この時期には、浜松周辺地域において確実な資料はまだ発見されていない。しかし、駿河・伊那・三河といった近隣地方の資料から類推すると、浜松地方の前期の文化は、多分に東海以西のものに近かったとすることができる。
【中期】中期になると、土器の上ではふたたび激しい地方差を示すようになった。しかしそれは、前期後半にみられた融合を基盤として、縄文文化という大きな枠の内部にあっての地方差ということであったと思う。したがって、そのような地方差は、縄文文化が各地で不均等な発展をはじめたことの反映ではなかろうか。中でもとくに顕著なものは、八ケ岳山麓に発達したいわゆる勝坂式土器の文化である。その雄渾豪華な土器は比類ないものと絶賞されている。この文化は、山岳地帯にありながら、狩猟よりも採集生活に依存した文化であるとも、また原始的な農耕文化であるともいわれている(藤森栄一『井戸尻遺跡』)。中期の後半にはいると、こうした特殊な文化は影をひそめて、ふたたび共通した土器で示されるような統一の気運が醸成されるようになる。