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都田風土記:わが町文化誌
(浜松市立都田公民館『都田風土記:わが町文化誌』 目次)
都田
風土記:わが町文化誌 / 目次 『
都田
風土記:わが町文化誌』 浜松市立
都田
公民館 平成6年(1994年),24 (3)
都田
川と人々の生活 26 (4)清流に鮎を求めて-
都田
川漁業協同組合 29 四 自然災害,のこと 52 (7)滝沢は「タツサ」か 54 (8)上
都田
と下
都田
56 (9)鷲沢の阿弥陀堂の,(2)
都田
農業協同組合発展のあゆみ 122 七 商業と工業 124 (1)
都田
地区の商業 124,に 278
都田
地区の方言・訛 285
都田
地区内における世帯の名字一覧 289
都田
地区歴史年表 / 浜松市立
都田
公民館『
都田
風土記:わが町文化誌』 目次
浜松市史 一
(都田御厨)
都田
御厨
都田
(みやこだ)御厨 市内
都田
町にあたる。,元暦(げんりゃく)元年(一一八四)三月、源頼朝は伊勢の皇大神宮に
都田
御厨を保証した(『吾妻鏡』)。 /
都田
御厨
浜松市史 一
(都田御厨)
都田
御厨 【井伊氏領】
都田
御厨 『蜂前(はちさき)神社文書』によると、永禄(えいろく)十一年(一五六八,)には、井伊氏が
都田
(みやこだ)に給人(きゅうにん)をいれている。,井伊氏が
都田
御厨を所領にしてしまったのは、天文(てんぶん)のころ(一五三二-一五五四)と考えてよいようである /
都田
御厨
浜松市史 一
(都田御厨)
都田
御厨 さらに、『兵範記裏文書』の中の、仁安二年(一一六七)八月の大中臣公宣申状には、
都田
御厨が先祖三代,この時は、
都田
御厨が近年、在庁官人の訴えによって一時停止せられたことを歎き、その復活を望み、この
都田
御厨,大中臣公宣申状
都田
御厨の記事(京都大学図書館蔵兵範記裏文書) /
都田
御厨
浜松市史 ニ
(都田川流域)
都田
川流域 【下
都田
村】
都田
川流域では安政四年(一八五七)に下
都田
村と川下の祝田・上刑部・中刑部・下刑部 /
都田
川流域
浜松市史 一
(都田御厨)
都田
御厨 【広島氏 堀江氏】
都田
御厨 現作田は八十九町歩、上方と下方にわかれている(『宮司公文抄』),翌年六月、幕府は遠江の守護に、
都田
御厨を、また、至徳元年(一三八四)八月そこの半済分以外を同じく公定の,【東寺領】『東宝記草本裏文書』五には、毎月廿一日の論義の対象として「遠江国
都田
御厨五百貫云々」とある。 /
都田
御厨
浜松市史 一
(都田遺跡群)
都田
遺跡群 同じ
都田
の盆地内には、川山遺跡(第21図21)があって、年代的にも同時期とみられる。,この二遺跡をあわせて、
都田
遺跡群と呼んでもよいだろう。 /
都田
遺跡群
浜松市史 一
(都田川の下流)
都田
川の下流 滝沢から
都田
へ向かう間の
都田
川はS字状に蛇行しつつ方向を変じて沖積平地に出る。,
都田
川が西南流する下流域の南側には三方原台地がひろくひろがり、その北縁は急斜面をもって
都田
川の沖積平地,【
都田
金指 気賀】これとは別に
都田
・金指・気賀などこの川流域の主要集落を載せている一段低い段丘面は、,これらの段丘はかつての
都田
川が運んだ堆積物で構成され、上部はチャートの礫を主とした礫層、下部は泥層からなる /
都田
川の下流
浜松市史 ニ
(都田川の出水)
都田
川の出水 また
都田
川では享保十八年に堤防が破壊したので翌十九年、上
都田
・下
都田
の両村は村中連判で,そのため年貢の小割にも遅れ志都呂陣屋(旗本松平氏、当時は肥前守忠根)で村役人たちは譴責を受けている(「
都田
村年代手鑑 /
都田
川の出水
浜松市史 ニ
(都田川の鮎漁)
都田
川の鮎漁
都田
川では鮎(あゆ)が採れ、その上流の久留米木川は滝沢(当市滝沢町)・川名村等の入会で,、毎年六月川狩をして金指陣屋(旗本近藤家)に献納し(「文久元年御用鮎割合帳」『
