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浜松市史 五
(静岡大学)
静岡大学
【大学院電子科学研究科】 昭和四十七年は浜松高等工業学校の創立五十周年に当たり、浜松工業会,国の予算と合わせて新しい
静岡大学
附属図書館浜松分館が同年四月に開館した。,工業短期大学部にも情報工学科を設置、同五十五年には電子工学科と電子工学研究所の研究棟が完成、また同五十一年には
静岡大学
,新制大学で博士課程がこの年初めて設置されたのはこの
静岡大学
とお茶の水女子大学のみであった。,『
静岡大学
の五十年』にこの電子科学研究科設置の目的として「…電子が関与する深遠かつ広範囲な電子科学の分野 /
静岡大学
浜松市史 五
(静岡大学)
静岡大学
【工学部再編】 科学技術の急激な進展と社会の要請に応えるべく
静岡大学
は平成二年に
静岡大学
将来構想委員会,741 2724 合計(5学科) 695 695 46 2964 出典:『
静岡大学
,これを受けて
静岡大学
情報学部が浜松キャンパスに設置されることになり、平成七年十月に設置、同八年四月から,
静岡大学
の社会的貢献の一つとして地域共同研究センターが工学部内に設置されたのは平成三年四月、これが地域 /
静岡大学
浜松市史 五
([静岡大学工学部の発展])
[
静岡大学
工学部の発展] 【
静岡大学
工学部】 経済の高度成長と産業界の技術革新の進行により、
静岡大学
工学部,これに応えて
静岡大学
工学部に合成化学科が設けられたのは昭和三十七年四月であった。,昭和三十九年四月には
静岡大学
の全学共同利用の電子計算機の試運転が工学部で行われた。,【
静岡大学
工学部附置電子工学研究所 高柳記念館】
静岡大学
工学部附属電子工学研究施設は戦前の建物で,図2-22 昭和40年頃の
静岡大学
工学部 / [
静岡大学
工学部の発展]
浜松市史 四
([静岡大学工学部])
[
静岡大学
工学部] 【
静岡大学
工学部 江見節男 電子工学研究施設】 工学部は浜松工業専門学校の位置,図2-22
静岡大学
工学部 / [
静岡大学
工学部]
浜松市史 四
([静岡大学誕生までの動き])
[
静岡大学
誕生までの動き] 【浜松工業専門学校 浜松工業大学期成同盟会 静岡第二師範学校 西川熊三郎, 浜松大学
静岡大学
井口常雄】 浜松工業専門学校では、工業大学昇格を目指して昭和二十二年七月一日,になって静岡高等学校・浜松工業専門学校・静岡第一師範学校・静岡第二師範学校・静岡青年師範学校を母体とする
静岡大学
設置,と文部省大学設置委員会の答申の通知」に見られるような
静岡大学
設置の申請が出された。,その後多くの紆余曲折を経て、十二月二十一日には小林静岡県知事を会長とする
静岡大学
後援会が設立され、
静岡大学
実現 / [
静岡大学
誕生までの動き]
浜松市史 四
([静岡大学教育学部浜松分校])
[
静岡大学
教育学部浜松分校] 【
静岡大学
教育学部浜松分校】
静岡大学
教育学部は本校を静岡に置き、 / [
静岡大学
教育学部浜松分校]
浜松市史 五
([静岡大学教育学部浜松分校の廃止と教養部の開設])
[
静岡大学
教育学部浜松分校の廃止と教養部の開設] 【浜松分校の廃止
静岡大学
教養部西部教場】 戦後,
静岡大学
の場合は教育学部が静岡にあるほか、教場と分校が三島・島田・浜松の三カ所に分散しており、その統合,
静岡大学
教育学部浜松分校は大正四年に浜松師範学校として開校した伝統があり、この廃止に際しては、地元の浜松市,昭和三十九年になって
静岡大学
は移転・統合計画を発表し、浜松分校の廃止が決まった。,同居先の
静岡大学
教養部西部教場が昭和四十三年三月限りで廃止されたため、四月からは静岡女子短大のみの校舎 / [
静岡大学
教育学部浜松分校の廃止と教養部の開設]
浜松市史 五
([木津文彦の活躍])
まず浜松に在住し長年にわたり
静岡大学
教授として、音楽の教育および研究に努め浜松市にも大きく貢献した木津文彦,以下の記述はパンフレット「
