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浜松市史 三
(郷土研究出版物)
【
都田村
郷土誌】『水乎都久志』(昭和十一年宝林堂刊)『
都田村
郷土誌』(昭和十五年宝林堂刊)は富田準作(,引佐郡
都田村
)著。,富田はそのほか『引佐郡郷土調査誌』(昭和九年刊)『西遠人物誌』(昭和十年刊)『引佐郡
都田村
食物習俗調査,』(昭和十七年刊)『
都田村
郷土実態調査』(昭和二十二年刊)などに協力している。
浜松市史 三
(小村の合併)
【大山村 協和村 人見村 和合村 両追分村 都盛村 有玉村
都田村
三新村】また諸制度が改められるにつれ,恩地・石原・本郷・西恩地・安松・弥十村合併)・有玉村(下・畑屋・町田・上瀬・松木島・新・欠下村合併)・
都田村
,(上都田・下
都田村
合併)・三新村(掛塚村のうち辰新田・向新田・茅野新田村合併)などが新設され、土呂新田, 新半田村 半田村 下村 畑屋村 町田村 有玉村 上瀬村 松木島村 新村 欠下村 引佐郡 上
都田村
, 下
都田村
都田村
豊田郡 掛塚村のうち辰新田 向新田 三新村 茅野新田
浜松市史 ニ
(都田川流域)
都田川流域 【下
都田村
】都田川流域では安政四年(一八五七)に下
都田村
と川下の祝田・上刑部・中刑部・下刑部
浜松市史 ニ
(大峰講)
大峰講 大峰講 大峰講は大和大峰(奈良県吉野郡)を信仰する講で、
都田村
では年三回(四、七、十月)に講,宿へ帰って神前で一同掛軸を拝し、終って精進料理で会食する(富田準作『
都田村
郷土誌』)。
浜松市史 ニ
(宝永地震)
【明和期】ところが明和五年(一七六八)になると上
都田村
・下
都田村
では拝借米について紛争を生じ、村民は庄屋,おそらく
都田村
に類する事件があったのだろう(「
都田村
年代手鑑」『浜松市史史料編二』)。
浜松市史 三
(遠美鉄道 二俣線 都田駅)
ことに新設の引佐郡
都田村
(現在当市都田町)の都田駅は浜松北部の新しい玄関口で、この日
都田村
は村をあけて,開通への喜びにひたった(富田準作『
都田村
郷土誌』、『三ケ日町史』)。
浜松市史 ニ
(天明の騒動)
襲撃をうけるというさわぎがあったが(『内山文書』)、同六年(一七八六)は「秋中雨ふり」「大違作」で、上
都田村
,・下
都田村
では「百姓不残」折よく出張してきた領主松平家の役人に減免を「押而願」ったところ、かえって咎めをうけて,主謀者利右衛門は「欠落」をし、ついに「永尋」になる始末であった(『
都田村
年代手鑑』)。,『
都田村
年代手鑑』はこの間の消息を「中郡辺百姓そうどう有之、家潰申候」と伝えている。
浜松市史 ニ
(旅興行)
時代は明治になるが、同五年(一八七二)九月、下
都田村
(当市都田町)の空地で、市川鶴治郎一座の歌舞伎が四日間上演,され(富田準作『
都田村
郷土誌』)、また同八年十月には、海老塚村(当市成子町)の大厳寺境内に、嵐歌女助一座
浜松市史 ニ
(三番叟)
この三番叟は安政四年(一八五七)
都田村
の幸三郎という村芝居の振付けによって教えを受けたのが始まりである,これによってみても、
都田村
の地狂言が盛んであったこと、とくに三番叟はとなりの東三河地方にも相当影響をおよぼしたことがうかがわれる
浜松市史 ニ
(地狂言)
『
都田村
年代手鑑』の記録を要約すると「寛保三年(一七四三)九月十六日、上・下
都田村
で金三両、米四斗出し
浜松市史 ニ
(慶安の野論)
慶安の野論 【寛文の野論】ついで慶安四年(一六五一)には地元の
都田村
と入会村の宮口村とのあいだに山境,について論争(野論)があったが、
都田村
に有利に解決し、そののち寛文五年(一六六五)に地元の祝田村と入会村,それにもかかわらず寛文十二年には
都田村
農民が「三方原之内」に新田百石を開墾しようとして「中郡」の農民とのあいだに
浜松市史 ニ
(大久保山論)
【楊梅献上】なお
都田村
には楊梅(やまもも)の山林があって、その実を領主へ献上する例であった(『
都田村
年代手鑑
浜松市史 ニ
(路傍の神々)
都田村