都田
村郷土誌』)、
都田
鮎 /
都田
川の鮎漁
浜松市史 一
([都田川流域])
[
都田
川流域] 【渋川温泉 引佐細江】
都田
川は北遠唯一のリチウム鉱泉として早くから知られている渋川温泉,東南流し、浜松市域の最北端にある滝沢付近では景勝地滝沢渓谷を形成しつつ、流路を南にかえ、さらに国鉄二俣線
都田
駅東方 / [
都田
川流域]
浜松市史 一
(都田川の上流)
都田
川の上流
都田
川の発源地である浅間山付近一帯は、角閃石ばかりで組成されている角閃岩の大きな岩体から /
都田
川の上流
浜松市史 三
(遠美鉄道 二俣線 都田駅)
遠美鉄道 二俣線
都田
駅 政府も大正九年に遠江と三河・美濃方面を結ぶ遠美鉄道(遠江掛川駅より中央線大井町駅間,工事があったが、十一年十二月には豊橋駅と三ケ日駅間のいわゆる二俣西線が開通、十三年四月には三ケ日駅と
都田
駅間,、十五年六月には
都田
駅と森町駅間が開通し、全線の営業となった。,ことに新設の引佐郡
都田
村(現在当市
都田
町)の
都田
駅は浜松北部の新しい玄関口で、この日
都田
村は村をあけて,開通への喜びにひたった(富田準作『
都田
村郷土誌』、『三ケ日町史』)。 / 遠美鉄道 二俣線
都田
駅
浜松市史 一
([都田古墳支群])
[
都田
古墳支群]
都田
町の須部・吉影・横尾・谷上・中津・一色などの丘陵上にも、後期の古墳が群をなしている,これらを一括して
都田
古墳支群と呼ぶ。 ,こうした単位群は一五ほどあって、これが大きく
都田
支群を構成している。,(表)第12表
都田
古墳支群の規模 規模 数 26m 1 (前方後円墳) 19~25 0 16~,第31図
都田
古墳支群(右上)と敷智古墳支群の分布 / [
都田
古墳支群]
浜松市史 五
([都田川農地防災ダムの建設へ])
[
都田
川農地防災ダムの建設へ]
都田
川は引佐郡引佐町北部と愛知県鳳来町との境界鳶巣山南斜面に源を発し,れが早く、中流部は川幅が狭いため、洪水により農地や施設に多くの被害を与えてきた(県公式ホームページ「
都田
川,【
都田
川ダム】 昭和四十一年(一九六六)三月、静岡県は
都田
川の災害防止のため、引佐町東久留女木新田,これは洪水に苦しんでいた下流の人々でつくる
都田
川改修促進期成同盟会などの陳情を受けてのものであった。,同四十五年四月
都田
川ダム建設事務所が設置されて工事を開始、翌年十一月には水没補償の調印も終了した。 / [
都田
川農地防災ダムの建設へ]
浜松市史 三
(開拓団の労苦と撤収 都田町白昭)
開拓団の労苦と撤収
都田
町白昭 最初は開拓団の共同経営として開拓に着手、五年後には各自十余町歩の耕地,浜松市
都田
町白昭はこれらの人たちの開拓した地である。 / 開拓団の労苦と撤収
都田
町白昭
浜松市史 一
([吉影遺跡])
[吉影遺跡] 以上は、天竜川平野部の遺跡であるが、それとは別に、
都田
川流域にも有力な遺跡がいくつか形成,中でも
都田
町吉影遺跡(第21図22)は、多くの資料を出してよく知られている。,それは、
都田
川の改修工事が行なわれつつあったころのことであるが、その工事現場には月岡氏の姿がみえない日,吉影遺跡は、
都田
川の流れが瀬戸の隘路にさしかかる手前の位置にあるが、そこは
都田
の盆地の入口にあたり、湿地帯,第22図 浜松市内出土後期弥生式土器 上段
都田
町吉影出土(
都田
中学校蔵)
浜松市史 ニ
(地狂言)
『
都田
村年代手鑑』の記録を要約すると「寛保三年(一七四三)九月十六日、上・下
都田
村で金三両、米四斗出し,、下
都田
片瀬、向山で一同狂言をした。,
都田
の舞台(浜松市
都田
町 須倍神社境内)
浜松市史 三
(小村の合併)
【大山村 協和村 人見村 和合村 両追分村 都盛村 有玉村
都田
村 三新村】また諸制度が改められるにつれ,恩地・石原・本郷・西恩地・安松・弥十村合併)・有玉村(下・畑屋・町田・上瀬・松木島・新・欠下村合併)・
