【後期】中期後半における縄文文化の統一の気運は、後期の前半に持ち越された。とくに土器における「磨消縄文手法」(必要な部位に縄文を施し文様部を残して余分な縄文を磨り消す施文手法、およびこれと同じ効果を有するもの)は、後期の中ごろに全日本に拡散したのである。北は北海道の礼文島から南は薩南諸島の種子島にいたる、文字どおりの日本全土の縄文土器に、磨消縄文手法が認められる。もちろん各地の土器は相互にかなり異なるものであり、北海道や九州南部には、本州のものとひどく違った土器が分布していた。しかしそのような差違をのりこえて、共通の手法が滲透し得るような、観念の共通性が成立したことの意義を認めてよいと思う。