の『神社明細帳』(年代不詳)によると、同村には天神社・稲荷社・金山社・山神社・諏訪社・社宮社・力神堂,社・西宮社・木船社・地神社・井神・立岩社・若宮社・八幡社・白髭社など種々の神社があって(「明治三年上
都田村
明細書上帳
浜松市史 ニ
(お鍬祭)
つづいて
都田村
(当市都田町)方面では「明和四年亥年、此年伊勢磯部様より御鍬祭り初り」、五月には神主文右衛門,の伜市兵衛が御鍬神を迎えに下向し、上下
都田村
をはじめ近隣の村々は大神宮御鍬まつりなどと染めぬいた幡(はた
浜松市史 四
([社会教育と公民館])
、一般成人を対象にその地の特色を生かした様々な社会教育が行われることを期待して、浜名郡積志村や引佐郡
都田村
,ただ、浜松市をはじめ、多くの町村では小・中学校の建設に追われて公民館の建設は遅れ、中ノ町村・
都田村
などの
浜松市史 ニ
(都田川の出水)
そのため年貢の小割にも遅れ志都呂陣屋(旗本松平氏、当時は肥前守忠根)で村役人たちは譴責を受けている(「
都田村
年代手鑑
浜松市史 ニ
(抜けまいり)
享保十五年(一七三〇)女中たちの抜けまいりが多いので、
都田村
では気賀関所の命により、見張人を街道に沿う
浜松市史 三
(金原孫四郎)
金原孫四郎 金原孫四郎(明治二十九年没、七十九歳)、
都田村
の人。
浜松市史 五
([公民館の設置と利用者の急増])
浜名郡村櫛村には昭和二十七年、中ノ町村には同二十八年、引佐郡
都田村
には同二十九年に全国に誇り得る素晴らしい
浜松市史 三
(小屋掛興行)
晴天七日間の興行をしているし(渥美静一「演劇に見えたる遠江」『土のいろ』第十六巻第一号)、同五年九月下
都田村
,(当市都田町)の空地で市川鶴治郎一座が四日間歌舞伎興行している(富田準作『
都田村
郷土誌』)。
浜松市史 ニ
(天保八年の飢饉)
殿様」(旗本松平家)から救米があり、年貢にこまる村々へはやりくりをし「一同しづかに暮し」たという(『
都田村
年代手鑑,
都田村
年代手鑑 部分(浜松市都田町 坂本柳次氏蔵)
浜松市史 ニ
(服部菅雄)
服部菅雄 服部菅雄は引佐郡下
都田村
(当市都田町)富田家に生まれ、寛政十年(一七九八)に駿河島田の服部家
浜松市史 ニ
(社宮司社)
赤宮神は、現在入野町西彦尾に移したが、いまも毎年九月十七日を例祭日と定めているし(竹村清氏調査)、上
都田村
片瀬
浜松市史 ニ
(伊勢信仰)
浜松地方には、お蔭まいりの史料が乏しいが『
都田村
年代手鑑』その他によって述べてみよう。
浜松市史 ニ
(都田川の鮎漁)
当市滝沢町)・川名村等の入会で、毎年六月川狩をして金指陣屋(旗本近藤家)に献納し(「文久元年御用鮎割合帳」『
都田村
郷土誌
浜松市史 一
([自然の制約])
それよりも以前に神久呂村(一四・四〇平方キロ)や引佐郡
都田村
(二九・二三平方キロ)が合併されていた。
浜松市史 四
([浜松中央・東・北警察署の設置])
十一村、二十八カ所 図3-8 浜松北警察署 【気賀警察署】 ところで、
都田村
,は引佐郡に所属していたため、静岡県警察発足時には引佐郡気賀町にあった気賀警察署の管轄となり、
都田村
には,
都田村
は昭和三十年三月に浜松市に合併したため浜松北警察署管内となった。
浜松市史 三
(佐鳴湖)
都田川では鮎(あゆ)・うぐい・蟹(かに)を産した(富田準作『
都田村
郷土誌』)。
浜松市史 ニ
(宿駅の困窮と余荷)
鼠野村 石原村 西ヶ崎村 安間村 西嶋村 寺嶋新田 笠井村 下石田村 東美薗村 上石田村 西村 上
都田村
,横須賀村 下
都田村
万斛村 小林村 中条村 木船村 漆嶋村 寺嶋村 橋爪村 笠井新田 上前嶋村 貴平村
浜松市史 ニ
(お蔭まいり)
翌天保二年には
都田村
方面では「御かげ参はやる。
浜松市史 ニ
(豊川講)
豊川講 豊川講 豊川講は三河国妙厳寺(愛知県豊川市)の豊川稲荷を信仰する講中で、
都田村
では茣蓙(ござ
浜松市史 三
(田中五郎兵衛)
葬儀の参列者には前記の人々のほか上石田村松島弥右衛門・笠井村嘉右衛門・
都田村
孫四郎などがあった(明治三十九年安居院庄七頌徳碑
浜松市史 四
([青年団・青年会の運動の再出発])
【浜松市援護会 在外父兄救恤学生同盟 市民生活擁護同盟 浜松市案内所 浜松市連合青年会 農村演劇
