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浜松市史 三
(綿糸配給)
綿糸
配給
ついで綿糸
配給
規則をさらに強化した綿糸
配給
統制規則が公布され、原糸はすべて登録によって
配給
/ 綿糸
配給
浜松市史 三
(配給制 食糧営団)
配給
制 食糧営団 生産力が減り必需物資に統制が加わり
配給
制が実施されるようになると、物資販売の卸問屋,は統制機関に吸収され、小売業は
配給
商と変わり、商業もまた衰微していった。,前頁上表は当時の市内
配給
所数である。 /
配給
制 食糧営団
浜松市史 四
([配給・買い出し・家庭菜園])
[
配給
・買い出し・家庭菜園] 【
配給
食糧営団浜松出張所 買い出し タケノコ生活 買出列車 家庭菜園,】 日中戦争の長期化に伴い、昭和十五年九月から実施された生活必需品の切符による
配給
制度の下、米は一人一日二合三勺,(約三百四十五グラム)の
配給
となっていたが、空襲の激化の中、二十年七月、滞りがちであった
配給
が一人一日二合一勺,このため、主食の
配給
は米二割、代替品八割という状態となってしまった。,そこで、
配給
の基準量をさらに減らして一人一日一合九勺とした。 / [
配給
・買い出し・家庭菜園]
浜松市史 三
(浜松市長年頭の辞 配給制の強化)
浜松市長年頭の辞
配給
制の強化 昭和十六年十二月八日、米英に対する宣戦が布告され(これを大東亜戦争といった,しかし生活事情は悪化する一方で、大人一人一日二合三勺(三三〇グラム)と定められた白米の
配給
量(十六年五月実施 / 浜松市長年頭の辞
配給
制の強化
浜松市史 三
(統制の強化 配給制 体力検定と国民服 紀元二千六百年祭 板屋町火事)
統制の強化
配給
制 体力検定と国民服 紀元二千六百年祭 板屋町火事 戦争が長期化してくると戦争の影響,「ぜいたくは敵」という標語が唱えられ、主食の米は農村の人手不足によって産額が減少し十五年から
配給
制となった,【切符制】砂糖・味噌・醬油などの不足が目立ってくると、そうした需給の不平均を除くため切符制による
配給
がはじめられた,【通帳制】また品物によっては通帳制が実施され、これらをふくめて十六年ごろには
配給
物資は数十種に達した。 / 統制の強化
配給
制 体力検定と国民服 紀元二千六百年祭 板屋町火事
浜松市史 三
(食糧不足)
食糧不足 【家庭菜園】
配給
のみでは食糧が不足するので、庭や空地を利用して甘藷・かぼちゃ・茄子(なす),鮮魚も青果物も
配給
といっても実際は皆無同様で、出征祝にも酒も魚も手に入れられなかった(六三五頁参照)。,平素喫煙しない者でも煙草常用者として申請し、煙草の
配給
を受けこれを物々交換の一手段とすることも行なわれた
浜松市史 三
(戦時体制 綿布製造禁止)
綿布製造禁止 昭和十二年に日中戦争が始まり、矢つぎばやに輸出入品等臨時措置法、翌十三年三月には綿糸
配給
規則,また輸出用綿糸が内需方面に横流れするのを防ぐために、輸出綿製品の
配給
統制が強化(輸出入個人リンク制度)
浜松市史 四
([食糧難と米よこせ大会])
ところが、十一月四日付の新聞は魚・野菜・果物などの副食の
配給
途絶を報道しているように、食糧難の深刻さはなかなか,浜松市内の遅配は昭和二十二年六月になって十日前後となり、ついに六月三日、遅配が最も深刻だった砂山町
配給
所管内,これに対して食糧営団ではグリンピース、押し麦、小麦粉など、手に入るものはすぐにでも
配給
し、遅配解消に努力
浜松市史 三
(戦災と生活)
それも雑穀(豆・もろこし)などが混り白米とは全く名のみで、塩の
配給
も杜絶してしまった。,そればかりか一般物資の
配給
機構も乱れがちで、人々の苦しみはつのるばかりであった。
浜松市史 四
(生活物資の確保)
人々の主食は米と麦で、昭和二十年十二月の『静岡新聞』の調べでは県民の圧倒的多数が一人当たり一日三合の
配給
,、営団としては今のうちになるべく米の
配給
量を減らして、出来るだけ沢山の代替へ食糧を
配給
したいと苦心してゐる,蔬菜苗の配布、五月には農業増産講習会の開催、七月にはパン製造講習会の開催、十二月には進駐軍からの乾パン
