まず嘉永七年の地震について、その被害状況をみると、同じく浜松付近の村々でありながら、場所によって被害程度が大きく異なっていることは注目に値する点である。浜松西郊の入野村では倒壊家屋三十二軒、その他の家屋の大半が大破損し、堅牢とされていた土蔵さえ潰れるものがあり、村民は仮小屋を造って二週間も寝泊りしたというほどはげしい被害をこうむったのに、その隣村の伊場村・西鴨江村・志都呂村では一軒の潰家もなかったという。ところが、浜名湖岸の山崎村では家が潰れ、その下敷になる者もあった。奈川新田書留(『浜松市史史料編五』)の中に、この地震被害取り調べが各村に行なわれたという記録が、つぎに示すように記されているので、今後こういった記録が各地でみつかるならば、この震災の程度が一層精密にわかり、興味ある研究ができるであろう。
一、崩死 誰何才 一、怪我 同
一、土蔵 何ヶ所 内本潰 何ヶ所 半潰 何ヶ所
一、物置 何ヶ所 内本漬 何ヶ所 半潰 何ヶ所
一、田畑検地 凡何程 一、牛馬 死何疋
〆
右は去る四日之地震にて、村々より先日訴出候得共、書面雛形之通聢と取調、明後十日朝四ッ時無遅滞、新台所役所へ一村限可差出候、尤即死之者も今般之儀は見分等無之候間、無遠慮可差出候、此配符以刻付早々順達、留り村より可戻候、以上、
十一月八日
この地震後、津波が起こっている。すなわち、翌五日晩七ッ過(午後四時)ごろ、南の遠州灘沖方暗くなり、海鳴はげしく、津波襲来するとて、人々は三方原の台地へ難を避けた。浜名湖口の今切湊では二百間のところが、津波打ち寄せて七百間にも開き、宝永年間の大地震のとき打ち込んだ杭があらわれたという。