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浜松市史 三
(今切関所)
今切
関所
明治維新によって、明治二年正月には今切
関所
が、三年閏(うるう)十月には本陣が、五年七月には / 今切
関所
浜松市史 一
(関所の廃止政策)
関所
の廃止政策 【関税】鎌倉幕府・建武新政府・室町幕府いずれも
関所
の廃止を政策として実施しようとした,戦国大名領内の
関所
からの収益は、大名の個人経済・政費・軍費にあてられた。,そのため国内の
関所
は撤廃してゆく。しかし国外に対しては封鎖政策をまもる。,このためには国境の
関所
がもっとも効果をあげる。,このように分国領の
関所
は、経済的の機能のほかに軍事警察の機能をもっていた。 /
関所
の廃止政策
浜松市史 一
(陸運)
陸運 【
関所
】道路や橋は一般の旅行者のため整備されていなかった。,しかも旅行者を苦しめたものの一つに
関所
がある。,鎌倉御所から将軍への進物は、判留壱岐入道の「印」で
関所
を通過できたのに、尾張と遠江の
関所
で承知しなかった,【天竜・橋本の
関所
】六月二十一目、遠江守護代甲斐常治は天竜・橋本両渡の
関所
に対し、遵行状(じゅんぎょうじょう,両処の渡船場に
関所
を設け(在地の豪族であろう)関銭を徴収したであろうことが推定される。
浜松市史 ニ
(今切の渡し)
【今切
関所
】渡ったところが新居宿、ここには今切
関所
(新居
関所
ともいう)があって、元禄十五年以後は三州吉田城主
浜松市史 ニ
(旗本領)
【
関所
奉行】権太夫はこの当時今切の
関所
奉行(前後二十一年間)であった。,【新居
関所
奉行志都呂役屋敷】慶安(けいあん)元年(一六四八)から、服部中(保俊)が権太夫に代わって
関所
奉行,となり、歴代の今切
関所
奉行の役屋敷(敷地は四千百七十一坪あったという)は元和五年から元禄九年まで、新居
浜松市史 ニ
(宿場)
から市野・気賀・三ケ日(以上遠江国)・嵩山(すせ)(三河国)とあわせて四宿が設けられ、気賀宿には今切
関所
,に呼応して気賀近藤家の管理する気賀
関所
があった。,なお気賀
関所
の設置年代はわからない(「気質関について」『細江のあゆみ』5号)。
浜松市史 ニ
(姫街道の名称)
その一つは婦女子が取調べの厳しい今切
関所
をさけて本坂道をえらんだから名づけられたというのである。,しかし、気賀
関所
の取締りは今切
関所
となんら異なるところはなかった。
浜松市史 ニ
(志都呂の松平氏)
志都呂の松平氏 元禄八年から九年にかけて松平半右衛門(忠明)が
関所
奉行をつとめ、その知行地は役料千石,【知行地】服部・松平両氏とも今切
関所
奉行の要職にたずさわり、服部氏は知行地の大窪(大久保)村(当市大久保町,浜松市大久保町) 志都呂代官所跡(浜松市志都呂町) 志都呂松平(五井)略系 今切
関所
奉行,年代
関所
奉行 役屋敷 元和4慶安1 服部権太夫 志都呂 服部杢之助 志都呂 慶安1承応
今切変遷図
(解説)
慶長5年(1600)、
関所
が置かれた頃 画像 慶長5年(1600)に置かれたという新居
関所
,元禄14年(1701)、
関所
移設の後 画像 元禄14年(1701)、高波により流された
関所
,年(1707)、地震、津波の後 画像 宝永4年(1707)10月4日の地震の津波で、三度
関所
,絵図 には、西に移された
関所
とともに宿場や社寺も移転した様子が分かる。