都田
村,(上
都田
・下
都田
村合併)・三新村(掛塚村のうち辰新田・向新田・茅野新田村合併)などが新設され、土呂新田, 新半田村 半田村 下村 畑屋村 町田村 有玉村 上瀬村 松木島村 新村 欠下村 引佐郡 上
都田
村, 下
都田
村
都田
村 豊田郡 掛塚村のうち辰新田 向新田 三新村 茅野新田
浜松市史 三
(金原孫四郎)
金原孫四郎 金原孫四郎(明治二十九年没、七十九歳)、
都田
村の人。,
都田
川の疏水や郷の平の開墾に尽力。,
都田
報徳社を創立した(鷲山恭平『安居院義道』、『静岡県人物誌』)。
浜松市史 一
([浜松地方の中期古墳文化])
[浜松地方の中期古墳文化] 古墳時代中期に入ると、天竜川下流域の台地縁辺部と、
都田
川流域に新たに古墳,また、独立的な古墳としては、天竜市光明山古墳・浜北市於呂古墳・浜松市入野古墳などが築造されたし、
都田
川流域,中期前半に引佐町馬場平古墳が、単独墳として成立し、中期後半には細江町陣座ヶ谷古墳・浜松市将軍塚古墳・
都田
山古墳,などが、
都田
川流域の古墳群の核として形成されたのである。
浜松市史 三
(郷土研究出版物)
【
都田
村郷土誌】『水乎都久志』(昭和十一年宝林堂刊)『
都田
村郷土誌』(昭和十五年宝林堂刊)は富田準作(,引佐郡
都田
村)著。,富田はそのほか『引佐郡郷土調査誌』(昭和九年刊)『西遠人物誌』(昭和十年刊)『引佐郡
都田
村食物習俗調査,』(昭和十七年刊)『
都田
村郷土実態調査』(昭和二十二年刊)などに協力している。
浜松市史 ニ
(大峰講)
大峰講 大峰講 大峰講は大和大峰(奈良県吉野郡)を信仰する講で、
都田
村では年三回(四、七、十月)に講,当夜青竹に御幣をかけたものを持って、先頭の者が法螺(ほら)貝を吹き鳴らし、
都田
川にこの御幣を立て、みそぎする,宿へ帰って神前で一同掛軸を拝し、終って精進料理で会食する(富田準作『
都田
村郷土誌』)。
浜松市史 ニ
(宝永地震)
【元文期】また上
都田
(かみみやこだ)村・下
都田
(しもみやこだ)村・笠井新田村・志都呂村では元文元年(一七三六,【明和期】ところが明和五年(一七六八)になると上
都田
村・下
都田
村では拝借米について紛争を生じ、村民は庄屋,おそらく
都田
村に類する事件があったのだろう(「
都田
村年代手鑑」『浜松市史史料編二』)。
浜松市史 一
(石灰岩地 伊平層)
石灰岩地 伊平層 浜松市域の北方を流れる
都田
川流域の山地は赤石山脈が西南に低下する老年期の地貌を呈し,【
都田
川】こういった地質構造にほぼ直交して流れるのが
都田
川であるから、この川の流域を歩けば北部山地の状態,
都田
川流域の山地(浜松市滝沢町)
都田
川の渓谷(浜松市滝沢町)
浜松市史 一
(須倍神社)
都田
町字神明風呂にある。 須倍神社(浜松市
都田
町)
浜松市史 五
(浜名湖北部用水事業)
浜名湖北部用水事業 【ミカン園
都田
川ダム】 昭和五十年、浜名湖北部地域に農業用水を安定的に供給,この地域は
都田
地区から引佐郡引佐町・細江町・三ヶ日町にまたがる地域で、ミカン園が多く点在しており、ミカン,用水の水源は
都田
川の上流で、引佐町の東久留女木新田(左岸)と同町川名(右岸)に
都田
川ダムを建設し、そこから
浜松市史 五
([主要道路の建設と道路整備])
国道二五七バイパス浜松環状線と国道二五七号が交差する三方原町交差点から東へ同バイパスと後述する中ノ町
都田
線,【中ノ町
都田
線(テクノロード)】 テクノポリス
都田
開発区の造成に合わせて昭和六十三年から整備を進めていた,から
都田
開発区までの四車線の新道(三・七キロメートル)が平成三年八月六日に開通した。,これは通称満州街道の東側に
都田
テクノポリスへのアクセス道路として建設されたもので、これに伴い旧満州道路,
都田
開発区内の道路のうち、中ノ町
都田