静岡大学
教授 木津文彦先生退官記念謝恩の集い」などに基づくものである。 ,志太中学校(今の藤枝東高校)、
静岡大学
教育学部、東京藝術大学音楽学部で学び、昭和二十九年より静大教育学部浜松分校,以来三十八年間
静岡大学
で音楽教官として指導に当たり、平成四年三月定年退職。
浜松市史 四
(北野熊雄)
北野熊雄 長らく
静岡大学
教育学部に勤務し、静岡県の美術教育の振興に努めた北野熊雄は、熊本県の出身である,戦後は、
静岡大学
教育学部の助教授・教授として教員養成に当たった。,
静岡大学
退官後は、浜松短期大学・大垣女子短期大学の教授を務め、昭和五十年には勲三等瑞宝章を受けている。
浜松市史 五
([高柳記念館の誕生])
『
静岡大学
の五十年』通史(平成十一年六月、
静岡大学
刊)によれば、NHKテレビの開局祝賀式(昭和三十四年十二月一日,なお、
静岡大学
では、髙栁が浜松高等工業学校(静大工学部の前身)で、大正十五年に世界初のブラウン管による,迎えるのを記念する事業を計画し、その中心事業として高柳記念館の改築が行われ、平成十九年十一月、同館は
静岡大学
高柳記念未来技術創造館
浜松市史 四
([静大工業短期大学部の開学])
[静大工業短期大学部の開学] 【
静岡大学
工業短期大学部】 楽器や織機の生産が本格化し、また、オートバイ,六月、県の教育委員を務めていた西川熊三郎と浜松北高等学校の皆川英夫校長は夜間の工学部を開設するように
静岡大学
,そして、十月に
静岡大学
は文部省に設置申請書を提出した。,校舎は同年七月三十日に完成、八月一日に
静岡大学
併設工業短期大学部として設置が認可された。,図3-32
静岡大学
工業短期大学部と門標
浜松市史 五
(開かれた大学)
静岡大学
工学部で公開講座を始めたのは昭和五十四年、工学部の名前のとおり、先端科学入門や環境問題などの問題,浜松キャンパスにある
静岡大学
附属図書館浜松分館では市民への開放が進み、平成十四年十月から平日はもとより,昭和六十二年には静岡県立大学で『研究者プロフィール』、平成四年には
静岡大学
で『
静岡大学
教官総覧』の冊子
浜松市史 四
([静大工学部の発展])
[静大工学部の発展] 【
静岡大学
工学部 電子工学科 堀井隆】 昭和二十五年九月から十月にかけて浜松市,
静岡大学
工学部の電子工学研究施設は会場につくられたテレビ・ラジオ館でテレビの公開実験をした。,これらの動きを踏まえ、日本で唯一テレビの研究施設を持つ
静岡大学
は将来のテレビの技術者養成のため、工学部,これを受けて昭和三十二年四月一日に
静岡大学
工学部に精密工学科が設置された。,この化学工学科を置いている大学はあまりなく、
静岡大学
が全国で二番目ということで、化学工業界から大きな期待
浜松市史 四
([競馬場の設置と反対運動])
この高射砲連隊練兵場の跡地は和地山町にあり、市営住宅が数多く立ち並び、その南は道路を隔てて
静岡大学
工学部,ここに競馬場が建設されることが決まると、
静岡大学
工学部はもちろん、近くの
静岡大学
教育学部浜松分校、高台地区,昭和二十六年十二月二十日に開かれた聴聞会では市当局の経過報告がなされた後、
静岡大学
の江見工学部長や市営住宅,副会頭、岩崎市長らの参集を求めて市議会競馬場設置特別委員会の委員らと懇談会を開き、市議会側の設置理由と
静岡大学
側,浜松市議会は
静岡大学
工学部の反対運動が激しく、将来の学部増設に支障があるのではないかとの判断により、昭和二十七年二月以降
浜松市史 三
(学校増加と教員不足)
の増加とともに教員の不足が叫ばれ、浜松市大字名残(現在の布橋三丁目)に県立浜松師範学校(校地二万坪、
静岡大学
教育学部,の存続運動を展開し、内務省例の存置方針もあって、翌年三月ようやく存続の確定をみた(『静岡県議会史』『
静岡大学
教育学部同窓会記念誌
浜松市史 三
(誘致運動 徴兵区域 設置完成 練兵場と凧揚)
引佐・浜名の七郡で、翌四十一年三月豊橋で編成された部隊は町民歓迎のうちに富塚村(現在当市城北三丁目、
