「当村新田蜆塚村は、蜆からの大なる塚有之故の名に候処天保十年水野様楮掛役人名残新田江楮植付候こやしに運ひ取候ニ付郷名之儀ニ付庄屋吟蔵相断候得共荷ひ取余程掘ニ相成候開右掛り役人江相断申候得者役人申候ニ者三ツ山石さへ取候時節強断候得者咎可申付抔被申無致方ニ付当村御陣屋江願出漸ク荷ひ取候儀止ニ相成候何程掘候てもから許りに候蜆からと申なからも余程大なるも有之誠に奇異なる事に候大くほみ元之塚の姿は一向無之様ニ相成乍併今以近辺はから計畑是以から余程見え候是衰微の基と存誠ニ歎ケ敷存候事」
この記事には、蜆塚という地名が蜆の貝塚にちなんでつけられたものであることを記していると同時にこの貝塚が破壊されることをおそれて、その保存方を、陣屋を通じて浜松藩の役人に陳情したことを記しているのは興味深い。
ところでこの二つの記録は、蜆塚遺跡に関していずれも蜆殼のたくさん出る不思議な所であるということだけを述べているのであって、貝塚の性質についてはなんら意見を述べていない。当時の知識人にしてこの状態であった。しかし、それが地名のもとになった記念すべきものであるから、なんとかして破壊しないで残しておきたいという素朴な気持の底には、単に郷土愛だけでなく貝塚の成生には自分たちの祖先が関与していたのではないかという意識が、かすかに存在していたといえないだろうか。