安政二年(一八五五)九月二十八日暮六ツ(午後六時)に起こった大地震の記録は変化抄に詳しく出ているので、つぎに要約しよう。
浜松では、寺院の本堂あるいは庫裏の潰れが六か寺にみられ、山門の潰れたのが二か寺あった。町方では全壊七軒、大堀長屋も潰れた。土蔵の大破損はかぞえきれないほど多かった。御城長屋にも倒潰や大破損が出た。この地震で浜松の死者は二人であった。
【米津村 白羽村 中田島村】浜松の近郊をみると、米津村二十七軒皆潰、白羽・中田島辺では泥水が吹き出した。三島村から下の方は潰家が多く、さらに泥水も吹き出した。田畑高低に変地した。【掛塚湊】掛塚湊では家屋の潰れ二百軒、また潰れ同様に破損した家三百軒という大被害があり、ここでも所々から泥水が吹き出した。天竜川沿いの池田は案外潰れ少なく、下前野・保六島近辺は残らず皆潰、福田・駒場近辺はことに全壊家屋が多い。中泉の被害はさほどでもなく、横須賀・相良・川崎辺の家屋は過半が潰れた。見付宿では裏通りに潰家多く、死者七人を出している。袋井は皆潰の上、火災が起こって焼失し、死者六十余人を数えるという悲惨な目に逢い、掛川もやはり皆潰・焼失・死者が多かった。掛川城内も大破。山梨も潰家が出た上、火災も起こっている。山地入口の森はあまり被害を受けなかった。