静岡大学
工学部,歩兵第六十七聯隊 正門(現在
静岡大学
工学部,城北三丁目)
浜松市史 四
(史料提供者等)
浜松市立中央図書館(浜松市) 浜松文芸館(浜松市) 木下恵介記念館(浜松市) 国立大学法人
静岡大学
,(静岡市)
静岡大学
工学部(浜松市) 静岡県立浜松工業高等学校(浜松市) 静岡県立浜松城北工業高等学校
浜松市史 三
(誘致運動)
誘致運動 浜松市に官立浜松高等工業学校(
静岡大学
工学部の前身)の開校をみたのは大正十二年四月であった,その校風をしたって昭和五年定員百二十名に対し千五百八十名の志願者があった(『
静岡大学
工学部五十年史』『
浜松市史 三
(同盟休校)
学校存亡問題で、大正十四年には浜松高等工業学校で関口校長に代った新校長の排斥運動が原因でおきている(『
静岡大学
工学部五十年史
浜松市史 一
(静大教育学部の試掘)
静岡県文化財審議会専門委員の一行は、伊場遺跡の現場調査をかねて、蜆塚遺跡を訪れその重要性を認めたが、これに刺戟されて
静岡大学
教育学部浜松分校
浜松市史 五
([医大誘致運動と浜松医科大学の開学])
同年十二月に竹山知事と佐野県議会議長の連名で政府に出された「
静岡大学
医学部設置に関する陳情書」には、県内,当初は
静岡大学
に医学部を設置するといった運動が行われたが、昭和四十五年になって単独の医科大学誘致の方が,さらに、市は
静岡大学
工学部との連携も考慮に入れ、設立当初の仮校舎も静岡女子短大の旧校舎に予定するなど受,国立医科大学、浜松市に設置 【浜松医科大学】 昭和四十八年九月十日、国立医科大学創設準備室が
静岡大学
,開学二年目の学生を受け入れる入試は一期校と同じ日程となり、
静岡大学
が二期校のため、地元の学生には歓迎された
浜松市史 四
([栄養士養成])
戦後、静岡第二師範学校跡に設立された
静岡大学
教育学部浜松分校は昭和四十年三月限りで廃止され、静岡市大谷,この後、
静岡大学
教養部西部教場が出来たが、浜松の高等教育機関の弱体化を恐れた市民感情を背景に、平山博三市長
浜松市史 五
([新産業の創出と創業者支援へ])
地域産業の先端産業化の支援体制として設けられたのが、浜松地域テクノポリス推進機構、
静岡大学
地域共同研究,【
静岡大学
地域共同研究センター】 (2)
静岡大学
地域共同研究センター 産学交流の拠点として平成三年四月,
静岡大学
地域共同研究センターは①民間機関等との共同研究、②民間機関等の技術者に対する高度技術の教育・研修,
静岡大学
工学部は、もともと浜松における工業発展のインキュベータ(起業を支援する制度、仕組み、組織など)
浜松市史 五
([寄付講座とワークショップ])
静岡大学
電子科学研究科からは「色パターンに対する視覚系感度の測定」などが発表された。,これらのことは浜松ホトニクスが先導し、県西部浜松医療センター、浜松医科大学、
静岡大学
工学部が参画することによって
浜松市史 五
(公民館)
浜松高等工業学校の校舎として建設され、鉄筋コンクリートの頑丈な建物であったため、戦災でも焼失を免れ、戦後は
静岡大学
工学部,この施設が
静岡大学
の電子工学研究所に昇格し、現在地(中区城北三丁目)に移転したため、同四十一年に浜松市立高校
浜松市史 五
([その他の大学の動き])
ここでは
静岡大学
、浜松ホトニクス等との共同研究も行われている。
浜松市史 三
(体育の強化)
浜松師範学校生徒が勤労奉仕隊として渡満し労役に従事したのも十五、六年ごろであった(『
静岡大学
教育学部同窓会記念誌
浜松市史 五
([特色ある研究活動])
図3-16 もりのこ学習の学習過程(右)と児童の様子(左) 【
静岡大学
教育学部附属浜松小学校 浜松中学校,】 浜松には
静岡大学
教育学部附属浜松小学校と同浜松中学校という二つの附属学校がある。
浜松市史 四
(電子機械工業)
当地域で発生するインキュベータ(起業を生み出す仕組みや制度)の役割を演じたのが浜松高等工業学校(現在の
静岡大学
浜松
浜松市史 四
