おそらく樹上生活を営んでいたと考えられるある種のサルに似た動物群が、なにかを契機として直立歩行の地上生活を始め、目的に応じた道具を作り、それによって労働をするという状態になった時を、人類の出現と呼ぶことにしよう。その時から一口に百万年という人類の歴史が始まった。
われわれが、日本列島に人類の足跡をたどれるようになるのは、年代もかなり経過した四十万年くらい前のことである。それ以降、日本に古代国家が成立した三世紀末ないし四世紀初頭までの日本の歴史を、「原始」という区分の中で把えることにしている。してみると、人類はそのほとんど大部分の歴史を原始時代の中で過ごしたのである。
人類の祖先たちは、はじめおそらく素手で獲得できるような木の実・草の根・魚貝類などを生食していたのであろうが、やがて、山火事・噴火・落雷のような自然現象の中から、火を使うことを学び野獣からの安全性を確保するとともに、火食することによって栄養価をずっと高めることができるようになった。道具の面では、はじめは棒切れや手ごろな石塊がそのまま手の延長として道具の役目をはたしていたであろうが、やがて石に石を打ちつけることによって、自分の期待するような鋭利な刃や尖った先を作り出すことができるようになった。この方向は、頭脳の発達と相互に関連しあいつつますます改良されつづけるのである。しかしこの過程は、すべて社会集団を通じて達成された。というよりむしろ、社会集団の中でなければ達成されなかったに違いない。おそらく、共同の生活、共同の労働が営まれる中で言語が発達分化し、その言語によって知識が次代へ伝達保存され、さらに新たな知識が追加されるという過程を基本軸として、人類は文化を形成し発達させてきたのである。
発掘される考古学的な資料についてみると、人類は最初たんに打ち欠いただけの打製石器を使っていた。それもはじめは粗雑で幼稚な作りであったが、しだいに精巧となり、用途に応じて形の異なる石器を準備するようになった。この時代を旧石器時代といい、日本では無土器時代とも呼ばれている。
やがて、社会の生産力の発展が、ある段階に到達した時に、一連の重要な発明がなされた。弓矢と土器と磨製石器、そしてなによりも重要な穀物の栽培法である。これら一巡の発明は、オリエント地方においてほぼ一万年前に達成されたのである。そしてこれから以降を、新石器時代という。ところが日本列島では、弓矢と土器と磨製石器の使用は、世界史の動きと同じくほぼ一万年前に始まったが、農耕の開始はかなり遅れて西暦前四、五世紀になってからであった。だから、日本列島には農耕を知らない採集経済の文化が、無土器時代に引きつづいて長く存続することになった。この時代を縄文時代という。
縄文時代の文化は、食物採集経済に基礎を置くとはいえ、弓矢と土器と磨製石器を駆使するきわめて高度な文化であったらしい。しかしながら、道具の改良、狩猟漁撈法の改善、新しい食糧源の発見などに示される生産力の発展によって、より多くの食糧を確保できたとしても、自然の産物に依存する限り、経済生活は体制的なゆきづまりをきたす必然性を持っているのである。これを打開するには、食物生産経済に切り替える他ないのであるが、かといってそれはただ穀物を植えて育てる方法を会得するだけでよい、というような簡単な事柄ではなさそうである。西日本の縄文人の一部では、晩期のころから植物栽培を始めた形跡があるが、それは縄文時代社会に一般化した様子がないのは、その現われとみられる。農耕文化が定着するためには、農耕技術だけが取り入れられるだけでなく、それにともなって社会の体制もイデオロギーも変革されなければならない。縄文時代の宗教・儀礼に関連ありとされる土偶・石剣・石棒・抜歯風習・屈葬などが、農耕文化の波及とともに姿を消すのはそのためであろう。こうして、西暦前四、五世紀のころ縄文時代は大きな変革を遂げて弥生時代へと移行するのである。
農業は、耕地の拡大という量的な発展だけでなく、農具の改良、灌漑の改善、品種改良といった質的な発展によって、収獲量を無限に増大させる可能性をもっている。したがって生産力の水準いかんによっては、剰余生産物を生み出すことができる。一方社会的諸条件が同じであっても、自然的条件(地力・気温・水量など)によって生産力に不均等が生じ得る。そこで農業社会が順調に発達するにつれて、地域的な不均等性が目立ち出し、これに社会的な諸条件が関連しあって、さまざまな不均等的発展が進行する。こうして弥生時代の中期にすでに地域的な発展の不均等性が表面化したが、後期にはこれが社会の深部にも変化を起こし、社会成員の階層化が進展したのである。すなわち、弥生時代の中ごろ(西暦紀元前後)に北九州において小国家的な社会組織が成立し、墓地の中に明瞭な階層分化を示す事例が現われたが、後期(西暦二、三世紀)には全国各地の小国家的なまとまりを、さらに大きく包括するような、連合的国家組織に発展しつつあったのである。