線や横尾線、横尾川山線など延長三十一・一キロメートルの道路が全て完成
浜松市史 ニ
(旅興行)
時代は明治になるが、同五年(一八七二)九月、下
都田
村(当市
都田
町)の空地で、市川鶴治郎一座の歌舞伎が四日間上演,され(富田準作『
都田
村郷土誌』)、また同八年十月には、海老塚村(当市成子町)の大厳寺境内に、嵐歌女助一座
浜松市史 三
(河西哲英慰霊碑 銅像の流行)
昭和二年五月三日には豪雨のため
都田
川が増水し、
都田
小学校では通学区ごとに教師を附添わせ帰宅させたが、そのさい,あたかもせまりくる不況下に教育者の精神作興を唱える政府の方針に支えられ、翌年五月に
都田
川畔に慰霊碑が建
浜松市史 一
(その他の中期古墳)
そこで外観だけから判断してほぼ中期で間違いなかろうと思われる古墳は、
都田
町一色の恩塚山山頂にある将軍塚古墳,(二段築成の円墳、基底径二五メートル、高さ三メートル)・
都田
町中津の
都田
山第一号墳(円墳、基底径三一・
浜松市史 四
([有線放送電話の開始と農村])
【
都田
農協】 こうしたなか、浜松市では
都田
・滝沢・鷲沢の三町で
都田
農協が中心となって,
都田
農協建物の一部を改造した放送室から五十回線の電話線で加入者を結び、放送のほか各加入者が自由に通話できる
浜松市史 ニ
(天明の騒動)
【中郡方面
都田
方面】浜松北部地方でも人心の不安がつづき天明四年十一月十八日には小松村八右衛門・芝本村林蔵,襲撃をうけるというさわぎがあったが(『内山文書』)、同六年(一七八六)は「秋中雨ふり」「大違作」で、上
都田
村,・下
都田
村では「百姓不残」折よく出張してきた領主松平家の役人に減免を「押而願」ったところ、かえって咎めをうけて,主謀者利右衛門は「欠落」をし、ついに「永尋」になる始末であった(『
都田
村年代手鑑』)。,『
都田
村年代手鑑』はこの間の消息を「中郡辺百姓そうどう有之、家潰申候」と伝えている。
浜松市史 一
(古代編)
(方)墳と中期の円墳図 二〇四 三方原古墳支群の分布図 二〇八
都田
古墳支群,と敷智古墳支群の分布図 二一二
都田
町恩塚山B群7号墳 石室実測図 ,二一四
都田
町中津郷ケ平第6号墳出土の人物埴輪(鈴木常弘氏蔵) 二一五 豊町蛭森古墳の主な副葬品(,浜松市立郷土博物館蔵) 二一六 西遠地区の古墳群図 二二〇
都田
町中津坂上遺跡出土, 三一三 池田庄立券文案 巻尾(京都 松尾神社蔵) 三一四‐三一五 大中臣公宣申状
都田
御厨
浜松市史 三
(小屋掛興行)
晴天七日間の興行をしているし(渥美静一「演劇に見えたる遠江」『土のいろ』第十六巻第一号)、同五年九月下
都田
村,(当市
都田
町)の空地で市川鶴治郎一座が四日間歌舞伎興行している(富田準作『
都田
村郷土誌』)。,興行したり、また近村を小屋掛興行してまわる宇布見村(雄踏町)の坂東国四郎(本名中村留次郎)一座とか、
都田
浜松市史 ニ
(天保八年の飢饉)
入野村では村の主だったものが扶食米を差し出し、村役人宅で粥施行をし(『変化抄』)、
都田
方面でも春干菜にも,殿様」(旗本松平家)から救米があり、年貢にこまる村々へはやりくりをし「一同しづかに暮し」たという(『
都田
村年代手鑑,
都田
村年代手鑑 部分(浜松市
都田
町 坂本柳次氏蔵)
浜松市史 ニ
(服部菅雄)
服部菅雄 服部菅雄は引佐郡下
都田
村(当市
都田
町)富田家に生まれ、寛政十年(一七九八)に駿河島田の服部家
浜松市史 一
(滝沢渓谷)
滝沢渓谷
都田
川流域第一の景勝地は滝沢付近である。,ここでは
都田
川が古生層山地を下刻して峡谷状を示し、谷壁付近では砂岩・粘板岩の露頭が連続し、峡谷中にはチャート
浜松市史 ニ
(三番叟)
この三番叟は安政四年(一八五七)
都田
村の幸三郎という村芝居の振付けによって教えを受けたのが始まりである,これによってみても、
都田
村の地狂言が盛んであったこと、とくに三番叟はとなりの東三河地方にも相当影響をおよぼしたことがうかがわれる