([学校の校地])
授業が開始されたが、校舎が足りず、興誠中学校及び追分国民学校も使用しての再開であった(『大学の歴史』
静岡大学
工学部
浜松市史 五
([浜松商科短期大学の幼児教育科と付属幼稚園])
同三十九年一月、浜松商科短期大学はこれまで
静岡大学
教育学部長を務めていた畠山一忠を学長に迎えた。
浜松市史 五
([名誉市民の制度])
浜松高等工業学校(現
静岡大学
)に助教授として赴任、今日のテレビジョンの基礎を確立した。
浜松市史 五
([看護婦養成学校の設置])
一般教養の講師には
静岡大学
や静大工業短大、県立女子短大などの教授などが当たり、看護・医学関係の講師は遠州病院
浜松市史 五
([児童会館少年音楽隊の発足])
静岡大学
助教授奥村唯夫(後に教授、昭和五十九年市勢功労者)ほか、市内の小学校の音楽主任らの尽力によるものであった
浜松市史 三
(浜松県民会 小区長会 民会の意義)
28 伊藤八三郎 29 松島吉平 30 稲垣長七 31 松山正平 (増田潔「浜松県公撰民会覚書」『
静岡大学
浜松分校研究所年報第六集
浜松市史 三
(石代相場引下願)
五円十五銭に改め、これにもとづいて田方の地価・地租を減額修正することに決し、これが二十年に実施された(
静岡大学
法経短大編
浜松市史 一
([古窯跡])
昭和三十一年(一九五六)八月から九月にかけて、久永春男・平野和男両氏を中心に、
静岡大学
教育学部浜松分校歴史研究部
浜松市史 五
([石造文化財の調査と報告書の作成])
から十一年度までの五年間にわたって続けられ、二冊の報告書(平成十三年三月刊)にまとめられたこの調査を、
静岡大学
情報学部,の許山秀樹教授は、『
静岡大学
情報学研究』第14巻(平成二十一年三月刊)所載の論文「漢文で書かれた石碑
浜松市史 四
([盲学校・聾啞学校の復興])
ここは現在でいうと
静岡大学
浜松キャンパスの東側で、城北交番やサークルK浜松城北二丁目店のある一帯である
浜松市史 五
([水野欣三郎の彫刻])
・やわらぎ像(浜松市動物園、昭和四十年) ・愛郷(浜松五社公園、昭和四十一年) ・意相(
静岡大学
工学部図書館
浜松市史 四
([高校入試と補習])
【静大学力コンテスト】 ところで静大学力コンテストとは、
静岡大学
の学生がつくった
静岡大学
学生進学会
浜松市史 四
([教育委員会法の改正])
十月一日付で任命された教育委員は
静岡大学
学長の大杉繁、弁護士の山根七郎治、静岡銀行頭取の平野繁太郎、国産電機社長
浜松市史 三
(芳川村)
の概況を示すと左表1・2の通りである(田中・村松『静岡県を中心にした温室園芸の沿革と現況』一九六二年
静岡大学
農学部農経資料第
浜松市史 一
(凡例)
自然環境編
静岡大学
名誉教授 佐々木清治 原始編および古代編のうち古墳時代 浜松市立郷土博物館学芸員
浜松市史 五
([光産業と光産業創成大学院大学])
では①外国人研究者を受け入れる場合の在留許可期間が三年から五年に延長され、②民間企業が浜松医科大学や
静岡大学
工学部
浜松市史 四
(能勢海旭)
静大教育学部)を卒業後、昭和十一年母校に専任書道教官として迎えられ、昭和四十五年に退官するまでの三十余年間、
静岡大学
浜松市史 四
(『郷土遠江の調査研究』)
塚本は、当時
静岡大学
教育学部浜松分校の教官であって、静岡第二師範学校が大学昇格祝賀記念展覧会を開催するに
浜松市史 五
([男女雇用機会均等法と女性労働者の待遇改善])
静岡大学
就職部での求人状況では、男子のみといった求人はほとんどなくなった(『静岡新聞』昭和六十一年十二月二十二日付
浜松市史 四
([進学の問題点と就職])
中部地方では名古屋大学や新潟大学などが一期校、
静岡大学
や山梨大学などは二期校であった。
浜松市史 一
([千人塚古墳])
昭和三十二年(一九五七)には、
静岡大学
教育学部浜松分校の歴史研究部が、この古墳の測量調査を行なった。
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