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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 ニ (職人町と屋敷)

このうち神明町には職人頭の家が三軒、紺屋町と大工町には二軒あり、家数からいうと大工町・紺屋町・鍛冶町・,中でも大工町は七六%、神明町は五八%、鍛冶町は四九%を占めている。  ,  下垂町 1    御給村 1  素人役 8  本役 38   本役 3    大工町 1   鍛冶町,1   水役 4   田町 1  無役 24   下垂町 3   板屋町 2  水役 22    鍛冶町,4   鍛冶町 1   白鳥村 1   檜物師頭 1   鍛冶町 3  役染 10   紺屋町 7   
浜松市史 三 (駅前新道)

駅前新道 【二十一年】①駅前新道 鍛冶町の東端(後道及び肴新小路入口)から駅へ至る新道(長さ一四五間,このとき鍛冶町の道幅(一間ないし二間)も拡巾され、駅へ出るために最も利用される道路となった。,なお、これによって鍛冶町から新川に架したやなぎ橋を渡り法雲寺へ出るむかしからの道は裏道となった。
浜松市史 三 (駅付近発展)

駅付近発展 【鍛冶町 後道】駅前の発展につれて、これに隣接する鍛冶・後道なども変貌する。,鍛冶町の東海道交差点にはステーション道と標した道標が立ち、町筋へは商店が立ち並び、後道(大正十四年千歳町
浜松市史 三 (道路)

板屋町線)・市道の改良や拡幅が認められ、昭和二年には田町、三年には肴町に約五百メートルの舗道ができ、鍛冶町御幸,鍛冶町御幸通り
浜松市史 五 ([戦災と市民の木])

ここに登場するプラタナスは、戦前、鍛冶町通り(御幸通り)にあったもので、もと四十六本あったという。,このうち鍛冶町側に一本、旭町側に二本が焼け残ったのである。,戦後、鍛冶町側のものは鍛冶町通りの真ん中に位置することとなった。,勇ましい市のお役人は富士銀行移動の際に面倒だとばかりこの木を切り倒そうとしたのだそうだが、鍛冶町の人々,鍛冶町にあったプラタナスの並木四十六本は、戦争中の激しい空襲を受けながらも、生き残った三本がそれぞれ別
浜松市史 四 ([中心商店街の繁栄])

浜松市の中心商店街である有楽街や鍛冶町では商店街の近代化が進められた。,また、昭和二十八年七月に鍛冶町通りにはネオンが輝くアーケードが完成し、商店街としての一体感を醸し出した,商店のビル化は鍛冶町商店街でも行われ、昭和三十六年に連鎖式防火建造物として建て替えられた。,この時に鍛冶町通りの拡幅も同時に行われ、三十メートルの広さになり市内の目抜き通りとして一新した。
浜松市史 三 (物品販売業)

梅月 肴 〃 春華堂 田 〃 近江屋 神明 〃 開華堂 伝馬 〃 ●堤崎保太郎 木戸町 〃 ●〃 鍛冶町,〃 ●旭日氷糖株式会社 砂山町 下駄履物 鍵屋 田 〃 木綿屋 〃 〃 新若森 伝馬 〃 ○若森 鍛冶町,村松靴店 栄 〃 ●守谷靴店 新町 〃 ●花村靴店 大工町 〃 ●袴田靴店 亀山町 陶器 ●河合卯吉 鍛冶町,鍛冶 〃 青山 肴 金物 ○田中五郎七 田町 〃 平岡定平 田 〃 中村惣太郎 連尺 〃 ○小谷嘉蔵 鍛冶町,小間物類 ○ぬい屋 田町 〃 ○殿岡商店 伝馬町 〃 ○棒屋 田町 〃 鳥居屋 田 〃 ●竹屋襟店 鍛冶町
浜松市史 五 (戦災復興事業)