浜松市史 ニ
(村櫛村の鳥浦)
【許可手形】株所有者は鴨猟のはじまる九月になると今切
関所
へ認可状(千形)の下付を願い、これには
関所
の管理者,である吉田城主と中泉代官所の両判が必要とされていた(今切
関所
を吉田城主が管理を委任されたのは元禄十五年以降,一切精乗渡申間舗」「何之村江茂陸江上リ不申」「殺生之外夜船一切乗不申」また「船余人江貸申間敷、此外何事によらず御
関所
,ニ而被仰出候御法度之趣堅相守可申事」とし、
関所
の法度に違反しないという内容で(湖西町『区有文書』)、この
浜松市史 一
(今川義元の過所)
遠江笠原荘高松社に対し、造営材木を天竜川上から懸塚湊(磐田郡竜洋町掛塚)まで運ぶについての過所(かしょ)(
関所
手形,【人留】
関所
で、人間をとめるのを人留(ひとどめ)、物資は荷留(港で津留)といい、内容で米留・塩留などといった
細江町史 通史編中
(細江町史 通史編 中 目次)
300 第3節 気賀
関所
の構造 301 気賀
関所
の構造 301 犬くぐり道 303 第4節 ,
関所
役人の構成と勤務 303 第5節
関所
の武具と道具 305 第6節 制札(高札) 307 第,め 318 第12節 鉄砲改め 320 第13節
関所
とその要害村 321 第2章 気賀
関所
,での通行と取り締まり 第1節 気賀
関所
と助郷村 323 第2節 金指
関所
324 第3節 本陣中村家,333 第8節 道中御奉行様御條目 写 336 第9節 御
関所
御定法 337 気賀御
関所
御定法
浜松市史 ニ
(浜名湖畔)
しかし浜名湖は今切
関所
をおくほどの交通の要地であったから、
関所
より許可手形を受ける必要があった(「鳥浦
浜松市史 ニ
(姫街道と宝永地震)
【今切杜絶】このとき、今切の「御
関所
潰レ津波ノ上ル事大斗ニシテ三度」で、「渡海止ル事四五日」(冨田政愈,「御
関所
由来并旧跡記」『新居町史史料編』)、そればかりでなく「今切之渡海広罷成故、浪荒渡舟不自由」(「
浜松市史 一
(交通の障害)
交通の障害 戦乱・山賊・海賊と
関所
は、大きな交通障害であった。
浜松市史 ニ
(勝頼景勝と結ぶ)
十一月十六日勝頼は、信越国境の
関所
を撤廃している。
浜松市史 ニ
(抜けまいり)
享保十五年(一七三〇)女中たちの抜けまいりが多いので、都田村では気賀
関所
の命により、見張人を街道に沿う
浜松市史 ニ
(蝶夢の来遊)
秋葉山(周智郡)に参拝した蝶夢は、二十四日浜松の城下に泊り、翌日浜松の永田白輅とともに舞坂から舟で新居の
関所
浜松市史 一
(中央地方の連絡)
すでに大化改新の詔の第二条にも、
関所
や防人(さきもり)、駅馬伝馬(えきばてんま)を置くという基本方針がみえているが
浜松市史 ニ
(今切警備)
【気賀出兵】これより前、二月二十九日には気賀
関所
に増援出兵していたから、重なる出兵は井上藩にとって容易
浜松市史 ニ
(漁業と貢租)
二十七か村の東海別と西岸の二十三か村の西海別とを合わせた名称であった(両海辺の村々は、海辺改といって今切
関所
,の命をうけ、
関所
を抜けて湖をこす者の看視にあたっていた)。
浜松市史 ニ
(舞坂海苔)
養殖には今切
関所
の認可手形が必要であった。
浜松市史 ニ
(家康の津留令)
家康の津留令 この月家康は、港湾の
関所
に津留めを命令している(中村孝也『徳川家康文書の研究』上)。
浜松市史 一
(今川氏の伝馬手形)
