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浜松市史 ニ
(鹿島祭)
鹿島
祭
鹿島
明神社(当市呉松町曾許乃御立神社) 十月八、九日。 /
鹿島
祭
浜松市史 三
(二俣へ行く鹿島線)
二俣へ行く
鹿島
線 ①
鹿島
線 浜松田(字板屋)と磐田郡二俣(ふたまた)町(
鹿島
)間を結ぶ十七・七キロメートル,で軌幅二フィート六インチ(七六二ミリメートル)、明治四十二年十二月六日開通、
鹿島
線(二俣線ともいった),当時の新聞は、
鹿島
線の開通に際して、板屋町の停車場入口に立派なアーチが建てられ、二十八人の定員に対して / 二俣へ行く
鹿島
線
浜松市史 三
(二俣線開通と西鹿島駅 遠州鉄道株式会社)
二俣線開通と西
鹿島
駅 遠州鉄道株式会社 昭和に入り不況の波がおしよせると、
鹿島
線沿線の岩水寺を遊園地,として宣伝したり、
鹿島
の花火大会に臨時電車を増発したり、納涼電車の運転をしたりして経営に努力した。,その後十五年省線の二俣線が開業すると、旧駅(
鹿島
駅)より浜松寄りに新しく省線と共同の西
鹿島
駅を設置した / 二俣線開通と西
鹿島
駅 遠州鉄道株式会社
浜松市史 三
(遠州軌道株式会社 遠州電気鉄道株式会社)
遠州軌道株式会社 遠州電気鉄道株式会社 そののち第一次世界大戦による好況の波が輸送機関にも及ぶと、
鹿島
線,こうなると西遠地方の今後の発展のためにもまた北遠地方の開発のためにも、いつまでも
鹿島
線を大日本軌道株式会社,馬込―中ノ町 5.2km 明治42. 3. 3 馬込―南新町 0.5 〃 42.12. 6 板屋町―
鹿島
,ノ町村地内延長 0.6 〃 43. 3.18 (『日本の軽便鉄道』) 明治45年の中ノ町線・
鹿島
線, 浜松
鹿島
間運賃 ○1区2
浜松市史 三
(笠井線)
笠井線 大正期に入ると、
鹿島
線から外れた笠井町民の要望により、三年五月に
鹿島
線西ケ崎駅と笠井とを結ぶ
浜松が生んだ名建築家中村與資平展
([明治35年])
(妻は二俣町
鹿島
、田代嘉平次の三女で長女は漢学者の内田周平に、二女いつは下堀の竹山純平に嫁していた。),当時は交通が不便であったので、
鹿島
の一行は舟で天竜川を中ノ町に下り、竹山邸で一息して、当方に来られたのである,その時は丁度
鹿島
の椎ケ脇神社の祭典当日であったので、
鹿島
を発つ時は見物人が多くきまりがわるかったとのことである
浜松市史 五
(鉄道線)
まず、昭和四十九年八月電車検査場を西ヶ崎駅構内から西
鹿島
駅構内に移転、昭和五十二年には電車検修車庫が西
鹿島
駅構内,これにより西
鹿島
駅は、近代設備を備えた電車基地として整備された。 ,さらに、同五十二年十月には遠州助信~西
鹿島
間に列車自動停止装置(ATS)を採用、同五十三年十一月までに
浜松市史 四
([急行電車の運転])
この結果、旭町(のち新浜松)─西
鹿島
間の所要時間は五十二分から三十八分に十四分短縮された。,納涼ビール電車】 また昭和三十一年六月には、新鋭の大型車両が増備され、同月二十九日から新浜松─西
鹿島
間,この電車は、新浜松駅を夕方の六時五十四分に出発、七時二十四分に西
鹿島
に到着、そこからバスで納涼亭に行き
浜松市史 三
(乗合馬車 浜松馬車会社)
乗合馬車 浜松馬車会社 【二十九年 気賀
鹿島
】郵便馬車についてはすでに述べたが(第二章第四節第四項,共通馬車会社という二つの乗合馬車会社の共同経営で発足、往復区間は浜松・気賀間一日八往復(運賃一八銭)、浜松・
鹿島
間一日八往復
浜松市史 ニ
(天竜材の需要)
【
鹿島
十分一番所】そこで元和三年(一六一七)には
鹿島
(天竜市)に、天竜川を流下する貨物に時価の十分の一,を徴収する
鹿島
十分一番所が設けられた。
浜松市史 四
([一日の休みもなく運転続行])
昭和二十年六月十八日の浜松大空襲の直後においても直ちに遠州助信駅を臨時起点として西
鹿島
駅まで運転を開始,なお、本社ビルが全焼したため、八月に入って本社事務を西
鹿島
仮事務所に移転した。
浜松市史 三
(旭町駅新設 宮口線 旭町駅改築と本社移転)
旭町駅新設 宮口線 旭町駅改築と本社移転 大正十三年二月には
