縄文時代は土器の変化をもとに、大きく五段階に区分されていた。早期・前期・中期・後期・晩期というわけ方がそれであって、すでに昭和十二年(一九三七)ごろに完成されていた(山内清男「縄紋土器型式の細別と大別」『先史考古学』第一巻第三号)。この区分は、最初から縄文土器を分類しそれを年代的地域的にまとめあげてゆくための便法として行なわれたものであったが、それはしだいに、縄文文化の発展過程を説明するための時期区分としても使われるようになった。そして、昭和三十三年(一九五八)ごろから、特殊な尖頭器や石鏃、変種に富む土器群などが知られるようになって、これを従来の早期の前に、草創期として付加する説が行なわれるようになった(山内清男・佐藤達夫「縄紋土器の古さ」『科学読売』第十四巻第十二号)。これに対して、新しく知られるようになった文化を縄文文化と無土器文化の間の過渡期として、これを中石器文化階梯に相当するものと考える説がある(芹沢長介「火山灰中の人類遺物」『第四紀研究』第三巻第一号)。
【早期】早期と呼ばれる時期には、日本列島はまだ完全に一つの文化圏を形成しているとはいえない状態であった。東北日本を舞台とする「沈線文・貝殻文土器群」と、中部以西の西日本に広く分布する「押型文土器群」が対立的に存在し、基本的な石器製作技術まで異にしている。両者はそれぞれ別々の文化圏を形成し相互にほとんど交流をしなかったらしいのである。これが早期の後半になると、しだいに相互の交渉が活発になって、早期の終わりごろには貝殻による器面調整法(肋条のある二枚貝で土器の表面にできた凹凸を均しながら形を整える)が、ほぼ全国的に認められるようになって、地方差は存在しても縄文文化として文化的に統一されつつあったことを示している。
早期の生活は半定着的であって、小人数の集団が、簡単な小屋がけ程度の家に住んで、狩猟や漁撈による生産活動を行なっていたものと推定される。