蜆塚遺跡に関する記事が、最初に現われるのは、正徳三年(一七一三)のことである。当時三十六歳だった国学者杉浦国頭は、「曳駒拾遺」(『浜松市史史料編四』)という遺稿集の中でつぎのように述べている。
「蜆塚は三つ山の東にあり、今は一村となりて、しつか家々も十余り見えぬ、此所むかしいかなる所なりけん、土をうかち見れば底の底まても猶蜆からの尽る事をしらす、斯る事は世にも又有ものかは、」
この記事は、蜆塚に貝塚のあることを紹介したものであるが、よほど珍奇な事と思われたとみえる。ついで天保十年(一八三九)のこととして、歌人竹村広蔭の「変化抄」(『浜松市史史料編四』)には、つぎのような記事がみえる。すこし長いが全文を引用しておく。