配給
,市民の多くは
配給
の食糧だけでは足りないため、やみ市で求めることもあったが、あまりにも高価なため、直接農村,このようなわけで、主食の
配給
が始まったものの、同年十一月四日の『静岡新聞』は「副食の
配給
杜絶 ちかごろ
浜松市史 四
([もんぺからスカートに])
わずかに下着類などが指定されて町内会などを通じて細々と
配給
される程度であった。,はようやく息を吹き返し、その年の九月に浜松市は戦災者用にシャツやワンピースなどを、一般用にブラウスの
配給
,ただ、この年の十月には衣料の切符制が復活し、各家庭では町や村の衣料登録店で
配給
を受けたり、自由販売品を
浜松市史 三
(耐乏生活と竹槍練習)
次頁の表は浜松市に住む俸給生活者の
配給
物資表である。,主食代用の乾麵・馬鈴薯・甘藷などが
配給
されているが、まだこの頃はよい方で、二十年も六月以降になるとそれもとぎれ,(表)浜松市主要物資
配給
表 昭和19.6~20.5(俸給生活者 家族大人4,小人4) 年月日 物資
浜松市史 四
([何でも揃っているやみ屋])
本来なら統制品で
配給
に回されるはずの米・麦・甘藷・馬鈴薯をはじめ、野菜・魚・布などがブローカーやかつぎ,取り締まりはすべての列車ではないため、やみの物資はやみ市にあふれ、公定価格による
配給
ではほとんど手に入
浜松市史 三
(兵役法)
(表)①浜松市内の
配給
所数 品目 米 味噌 醤油 魚類 砂糖 マッチ 菓子 木炭
配給
所数 48
浜松市史 三
(衣料切符)
衣料切符 衣料は点数制の衣料切符(十七年二月実施)による
配給
と定められたが、大人一人一年間に百点では
浜松市史 三
(馬込川新川出水)
朝まで浜松尋常高等小学校に炊事場を仮設し、堀留会社から舟三艘を借りうけ、握り飯・香の物・湯茶を各戸に
配給
浜松市史 四
([ディーゼル車の導入])
[ディーゼル車の導入] 【ディーゼル車 代燃車の廃止】 昭和十六年のガソリンの
配給
停止により、バス
浜松市史 四
([治療技術の革新])
入院療養中の結核患者同様に、在宅の結核患者へも一カ月主食百四十グラム、油脂十グラム、砂糖三百グラムを増加
配給
浜松市史 四
([戦災都市の指定と復興計画])
この刊行により浜松の空襲の実態やその対応策をはじめ、
配給
、防空訓練、防空施設、資源回収、疎開、人口、引
浜松市史 三
(町内会と隣組)
住民の登録・生活物資の
配給
・国債の割宛消化・貯蓄奨励・金属回収・国防献金・出征軍人の歓送・防空活動等ほとんどが
浜松市史 四
([困難な食糧事情と教育への影響])
「お弁当に困る」、「米の
配給
がない」、「正当なる収入による生活者には到底弁当を持参することは不可」との
浜松市史 四
([社会運動の再開])
一、米の
配給
を三合にせよ。一、官僚的供出絶対反対。一、食糧その他生活必需物資の人民管理。,
配給
だけでは一家餓死しかない。どうしてもこれだけは買出しだ。どうにもならない。
浜松市史 四
([やみ物資と買い出し部隊])
しかし、農業生産力の低下と引揚げや復員等による人口の増加、
配給
をはじめとする流通機構の混乱により食糧不足
浜松市史 三
(最初の夜間空襲)
砂山町の米穀
配給
所(五人死亡)・遠州病院も罹災した。
浜松市史 三
(電力使用動力機の普及 全国一の普及)
電力使用動力機の普及 全国一の普及 浜松地方に電力
配給
網が整うのは大正時代へ入ってからで、このころより
浜松市史 四
([終戦後の農業と農村])
昭和十四年(一九三九)、政府は米穀
配給
統制応急措置令を制定し、供出制度により米を買い上げることとした。
浜松市史 四
([深刻な食糧・衣料不足を救ったララ物資])
「三方原開拓地の入植で真に衣料に困窮して居る者 但し横流しのおそれあるものにはたとへ困窮者といへども
配給
浜松市史 四
(柳本城西)
みてきびしき世にも生きゆかむとす 大君の宣らし給へばいばらなすいかにこごしき道もゆくべし 玉蜀黍
配給
,さはにありつらしそこここに石臼挽く音きこゆ 水冠りの
配給
藷を打ちまけて土間を塞げば富める思あり
浜松市史 ニ
(天保八年の飢饉)
村々へは米で分配されたが、有玉下村では人口の四割の百四十六人が一人四合四勺余の米の