浜松市史 一
(支湖と入江 川と湖岸平野)
湖内に流入する川は土砂を流して湖面を徐々に縮めてゆく、湖岸平野中かなり大きいのは
都田
川の下流と、猪鼻湖,【
都田
川デルタ】
都田
川の出口には小規模のデルタができている。 佐鳴湖
浜松市史 五
(テクノポリス)
テクノポリス 【浜松地域テクノポリス基本構想
都田
開発区 先端技術産業】 昭和五十五年三月に通産省,同年四月一日には
都田
地区開発事務所を開設して開発区域と土地利用計画案を策定、同六十年からは用地買収の契約,を開始、同六十一年度から浜松地域テクノポリスの中心地(
都田
開発区、二百四十三ヘクタール)をつくるべく西遠広域都市計画事業
都田
土地区画整理事業
浜松市史 三
(佐鳴湖)
都田
川では鮎(あゆ)・うぐい・蟹(かに)を産した(富田準作『
都田
村郷土誌』)。
浜松市史 一
(大神宮領)
そして、現浜松市域に含まれる地としては、有名な蒲御厨・
都田
(みやこだ)御厨があり、池田御厨の名もみえる,西遠所在御厨(神鳳抄による) 御厨名 面積・貢物 現在地 尾奈御厨 55丁(米,絹) 引佐郡三ケ日町尾奈
都田
御厨,上分田見作89町 浜松市
都田
町 蒲御厨 550丁(米) 〃 神立町辺 刑部御厨 100余丁(魚,米
浜松市史 ニ
(お鍬祭)
つづいて
都田
村(当市
都田
町)方面では「明和四年亥年、此年伊勢磯部様より御鍬祭り初り」、五月には神主文右衛門,の伜市兵衛が御鍬神を迎えに下向し、上下
都田
村をはじめ近隣の村々は大神宮御鍬まつりなどと染めぬいた幡(はた
浜松市史 四
([近郊の行楽地])
【
都田
川ハイキングコース サンドスキー】 昭和三十年三月に浜松市へ合併した
都田
地区,には
都田
川の渓流や滝などを巡るハイキングコースが作られ、また、市内唯一の
都田
発電所や鍾乳洞を訪れる市民
浜松市史 四
([大規模ミカン園の開発])
大規模ミカン園の開発] 【滝沢 ミカン ミカン園 竹内猪熊 西遠柑橘開拓農業協同組合】 引佐郡
都田
村,戦時中は食糧増産のために栽培面積は減少したが、戦後間もなくミカン栽培は復活、特に昭和三十二年ごろからは
都田
地区,昭和三十三年には三方原台地の北端に当たる
都田
町東原地区に、麁玉村宮口で織物工場を営む竹内猪熊がミカン園
浜松市史 ニ
(元和の野論)
中泉代官所(天領)の奉行中野七蔵が遠江の知行割をしたとき、三方原に野米二十七石を課しこれを地元の和地・祝田・
都田
,和地村は浜松領、祝田・
都田
両村は井伊谷近藤領であったからである。,このようにして原野はのちに境界が定められて入会地となるのであるが、林地は和地山・祝田山・
都田
山等となるので
浜松市史 ニ
(慶安の野論)
慶安の野論 【寛文の野論】ついで慶安四年(一六五一)には地元の
都田
村と入会村の宮口村とのあいだに山境,について論争(野論)があったが、
都田
村に有利に解決し、そののち寛文五年(一六六五)に地元の祝田村と入会村,それにもかかわらず寛文十二年には
都田
村農民が「三方原之内」に新田百石を開墾しようとして「中郡」の農民とのあいだに
浜松市史 一
([祭祀跡])
都田
町中津の坂上遺跡で発見された多数の土製品は、その祭祀遺物である。,腰当一 ⑤人形 男性五・女性五・子供三・不明一二 ⑥獣形 犬三 ⑦他に破片四六片 第36図
都田
町中津坂上遺跡出土,したものと思うが、地名の坂上(さかうえ)と関連づけて「坂神」を祭ったものだという意見もある(向坂鋼二「浜松市
都田
町中津坂上発見
浜松市史 五
([和太鼓の団体の活躍])
・浜松護城太鼓(昭和五十五年設立、十四名) ・太鼓衆「無」(設立年時不明、三名) ・
都田
九重,
都田
九重太鼓愛好会初代会長の内沢繁によれば、前記六団体のうち今も続いているのは
都田
九重太鼓と浜松護城太鼓
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