【彦助堤】(1)寛永十三年(一六三六)天竜川満水、彦助堤のうち油一色というところが切れ、下流の村々が難儀した。
(2)延宝二年(一六七四)八月 大風雨、浜松宿田町辺七日間家の軒まで水がつき、半切桶に乗り用事をしたという。【馬込橋】馬込橋付近は東海道も水に没し、十日間は舟渡しによった。
馬込川の水難地蔵
(3)延宝八年(一六八〇)八月 大風雨、寺島八幡地田畑不作、木綿・大豆御見分被成、年貢米一俵のうち四升ずつ割びきした。青山和泉守時代のことである。
【中野町村】(4)元禄十一年(一六九八)七月 大雨、中野町村付近の川越島村堤切れ、天竜川の水押し入り、川下の中野町屋・萱場村・安間村・橋羽村・永田村・植松村往還通りの人々は十日あまり天井裏に住み難儀した。また東海道は萱場村から植松村まで道路が水につかり、通行ができないようになったので、佐藤村堤通りから神立村森西堤通りを過ぎ、天王村・市野村へ出、上石田村通りから天竜子安堤へ出、ここから舟越をしたので、一里ばかり迂回したのである。そして東海道の交通が復旧したのは翌年四月のことで、この間約十ヵ月の人馬継立は、このような迂回路によっていたのである。
【飯田村】(5)享保十三年(一七二八)七月 大風雨、飯田村内堤切れ、寺島八幡地田地水浸、また田町・板屋町にも水が押し入った。
(6)享保十九年(一七三四)八月 大雨、馬込方面に出水し、東海道の東木戸口には土俵を築き、また馬込橋を護るため、旅籠町が橋番となり、余町からは大きな桶や土俵をもち出してこれらをつなぎあわせて橋の流れ陥ちるのをくいとめて事なきを得た。しかし板屋町は床上浸水、早馬町は床上二尺ばかりも水が乗り、田町などでは下帯がぬれるほど出水したという。
また、杉浦日記(7)(8)、変化抄(9)(10)、浜松藩記録(11)には、つぎの記事、がある。
(7)寛政十年(一〇〇〇)四月 大雨、天竜川筋七蔵新田にて堤防決潰、池田付近水没、西之島から森下まで舟越とし、通行に差しつかえないようにした。
(8)文化四年(一八〇七)十月 天竜川出水、七蔵新田の堤防また切れ込み、西之島村・森下村・宮一色村の地内一面水溢出、往還の交通が困難となった。
【富田村】(9)天保七年(一八三六)八月 大風雨、天竜川富田村にて破堤、下辺大水、田畑作物不毛となり、その翌年は飢餓に見舞われ、城主から扶食を受けるという有様であった。
(10)嘉永三年(一八五〇)秋 大水、天竜川中流域の西川や二俣では居家の鴨居まで水漬し、下流域では子安にて堤防破れ、その下辺では二尺余高に出水して四十余日間も水漬しになった家も多かったという。
(11)慶応四年(一八六八)五月 浜松領分大風雨にて天竜川出水、堤防所々で切れ込み、とくに浜松以東の往還筋に押水強く、水漬しになった村々が多く、田畑損毛、流家もあったほどである。