でなければ、この手形により、各宿駅に対し、伝馬を仕立てさせる優先権を与えられたことになる(相田二郎『中世の
関所
浜松市史 三
(浜松案内書)
歴史』(昭和九年刊、千倉書房)には「姫街道と三方原」があり、曳馬の萩・細江のみおつくし・宗良親王・気賀
関所
浜松市史 ニ
([伊能忠敬の測量])
この測量には浜松宿町方同心・気賀
関所
役人、そのほか各村の庄屋・組頭等が協力している(『三ケ日町史資料』
浜松市史 一
(徳川家康の伝馬手形)
慶長六年(一六〇一)正月に東海道五十三次の宿駅ができるまで、伝馬手形専用として使用された(相田二郎『中世の
関所
浜松市史 ニ
(浜松残留隊)
浜松残留隊 井上藩は藩兵の主力を甲府に、一部を気賀
関所
と江戸に置いたほか、浜松にも有事にそなえ、若干
解説「国絵図」
(解説「国絵図」)
気賀
関所
や金指
関所
を示す「御番所」の記載はあるが、なぜか新居宿場東端の今切
関所
の記載はない。,宿場東端の今切
関所
の記載はない。,気賀
関所
や金指
関所
も記されていないので、本絵図では
関所
の記載が意図されなかったようだ。,今切(東海道)、気賀(本坂通)、金指(鳳来寺道)の「御
関所
」も記載される。,宿場東端には今切
関所
があり、本坂通の気賀
関所
や鳳来寺道の金指
関所
も記載される。
浜松市史 一
(国造軍)
また、この時の国司はもちろん常駐の行政官であり、国郡の境界や、
関所
・駅路の制も整い、諸国司は倉の鍵や駅鈴
浜松市史 一
(文明の国一揆)
農民たちがすべて集まり、はえぬきの土豪とともに、両畠山軍の撤退、横領した荘園を旧領主に返すこと、国内の
関所
浜松市史 ニ
(お札降り)
抜けまいりといいお蔭まいりといい、平素の生活から解放された歓びがあったわけで、これには
関所
ももてあまし
浜松市史 一
(交通政策の焦点)
陸運政策として、道路の新設・改修、橋梁の架設・改修、
関所
と渡船場の整備などが課題になる。
浜松市史 三
(労働運動)
日本楽器木工部50名 賃上要求スト 9.15 新居町新居汽船船員 賃上要求 8 9.12 浜松機
関所
機関手
浜松市史 三
(大名領 浜松藩 井上氏勤王誓約)
せよとの厳命をうけたのは二月七日で、家老伏谷又左衛門をして隊士四百十七人を率い先鋒総督に随従させ、また気賀
関所
浜松市史 ニ
(定助役)
天竜川の渡しと今切の渡し(
関所
を含む)とは海道交通の障害であり、要所であった。
浜松市史 ニ
(払下)
明治五年八月二十三日浜松県令(明治四年七月浜松県設置)林厚徳から浜松古城建物の払下げの布達が出ている(新居町『
関所
関係文書
浜松市史 ニ
(藩論決定の事情)
戊辰戦争が始まってまもなく、旧幕府が
関所
の警備を厳重にするよう井上藩に命じた事実もあっただけに、一層佐幕
浜松市史 四
([観光協会の設立と浜名湖の観光])
これは鷲津町の大黒祭、気賀町の祇園祭、大谷・大崎・佐久米・都筑の花火祭、舘山寺の灯籠流し、新居の
関所
まつり
浜松市史 三
(写真・図版目次)
(浜松市頭陀寺町 神村権次郎氏提供) 一三一 明治五年浜松古城建物入札触書 (浜名郡新居町 新居
関所
蔵
引佐町史 上巻
(引佐町史 上巻 目次)
第四節 嘉永・安政の近藤氏の財政 1088 (一)おかげ参りと天保飢饉 1088 (二)金指
関所
のびゆく浜松 中学校編
(目次)
#160;
関所
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