都田村
青年団,昭和二十二年度、
都田村
青年団では、新憲法施行の日の集い、弁論大会、衛生講話、陸上・野球・卓球の大会、農繁休慰安会,東伊場町青年会は『まなび』、豊西村青年団は『大地』、長上村青年団は『萬年青』、
都田村
青年団は『青年団報
浜松市史 ニ
(十二月)
(『浜名郡史』『引佐郡誌』『
都田村
郷土誌』『遠江積志村民俗誌』)。
浜松市史 四
([町村合併の推進])
五カ村合併 △浜名町 積志村 笠井町 *三カ町村合併 △雄踏町 篠原村 *二カ町村合併 △
都田村
,このころ、
都田村
や積志村、そして、磐田郡掛塚町からも合併の希望が寄せられていた。,このような情勢下、
都田村
の三方原台地に住む住民は七月下旬に浜松市を訪れ、浜松市への合併陳情書を提出した,十二月中旬に
都田村
の地域調査が行われたが、これに参加した市議会の市町村合併特別委員会の木全委員長は「現在,昭和三十年一月に
都田村
には一部の反対論はあったものの、二月には各部落で大会を開き浜松合併へ賛意を表明、
浜松市史 三
(散髪)
その他、女性の「おはぐろ」などもなかなか改まらなかった(『
都田村
郷土実態調査』)。
浜松市史 一
([ウンカの害])
都田村
年代手鑑(『浜松市史史料編二』)の中に、 元文三年(一七三八)田方うんか虫付、大凶年
浜松市史 三
(学区制)
21小区 坂本善九郎 167番 688 瀬戸村 祝田村 平野六郎 168番 728 下
都田村
, 169番 728 下
都田村
上
都田村
170番 551 上
都田村
171番 577
浜松市史 ニ
(三方原の名称)
浜松市史史料編四』)に「みかたが原」として「此原は一里ばかり乾(いぬい)(北西)の方にあり、和地村・祝田村・
都田村
三村
浜松市史 四
([遠州四品の盛衰])
トウガラシは浜名郡伊佐見村・神久呂村・引佐郡
都田村
などが主産地で、昭和二十八年の作付け面積は二十町歩で,生姜は浜名郡北庄内村・北浜村・引佐郡
都田村
が主産地で約百町歩を作付けし、五十万貫(約千八百七十五トン)
浜松市史 ニ
(元禄の野論)
元禄の野論 この事件の発端は、三方原山林の松木を
都田村
が伐採したとして、祝田村が
都田村
を相手どり訴訟,七百本は山守の助次郎なる者が盗伐したことが判明し、助次郎およびその子善次郎は死刑となり、罪人を出した下
都田村
庄屋惣左衛門,#160; 青山下野守領 刑部村
都田村
浜松市史 三
(生活改善)
なわれたらしく、日待(ひまち)・庚申となると今でも行なわれているところがある(中道朔爾『遠江積志村民俗誌』・『
都田村
郷土実態調査
浜松市史 四
(各種伝染病の発生状況)
また、『新編史料編五』 八医療 史料8に採録した『
都田村
郷土実態調査』にみえる昭和十三年から同二十一年
浜松市史 ニ
(庚申講)
都田村
では庚申日待に米三合ずつ集め、講中輪番で宿をする。
浜松市史 ニ
(朝鮮人賀使)
『
都田村
年代手鑑』(『浜松市史史料編二』)の宝暦十四年の条に「朝鮮人惣入用高に付、高七百廿八石ニわり、
浜松市史 四
([その他の選挙])
浜名郡のうち町村長選挙が行われたのは和地村・三方原村・赤佐村、引佐郡では
都田村
で、町村議会議員の選挙は
浜松市史 四
([陸軍航空廠浜松分廠])
さらに五月分廠本部を
都田村
(北区都田町)に移転した。
浜松市史 四
([国家地方警察浜名地区警察署])
なお、
都田村
は当時引佐郡であったので、国家地方警察の引佐地区警察署(引佐郡気賀町)の管轄となった。,現在の市域は自治体警察の区域を除いてほとんどが東浜名地区警察署の管轄となったが、
都田村
だけは引佐地区警察署
浜松市史 三
(郷社 村社 浜松郷社)
1~17 呉松村 八王子神社 1~18 村櫛村 八幡神社 1~20 神ヶ谷村 須部神社 1~22
都田村
浜松市史 四
([静岡県警察の誕生])
改正警察法の施行により、自治体警察の浜松市中央警察署と浜松市東警察署の二署と国家地方警察の東浜名地区警察署、
都田村
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