被害状況

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 宝永四年(一七〇七)十月四日の昼八ツ時(午後二時)に大地震が起こり、浜松では潰家七十一軒、半潰家二十九軒、大破損家五十二軒、小破損家四十八軒、合計被害家屋二百軒もあった。そこでこれらの家に対して城主松平豊後守(のちに伯耆守)から千三百七十四俵の救米が出され、また御役五町に対しては六百二十六俵の拝借米(期限三カ年、ただし旅篭町だけは困窮ひどく十三カ年)も出された。その内訳は第11表のごとくである。
 また、この地震によって、今切渡舟杜絶し、東海道が困難となり、旅人は本坂越をするようになり、浜松宿の休泊者激減して、宿場町は一層困窮におちいった。
 この地震が東海道筋一帯に大きな被害をもたらしたことは、糀屋記録中のつぎの記事からその大よそを知ることができる。
 
  一、宝永四己亥年十月四日昼八ッ時頃大地震御座候て、道中筋所々家   潰半潰大破損家小破損家、其節御料所宿々へ御大名様方御手伝御付   被成候て、宿々へ金子被下御取立遊候、
  一、勢州四日市宿より遠州見付宿迄、本多吉十郎様御手伝御代官外細   田伊左衛門様、
  一、遠州袋井宿より駿州由比宿迄酒井左衛門尉様御手伝、
  一、由比宿より相州小田原迄真田伊豆守様御手伝、
 右宝永五子年正月より同三月時分迄、
 
とあるように、この地震は東は小田原、西は四日市間の東海道筋に震災をおよぼした外側地震帯の活動であったことが明白である。
 こういった大地震も、遠州灘の沿岸からやや隔たった山地には、あまり多くの被害をおよぼさなかったようである。
 都田村年代手鑑には、
 
  大地震、十月四日九ツ時ゆる、
 
と、きわめて簡単に記されているだけで、大きい被害があった様子はみられない。
 
(表)第11表 宝永地震による浜松宿の被害家屋に対する救米・拝借米
救米
被害家屋軒数救米
俵数1軒当り
伝馬町杉浦本陣1軒30俵30俵
潰家往還通20   300   15   
裏町51   510   10   
半潰家往還通23   230   10   
裏町6   30   5   
大破損家往還通30   150   5   
裏町22   44   2   
小破損家往還通32   64   2   
裏町16   16   1   
200(+1)1,374
拝借米
御役町拝借米
杉浦本陣20俵・斗升合勺
伝馬町139・3427
塩町46・2492
田町139・3427
肴町139・3427
旅篭町139・3427
626・