中央工区(第一工区)も約八十%が終わり、あとは板屋町西側、鍛冶町北側、伝馬町角など二百二十二戸の移転が,鍛冶町通りでは伝馬町の四つ角から北側一帯約二百メートルにわたって鉄筋コンクリート四階建ての防火高層商店街,の建設が始まり、同年暮れから同三十六年一月にかけて完成、鍛冶町通りの道幅もこれまでの二十メートルから三十,同じく田町四つ角の東側の三十メートルにわたって鉄筋コンクリート四階建ての防火高層商店街が鍛冶町とほぼ同
浜松市史 三 (梨の葉会)

梨の葉会はこれより昭和八年三月までに会場は検番事務所(千歳町)・交友堂(鍛冶町)・金井屋呉服店(鍛冶町御幸通
浜松市史 四 ([商店密集地での火災])

[商店密集地での火災] 【鍛冶町】  昭和二十八年五月十五日午前四時過ぎ、鍛冶町の有楽街入口の飲食店
浜松市史 三 (金融機関)

支店 三十五銀行浜松支店 伝馬町 〃22 豊国銀行浜松支店 〃 〃41 明治銀行浜松支店 鍛冶町,昭和3 浜松貯蓄銀行 伝馬町 明治30 支店 三十五銀行浜松支店 〃 〃22 名古屋銀行浜松支店 鍛冶町,大正7 内国貯金銀行浜松支店 田町 〃10 安田銀行浜松支店 鍛冶町 〃13 日本勧業銀行浜松支店
浜松市史 ニ (刀工)

文化のころ浜松鍛冶町羽賀儀左衛門宅に寄食し、刀剣をきたえたが、その刀銘には「エンシウ浜松ニテ焼刃」と刻
浜松市史 ニ (【鍛冶職】)

【鍛冶職】 鍛冶職 鍛冶職はその屋敷が、もと城内三の丸にあったが、のち鍛冶町に移転し、城中に対し、炭鉄入用,した金山権現(当市栄町金山神社)をこの地に遷座し、伊奈備前守より一反六畝十一歩の除地を付せられ、鍛冶頭鍛冶町村石九郎右衛門
浜松市史 五 ([路上駐車の禁止区域等設定])

図2―42は、昭和三十九年当時の鍛冶町通りであるが、道路の両側に駐車する車のため通行可能な道幅が極めて,図2-42 鍛冶町通りの交通混雑
浜松市史 三 (横町通)

【鍛冶町】鍛冶町は江戸時代に比して鍛冶業者の数は減っているが依然として八戸もあり、大工・畳職がこれに続
浜松市史 三 (商業地域 浜松駅開通 新興商店街)

商業地域 浜松駅開通 新興商店街 【鍛冶町 旭町】商業地域は、依然として東海道筋の田町・神明町・連尺町,・伝馬町が中心であったが、浜松駅が開通すると、二十七年には鍛冶町の齢松寺が元城(浜松城本丸跡)に移り、,鍛冶町通りから駅前通り(八幡地といったが大正十四年旭町と改称)の駅へ通ずる道が新興の商店街として発展してきた
浜松市史 ニ (時宗)

また教興寺末として浄鏡院(鍛冶町西側、廃寺)があった。
浜松市史 五 ([中心市街地の地盤沈下と中心商業地活性化事業])

、昭和五十五年には、このマスタープランを土台に商業近代化実施計画を策定し、①有楽街の買い物公園化、②鍛冶町十丁目,駅周辺整備事業の効果が駅周辺地区にとどまらず中心商店街の発展に結び付くためには鍛冶町、有楽街、モール街,鍛冶町十丁目は地元商店とキーテナントが入居する大型共同ビルを建設、さらに同ビルに入らない商店を集めた個連店
浜松市史 四 ([商店街の誕生])

鍛冶町商店街は浜松市の中心部にあり、それに隣接した田町商店街、有楽街商店街など、そして駅南の砂山町商店街,表3-13 浜松市の商店界(昭和29年) 商店界名 商店界数 鍛冶町商店界 6 板屋町商店界 2 鴨江町商店界
浜松市史 ニ (横町)

