①浜松市神ケ谷町東平遺跡
②浜松市吉野町次郎大夫前遺跡
①は、三方原台地の南部にあって、神ケ谷の大きな谷からわかれた支谷の谷頭に近い場所に立地している。この遺跡からは、尖頭器一(第1図3)・石鏃一、とともに有舌尖頭器が一点採集されている(第1図2)。粘板岩製である。②は、さきに述べたナイフ形石器や尖頭器が採集されたのと同じ吉野町地内にある。ここは三方原台地を西方から大きく侵蝕した谷の奥まった部分であって、台地面より下った谷底に近い地点であったらしい。有舌尖頭器が一点単独で発見されたといわれる(第1図1)。珪岩製である。
ところで、有舌尖頭器の文化の中にも、細石刃器文化の伝統は残っていない。一方有舌尖頭器の文化の伝統は、縄文文化の中に伝えられているとみられる。たとえば土器と石鏃の存在がそれである。しかしこの問題に関して、また新しい事実がもたらされた。長崎県福井洞窟の発掘調査によって、細石刃器と土器(この土器は隆起線文土器と呼ばれて有舌尖頭器文化のあるものに伴出する土器と同類である)が、同じ地層から一緒に発見されたというのである(鎌木義昌・芹沢長介「長崎県福井岩陰」『考古学集刊』第三巻第一号)。つまり、九州では細石刃器文化の中で、土器が作られ始めていたことがわかったのである。このことは細石刃器文化と有舌尖頭器文化が、土器を介してみると、決して無縁でなかったことを示している。こうして無土器文化と縄文文化との間の橋わたしを演じた文化が、しだいに明瞭になりつつあるのが現状であって、まだ充分な解答は与えられていない。
いっぽう、人類学者によってもこの問題は追求されていて、三ケ日人々浜北人の特徴が、縄文人ときわめてよく類似している点が注意されている。この点からすれば、無土器文化人がそのまま縄文文化人へと、変化したと考えてもさしつかえないということである(鈴木尚・高井冬二他「三ケ日人と三ケ日只木石灰岩採石場の含化石層」『人類学雑誌』第七十巻第一号)。
無土器文化から縄文文化への過渡期は、研究の進展につれて、しだいに解明されてくることであろうが、考古学的な事実からみると、非常にめまぐるしい激動期であったことがうかがわれる。それにしても、すでに述べたように、有舌尖頭器文化のあり方や化石人骨の特徴、それに無土器文化の地域差と縄文文化の地域差がある程度重なり合うという事実などをみると、両文化がまったく無縁ではなかったとするよりも、むしろ積極的に両文化の連続性を示しているというべきであろう。
〔参考文献〕 芹沢長介『石器時代の日本』、杉原荘介編『日本の考古学』1-先土器時代-
年表1 無土器文化