その後、日本人による縄文時代の研究が進むにつれて、貝塚土器・石器時代土器・アイヌ式土器・アイヌ派土器などという名称が、それぞれの学者の好みや主張によって使いわけられてきた。縄紋土器という呼称は、すでに明治十九年(一八八六)ごろ、貝塚土器という呼称と並び用いられていたが、大正末年から昭和の初めにかけて、一般的な呼び名として学界に定着するようになった。そして終戦後は、とくに縄文土器の名に改められるようになっている。
コード・マーク(索紋)という用語は、もちろん個々の土器につけられた、縄を押しつけたような文様という意味に使われていたのであるが、同時にコード・マークト・ポタリー(索紋土器)という場合にはとくに縄の文様のある土器だけを指すわけではなく、同時代の土器一般を指す概念でもあった。