配給
をうけたという。
浜松市史 四
([沼津─浜松間の電化完成])
電力線保守用建物、電気機関車庫、送電線路、官舎、合宿用用地の斡旋、③資材ならびに労務員用品の確保、④食糧の優先
配給
浜松市史 三
(救護活動 戦災対策本部)
③生活必需品のうちローソク・マッチ・手拭(てぬぐい)・軍手(ぐんて)・塵(ちり)紙を
配給
する所を開設する
浜松市史 一
(市場)
】商品のでまわるにつれて、京都では穀物市場・海産物市場・家畜市場などの市場ができ、ここから小売商人に
配給
浜松市史 四
(『浜松句碑めぐり』)
#160; 欠食児へ一握りやりたいチギレ雲が海にポツカリ(昭和二十一年九月) 生活不安を友と語る
配給
浜松市史 四
([行政機関の復興])
専売局浜松出張所、浜松勤労動員署、食糧営団
配給
所なども中心部で奇跡的に焼け残った中部配電の建物で仕事を
浜松市史 四
([三方原台地と開墾])
その年の秋の収穫は種子代にも足りず、入植者の中には
配給
食糧も得られず、蛙や昆虫類を捕食している者さえいた,入植者自身が所有していたわずかなお金も使い果たし、県費の補助は思うに任せず、
配給
物さえ買えない状態であった
舞阪町史 中巻
(舞阪町史 中巻 目次)
東海道)拡幅工事 第二節 アジア太平洋戦争下の舞阪 702 漁業の状態 諸物資不足とくに食糧不足と
配給
浜松市史 四
(新生活運動)
配給
米県農協課陳情。[見学]浜松牛乳[行事] 慰霊祭に招待される。浜松まつり準備委員会参加。,[運動]希望
配給
米の価格について県に要望。
浜松市史 五
([献血・預血の血液センター設立])
そこで市役所民生部は日赤静岡支部血液銀行の浜松
配給
所の設立を企画し、市内鴨江町の市立病院を一部改造してこれに,事務職員が常駐し、血液の製造・供給、血液型判定などを実行できることであり、採血車・検診車・血液輸送車・
配給
車
春野町史 通史編 下巻
(春野町史 通史編 下巻 目次)
地域社会 721 第一節 敗戦による混乱と人々の生活 721 一 インフレと食糧難 721 二
配給
制度
浜松市史 四
([学校給食の充実])
昭和二十六年二月からアメリカより無償
配給
される小麦・ミルクを中心とした完全給食が開始されることになり、
浜松市史 四
([労働組合の結成])
組合設立準備会や各課の有志などにより市の助役と集団交渉して、戦犯者と非民主主義者の総退陣、事務の簡素化、現物
配給
浜松市史 四
([学校給食体制の整備])
昭和二十二年放出のララ物資での給食以来、児童の体位向上を目標に「廿五年一月に完全給食」を達成し、さらに、パン
配給
室
輝くいなほはたの音:わが町文化誌
(浜松市立東部公民館『輝くいなほはたの音:わが町文化誌』 目次)
【相生三松館の思い出 劇場】 125 【織物のまち 佐藤町 磯部繁蔵】 125 【佐藤町栄養食
配給
組合
浜松市史 三
(目次)
銃後のくらし 六二七 統制経済
配給
制
浜松市史 四
([町村合併])
引佐、小笠という穀倉地帯を持ちながら一粒の米も余分に食えない、これはそつくり供出して県民全体に均等に
配給
浜松市史 四
(目次)
三一二 公営住宅 ガラの道路への放置 五
配給
下,の生活と食糧確保への苦闘 三一四
配給
・買い出し・家庭菜園
台地と水と輝き:わが町文化誌
(浜松市立高台公民館『台地と水と輝き:わが町文化誌』 目次)
衣類 学生服 国民服 履物 衣料切符】 98 【食糧 食糧管理法 米穀類購入通帳 闇買い 買出し
配給
制
佐久間町史 下巻
(佐久間町史 下巻 目次)
在郷軍人会 748 (ロ)国家財政への協力 761 (ハ)資源確保のための動き 772 (ニ)
配給
天竜市史 下巻
(天竜市史 下巻 目次)
五八二 第三節 阿多古・熊地区開拓計画 五八五 第四節 百々山の開墾 五九〇 第五節 食糧の供出と
配給
制度
浜松市史 四
([現代総説(上)])
千円住宅や二千六百円住宅という小規模な仮設住宅を建て、
配給
だけでは足りない食料や生活必需品を近郊農村への
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