鹿島
線の起点の板屋町駅から馬込川西岸(現馬込駅,浜松駅から板屋町駅までの徒歩連絡の不便もなくなり、貨車も東海道線からそのまま乗り入れができるようになり、
鹿島
線
浜松市史 一
(曾許乃御立神社)
呉松町の字
鹿島
原にある。 曾許乃御立神社(浜松市呉松町)
浜松市史 三
(堀江県 浜松県へ併合)
堀江県 浜松県へ併合 【
鹿島
原開拓】ここで堀江藩について述べると、明治二年六月の版籍奉還のさいには藩主基寿,庶務・租税などの係があり、同三年四月には生産所を新設、八月には新札(藩札)の引替をしたり、翌四年には
鹿島
原二十三町一反歩
浜松市史 三
(郷社 村社 浜松郷社)
しかし、このときの社名は氏子の出願によって例えば四十六所神社は津毛利(つもり)神社と(明治十一年)、
鹿島
神社,1~5 都盛村 春日神社 1~6 白羽村 大宮浅間神社 1~7 浅田村 賀茂神社 1~8 伊場村
鹿島
神社
浜松市史 一
(遠江出身の新補地頭)
一二三八)に肥前(長崎県)杵島郡長崎荘上村の惣地頭職に補任(ぶにん)されているのもその例である(『小
鹿島
文書
浜松市史 四
([全線復旧と新車の導入])
【本社ビルでの業務再開】 昭和二十一年六月一日に本社ビルがようやく応急修理を終えると、本社が西
鹿島
浜松市史 ニ
(十月)
鹿島
祭り 八日・九日 曽許之御立神社(当市呉松町)。
浜松市史 三
(三方原給水計画)
明善はこのとき県に対し、天竜の流路を西
鹿島
で締めきって三方原(みかたがはら)へみちびき、浜名湖に直接注
浜松市史 三
(人車鉄道)
出願期日 結果 豊橋鉄道会社 豊橋-西浜名 明治29.9.18 明治30.4.22却下 浜松〃 浜松-西
鹿島
浜松市史 三
(中ノ町線)
そして馬込川に鉄橋がかかり四十三年には次頁の表のように板屋町と馬込の両駅間も結ばれ、これによって
鹿島
線
浜松市史 四
([天皇行幸による道路復旧])
自動車で市役所、名古屋鉄道局浜松工機部、北国民学校(現北小学校)の仮校舎、日本楽器製造株式会社、二俣町西
鹿島
浜松市史 三
(浜松二俣線)
【プロペラ船】当時、北遠を結ぶ交通機関として
鹿島
・西渡間の天竜川を就航する天竜川飛行艇株式会社(大正十二年設立
浜松市史 ニ
(小天竜と彦助堤)
小天竜と彦助堤 近世初期の小天竜川は二俣
鹿島
の下から浜松馬籠へ流通していたが、この川筋は降雨の際洪水
浜松市史 四
([村立幼稚園の開園])
北庄内村の若葉幼稚園は舘山寺や
鹿島
に分園を設立するなど大いに発展したが、三十二年に堀江幼稚園が、翌年には,白洲と
鹿島
も村立幼稚園となった。
浜松市史 五
([十分・十一分・十二分ダイヤと新型車両の導入])
ヘッドダイヤから十一分ヘッドダイヤに変更(それまで遠州曳馬駅のみ二十分ヘッド)し、各駅停車を実施、新浜松駅─西
鹿島
駅間
佐久間町史 上巻
(佐久間町史 上巻 目次)
小屋 六六八 (ヘ)人足と扶持 六七〇 (3)榑木輸送の変質 六七八 第八章 林業の発達と
鹿島
十分一騒動,七三〇 (1)天保八年「海船運賃議定書」 七三〇 (2)廻船仕法改革の要求 七三四 第三節
鹿島
十分一騒動,の展開 七五三 (1)天保改革と
鹿島
十分一 七五三 (2)
鹿島
十分一所の再興と村々―山中七三ヵ村の
浜松市史 ニ
(式内社)
賀久留八幡宮・神ヶ谷八幡宮)・津毛利(つもり)神社(四十六所大明神)・曽許乃御立神社(そこのみたて)(
鹿島
大明神
浜松市史 三
(浜松笠井線)
浜松笠井間乗合自動車のりば 乗合自動車の運行状況表 注○浜松・笠井・
鹿島
間の距離
浜松市史 三
(直流岩積式工法)
これは天竜川下流の
鹿島
(かじま)と掛塚(かけつか)間七里の河巾を定め直流化させるとともに、両岸を岩石でもってたたむという
浜松市史 五
(遠鉄高架化事業)
図3-37 高架開通記念式典でのテープカット 高架化により西
鹿島
線の営業キロは八百メートル短縮,されて十七・八キロメートルとなり、新浜松駅―西
鹿島
駅間の所要時間は三十六分となった。
浜松市史 三
(浜松被害工場 浜松交通関係被害)
市営バスは七六輌残存、営業を中止した)、その他の自家用諸自動車は八十%が焼失、遠州鉄道株式会社経営の西
