、三河からいまの湖西町新所原・吉美・古見をへて橋
本
の裏山にあたる,猪鼻坂から橋
本
にかせられた浜名橋にかかった。,現在の白須賀経由の街
道
は、戦国時代に開け急速に発達したという(彦坂良平「古代街
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に関する一考察」『湖西 / 遠江と三河をむすぶ
道
路
浜松市史 三
(日本楽器会社)
日
本
楽器会社 【オルガン製作 中村藤吉】日
本
楽器製造株式会社 山葉寅楠(やまはとらくす)によって創立,され、初め山葉風琴(ふうきん)製造所(のちに山葉楽器製造所)と称し、浜松宿七軒町(菅原町)の旧修
道
学校跡,普大寺が廃寺となっていた跡地)に仮工場を設け、明治二十一年三月わずか十人ほどで風琴つまりオルガンの製作を
本
格的,に開始したが、二十二年三月資
本
金三万円の合資会社を組織し中村藤吉の後援を得て、浜松町八幡地(現在の旭町,の株式会社となし、日
本
楽器製造株式会社と改名するにいたった。 / 日
本
楽器会社
浜松市史 四
([神道指令以後])
[神
道
指令以後] 【神
道
指令 国体 人間宣言】 神
道
指令の徹底化は、昭和二十年十二月二十九日付で,ここに国家神
道
は終わりを迎えた(北庄内村役場文書「神社関係綴」)。,統治権を総攬するという「国体」の下の軍国主義、極端な国家主義教育を否定するために、十二月三十一日、日
本
歴史 / [神
道
指令以後]
浜松市史 四
([神道指令を再指導])
[神
道
指令を再指導] 【神
道
指令 神
道
指令違反】 先には昭和二十一年一月十九日付で、教育界における,に潜む宗教行為を、国家神
道
否定の原理から峻別することであった。,国家神
道
下の慣行に鎧われた宗教行為を一刀両断で改めることの困難さは、日
本
各地で神
道
指令違反として顕在化,通達は
本
(内務)省及終戦連絡東海北陸事務局長よりの通知で、「各県とも一層の趣旨徹底に努力されたい」と、,昭和二十一年十一月三日に公布され、翌年五月三日から施行された日
本
国憲法の下、神
道
指令を遵守する宗教事務 / [神
道
指令を再指導]
浜松市史 四
([浜松鉄道病院])
[浜松鉄
道
病院] 【浜松鉄
道
病院 静岡と浜松の二つの鉄
道
病院】 原則的には一般市民に開放されている,病院とは言えないが、企業内診療所の代表例としては浜松鉄
道
病院がある。,が誕生し、
本
庁の方針として一局一病院が貫徹され、すでに静岡鉄
道
病院が建設されていたために浜松病院実現は,これにより静岡鉄
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管理局管内には、静岡と浜松の二つの鉄
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病院が設営されたことになる。 ,国鉄浜松工場機関紙『はままつ』の昭和三十八年二月号によれば、鉄
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病院が新幹線
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床工事地点に相当し、解体撤去 / [浜松鉄
道
病院]
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