北小路、利町に五社大門通・諏訪大門通、紺屋町に袋(ふくろ)小路(袋町ともいう)、その他早馬町・下垂町・鍛冶町
浜松市史 ニ (町幅)

三間は旅籠町・田町・七軒町・上新町・下垂町、三間未満は肴町・成子坂町・早馬町・鍛冶町・平田町・本魚町・
浜松市史 ニ (金山社)

村石九郎右衛門は、家康に供奉して浜松に来たり、はじめ城内三の丸に住んだが、浜松町割のとき同業二十九軒とともに鍛冶町
浜松市史 三 (神社の復活)

三組町)に合祀された三社神社(鹿谷町)や分器稲荷(田町)、また五社神社(利町)に合祀の金山神社(氏子鍛冶町
浜松市史 三 (市内道路の改良)

昭和四年には浜松駅から鍛冶町へ通ずる停車場通りの工事が完成した。,肴町舗装 500  3 二俣・浜松停車場線改良 (尾張・高林・上島町間) 4,000  昭和4 1 鍛冶町線改良
浜松市史 四 ([やみ市の衰退と商店街の復興])

昭和二十三年十月現在、露天街となっていたのは棒屋百貨店前を中心とした鍛冶町・田町と板屋町・旭町にまたがる,図2-52 再建された商店街・鍛冶町大通り  昭和二十四年三月からのドッジラインの実施などにより
浜松市史 五 ([中心市街地の活性化])

拠点となる施設や楽しみの拠点(シネマコンプレックスなど)、飲食ゾーンなどをつくることやイベントの開催、鍛冶町通,これらを基に浜松市は平成十一年三月に浜松市中心市街地活性化計画を策定、鍛冶町のメインストリートづくり、
浜松市史 三 (演劇場)

なお、こうした環境の中に育まれた人の中に後日監督となった木下恵介(浜松鍛冶町)や、松竹キネマ蒲田スタジオ
浜松市史 三 (堅実な歩み)

西遠銀行 1000千円 伝馬町 資産銀行 1000   鍛冶町 浜松銀行 500   肴町 浜松貯蓄銀行
浜松市史 三 (織物関係 一般工業機械材料 特殊工業品生産品 日用品 運輸倉庫業 金融機関 その他)

Aのうち織物売買会社は木俣物産合名会社(三十二年、鍛冶町)・外山織物合名会社(三十四年、板屋町)・遠江綿糸合資会社,、Eの運輸及び倉庫に関する四社には浜松堀留合資会社(四年、森田町)・浜松委託運送株式会社(三十一年、鍛冶町
浜松市史 三 (駅南北交通円滑化 地下道 平田跨線橋)

【八幡地 北寺島】その結果、①については大正十一年三月にいたり砂山町と鍛冶町間(八幡地踏切)、北寺島町
浜松市史 四 ([浜松郵便局の新局舎])

図3-57 鍛冶町通りから見る郵便局と浜松駅
浜松市史 三 (渡辺市政終る)

はさきに大正十三年八月任期が終ると再び迎えられて再任(第五代)し、都市計画の実施・道路の拡幅(広小路、鍛冶町通
浜松市史 三 (浜松の仮戸長と管轄地)

旅籠町・伝馬町・連尺町・神明町・平田町・平田村  一市川吉平 七百四十九軒 田町・肴町・後道新地・鍛冶町
浜松市史 五 (大型店進出)

【西武百貨店】  しかし、昭和四十六年に東京のデパートという魅力あるイメージを持った西武百貨店が鍛冶町,従来、歩行者の動線はモール街にあったが西武百貨店の進出により鍛冶町にも移った。,買物客の五割が鍛冶町方面に流れ、三割がモール街に、二割が有楽街へと変化した。
浜松中心街の今昔:わがまち文化誌 (浜松市立中部公民館『浜松中心街の今昔:わが町文化誌』 目次)

