以上述べたような三方原を構成する洪積層が第三紀末以降四回のいちじるしい侵蝕期をあらわす不整合をもっており、これは四回の海退、海進が繰り返されたことを示しているものであって、おそらくユースタチック現象に起因する海水面の昇降に基づくのであろう。こういった立場から三方原の生い立ちを考えてみると、最初の海進期に天竜川は東鴨江累層を堆積させ、つぎの海退期には天竜川は浜名湖付近に谷を刻み、さきの堆積物の東鴨江累層を扇状地として残し、またこれをいちじるしく侵蝕した。やがてこの川は流路を東へ転じ、第二海進期には厚く磐田原礫層を堆積させた。【古浜名湖】そして浜名湖付近には小河川の流入しかなかったために、かつての天竜川の開析谷に入江が生じていた。これが古浜名湖である。この入江に佐浜泥層が堆積した。しかし引きつづく海面の上昇のため、水位の上がった天竜川はついにそれまで障壁となっていた東鴨江累層を乗り越え、その氾濫原を東方から一挙に拡げ、磐田原から三方原につづく広大な扇状地を形成した。これが三方原礫層である。つづいて起こった海退期には天竜川は現河道付近に谷を刻み、その扇状地を東西に分離させて、磐田原および三方原となった。第三海進期には、浜名湖付近の沈降と海水面の上昇により現浜名湖に近似した入江がつくられ、ここに西気賀累層が堆積した。この累層の上部はチャートを主とする礫層、下部は暗灰色泥層である。このころ、天竜川地区では、谷を埋めて小野口礫層が生成した。したがって西気賀累層と小野口礫層とは同時期のものであり、三方原礫層より一時代新しい堆積物と考えられる。【現浜名湖】つぎに来た海退期とそれにつづく沖積世の海面上昇により、天竜川地区では再びつくった谷地形を埋めて現在の氾濫原ができ、一方大河川の流入をみなかった浜名湖付近は土砂による埋めたてが進まず、海水の侵入を受け、また沿岸流の運ぶ砂礫で入口をふさがれて現浜名湖を形成したのである。