鹿島
線
浜松市史 三
(松島授三郎 西遠農学社 三遠農学社)
西遠農学社が明治十八年十一月四日呉松村
鹿島
神社で催した農談会は、出席者二百余名、松島授三郎の社側朗読、
浜松市史 五
([鉄道線のスピードアップ])
これにより、新浜松駅─西
鹿島
駅間の所要時間は、それまでの三十六分から三十二分に短縮された。
浜松市史 三
(中ノ町線笠井線の廃止)
は非衛生視されて、しばしば廃止運動が起きたので、大正十四年に中ノ町線とかねてから経営不振の笠井線とを
鹿島
線
浜松市史 四
([敗戦を糧にして])
昭和二十年九月十三日条には「秩序の乱れ」と題して、通勤時に経験する
鹿島
(ママ)駅頭での混乱の中にあって
浜松市史 三
(報徳家)
新村貝作は堀江、⑰中野育登は白洲、⑱鈴木伝平は老間(天竜川堤防修築、大正四年頌徳碑建立)などがあった(呉松
鹿島
神社境内
浜松市史 三
(金原疏水財団 十湖の評)
金原疏水財団 十湖の評 明治五年十月に明善が天竜川を西
鹿島
で締切りその水を分ち三方原より浜名湖へ落とす
浜松市史 四
([何でも揃っているやみ屋])
前者は昭和二十年八月二十一日に西
鹿島
からの電車が遠州浜松まで運行されるようになり、買い出しの人々が行き
浜松市史 四
([天皇巡幸])
続いて、西
鹿島
(浜松市天竜区二俣町)にある浜名用水取入口を視察の後、赤佐村(浜松市浜北区)に向かわれ、
浜松市史 五
(遠州鉄道高架化事業)
高架化の完成で新浜松駅―西
鹿島
駅間の所要時間はこれまでの四十分から三十六分に短縮された。
浜松市史 五
([合理化・近代化と高架化計画])
【CTC】 昭和四十二年二月には、遠州八幡─西
鹿島
間に列車の運行を遠隔操作するCTC(列車集中制御装置
浜松市史 四
([敗戦と神社])
三組町)・東照宮(元城町)・日枝神社(広沢町)・八柱神社(船越町)・稲荷神社(田町)・神明宮(三組町)・
鹿島
神社
浜松市史 五
([幼稚園])
昭和四十九年四月には佐浜と伊左地の両幼稚園が統合して伊佐見幼稚園に、同五十七年四月に
鹿島
・堀江・白洲の
浜松市史 ニ
(城下の不穏)
の土橋付近では入野陣屋支配下十三か村、三方原では三ヶ日陣屋(みっかびじんや)支配下の村々、天竜川畔の
鹿嶋
原
浜松市史 一
(流水量)
(門桁) 157.00 9.81 5.27 2.95 1.82 1.60 9.45 天竜川本流 (
鹿島
天竜市史 上巻
(天竜市史 上巻 目次)
榑木筏役 山形屋 御綱留の廃止 第二節 天竜川の舟運 四六六 角倉船の出現 天竜川の通船 物資の輸送
鹿島
十分一番所,展開 六五六 無礼塩一件 弘化期の塩出入一件 船明村庄屋の不正 増助郷と代助郷 熊村の無宿人騒動
鹿島
分一一揆
汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌
(浜松市立南部公民館『汽笛・ステンショ・まちこうば:わが町文化誌』 目次)
【南小学校 戦前 元始祭 紀元節 天長節 明治節】 165 (三)お宮の祭りと義士祭 【
鹿島
神社,浅間神社にあった魚形水雷 【海軍 供出】 189 ○海老塚にあった海軍の無線塔 【西部中学校
鹿島
神社,206 (一)浅間神社 【浅田】 206 (二)六社神社 【砂山町】 209 (三)
鹿島
神社
浜松市史 四
([社殿再建築の動き])
秋葉神社(三組町)鳥居再建、同二十五年・秋葉神社社務所再建、白山神社(高林町)社殿再建、同二十六年・
鹿島
神社
天竜市史 下巻
(天竜市史 下巻 目次)
天竜川洪水 明治二十五年の暴風雨 明治三十七年の水害 明治四十四年の台風災害 大正十五年の台風禍
鹿島
堤防決壊, 二俣・犬居間道路 横山・熊間道路 宮口・石神間道路 渋川・熊間道路 二俣・水窪間道路 阿多古・
鹿島
間道路,熊線 県道熊・小松・天竜川停車場線 県道天竜・東栄線 県道両島・二俣線 一般国道一五二号 天竜橋から
鹿島
橋,西遠馬車鉄道 人車鉄道 北遠電気鉄道 磐田鉄道 遠州軽便鉄道 第二項 実現した私設鉄道 八三四 遠州鉄道西
鹿島
線
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