60 【坂本太郎 国史学者 常盤町 国学院大学】 61 【金原 淳 金原 敬 金原 誠 空電 鍛冶町,82 【板屋町 鈴政式織機 飯田式織機 日本織機】 82 (八)鍛冶師・鋳物師たち 82 【鍛冶町,【田町 笠井屋呉服店 小野江善八】 190 ○ 旭町の榎地蔵(旭 町) 191 ○ 浄鏡院の狐(鍛冶町,【東照宮 元城町 井上八郎 引馬城 大日本報徳社 遠江分器稲荷神社 田町】 206 【黒田稲荷 鍛冶町,②昭和初期から終戦までの映画 305 【松竹館 松竹劇場 田町 浜松座 千歳町 新興館 大映劇場 鍛冶町
浜松市史 三 (浜松新聞)

相佐新次郎】『浜松新聞』は明治二十八年に、浜松の有力者を発起人として相佐新次郎(修、敷知郡瓜内村生、鍛冶町
浜松市史 ニ (【檜物師】)

文化四年(一八〇七)の「檜物師御役勤之事」によると、檜物師頭屋敷 紺屋町一軒、檜物師役屋敷 紺屋町二軒・鍛冶町一軒
浜松市史 四 (浜松市店舗装飾コンクール)

第二回目の店舗装飾コンクールは、同三十年十二月に七十一店が参加して行われ、鍛冶町のみゆき喫茶店が特別優秀賞
浜松市史 五 ([駅前再開発と地価の高騰])

千歳町のノマキ時計店前は三十五・二%の高騰、一方、名古屋国税局が昭和六十二年一月に公表した路線価では、鍛冶町通,公表される路線価に対して実勢価格は何倍かに跳ね上がり、モール街では一平方メートル当たり百八十一万円、鍛冶町通
浜松市史 五 ([外食産業の隆盛])

昭和五十七年、東京の一号店開店から十一年後、マクドナルドが中心街の鍛冶町に開店した。
浜松市史 ニ (浜松宿の困窮)

から出火し、後道へ延焼して杉浦・梅谷本陣をはじめ百五、六十軒焼失し、さらに天保六年十一月十二日夜には、鍛冶町
浜松市史 ニ (無役町の人足割)

2 人 板屋町 16 本魚町 6 紺屋町 12 下新町 20 成子坂町 4 利町 6 名残町 8 鍛冶町
浜松市史 三 (資産銀行 遠州銀行)

【大正九年】三十一年二月笠井銀行を、さらに和田銀行を合併、業務の拡張にともなって浜松鍛冶町二四一番地に
浜松市史 三 (昭和の商店街)

伝馬町四つ角より見た鍛冶町通り(明治末期) 連尺町四つ角より見た神明通り(昭和初期)
浜松市史 三 (映画常設館)

【三松館 敷島館】翌六年には三松館(鍛冶町、定員四一五人)、続く七年には敷島館(千歳町、定員六九九人、
浜松市史 三 (団体運動)

発火演習が挙行され、終るとこれらの部隊に在郷軍人会・青年会・女子中等学校・少年団員が参加し、浜松駅前から鍛冶町通
浜松市史 ニ (立場)

同年四月十六日「吉川監物様」が「浜松御本陣梅屋市左衛門御旅宿」のところ「五ツ時鍛冶町浄鏡院出火」のため
浜松市史 ニ (戸口の増減)

が加わり七か町となり、また五十軒未満が旅籠町・塩町・成子坂町・七軒町・神明町・早馬町・下垂町・池町・鍛冶町
浜松市史 三 (浜松宿 三十二か町村独立)

浜松紺屋町 内田政治 浜松田町 小野江善八 〃利町 杉浦為次郎 〃高町 林勝昌 〃伝馬町 林弥十郎 〃鍛冶町
浜松市史 三 (各町消防組 連合消防組)

【出初式】明治十五年には天神町・神明町・池町・平田町・板屋町・早馬町・鍛冶町の七組を加え二十一組となって
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